はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第3章 昭和33~35年度

高校へ入学してイタリア女性との文通や写真部へ入部して暗室造りを体験。この当時は映画の黄金時代で、昭和33年に札幌市内で営業していた映画館は43館、昭和35年には53館に増えていた。宗教の盲信をいさめてくださった吉田牧師さんとの出会いなど。

1 イタリア女性との文通

公立高校入試の足止めとして私立の光星高校と北海高校の受験を希望しましたが、受験日が重なって北海高校一本に絞ることとなりました。国語の試験問題はいまでも覚えています。「小諸なる古城のほとり雲白く雄姿悲しむ」の作者はだれか。

出会ったことのない詩だったので、思い付きで北原白秋と書いたので受かるはずはありません。公立高校の入試はあがってしまい、答えが分っているのに×をつけてしまったのが複数あり、補欠に1点足りなかったそうで落ちました。

あの馬鹿野郎、公立も私立も落ちやがって!と中学校の先生方は慌てふためきました。隣の小学校の校長の息子が高校受験に失敗した。なんとかしなければという時に、中体連予選でだした砲丸投げの未公認記録が役立ったようです。1958(昭和33)年4月、高校一年生の学生服姿北海高校は補欠入学で拾ってくれまた。

校門の前に下宿して、校舎建築中のため札幌商業高校の教室で授業が続き、一学期の中間テストは64人中62番目でショックを受けました。勉強をしていない結果ですが、田舎から出てきたからしかたがないと思ってもくやしい。

一年生の時の担任は島谷先生、教室内は不良じゃないかと思えるような生徒がゴロゴロし、教室の出入口に見張りを立ててタバコを吸う生徒がいました。よくわかりませんが覚せい剤でしょうか、流行していたヒロポンを腕にうっている生徒もいました。

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生きた英語を覚えようと考えて、郵便友の会より紹介いただいたイタリアのサンレモに住むマリアロサさんとペン・フレンドになりました。エーデルワイスの押し花やサンレモ音楽祭の写真をいただき、誕生祝にニニ・ロッソのドーナツ盤が届きましたが包みを開くと割れています。慎重に接着剤で修復して二回ほど聞くことができました。

英語が不得意のため書籍会社の例文集を購入し、名詞を入れ替えて手紙を書いていましたが、赤ペンで修正された手紙が返事に添付されてくるようになりました。例文集が正し高校の八番校舎全景いのか、イタリア式が正しいのか分からなくなり、しだいに手紙を書くのが億劫になってさよならしました。

当時の教室にはスポーツ選手の卵がいました。彼らはお腹が空くらしく私の弁当は良く盗られます。うっかりしていると二時間目の休み時間になくなり、五時間目が始まる頃になってカラッポになった入れ物が戻ってきました。感謝の気持ちをあらわしているのか、弁当容器はきちんと洗ってあったのを覚えています。

1958(昭和33)年に大阪で「即席チキンラーメン」が発売されました。うどんが一玉6円の時に一袋35円ですから安くはありませんが、創製者の安藤さんは「日本の食文化を変えた男」と呼ばれました。野球の長嶋茂雄選手がデビュー戦で、国鉄スワローズのエース金田正一投手に4打席4三振でねじ伏せられました。

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2 写真部の部室造り

はっきり言われたことは一度もありませんが、砲丸投げの未公認新記録で補欠入学を認められたことを忘れてしまいました。体育系のクラブに興味を持たず、2年生の三学期にクラブ活動の経験がないことに気づきました。父が買ってくれた「ミハマシックスS」というジャバラ式の中古カメラを持っていたので、担任の先生に相談すると写真部の部長を紹介されました。Mihama-sex

写真部の加藤部長は一つ年上ですが同学年で非常に馬が合いました。写真部の部室は一坪(3.3平方m)の暗室で、室中には流しと引き伸ばし機、電熱器やバット類が所狭しと置いてあり部員二人がやっと入れる状態でした。

私達が3年生になったとき、顧問の先生の許可をいただいて旧木造校舎の一教室を部室として使用できるようになりました。加藤部長はこの部屋を暗室にしたいといいますが、予算はゼロという状態です。

