演奏旅行から戻ると「発表会」の企画検討に入り、昭和37年9月30日の夜開かれたコンパ(宴会)で飲んだ勢いも手伝い、11月に「発表会」の開催を宣言しました。10月に入って中央税務署で入場税、日本著作権協会北海道支部で著作権料についての指導を受けました。入場料を高くしても観客が少なければ赤字になるため、入場料金は課税対象外額にして販売枚数を増加させる作戦をとることにしました。
第一回の発表会はお客さんを楽しませようと考えました。ゼニを払ってまでお付き合いしてくださる方々に、アカデミックな合唱曲だけではなく照明装置も使うことを考えました。
舞台袖に陣取って楽譜を見ながらワイヤレスで連絡を取り、スポットライト、ベビースポット、ボーダー、フット、ホリゾンなどの色を変えて視覚効果を加えてみました。数日後、照明効果付の合唱発表会は見たことも聞いたこともないといわれたので、大学合唱団の発表会に照明効果を持ち込んだのは日本初と言うことになります。
第一回施設慰問、第一回道北地方演奏旅行、第一回合唱発表会も、舞台衣装は学生服に統一しました。平服をと訴える学生もいましたが大半は着たきりすずめです。入場券売上は475枚を記録しましたが、入場者は四分の一程度です。多くは付き合いや寄付同様の購入で、第一回のお祝いだからと広告をお付き合いくださった商社のお陰で赤字だけは避けることができました。
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発表会の日程
日 昭和37年11月22日(木曜日)
時間 開場 午後06時00分 開演 午後06時30分~午後08時30分
会場 大谷会館大ホール(札幌市南4条西1丁目)
賛助出演 藤女子短期大学合唱団(団長:小野幸子)
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顧問の挨拶
秋も漸く深まるの時、本学グリークラブが日頃の研鑚の結果を来る11月22日、大谷会館に於て第一回の発表会を開催されるとの報に接しまことに喜びに堪えない次第です。
本学グリークラブが昭和27年大学発足間もなく先輩諸君の努力によって文化サークルの一部として結束され、爾来幾多の困難を克服しながら今日までその努力によって声価を高めて来たことに、敬意を表するものであります。
その間、適当な指導者のないのにも拘らず諸君達の撓ゆまざる努力によって、20数名というささやかな部員を以ってその時々の合唱活動に参加し、近くは道北公演という画期的な仕事もなし遂げて、広くその存在を認められて来ました。
予てより発表会を持ちたいとの素志を持たれて居たようでしたが、今回漸くその実現を見るに至ったことは慶賀に堪えません。願わくば本道私学の雄として、他の追随を許さない独自の風格を打ち出されるよう念願して止みません。
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プログラム
第一ステージ 黒人霊歌
指揮 飯野一郎
① Go down moses Nigro soiriture
② Soon a wiel be down 編曲 福永陽一郎
③ Wade in de wafer 編曲 福永陽一郎
④ Go down moses 編曲 福永陽一郎
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第二ステージ 組曲 子供の一年より
指揮 池田宗文
① 春 構成並びに編曲 西崎嘉太郎
② サクラ
③ ほたるこ
④ たなばた
⑤ 村まつり
⑥ 月
⑦ あられ
⑧ ジングル・ベル
・ 通りゃんせ わらべ唄 編曲 林 雄一郎
・ 赤トンボ 作詞 三木露風 作曲 山田 耕作
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第三ステージ賛助出演 藤井女子短期大学合唱団
指揮 小野幸子 伴奏 小泉慈子
① Ave Vewm Corpus 作曲 モーツアルト 編曲 入野 義郎
② 雪の幸福 作曲 佐藤 貞 作詞 丸山 薫
③ 忘れな草 作曲 中田 喜直 作詞 深尾須磨子
④ 木曾節 長野県民謡による 作曲 平井康三郎
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第四ステージ ロシア民謡
指揮 飯野一郎
① 山男の歌 作詞作曲不明 編曲 飯野 一郎
