1 昭和24年の大きな校舎
右下の校舎全景写真は1947(昭和22)年、開校10周年の時に撮影された札幌郡手稲村立星置小学校です。昭和26年に札幌市立手稲西小学校と改称されました。
わたしは1949(昭和24)年4月に一年生として入学しました。当時の校舎は木造二階建て、1,200名を超える子どもたちが通学していました。
昭和25年10月に朝鮮半島情勢の緊張が高まり、開拓地の小学校校舎と校地は駐留軍の演習地として接収区域に含まれました。機械化部隊が学校の前を火山灰を舞い上げて走り、夜間演習で真っ赤に焼けた銃弾が尾を引いて飛んでいるのが幾筋もみえました。
右下の校舎全景写真は1947(昭和22)年、開校10周年の時に撮影された札幌郡手稲村立星置小学校です。昭和26年に札幌市立手稲西小学校と改称されました。
わたしは1949(昭和24)年4月に一年生として入学しました。当時の校舎は木造二階建て、1,200名を超える子どもたちが通学していました。
1947(昭和22)年7月20日、戦争の終結に伴い満州より引き揚げてきた唐木田眞氏を団長とする13家族が、真駒内地区(現在の駒岡地区)に開拓者として入植しました。
もっとも近い小学校までは山越えをして約4km、冬季間の山道は除雪がなく通学は困難を極めました。近隣の入植者でつくる5つの開拓団の団長に推された唐木田眞氏は、子どもの教育に熱心な開拓者の意向を受けて小学校の設置を農林省へ直訴するなど、諸官庁へ度重なる陳情を行いました。
この努力に答えた石狩支庁長は「校舎と校地については、入植者から将来営農上で苦情がでないよう事前に十分な措置を講ずること」とし、全額国庫負担で小学校の建築を承認しました。
1948(昭和23)年10月の豊平町議会は校舎19.5坪(64.35平方m)、住宅16坪(52.8平方m)の小学校建築を工事費80万円で可決しました。
10月末に校地整備と校舎建築が始まり、翌年の3月末に完成した校舎は正面左側に児童用昇降口とトイレを併設した少々大きな一教室、教室の右側に正面昇降口、職員室、そして校長住宅というつくりでした。
札幌郡手稲村立星置小学校の新一年生となって一ヶ月後、父は開拓部落に建てられた小学校の校長に任ぜられ、あわただしく1949(昭和24)年5月2日に定山渓鉄道石切山停車場(1969年・昭和44年に廃線)から徒歩4kmの山奥へ引っ越しました。当時の住所は、札幌郡豊平町字西岡550番地滝野道路追入東側凹地といいます。
教室、職員室、住宅に石炭ストーブ用の煙筒がついていましたが、水道はもちろんポンプも井戸も風呂もありません。100mほど離れた沢へ湧水を汲みに行くのが日課となりました。灯りは夜店の屋台で使うカンテラを利用していましたが、カーバイトの気化した臭いは強烈です。
しばらくして灯油ランプのやわらかな灯りに変わりましたが、ガラス製のホヤ(ランプの芯を覆う風除けのカバー)は一晩使うとすすけて黒ずみます。新聞紙を丸めて中へ入れ内部についたすすを落として磨くことが日課となり、ガラス製のため割れないようにかなり神経を使った記憶があります。
5月11日に木の香りが漂う教室と職員室に、児童用の机や椅子と中古の小黒板類が届きました。運んできた豊平町役場の方は、「通学児童はいるにはいるが児童数はわからない。開拓者に連絡してあるのだが、まだ何とも判明しないので困っている」とのことでした。
登校拒否の対立は、学校建築にはつきものと言われる校地決定に関する問題でした。豊平町役場は「将来の入植とにらみ合わせて、学校の分布状態を重点に置いてこの地を選んだ」 といいます。
西岡開拓者は、「我々の地域は無木地帯で、炭(スミ)を焼くことすらできない。真駒内開拓地にくらべて諸種の施設にも恵まれていない。せめて学校だけでも我々の開拓地にほしい。しかも、学校の位置が三開拓地の中心的な地点にあるということから、町議会の決定は当然である」としています。
一方、真駒内開拓者の有志は、「将来の入植を理由に、水利も悪く、電気もつかない土地に学校を建てたことは納得できない。防火の施設もないあの山の中に学校ができても、わずか12戸でバックアップできるものではない。