できるところからやろうと提案して、とりあえず元の暗室の流しを包んでいた鉛を運び込みます。流し台に現像液や定着液、停止液の氷酢酸を流すと鉄板はすぐ腐食してしまいます。鉛を叩いて薄く延ばし、倍以上もある流しの内側を覆いました。

学校の周囲を巡ると、同じ敷地内にある大学の裏に切断されたベニヤ板や垂木などが置いてあります。近くにいた大学生に「大学祭で使った廃材で不要」と聞き、許可を受けて比較的大きなベニヤ板を部室へ運び込みました。

驚いていた部員に窓を遮光するためのベニヤ板と説明しても、釘がないから不可能とあきれています。廃材の置いてある地面に使用済みの釘が無数に落ちているのを知っていました。ベニヤ板を固定できそうな長さのものを集め、金づちで曲がりを修正してから窓をベニヤ板でふさぎました。

ふたつある出入口の一方を閉ざし、もう一方に旧部室から外してきた暗幕を貼り付けると一ヶ月程度で暗室が完成しました。やる気さえあれば難題も解決できると自信を深めました。

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文化祭で写真展見学者現像液や定着液、停止液として使う酢酸などは部費で用意しました。自分のカメラで撮影し、フイルムを現像して引き伸ばし機で印画紙に焼き付け、写真をつくるのはかなりおもしろいものです。現像液の中で写真が次第に浮かび上がってくるのを見ているとワクワクしますが、フイルム代と印画紙代はかなりの負担になりました。

引き伸ばし機のレンズの直前に計量スプーンやビーカーを置き、モアレ現象を印画紙に焼き付けた作品は読売新聞に掲載されました。文化祭でこの写真を展示すると興味を持った女子高生に何度もつくり方を質問されました。

富士フイルムの修学旅行写真展へ応募した部長が入選、私は佳作に入りました。小西六の「吉野」という中厚口印画紙の色調が好きでしたが、製造中止となってから写真への興味が急速に薄れていきました。

自宅で餅つきの風景この当時は、自宅で餅つきをする風習がありました。もち米をセイロで蒸し、臼の中に移して杵でつきました。販売されている餅と違って、加える水の量を少なくすることで腰の強い餅をつくことができました。

空気銃を購入した同級生に、豊平墓地で射撃の練習に付き合わされたこともありました。墓石の上に缶詰の空き缶をのせ、まとを外れても人に当たらない角度から打っていましたが、流れ弾が当たると墓石は傷つき、街灯を狙い始めた友人に付き合いきれなくなって別れました。墓地を里塚霊園へ移転させた跡地に、現在はキタエール(北海道立総合体育センター)が立っています。

3 映画の思い出

テレビ番組はモノクロの放映で、永井智雄の「事件記者」、徳川無声の「私だけが知っている」、大瀬康一の「月光仮面」、玉置宏司会の「ロッテ歌のアルバム」、エリック・フレミングの「ローハイド」などは人気がありました。下宿している高校生は夏休みや冬休みに帰省した時に見る程度で、娯楽の中心はやはり映画です。

高校へ入学した1958(昭和33)年4月当時、札幌市内に邦画封切館は「松竹遊楽館、新東宝、大映、東映、東宝公楽、日活館、日活劇場」の7館、洋画封切館は「札幌劇場、松竹座、帝国座、東宝日劇」の4館が営業していました。

多くの場合、封切館で一ヶ月間の上映が終了すると、続いて少々安い入場料で上映する映画館を二流館と呼び、その後さらに安い入場料で上映する映画館を三流館と呼んでいた記憶があります。

札幌市内に封切館を含めて映画館は43館あり、丸井今井デパートの七階にあった「道新劇場」は世界各社のニュース映画を上映していました。当時は大きな画面で動く映像を見ることができるものがなかったので、封切館でも本編上演前に必ずニュース映画を上映していました。

高校一年生のときに労音の前身である札幌芸術協会の会員になりました。映画が割引になるというのが入会理由ですが、すぐそばでオペラ歌手のなまの声やピアニストの演奏も身近で聴くという貴重な体験ができました。日曜日は3本立ての映画館を1日に3箇所もまわり、何がなんだか判らなくなったこともあります。