② ピクニック 編曲 西崎嘉太郎 作詞 荻野 栄一
③ ストドラ・パンパ 編曲 佐々木幸徳 作詞 関 みゆき
④ アビニヨンの橋の上で フランス民謡 編曲 小玉 利一
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第五ステージ コミックソング
指揮 飯野一郎
① コサックのエレジー 訳詞 津川主一
② オレグ公の歌 作詞 三沢 郷 編曲 福永陽一郎
③ コサックの子守唄 編曲 福永陽一郎
④ ステンカラージン 訳詞 与田 準一 編曲 加藤 磐郎
⑤ カリンカ 訳詞 安田 二郎 編曲 加藤 磐郎
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参加者名簿
指揮 飯野一郎(1年)・池田宗文(3年) マネージャー 山崎 修(2年) |
1stT | 2ndT | 1stB | 2ndB |
飯野 一郎(1年) | 秋山 秀二(1年) | 加藤 敦(2年) | 寺門 功(3年) |
池田 宗文(3年) | 津田 明義(2年) | 西内 正行(2年) | 小田 哲之(3年) |
児玉 利一(3年) | 森若 敏(2年) | 井出 昌義(1年) | 山口 利昭(3年) |
広野 貢次(1年) | 古泉 英次(2年) | 碓井 秀敏(1年) | 伊藤 信喜(3年) |
佐藤 正人(2年) | 那須野照豊(3年) | 横山 修(2年) | 齋藤 葵(4年) |
長谷川正明(1年) | 近藤 英次(1年) | | 川村 陽一(4年) |
佐々木邦興(1年) | 鳥村 征弘(2年) | | |
| 石橋 脩(1年) | | |
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会計報告
収入の部
部費・文化協議会援助金 | 7,000円 |
学生部援助金 | 3,000円 |
入場券売上金(475枚) | 38,000円 |
当日券・プログラム代金 | 1,780円 |
プログラム広告費 | 24,000円 |
合計 | 73,780円 |
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支出の部
会場使用料 | 24,000円 |
印刷費 | 30,000円 |
入場税 | 3,515円 |
著作権使用料 | 2,310円 |
看板代 | 1,185円 |
録音テープ代 | 500円 |
練習会場費 | 1,000円 |
食事代(当日係) | 160円 |
賛助出演謝礼 | 2,000円 |
雑費 | 570円 |
合計 | 67,450円 |
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決算の部
純益金(34,700円-67,450円) | 6,330円 |
合計 | 6,330円 |
この年の8月30日、名古屋で国産初のプロペラ旅客機「YS11」の試験飛行が行われました。日本航空機製造(株)が設計したわが国最初のタ-ボプロップ中型輸送機で、その後量産体制に入り昭和48年までに182機生産されました。1,200mの滑走路で離着陸できるため、滑走路の短い離島などでも活躍しましたが2006(平成18)年9月20日で定期路線からの引退しました。
女優の吉永小百合が、「キューポラのある街」でブルーリボン主演女優賞など三つの賞を受賞しました。この時期は高度成長の初期で成長の底辺にはまだ貧しい若者達がいました。彼女が演じるのはいつもその若者を励ます少女でした。
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2 文化協議会の激震
2-1 道東講演復活を目指し
大学には文化協議会系のサークルと体育会系のサークルがありグリークラブは文化協議会系に属していました。文化協議会に所属する15サークルと6同好会が出席する幹事会で、第一回の合宿や第一回の施設慰問に続き、第一回の演奏旅行で注目を浴び、第一回の演奏会が終わると急激な躍進ぶりに驚嘆の声があがりました。
文化協議会には途絶えた道東講演会を復活させたいとの願いがあり、昭和38年度役員もその願いを引き継いでいました。会長と副会長は先輩各位の重圧を背負い、新年度役員の選出に着手したころグリークラブの躍進振りを耳にしたのです。演奏旅行を実施して発表会も実現させた者がいる。その力を借りれば道東講演会の復活も夢ではないかもしれないと考えました。