それに比べて真駒内開拓地の方は人家も多いし学校の世話もできる。我々の言い分も聞かずに議会や町理事者が一方的に決めたことは不当である。常会で学校が建っても児童をやらないことに決議した」と主張しました。
西岡開拓団側は子どもを通学させることに決めました。1949(昭和24)年6月1日に校長の子ども、小学一年生のわたしを合わせて児童数7名、来賓並びに部落民合わせて34名の参列で開校式が行われました。
駒岡小学校の校名は、真駒内の開拓者と西岡の開拓者が仲良くしてほしいとの願いで、地名の「駒」と「岡」をとってつけられました。校章にある七つの星は開校した当時の教育の殿堂(小学校)にともった七つの灯り(児童数)を表しています。
真駒内開拓者の子どもたちは10数分という近い小学校へ通学できず、一時間あまりも痛い足を引きずり1里(4km)もある石山の小学校へ通っていました。開校式のもようは、1949(昭和24)年6月4日の北海道新聞に「出席わずか七名、父兄が登校を拒む、町と開拓団との対立から」と、写真入りで全道に紹介され社会の注目をあびました。
新聞を読んで部落の世論は沸騰して感情の嵐が吹き荒れ、校長は会合や懇談に明方の午前2~3時まで話し合いを続けました。6月20日に行われた懇談に、豊平町長、豊平町議会議員、石狩事務局長、石狩支庁、通学児童の小学校長など28名が参加し、ようやく部落民との和解が成立し円満解決へたどりつきました。
今後は、「学校を中心として行く事、施設については学校の運営に万全を期す事、部落の声を正しく聞いて民主的な理解の上に立ってやっていくこと」として、真駒内開拓者の児童を入学させることが決まり通学児童数は29名となりました。
ほっとした8日後の6月28日午前10時頃、小学校から150m先の道路をヒグマがゆっくり横切り、雑木林の中へ消えるのが目撃されました。
9月15日に独身女性の島田助教諭が着任して先生は二人となり、29日に小学生のいない世帯も加わり父母と先生の会が発足しました。
12月に児童昇降口横に2坪(6.6平方m)の石炭庫と、校長住宅に4坪(13.2平方m)の台所と手押しポンプ、浴室1.5坪(4.9平方m)が完成しました。翌年の3月、第一回卒業生は1名でした。
1950(昭和25)年度は新一年生5名が入学しました。真駒内開拓者より原木を寄贈いただき、4月9日に西岡開拓者の労力奉仕でブランコとシーソーが完成しました。馬二頭による校庭整備作業が行われ、落葉松(唐松)50本が植樹されました。
5月30日の氷雨激しい中を、真駒内開拓者の労力奉仕で電柱が立てられ、自家発電所から山越えで配線されて学校に電灯がともりました。
6月21日に五町歩(1万5千坪、49,587.3平方m)の学校用地が決定し、文化の日にPTAの労力奉仕で落葉松(唐松)9千本の植樹が行われました。
緊張が高まった朝鮮半島情勢で、10月に校舎を含む校地は駐留軍の演習地として接収区域に含まれました。小学校の前を軍の車両が往復し、空軍と陸軍による演習の騒音が響き始めました。校舎は演習時の盾として使用され、武装した軍人の行動に恐怖を覚える日々が続きました。
天気のよいときに機械化部隊の車両が通過すると、舞い上がった火山灰は煙幕のようになり付近の草木を土で染めました。雨が降ると鍋の中のカレールーのような悪路と化し、子どもたちの通学は困難を極めました。
国有林を巡回し終わった営林署の職員が借りた七輪で何かを焼いています。香ばしい匂いに誘われて見ていると「ぼうず、食べるか」と箸でつまんでくれました。おじさん達が焼いているものを貰ったと云うと、「お前、あれを食べたのか」と父は驚いていました。青大将と呼ばれる蛇です。幼い時の経験がへびを怖がらない原因かもしれません。
1951(昭和26)年度には、蓄音機・幻燈機・共同視聴用ラジオプレーヤー・オルガンなどがそろい、開拓者の奉仕作業で相撲場と平均台や雲悌が造られました。
児童は放課後に樹木の苗を植え、立派なグランドを夢見つつリヤカーで土を運びました。学校に手押しポンプ用の井戸が掘られてポンプ小屋が完成したころ、切り開いた学校園の実習地は一反(300坪、9千平方m)となり、開拓者と児童が一体となった勤労教育と学校建設が効を奏し始めました。