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ファンタジアのDVD1958(昭和33)年5月、松竹座でウオルト・ディズニーの「ファンタジア」が公開されました。ストコフスキー指揮のフィラデルフィア交響楽団の演奏に乗り、アニメーションで「トカータとフーガ、くるみ割り人形、魔法使いの弟子、春の祭典、田園交響楽、時の踊り、はげ山の一夜、アヴェ・マリア」というクラシックの名曲が物語風に展開します。クラシックの曲を目で見てわかるようにしてくれたことに感激しました。

汚れなき悪戯のDVD1958(昭和33)年7月、札幌日劇で「汚れなき悪戯」が公開されました。14世紀イタリア中部ウンブリア地方で起こったと言われる民間伝承を元にした小説を原作とする映画です。フランス軍に破壊された丘の上の修道院の再建中に、門前に男の赤子が置かれていました。両親はすでに亡く、里親も見つからないので修道院で育てることになりました。マルセリーノと名付けられた男の子が召されるまでの姿を描いたものです。

1958(昭和33)年8月に、セシル・B・デミル監督作品、チャールトン・ヘストンとユル・ブリンナーが共演した「十戒」が松竹座で公開されました。封切のときは背景になっているエジプトの建物に圧倒され、紅海の割れるシーンに仰天しました。何度も見ると、意外に雑なセットの作りや画面の二重三重の合成が気になってきます。赤子のモー十戒のDVDゼが葦のかごで流される際に、モーゼをくるんでいる布は安全ピンで止めてありがっかりしました。

アン・バックスターが演じたネフェルタリは少々太め過ぎ、才色兼備ではない描き方が気になりました。20世紀になって発見された胸像で、ネフェルタリは古代エジプト史上クレオパトラに勝るとも劣らない美女と判明したそうです。

王の像や絵でファラオの妃たちは膝ぐらいまでの大きさに描かれていますが、ラムセスⅡ世はアブ・シンベルの墓所と神殿の絵にネフェルタリを自分と同じ大きさに描かせています。先立ったネフェルタリの墓所の玄室に「余の愛する者はたゞひとりのみ。何者も余が妃に匹敵する者はなし。生きてあるとき、かの人は至高の美を持つ女人であった。」と刻ませ、ラメシスⅡ世にとって彼女がいかに大切な存在であったかがうかがい知れます。

眼下の敵のDVD

数多くの戦争映画を観ましたが、南太平洋でアメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦が遭遇した「眼下の敵」がもっとも好きでした。海上を航行する駆逐艦の艦長(ロバート・ミッチャム)と海中に潜む潜水艦の艦長(クルト・ユルゲンス)との頭脳戦で、重火器を使った戦いのシーンや軍人が死ぬシーンもありません。多くの乗員の命を護るために苦悩する二人の艦長の姿に打たれるものがありました。

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洋画封切館の札幌劇場は、映写機とスクリーンやスピーカーなどの交換で二週間以上も南太平洋の広告休館し、1960(昭和35)年の4月16日、札幌で初の70mm映画「南太平洋」を公開しました。前日の北海道新聞に掲載された広告はミッチー・ゲイナー主演のミュージカルで「南海の楽園、ハワイのカウアイ島に絢爛と展開される夢と冒険」、前夜祭の入場者には抽選で冷蔵庫が当たった人がいました。

通常の映画フィルムは幅35mmですから、その倍の幅である70mmは大画面に上映できました。入場料金は指定席400円、階上席320円、階下席220円、高校生170円、小人130円と高額でしたが、映画のストーリーはいまいちでした。

この当時は上映される映画により多少変化しますが、私が通った映画館の入場料は公楽文化が40円、名画座と東映地下が50円、道劇が55円、道新ニュース劇場は20円でした。

東京タワーが完成した1958(昭和33)年の物価は、封書10円、ハガキ5円、銭湯16円、理髪料金150円、ガソリンは1リットル38円でした。平均寿命は男性65歳、女性69.9歳ですから現在に比べるとかなり短く感じます。

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ダッコチャンブームが起きた1960(昭和35)年末、札幌市内で営業していた映画館を五十音順に配列すると次の53館です。