第一回の発表会が終わるとすぐ、副会長予定者より「不可能と思われている事業を担当して欲しい」と打診があり文化協議会の本部総務部長に迎えられました。しかし、第一回の役員会で道東講演会は副会長が担当すべき事業とされました。
私は不満を述べましたが援助金要請などで大学側と話し合いが必要なため副会長が適任とされ、私の担当は6月下旬に開催を予定している「第一回文協音楽祭」でした。
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音楽祭の準備と平行して副会長は道東講演会復活の相談を持ちかけました。なぜ復活すべき事業なのか、どんな意義があるのか、過去のそれはどのような形態で実施されたのか、二人は資料を集めて検討を続けました。
音楽祭が終わると副会長は趣意書と計画書をまとめ「道東にこだわらず道北へ目を向けよう。昨年グリークラブが開拓した地域で施設慰問形式を採ろう」と役員会へ提案しました。
この案は「講演」という名称に固執している他の役員の反感を買いました。「講演会や研究発表などがなく、学術的内容が伴わないものは大学の行事とは云えないだろう。
大学がこのような内容の地方公演を受け入れるはずもなく、学校予算が厳しい折りで援助金の支出は考えられない」という理由です。毎年のように大学側へ援助金の支出を要請していたが、新役員のほとんどは実施不可能として乗り気ではありません。
そこで、徹夜で「地方公演に関する考え」をまとめ、翌朝印刷して全役員へ配付しました。以下は原文を引用しました。
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2-2 地方公演に関する考え
2-2-1 地方公演の企画理由
我々は今回企画した道北方面の地方公演を実行するために、地方公演はなぜ企画されたのかを考えなければいけない。ともすると「道東に代わるもの」という隠れ蓑に惑わされて、目的を曖昧にし、真の目的を忘れてはいないだろうか。
この事業を実行させるに当たり、我々はなぜ企画されたのかを理解しようではないか。まず、昭和38年度文化協議会本部活動方針並びに企画に関する趣意書に注目してみよう。
過去における道東講演会がどの時点に存在し、どの程度の功績を残したかは今一度深く調査する必要がある。しかし、一般情勢はともあれ、我々学生が未開の道内に活躍の地を将来に渡って確保するためには、そして広く研究発表を道内に求めようと願うならここで沈滞は許されないはずである。
その意味で新しい実のある、実現可能なプランが必要であろう。我々のもつそれは旧来の型を越えないが、今ここで各先生方を始め、学校側の深いご理解のもとに所期の願いを具体化したい。
当然アカデミックな部門を中心として音楽部門を合わせ、更に目的とするものが社会的諸面に貢献し得るべく、例えば広い道内にまだ残された地までも入っていきたいものである。また、道北地区は有意義な地として残されているだろう。尚、詳細な予定については別に提出準備中である。
文章を読んで感じるのは、「広く研究発表の場を道内に求める。アカデミック部門を主とする。未開領域が残されている。社会的諸面が残されている」の4つである。そして、はじめに「過去における道東公演がどの時点に存在し、どの程度の功績を残したかは今一度深く調査する必要がある。」と記されていることを記憶されたい。
悲しいかな、我々はこれを忘れていないだろうか。学校予算がないからと言う理由を創り上げて、それですべてを調べ尽くしたと思っていないだろうか。この趣意書を書き上げた人の考えを、簡単に片付けてしまっていないだろうか。まず、過去の道東講演会がなぜ企画立案実行されてきたかを知らなければならない。
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2-2-2 道東講演会の目的
第一回道東講演会は昭和34年度に実現した。昭和34年4月17日付けの計画書には目的として次のように書かれている。
大学教育の中から我々大学生は、社会生活の改善を促進させて行こうと云う立場から、我々若人が学研的なまなこを向け、文化活動の重要性を把握し、北海道の発展にいささかなりとも寄与することを目的とするものであります。