電気の有効利用からラジオの共同聴取が行われ、時々島田先生が真駒内開拓部落の自家発電所にあるマイクの前に立ち、児童向けの学習指導や児童の作文朗読、学校の参観ができない家庭への連絡なども行われました。
作文教育は効果を上げ、9月の全道綴り方作品募集に2名が入選、10月には札幌中央放送局(NHKの前身)から「校長先生とおいも」と題した作文ほか2作品、11月には同放送局から1作品が全道放送されました。また、翌年は「修学旅行」と題した作文がドラマ化されて全道放送されました。
父は開拓者のまねて雪山に野兎を捕えるためのワナを仕掛けました。足跡が残されている茂みに針金のワナを仕掛けても、素人が作ったワナは壊されていつもエサだけが取られました。
勧められてトラバサミと呼ばれるワナを購入しました。初めて捕まえたときは狂喜しましたが、二羽目を捕まえたあとは止めました。鉄製のトラのような歯が兎の足をはさんで骨まで噛み砕いています。周囲の雪が血に染まり、逃げようとして一晩中もがき苦しんで息絶えた野兎に父は手を合わせていました。
1952(昭和27)年の4月、理科の教科書に「炭(スミ)焼き」の説明があり、4~6年生が炭焼き小屋を見学して紙芝居にまとめました。「先生。教科書には火を入れて3日でスミができると書いてありますが、父さんが3日ではとてもできないと言うんです」「うちの炭窯(スミガマ)もそうよ。早くても7日はかかるんです」「ぼくのところもそうです。父さん笑って、先生に聞いてみなさいって」。
子どもたちの疑問を解決させるため、炭ができる過程を子供たちにみせるべきと考えた父母と先生の会は校地内に炭窯を造ることにしました。どのようにしてスミになる木を求めるのか、どのようにして炭窯ができあがるのか、どのようにしてスミが焼きあがるのか、子どもたちと共に炭窯をつくりスミを焼いて確かめるのです。
開拓者32名、児童4年生以上19名、職員2名が一ヶ月にわたって炭(スミ)焼きを実践すると、3日で出来上がると書いてある現行教科書の誤りが証明されました。また、薪がスミになると11cmも縮小することも分かり、子どもたちが参加して確かめている写真集は「日本一の教材」と新聞に写真入りで激賞されました。5月5日に廣川広禅農林大臣と田中敏文北海道知事、新聞記者などが自動車18台で炭竃のある小学校を視察にみえました。
学校園の実習地は750坪(1,983.5平方メートル)もあり、様々な野菜や穀類の栽培実習がおこなわれました。近くに湧水があっても流れをつくる量ではなく、稲作は不可能なため陸稲の栽培実験が行われました。大根はとくに良く育ち、開拓者へおすそ分けをしたほどの収穫でした。
ある日、スイカ畑の横に米軍のジープが止まりました。運転手を残し、飛び降りた兵隊がスイカ畑へ走りました。二人の先生と子どもたちはグランドでこの様子を見ていました。兵隊は大きなスイカを二つ抱えジープに飛び乗りました。「どろぼう!」と叫ぶ子どもたちを制した校長は、「あのスイカ、熟れていれば良いが」とつぶやいていました。
このころ、私は鉱石検波器のラジオキットを買ってもらい組み立てました。放送が聞こえたときは飛び上がるほど喜んだのを覚えています。鉱石ラジオの感度を上げるため、2m以上のアンテナが必要と感じたのもこの頃です。
グランドの樹木から樹木へと100m近いアンテナを張りましたが、感度はそれほど上がりません(1979年にアマチュア無線従事者免許を取るとき、アンテナは長ければ良いわけではないことを知りました)。米駐留軍の演習地は電線に不自由することはなく、通信兵が敷設している電線を50m後方から巻き取っていったこともありました(ゴメンネ)。
1953年(昭和28)年に入ると、駐留軍の大部隊が校舎を挟んで大演習を行うようになりました。午後3時より砲の発射音が間断なく続き、金属を引き裂くような爆音をあげて低空で飛来する飛行機、投下された模擬弾の破裂音が響き始めると子どもたちの下校は不可能となる日が出てきました。