「エルム、オリオン、菊水映劇、幌南映劇、公楽文化、国際東映、琴似映劇、ことに東映、札東映劇、札幌劇場、札幌座、札幌シネマ、札幌新東宝、札幌大映、札幌東映、松竹座、松竹地下、松竹遊楽館、白石映劇、新劇、新街映劇、セントラル、桑園映劇、中劇、遊楽地下、月寒映劇、月寒公楽、テアトルポー、帝国座、帝国地下、東映地下、東劇、道劇、東宝公楽、東宝日劇、豊平映劇、豊平第一、苗穂東映、南街映劇、日活館、日活劇場、ホーエー、北映劇場、本郷映劇、丸井道新劇場、円山映劇、美香保映劇、美園映劇、ミトキ、名画座、藻岩映劇、山鼻映劇、四条名画座」。

高校時代に封切された映画で、心に残る洋画はチャールトン・ヘストンとスティーヴン・ボイドの「ベン・ハー」、ジョン・ウェイン監督主演の「アラモ」、ジョン・ウェインとディーン・マーティンの「リオ・ブラボー」、チャップリンの「独裁者」、グレゴリー・ペックの「白鯨」、アン・バンクロフトとパティ・ヂュークの「奇跡の人」、アラン・ドロンとマリー・ラフォレの「太陽がいっぱい」などです。邦画では、仲代達也と新珠三千代の「人間の条件」6部作、小林桂樹と高峰秀子の「名もなく貧しく美しく」が記憶に残っています。

4 とよみお姉さん

高校へ入学する年齢になっても皮膚病は完全に治りません。かゆみのある吹き出物は治まりましたが、体のあちこちに痛みを伴う吹き出物が現われました。ニキビそっくりですが、直径は1cmもあり表面を押すと激痛が走ります。臀部に複数できると椅子に腰掛けることができず、痛みがひくまで学校を休むしかありません。

夏のある日、豊平橋の方向へ向かって歩いていると臀部に激痛が走り、額から脂汗が流れて立ったままの状態で動けなくなりました。1mほど先に診療所の看板をみつけ、初めて歩いた赤子のような格好でたどり着き臀部を押さえながら助けを求めました。

担任の先生と下宿へ電話をしてもらい、痛み止めの注射を打たれてそのまま入院。臀部のカサブタをはがすと膿が球状になっているそうです。取り除くと患部の皮膚が盛り上がってくるまで運動は無理と宣告されました。お礼を述べて退院すると看板を見てびっくり産婦人科の診療所でした。

この産婦人科の先生と話が合い、夜間チンピラが喧嘩の治療で押しかけたときに柔道着姿で門前払いをする用心棒を頼まれ、格安で下宿させていただくことになりました。二人の看護婦さんとまかないのお姉さんが住み込んでいましたが、とよみさんと呼ばれた年上の看護婦さんはお姉さんのような方でした。

とよみさんが当直の夜は、聴診器や血圧計の使い方、皮下注射や血管注射の仕方などを熱心に教えてくれました。緊急時には手が足りないという理由で、手術室で堕胎にきた女性の足を押さえる手伝いも経験しました。時効が成立しても、文章化できない医事法違反行為も経験しました。

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とよみさんが患者さんからいただいた映画の招待券はほとんど私が見に行きました。時にはいっしょに映画を見ることや食事をご馳走になることもありましたが、中島公園を散歩したあと痛くて歩けなくなったから旅館で休憩したいといわれ、布団のうえに仰向けに寝た彼女の足を一時間ほどマッサージしたこともあります。

中学時代に盲信し始めたキリスト教の通信講座受講を熱心に勧め、とよみさんを姉のように思っていました。そんな精神状態だったので、彼女を異性として感じることはなかったのです。

定山渓鉄道が東札幌で国鉄に接続していた頃、豊平駅前から豊平橋を渡ってすすきの方面へ電車が走っていました。豊平橋の手前駅で降りると、まんぷく屋という屋台のラーメン店がありました。