今日の北海道開発は内地資本、そして有能な人材まで中央からの派遣に頼っている有り様であります。急進的な北海道の開発は、北海道の人材によって今こそ進められなければならないのであります。
しかも、学問的文化的な方面から総合的に把握され、政治的なもののみにゆだねる事のない所に、開発の真の促進がなされるものと思うのであります。以上の観点から道東地方の文化講演会を開催する次第であります。
また、昭和34年4月21日付けで出された願い書に注意すべきである。「北海学園大学PRの一環といたしまして、道東講演会を実施させるため(後略)」。また、文化協議会会長並びに自治会委員長の連名で「学園PR講演会予定:構成 三森教授・池田教授・柴田教授・私学連代表・自治会代表(1人30分)」という予定表も残されている。
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この事業は実施された。同年7月13日に次の感謝文書が学生課へ提出されている。
北海学園大学が開学されて以来、体育会と共に微やかながらもその発展に努力してまいりました文化協議会も、昨年あたりからその性格付けに自信を持って今日に至っております。
此処に学園が学問的文化的な観点から道民に親しまれるよう学校当局、自治会などからのご援助をいただき道東文化講演会を開催致したわけでありますが、想像以上の成果を上げ我々文化協議会としましても非常な感激に浸っております。
このような成果を上げることができましたのも、学校当局の温かいご理解の結果であると確信致しております。今回の文化講演会を通じて、道民の皆さんが非常に学園の将来に期待していることは事実であります。
その反面非常に学園の姿に無知な人々も多い事を知りました。このようなところから学校そして学生同窓生が一体となって今回のような催しを続けるならば、必ず北海道の私学として発展し再認識されることは疑う余地はありません。
やはり道民の中に飛び込んでいくことが必要であります。どうか今回の教訓と失敗を生かし、感激にのみ浸ることなく次後の問題に取り組んでいく所存であります故、今後共一層の御理解と御指導を御願いし感謝の意を表する次第であります。
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この事業は文協のものだろうか、大学のものだろうか。趣意書を文協で書き、計画書を実行内容を、開催地を考えたのは文協であった。もしこれが大学の行事なら、文協は協力するだけでよいのではないだろうか。
学校で計画し、開催地を定め、すべてを検討すれば良いだろう。それにもかかわらずすべてを文協で行っている。趣意書を読むと明らかである。これは文協の事業なのだ。ではなぜ、あのような願い書が提出されているのだろうか。簡単である。PRと云う言葉を使用すると許可が下りやすいと考えたからである。
感謝文を読んでみると尚一層文協の行事であったと言えるだろう。教授や自治会などが役員の中にいるのはなぜか。体育会の事業である対東北戦の真似をしたからである。彼らはこうすれば、仕事がやりやすいと思ったのだろう。しかし、これは間違った方法だった。これがあるため、後の役員は学校の事業と思い込んでしまったのだ。
第一回道東講演会の趣意書では「北海道開発に寄与する、道開発の人材育成」であり、我々若人が学研的なまなこを向け、文化活動の重要性を把握し、北海道の発展にいささかなりとも寄与することが目的だった。
今回企画された地方公演は、「広く研究発表の場を道内に求める。アカデミック部門を主とする。未開領域が残されている。社会的諸面が残されている」の4つである。すでに目的が異なっていることに注意すべきである。我々は未開発の地に文化の火をともすために企画したのだ。
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2-2-3 地方公演はどこの行事か
いったい地方公演はどこの行事なのだろう。これがはっきりしなければ、一晩徹夜しても悔いが残る。文協にはまだしなければならない幾多の企画が残っている。東北、青山にしろ、私大交流にしろ、各会との協調強化、さらには十月祭にしろ、数え上げるときりがない。
もっともこれらの行事のなかで私の果たす役割は小さいものだろう。それでも私は全力を尽くしてこれらに当たることができる。文協が企画し、役員の一人である私も賛成した事業だからだ。しかし、地方公演は違う。文協の行事であると誰も断言しないのだ。