演習地域の真ん中にある西岡開拓者の陳情が受け入れられ、保障費の支給により代替居住地への転居が始まると小学校は演習地の中で孤立しました。
4月28日より駐留軍の大部隊、軍車両300台に歩兵2,000余名が参加する大演習が開始されました。豊平町教育史に「児童は窓外に目を奪われて学習意欲貧困」と記録されていますが、子どもたちにとっては勉強よりおもしろかったのです。
5月7日に駐留軍の大部隊が校舎のそばで再び大演習を開始しました。午後3時より砲の発射は間断なく響き渡り、飛行機は低空より無数の模擬弾を投下し、身近で鼓膜が破れそうな銃撃音が烈しく響き、子どもたちは下校不能となりました。
3時20分に砲の弾丸発射時に吹き出す爆風で校舎裏の雑木林に火災が発生し、強風で校舎へ迫る火の手を校長の家族が手押しポンプで水をくみ上げて食い止めました。
6月12日、演習の実情聴取のため高良とみ参議院議員一行が小学校を視察にみえ、このころから校庭に小銃の不発弾が目につきはじめました。
6月22日早朝、校庭で発見された不発弾20発をPTA会長が処理されました。7月16日から校舎を取り囲んで南北に分かれ、砲の発射音と実弾を使用する演習が激烈を極めました。午後8時から始まった夜間演習では砲撃音と発砲音が一晩中続き、真っ赤に焼けた銃弾が尾を引いて飛んでいるのが幾筋もみえました。
窓のすぐ前で機関銃の発射音が連続し、信号弾が雑木林に落ちて火災が発生しました。強風で火勢が大きくなると、複数の戦車が雑木林を踏み倒してブルトーザーで土をかけ始めます。延焼を恐れた父は学校の重要書類を穴を掘って埋めましたが、午後11時過ぎから降り始めた雨で鎮火しました。
7月19日に校舎周囲で発見された小銃不発弾94発をPTA会長が処理されました。小学生は演習や不発弾処理を見ていただけでなく、機関銃や小銃の薬きょうが売買されることを知っていました。
銅製の薬きょうは1本50銭で真鋳製は1円で廃品業者が買い取ります。模擬弾演習でも実弾演習でも、演習が終わればいたるところに薬きょうは落ちていますし、不発弾はもちろん実弾が装着されたものも混じっていました。当時のラジオや新聞で、不発弾が破裂して指が吹き飛んだ、手足を無くした、死亡したというニュースがあふれていました。
知識に飢えていた小学生は安全な薬きょうを拾い集めて学校へ届け、学校は集まった薬きょうを売って図書を購入しました。初めのうちは雷管が抜けた安全な薬きょうを拾っていましたが、しだいに機関銃から吐き出される薬きょうも熱いうちに収集するようになりました。
ついには機関銃の弾装が詰まった容器ごと失敬し、実弾をはずして火薬を抜いてから雷管を処理し、安全を確認して届けるようになりました。演習費用は税金でまかなわれていると大人達の会話を聞いていたので罪悪感はひとつもありません。
米駐留軍の兵隊が、演習のない日曜日に時折学校を訪れて校長から算盤を習っていました。非常に礼儀正しい真面目な人たちで、校長は月刊誌「キング」の付録の「英和辞典」を見ながら説明をしていました。四つ玉の算盤は九から十になる時に、九を払って左に一を入れることで十にします。これが理解できず、どうすれば分かるだろうと悩んでいたのを覚えています。
算盤の学習が始まる前に、私は山を越えた真駒内開拓まで煎餅を買いに行かされました。兵隊の接待用に購入してくると、算盤に疲れた米兵はグランドで妹にナイフの使い方を教えています。やさしく話しかける様子に、米兵が妹を連れ去るのではないかと心配したのを覚えています。
学校裏の斜面につくられた家庭菜園の横にグラジオラスの球根を二つ植え、毎朝水を与えていると大きな真紅の花が咲きました。妹と周囲の雑草を取り除いていると、10mほど離れた木陰で休んでいる兵隊の一人が「ヘイ、ボーイさん」と声をかけます。
振り向くと、校舎のほうを指さし「パンパン?」と聞きます。台所の勝手口で母がもんぺの汚れを落としています。「No. My mother. Teachers wife.」「Oh sorry.」。アメリカ人と英語で話したのはこれが最初で最後です。