一杯100円のときに学生ラーメンは30円で、具はほとんどありませんが時折りくだけて商品価値の落ちたゆで卵やほーれん草の茎を入れてくれました。店がなくなるまで50~60杯は食べたでしょう、いま一度味わいたいあっさりとしたおいしいラーメンでした。

まんぷく屋を通り越して豊平橋を渡ると、200m程先の左側にびっくり焼きというおやき店がありました。通常の二倍はある大きなもので三つも食べると満腹になります。あんの練り方が少々ゆるめだったという記憶があります。

体の成長は止まりましたが、いつもすきっ腹を抱えていました。安く、量があり、栄養バランスが取れていると思ったのがカレーライスです。学校の周囲はもちろん、かなりの遠くまで食べ歩きました。札幌駅の地下、ステーションデパートの食堂街に鯨肉のカレー店があり、ゴロゴロした肉が沢山入っていたのでびっくりしました。

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5 宗教からの目覚め

この当時に「三種の神器」という流行語があらわれました。電気冷蔵庫、マイカー、カラーテレビです。初めて売り出されたカラーテレビの受像機は17インチで42万円もしました。

修学旅行は強行軍でした。札幌を出発して青函連絡船に乗り、日本海側を通って京都まで汽車を利用します。車中二泊で朝4時に京都駅へ着き、旅館で休憩して朝食が終わると市内見学です。

東本願自前の旅館に一泊し、同じ年齢という舞妓さんの踊りを見て記念写真を撮り、翌日は連絡船で四国の高松。金毘羅さんを参拝して、屋島で葉が茂り始めた桜を見てから小豆島へ行くはずでした。

バス会社のストライキに遭遇し(これ以来、関係ない人々に犠牲を強いる労働組合が嫌いになりました。)、かわりに海賊の住居だったという鬼が島を見学しました。高松を後にして連絡船で大阪へ渡り、大阪城が鉄筋コンクリート造りであることに驚きました。

東京まで高速道路をバス走行。到着と同時に観光が始まりましたが、国会議事堂というガイドさんの声しか耳に残っていません。翌日はフリータイムでした。中学時代からのめり込んでいたキリスト教の渋谷近くにある本部教会を訪れました。

いろいろ説明を聞いて資料をいただき「聖衣」という映画を見終わると集合時間です。上野から夜行列車に乗車して千歳の駅で降りると、東京では桜が半分以上散っていたのにあたりは真っ白、雪が降り続いていました。

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英語の吉田先生とキリスト教についておはなしする機会がありました。日曜日にはぜひ家に来なさいと誘われ、伺うと日本基督教会と看板が出ています。クレオソート石鹸液で手を洗いご家族とともに昼食をいただいてから、牧師さんの書斎で新約聖書の黙示録にある予言をとり上げました。

盲信していた資料や書籍にある説をあげて説明していると、朝鮮戦争がおきるという予言はどこにのっているのかとの質問をいただきました。続いて、日清戦争や日露戦争の予言はあるのか、推測ではなくはっきり書いてある個所はどこだとの質問に答えられません。

吉田牧師は、宗教というもの、聖書という書籍、予言の考え方などを説かれ、一つの方向から物事を見るのも大切なことだが、広く広く、もっと広く視野を広げるようにとの教えをくださいました。

ショックは大きく、その一方でおはなしを伺えなければどうなっていただろうと不安になりました。もっといろいろなことを知らなければと考えるようになり、しだいにキリスト教から遠ざかっていきました。

進路のことで担任の先生に呼ばれました。「お前、大学はどこにするんだ。期末試験の成績はクラスで四番目だから、北海学園大学へ行くなら推薦入学できるけどどうする。他の大学を受験しないで北海学園大学へ行くか。よし、分かった。あとは心配しないで今日は映画でも見てこい」。高校時代に担任の先生とかわした最後の言葉でした。

この頃、皇太子殿下(現在の天皇)と正田美智子さん(現在の皇后)の結婚式が行われ、電器店の白黒テレビで何度もみた記憶があります。

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・ 参考資料

ダカーポ  No.460号・No.461号 「20世紀の常識」 マガジンハウス2001
 読める年表 日本史   自由国民社
 北海道新聞 昭和33年4月 ~ 昭和36年3月まで

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