私はあなた方を責めているのではないし、責めるほどの仕事もしていない。この事業が大学のものであるなら私は手を引かしてもらおう。一切の企画は大学が立て、すっかり準備が整ったときに協力しよう。大学の事業でありながら、学生が企画し、趣旨を説明し、計画書や日程表まで作成し、どうかこの事業をやらせて下さいと頭を下げる。
変だとは思わないだろうか。もし地方公演の企画等をすべて文協にまかせる。すまないがこれだけの予算しか組んでいないのだが、この範囲内でやってくれと大学側が云ってくるのなら話は別だが・・・。私はこの2~3日徹夜で考えた、どっちなんだと。
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昭和38年2月24日に提出している昭和38年度文協企画表には、学外一般市民へとして地方公演がのっている。大学の事業であると注釈はされていず、道東に代わるものと記されているのみである。では、道東講演会は大学の事業だったろうか。これが大学の事業であるとするなら、当初においてすでに矛盾がでてくる。
第一回の計画書に文協議会長の署名捺印があるのはおかしい。明らかに、この計画書は文協で作成されたものである。当時の感謝文を読むと尚一層それが分る。大学の事業なら、なぜ文協が大学へあのような感謝文を提出したのだろうか、理解に苦しむことになる。
実行委員の中に教授が含まれていたのはなぜだろう。今から4年前、文協役員は北海道開発が自分達の手にかかっていることに気付き、せめて文化の面からでも協力しようと考えて道東文化講演会を企画した。その原案を提示すると大学側は喜んだ。「なるほど、これは大学のPRになる」。
また、各教授は「自分の研究を思う存分発表できるだろう。よし、これにうまく便乗して自分をPRしてやれ」。これほどではないにしても近いことは考えただろう。その結果が、実行委員の中に教授の名が入った理由として考えられる。しかし、実行委員長は文協会長であり文協の事業であったが、予算は非常に少なくかなり悩んだろう。
体育会はどうだったろう。彼らも対東北戦において同じ悩みを持ったに違いない。これを解決するために大学側と手をにぎり、必要以上大学と妥協してしまうことで彼らの独自性は失われた。文協はここに目をつけた。予算をもらい必要以上の妥協をしない。よし、ほんの少し真似をしてやれと・・・。
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文協は巧みに予算を獲得し、満足しなかったのは大学側である。なんとか文協から独自性を奪う方法はないものだろうか、文協はこの点においても巧妙だった。三回目に至り、大学側は主導権を握ることができない事業を続けることがつまらなく思えたのだろう。本論を外してこの事業に終止符を打たせてしまった、と推論できる。
今回我々が大学側へ提出した趣意書はどうであろう。最後に「以上の趣旨により慰問旅行、地方公演を企画立案いたしました」と。企画したのは文協であり我々である。それならこの事業は我々のものではないだろうか。
また、我々の提出した予算見積もりには「学校援助金20万円」となっているではないか。主催者側へ援助金として提出する者がどこにあるだろうか。我々が主宰者である。すなわち、この事業はどこのものでもなく文化協議会の事業なのだ。
今回企画された地方公演は、道東に代わるものと言われているがまったく異なった独自のものである。講演と公演はまったく性格を事にした意味を持っている。この事業を検討するときは、道東に代わるものという考え方を捨てなければいけない。
趣意書にあるとおりまったく独自の計画であり、慰問旅行及びPR、デモンストレーションの三つに他ならない。恵まれない人々を慰問し、同時に研究発表の場をもつ。結局、それは学園のPRになるのだ。
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2-2-4 社会福祉デーの協賛
社会福祉デーが設定されたのを受けて、道北地域施設慰問旅行(地方公演)に「社会福祉デー協賛」のタイトルを掲げることを提案し役員会で了承されました。社会福祉デー設置の目的は次のとおりです。
赤い羽根「国民たすけあい共同募金運動」が全国的に展開される期間は、すべての国民が社会福祉事業に最も強く関心を示す時期であり、同時に社会福祉の増進のための関係者の努力が、地域住民から極めて大きく期待を受けるときでもあるといえよう。