駒岡小学校を舞台に、1953(昭和28)年9月18日から僻地教育映画の撮影が開始されました。山間部の小学校と海辺の小学校で元気に暮らす子供達の姿をえがいた映画を作ろうと考えたのは北海道教育委員会、費用を出したのは古谷製菓株式会社。映画の最初に「制作 北海道教育委員会 古谷製菓株式会社」というテロップが表示されます。
山間部の小学校として選ばれたのが駒岡小学校で、海辺の小学校は日高の海辺にある小学校という記憶があります。ほぼ一年をかけて完成した僻地教育映画「北国の子供たち」は北海道内を巡回したそうです。
10月2日、演習地の中にある小学校は騒音という悪条件に止まらず、子どもたちと教師の命が危険にさらされているため接収地区外への校舎移築計画が持ち上がりました。
校舎を解体移築するため221万円の予算が組まれましたが、10月13日の調査で現校舎移築は不可能とされました。11月17日になって、西岡143番地原野の公共地に校舎を新築することが決定しました。
この時期に手にしたのがゲルマニューム・ダイオドでした。それまでの鉱石検波器では足元にも及ばない解析力があり、クリスタルイヤホンを机の上においても放送が聞こえるほどです。
蓄音機の共鳴箱の中へクリスタルイヤホンを入れて家族4人が周りを囲み、耳を澄ませてNHKの連続放送ドラマ新諸国物語「紅孔雀」を聞いていました。自家発電所は暗くならないと発電しなかった時期です。
1954(昭和29年))年5月28日、旧校舎より未完成の新校舎へ移転しました。校舎の移転が完了して間もなく、接収区域の駐留軍は撤退して自衛隊の演習地となりました。自衛隊の演習が終わったあとへ行くと、薬きょうは1本も落ちていません。
小銃や機関銃から吐き出された薬きょうを捕虫網で受けています。薬きょうの数を数えて一本残らず持ち帰るのです。見当たらない薬きょうを全員で探しまわる姿を見て、日本が戦争に負けた理由を感じました。
1955(昭和30)年3月22日、全校児童数20名中5名の一人として私は小学校を卒業しました。
小学生時代の主食は、馬鈴薯、かぼちゃ、とうきびなどで、芋粥が口へ入るのは週に4回ほどです。秋になると収穫できたソバや小麦を石臼でひいて粉にし、父が手打ちそばや手打ちうどんを作ってくれました。
蛋白源は主に大豆で、冬になると自家製の豆腐を外に出し、凍らせて保存食にしました。飼育していた鶏の卵は週二度ほど口へ入りましたが、生まない期間のほうが長かったようです。粗食で山中を駆け回って遊んだことが強健な身体を育んでくれました。
1950(昭和25)年の夏、バケツを持って妹の手を引きながら飲み水を汲みに沢へ下りた日のことです。湧き水の出ている近くの薮から小犬が飛び出してきました。柴犬の雑種でとてもかわいい。びっくりしてしばらく見ていましたが、手を指しのべると鳴き声をあげながら妹の手をなめ始めます。
くんくんと鼻声を上げて、私の足元に身をすり寄せきます。生まれて1~2ヶ月ほどでしょうか、歩き方はふらふらしています。近所といっても隣の家までは300mもあり、その家に犬はいません。犬を飼っているもっとも近い家までは1キロ以上あり、とても小犬が歩ける距離ではありません。
沢へ水を汲みに行くたびに子犬を見かけるようになりました。2~3日すると、遠くの薮の中に動くものがいます。親犬が小犬の様子をじっと見つめています。3才下の妹は小犬を抱き上げてかわいがりました。両親に子犬を飼うようにお願いしてと云われても、毎日お米を食べられるような生活でないことを知っています。
両親は子犬を飼うことを了解してくれました。大人になってから聞くと、そのうちに飼い主が現われると思ったそうです。水を汲みに行くときも、畑へ行くときも、子犬はまとわり着くようについてきました。藪の中から子犬の様子を見ていた親犬は、10日ほどすると二度と姿を見せなくなりました。
子犬は「ジロ」と名づけられました。体が逞しくなるにつれ、繋いであった縄を切って逃亡し2~3日帰らないことがありました。ニワトリ小屋を襲うなど、父は部落の方々に迷惑をかけてはいけないとクサリを購入しましたが、いとも簡単に切って逃亡します。