この時に当たり、善導的に「社会福祉デー」を設定し、この日を中心に、関係行事を集中的に実施するなかで、各地域において、道民の社会福祉に対する正しい理解と関心を一層高めようとするものである。
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地方公演の企画と平行して進められた文化協議会機関誌「文友」は、昭和38年11月1日に創刊号が発刊されました。着々と発展への足がかりを築き上げていく文化協議会でしたが、「地方公演に関する考え方」も含めて他の役員と私との間に亀裂が広がっていきました。
地方公演が終わると、決算書をまとめて任期満了で副会長と共に文協を去りました。このため地方公演の事業報告書も決算書も手元に届きません。
この年、グリークラブは部員29名となり7月1日より5日までの日程で第二回演奏旅行を実施しました。下川町の下川小学校記念館での一般公開。浜頓別高校では中学生も含めて約千人の聴衆の前で演奏し、夜は浜頓別中学校体育館で浜頓別青年会コーラス部の応援を得て一般公開。
北見枝幸小学校では4時間にも及ぶ演奏を行いました。7月9日には稚内高校より演奏招待状が届き、15日の稚内高校「校舎新築記念・開校40周年記念式典」で2時間の演奏を行いました。
昭和38年6月16日に、ソ連は世界で初めて女性宇宙飛行士の乗った「ボストーク6号」衛星船を打ち上げました。飛行士テレシコワ少尉が、地上基地との交信に用いたコールサインは「ヤーチャイカ(私はカモメ)」。地球を48週して帰還しました。
この年の11月23日、翌年開催される東京オリンピックに備えて宇宙中継の実験が行われました。最初の画像はアメリカ大統領のメッセージが予定されていましたが、映し出されたのは現職の「ケネディ大統領暗殺」というニュース。ダラスを訪問中の大統領がライフルで狙撃された映像が送られてきました。
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3 賭けなくてもよかったのに
文協の前副会長に誘われて空き教室へ入ると二人の男が待っていました。自治会の新執行委員長と新書記長候補者と紹介されました。副執行委員長は二人必要なのでなんとかお願いできないかと三人は頭を下げます。
ちょっと待ってくれよ、そんなこと云ったって。オレ、学生運動嫌いなんだ。「学園はさ、政治がらみのことはやってないし大人しいから心配ないよ。いま交渉しているのは授業料値上げ阻止だけさ。」「グリーや文協でのはなし聞いたんだけど、今度は全部の学生のために力を貸してもらえると助かるんだけどなぁ~」。
そんな、急にそう云われても。「ところで、今夜はからだ空いてますか」。アルバイトが終わったばかりだから、空いてはいるよ。「ね!たまには、みんなで飲みに行きませんか。」「飲みながら、大学の未来を考えるってのはどうですか。空いてたら付き合ってくださいよ。」「5時に自治会室の前でお待ちしてます」。
嫌だと断っても諦めず、とうとう飲みにいかざるを得なくなりました。そこで「たいした役には立たないと思うけど、文協の前副会長もいることだし引き受けざるを得ないだろう。」と考えました。
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新書記長が常連らしいスナックのボックスに腰をおろしました。ビンビールが2本出てきて乾杯が終わると「ビールをどのぐらい飲めますか。」と質問します。「ビンビールなら5本ぐらいかなぁ、そんなに飲んだことはないから分らないよ」。
新書記長は他の二人の顔を順に見ました。
「嫌ならやめますが、カケをやりませんか。新執行委員長は弱いから別ですが。ビンビールを各自一本ずつ持って自分のコップだけに注ぐんです。そして、一番多く飲んだ者が勝ち」。一人がどれだけ飲んだか、酔っ払って数えられるの。「ママが記録してくれるから大丈夫ですよ」。
で、なにをカケるの。「僕達が負けたら今日の飲み代全部払います。山崎さんが負けたら4人で割り勘にしますけど、副執行委員長を引き受けるてのはどうですか」。考えたもんだね、そうとう強いな。「そんなことありませんよ。どうです、やりますか」。よし、やってみるか 。
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そこへ出勤してきた女性、私にもご馳走してと横に腰をおろしますた。始めたばかりのカケを説明すると、「あら、おもしろいわね。私もカケに入れてくれない。その代り、私が負けたら全部払ったげる。いいでしょ」。
「5人分だよ、いいのかい。」「私は負けないわよ。ママ聞いたでしょう、私が負けたらお給料から引いてください。」「はいはい。じゃあ、みなさまガンバッテください」。
新執行委員長がダウンしました。無理して10本も飲み、隣りのボックスで眠っています。我々以外にお客はいません。二番目は新執行副委員長で眠りにつきました。14本で無念のダウンをきしたのは新書記長。女性はまだ元気です。
疲れてきたら負けて副執行委員長を引き受けても良いと思っていましたが、3人がダウンすると負けるわけにはいきません。16本目を飲み干した女性はじゅうたんの上に滑り落ちて眠りこけました。手をつけたばかりのビンビールを最後まで飲み干して、
ママ、みんな寝ちゃったよ。17本飲んだぼくの勝ちだね。「すごいですね。みなさんのお代は、その娘のお給料から引いておきますから心配しなくてもいいですよ。これからどうします」。タクシーを3台呼んでください。この3人自宅まで送ってもらいます。ぼく、ぼくはいいです。歩いて帰りますから。
新学期に入って廊下で副執行委員長に出会いました。「しばらくぶり、相変わらず元気ですね」。学期末は悪いことしたね。しかたないから引き受けるつもりでいたんだけど、カケると云うからついむきになっちゃってさ。「引き受けてもらえるんだったの」。女性が入ってきたので、やめるわけに行かなくなっちゃってさ。あの子、泣いただろうなぁ。「負けたのは初めてだって。また頼みごとで悪いんだけど、大学祭実行委員の情宣部を引き受けてもらえないかい」 。情宣部ってチラシをつくって配布する仕事かい。うん、いいよ。協力するよ。
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4 二ヵ月半の卒業延期
再びグリークラブに温かく迎えられ、「第三回演奏旅行」の企画と下見、運営などのお手伝いをしました。演奏旅行から戻ると、文化協議会の前副会長で現在自治会の副執行委員長の依頼で「10月祭(大学祭)」の「情宣部を担当」することになりました。
新聞部がないため、ニュ-スをかき集めてガリを切っては自治会の謄写版で印刷しました。ガリと云うのは孔版のことで、蝋原紙を専用のヤスリの上に載せ鉄筆で文字をかいて版下にします。
版下を謄写版に貼り付けてインクをつけたローラーで版下の上を転がすと鉄筆で文字をかいた部分からインクが押し出され紙の上に文字が写るという仕組みです。蝋原紙は非常に破れやすいのですが、私が作成した一枚の版下から千枚以上の印刷物が生まれました。
情宣部に、経済学部一部と短大の学生が4名配属されました。第一回の情宣部会に出席した3名に、学内を巡回して各部などの動きをメモして放課後に届けるようお願いしました。初めて言われたせいか、Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)How(どのように)したのか、5W1Hにまとめられたメモは届きません。
こんなことばかりをやっていたので、教員免許状取得単位が不足してしまいました。集中講義の全日程に出席しましたが、試験当日眠り込んでしまったため卒業に必要な単位数が足りなくなり、両親の顔をまっすぐ見れなくなりました。昭和40年3月31日付の卒業証書と経済学士の称号を最終教授会が終了した6月15日に受領しました。
昭和39年10月10日、東京オリンピック開幕。東洋の魔女といわれた女子バレーはテレビの視聴率は瞬間最高95,4%という空前の絶後の記録を残しました。映画は水上勉さん原作の「飢餓海峡」がヒットし、三国錬太郎さんと左幸子さん、伴淳三郎さんの見事な演技に引きずり込まれたのを思い出します。
昭和40年4月10日、ジャルパックの第一陣20人が羽田からヨーロッパに飛び立ちましたた。大学卒の初任給が22,450円といわれた時代に、16日間の日程で一人分の旅費は375,000円です。
北海学園大学グリークラブの「演奏旅行」と「定期演奏会」、北海学園大学文化協議会の「音楽祭」と「地方公演」、機関紙「文友」は現在も継続されているようです。受け継いでくれた後輩に感謝します。
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