駐留軍の演習地となって、軍人の姿を見かけるとジロは狂ったように吠えました。「ここは日本人の住むところだ。お前たちの来るところではない、出て行け」と叫んでいるようでした。
父はジロが銃殺されるのを恐れ、家族の命も危ういと焦りました。吠えるのを止めさせようとしても聞かず、静かにしろと根曲がりだけで叩くこともありました。そんな夜、ジロはクサリを切って脱走し一週間も戻ってきません。
夏の終わり頃、午前10時に父が真っ青な顔で家へ戻ってきました。学校のグランドへ出てみたら、100mほど離れた学校園で熊がスイカを食べている。恐る恐る物陰から伺うと熊の後姿が見えます。ジロが気づいて「近寄ると承知しないぞ」と吠え始めました。父はクサリを引きずってジロを家の中へ入れます。
「頼むから静かにしてくれ、気づかれたら家族が危ないんだ」。ジロはまったく気にせずに吠え続けます。やむなく頭の上から掛け布団をかけ、妹と二人で端を押えつけました。父は校舎のグランド側児童昇降口で剣先シャベルを、母と母の養父母は鎌を構えました。一時間ほどで満腹した熊は悠然と歩き去りました。
ジロをつれて妹と散歩に出かけた夕方のことでした。見通しの良い丘の上に上ると、向かいの丘の中腹に14~5頭の野犬がたむろしています。「しまった」と辺りを見回しても、草むらに木の枝も石ころもありません。ジロは野犬をみて低い唸り声をあげました。
静かにしろとクサリを引こうとすると、クサリを引きちぎるようにして野犬めがけ一目散に走り出しました。ジロは「解散しろ、ここはお前たちの来るところではない」と、吠えているようでした。野犬たちは円陣をつくってジロを遠巻きにします。
多勢に無勢でやられると感じましたが、追い払うことのできるものも身を守るものもありません。一匹がジロの背中に飛びつき、身を交わすと他の犬が飛びかかります。二人は草むらの中で動くこともできず、声を殺して「ジロ、頑張れ。負けるな」と心の中で叫んでいました。
ジロの悲鳴が聞こえました。左後ろ足を咬まれたらしく一瞬腰を落とすと、悲鳴を聞いた野犬たちは包囲網を縮めてきます。ジロは頭を振り回しました。首に付けられたクサリが大きく弧を描いて回りはじめ、クサリにあたった野犬が次々に悲鳴を上げて飛びのきます。ジロはクサリを振り回し続けました。野犬の包囲網は崩れ、藪の中へ逃げ込む犬がでてきます。そして、野犬の姿はすべて消えました。
ジロは勝ち誇ったように一声吠えると、一直線に走り戻ってきました。左後ろ足の皮が破れて血が流れているのをみた妹は泣き出します。辺りに野犬の姿は見当たりません。泣いている妹をせかせて家へ戻り、ジロの後ろ足を消毒してもらいました。「ジロは強いなあ~。」といったら、「ぼうず、分かったか。」と目が笑っているようでした。
大学三年生になるとき、父は千歳から支笏湖へ向かう途中にある蘭越村から江別市美原へ転勤が決まりました。引越しの3日前にジロは再びクサリを切って脱走しています。トラックへ荷物を積み終わっても現われず、連れて行くことをあきらめざるを得ませんでした。
それから一年後、ジロは江別市美原の家を探し当てて玄関前に座っていました。連絡を受けて自宅へ戻ると、クサリにつながれたジロは「ぼうず、元気か」というように私を見上げました。近寄りがたい風格が増していても、目は子犬のときのように澄んでいました。
その翌年だったでしょうか、朝気がつくとジロは天寿を全うしていたそうです。ジロの亡骸は、若いころ走り回っていた大好きな山の中に埋めました。母犬が眠る森の中で、鳥の声を聴きながら草花を愛でていることでしょう。
昭和27年の夏休みの午後、家の前で小学二年生になった妹のままごと遊びに付き合っていました。父は会議で札幌へ出かけ、母とその養父母は家の裏につくった畑の手入れをしていました。ままごと遊びに飽きて南に広がる丘のほうを見ると、雨が振っていないのにくっきりと虹が現われています。
理由は分かりませんが、虹は山の中の小さな泉から大空へ向かって立ち上ると思っていました。樹木に囲まれた小さな泉にこんこんと湧き水が噴出し、澄み切った水の中から七色の虹が生まれると信じていました。。
今日の虹はくっきりと七色がみえ、虹の生まれる泉が近くにありそうです。虹の生まれる泉を探しに行くというと妹も泉を見たいと言い出しました。南に広がっている丘は50mもあったでしょうか、上空から見れば東西に数本のしわが走っているような感じです。
樽前山の火山灰地に雑木林が連なり、道などはどこにもありません。頭の高さにある枝を半分まで折り、枝が垂れ下がるようにしながら妹の手を引いて原始林の中を進みました。三つ目の丘を超えようとしたときに虹は消えていました。
垂れ下がった枝をたどって迷子にならずに戻りましたが、野犬に襲われたら二人とも命はなかったでしょう。子どものときは、夢を追いかけてこのような行動をすることも知っておくべきでしょう。
昭和28年の夏、部落の方がヤギの子供をくださいました。家族でワイワイ云いながら小屋を作り、大きくなったら乳が飲めると楽しみにしました。妹はヤギに「ミーちゃん」と名前を付け、毎日喜びそうな草を与えると意外に早い成長でした。
秋には大人になりましが乳は出ません。メスなのかオスなのか分からない中性で、子供を生めないと言われました。両親は困惑し、それを知った私はヤギの背に乗ろうとして何度も妹に泣きながら止められた覚えがあります。
育ち盛りの子どもたちの栄養補給を考えていた両親は、冬を向かえる前に決断しなければなりません。妹には絶対言うなと口止めされ、かわいそうだがくださった家へ一旦戻しました。冷え性の母の足を暖めることができるよう皮の利用を考えたのです。
ミーちゃんは天国へ去り、皮は残りましたがなめし方はだれにも分かりません。百科事典で調べながら父は一生懸命努力しましたが、ゴワゴワに固まった皮は足を暖める役には立ちません。裏山の雪をどかして穴を掘り、ミーちゃんのお墓をこっそりつくりました。
教科書には火を入れて3日でスミができると書いてありますが、「父さんが3日ではとてもできないと言うんです」。子どもの抱いた疑問を解決するために教師と父母が一致協力し、子どもと共に炭窯を造り、実際に炭を焼いて真実を学ばせました。
子どもたちが参加してスミができるまでを確かめている写真集は「日本一の教材」と激賞されました。このような素晴らしい教育が存在した半世紀以前のようすを、父が残した写真で再現しました。
炭にする白樺の木を切り倒し、長さをそろえられた材木は沢の下へ投げ落とされます。
沢の下でまとめられた材木は、馬車で炭竃(スミガマ)のそばまで運ばれます。
炭窯は相撲場の北側斜面に造ることになり、雑草が刈り取られて整地されました。
炭窯の天井成形用コテがつくられ、炭にする材木の長さに合わせて土が掘られました。
炭にする材木は林立するように炭窯内へ収められ、頑強な焚口がつくられます。
炭になる材木の上へ、奥の煙突へ空気の流れができるように材木が横積みされます。
天井の形が丸みがつくように端材で整えられ、全体をむしろで覆いました。
むしろの上へ少しずつ土をかぶせ、コテで慎重に叩き固められていきます。
焚口の奥に排煙口がつくられ、天井を乾燥補強するために炭窯を温める火が入ります。
本格的に火が入り、内部の温度を煙の色で判断しながら二昼夜連続で焚き続けました。
煙の色が消えると焚口を密閉して炭化させ、炭窯が冷えてから内部へ空気を入れます。
残留ガスなどのないことを確認してから、炭窯内へ人が入って炭を取り出します。
取り出した炭は、炭窯へ入れるまえの材木と比較して11cmも縮んでいました。
炭は、炭俵(スミダワラ)の大きさに合わせて、長さを切りそろえます。
折れないように一本ずつ炭俵へ詰め、口が開かないように荒縄でしっかり絞めました。
運搬しやすいように炭俵の形を整えてから、天秤で重量を計りました。
天秤の目盛の読み方を学んでから、炭焼きを教えてくださった方々と記念写真です。
慣れない火山灰地で開墾に汗を流し、生活に追われながらも子どもたちの教育に情熱を傾けてくださった方々に心からの敬意と感謝をささげます。ありがとうございました。
豊平町教育史(昭和31年度版) 豊平町教育委員会
ダカーポ No.460号・No.461号 「20世紀の常識」 マガジンハウス2001
読める年表 日本史 自由国民社