はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第11章 慰安婦問題の真実

慰安婦についての報道やネットに出されている解説を読むと、感情的な表現や極端な断定文章が多いことに驚かされます。残されている資料から歴史上の事実を調べていくと、現在の人々は感情的に物事を捉えることで真実を歪めていることがわかります。

嘘をついて日本と日本民族、韓国と韓国民族を汚辱する日本人やマスコミ関係者が存在します。日本侮蔑を目的とする「反日」日本人とそれに呼応する韓国人だけが連帯し、それをマスコミが意図的に煽り立てて憎しみを増幅させています。しかも、報道機関は報道内容を批判されると、外国へ出かけてどう思いますかとお伺いを立てるしまつです。

日本の国を愛し韓国とも仲良くしたいと考えている人達の韓国離れが増加し、日本を正確に知って冷静に友好関係を築くべきと考える人達の発言権が失われているようです。日韓のマスコミは民族のいがみ合いを助長し、世界中の笑いものにさせようとしています。

物事には「原因」があるから「結果」が現れます。歴史の「因果関係」を正しく知るためには、歴史の全体像を見ることが必要です。真摯な態度で歴史を眺めて真相究明に取り組み、捏造された歴史は正さなければなりません。

韓国で「慰安婦の少女像」を作っている方も、像を安置された方も、像をお参りしている方々も、慰安婦が存在した時代を見ていません。慰安婦として強制連行される姿を見ていません。両親や兄弟がやめてくれと泣き叫ぶ様子も見ていません。村や街中にあふれた嵐のようなデモの記録もありません

慰安婦問題は、日本を辱めようとした日本人の行動から始まりました。したがって、慰安婦問題を国内問題のはけ口や、民族意識の高揚の手段として利用すべきものではありません。冷静に慰安婦が存在した当時の人々の目を通した資料で事実を確かめるべきです。

その当時を生きた多く人々の記録を真摯に受け止め、日本を辱めようとした恥ずかしい日本人の存在を知って幕を引きましょう。誇りを失って唆し煽動するマスコミの真似をせず、人間としての誇りと笑顔を取り戻すために真実を噛み締めましょう。

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1.慰安婦問題の発端

 1-1 李承晩政権の気骨

世界には貧困という理由などで、自分の性を売らなければならなかった不幸な人たちが大勢います。自発的ではなく、日本が国家として権力を使って強制的に性を売らせたということがあれば「慰安婦問題」となります。大東亜戦争(GHQは太平洋戦争と云わせました)当時に「慰安婦」がいたのは事実ですが、慰安婦問題が李承晩大統領あるとされていません

大韓民国最初の李承晩政権(1948~1960)はアメリカとの強固な同盟関係を求める一方で、北朝鮮や日本を敵視する政策を実施しました。対日本政策では竹島(韓国名:独島)と対馬の領有を主張するために、李承晩ラインを制定して近海から日本の漁船を締め出し、厳しい反日政策を終始一貫して続けました。

李承晩政権が日本に要求していたのは、徴用された人と徴兵された人たちの補償と未払い賃金です。徴用と徴兵というのは権力によるものですから、外交交渉で補償を求めるのは当たり前です。

李承晩大統領は日本との外交交渉で慰安婦について一切言及していません。慰安婦がいたということは知っているのです。当時の人達はみんな知っていましたが、慰安婦を外交交渉にあげて日本から賠償を得るということは誰も考えませんでした。

つまり、権力による慰安婦強制連行があったなら、植民地支配直後にそれが大問題になりますが、貧困による悲劇だとだれもが知っていたので問題にされなかったのです。李承晩政権が日本政府に過去の清算としての要求を網羅的にあげた「対日請求要綱」の中で、「強制連行」という言葉は使われていません。この言葉も、「慰安婦問題」と同様に当時はなかった言葉です。

謝辞:李承晩氏の写真は Wikipedia よりお借りしました。ありがとうございます。

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 1-2 朝日新聞の誤報から

朴政煕政権になると植民地支配に対する反感はあるけれども、いまは反共が大義であってアジアの自由主義陣営は団結すべきだという立場から日韓の国交を正常化をしました。日本も釜山に赤旗を立ててはいけないということから大規模に援助しました。

その後、1965年~1982年までの間は、歴史問題を理由にした反日デモが起きたことはなく、歴史問題で外交交渉をしたこともありません

朴正煕大統領大韓民国第11・12代の全斗煤大統領は、歴代大統領としては初めて現在の韓国を含む朝鮮半島が日本の領土となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)に責任があったと認め、1981年8月15日の光復節記念式典で、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と演説しました。

朴大統領の軍事クーデターでソウル突入部隊の指揮官だった金潤根将軍は著書「5・15軍事革命」で次のように指摘しています。これを読むと、韓国は「被援助国の優等生」と呼ばれたことがわかります。

日本との国交再開と同時に、日本の中小企業が馬山とソウル九老洞の輸出工業団地にどっと移入し、工場を建設し生産活動を始め雇用が増大すると共に、各種輸出商品の生産技術や生産管理技術を見習うことができた。今は漁船の乗り手がいなくなり衰退してしまったが、一時は韓国の遠洋漁業船900余隻が世界五大洋に出漁していったものであった。これができたのは、日本の商社が中古漁船を延払いで提供してくれたからである。
 60年代、韓国の企業が技術者の訓練を要請すれば、日本の企業は喜んで訓練させてくれたものだった。米国の技術よりも、日本の技術のほうが韓国人には習いやすかった。日本の協力がなかったならば、韓国の経済成長はもっと遅くなったであろう。

全斗煤政権は日本に六十億ドルの経済協力を求めていましたが、それは安保経済協力と言う表現でした。共産主義陣営の南下を押さえて、韓国が日本の安保の砦になっているから、韓国の軍の近代化費用の三分の一くらい日本が持てという論理です。それは日本は呑めないと断って膠着状態になっていました。

1982年6月、朝日新聞は文部省が教科書検定で高校日本史の中国華北への日本軍の「侵略」という記述を「進出」に書き換えさせたと報道しました。間もなく誤報と分かりましたが、それを韓国の新聞が引用する時に「中国・韓国への侵略」と追加の誤報をしました。

朝日新聞の誤報を中国共産党政権が取り上げ、日本政府に抗議したことで宮澤喜一官房長官外交問題となりました。書き換えの事実がないにも関わらず、当時の鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官が、教科書検定のあり方を改めることを中国に約束しました。こうして設けられたのが教科書検定基準の「近隣諸国条項」です。

これを見た韓国は歴史問題を使えば日本を追い込むことができ、協力を取り付けることができると考えました。ここから、全斗換政権が中国共産党と手を組んで、日本批判をして援助をとるという対日歴史糾弾外交を考えました。朝日新聞が創り出した根拠のない誤報を、韓国と中国の政権が外交交渉に使うという構造が始まりました

謝辞:朴正煕氏の写真、宮沢喜一氏の写真は Wikipedia よりお借りしました。ありがとうございます。

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 1-3 不合理な近隣諸国条項

「近隣諸国条項」は、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」というものですが、運用に当たって中国や韓国関係の歴史記述については今後検定意見を付けないことになりました。中国関係では「侵略」「南京事件」、韓国関係では「三・一独立運動」「神社参拝強制」「日本語強制」「創氏改名強制」などです。

日本人を対象とした歴史教育のための教科書を検定するに当たり、どうして近隣諸国の顔色を窺わなければならないのでしょう。中国や韓国は教科書の編集にあたって、近隣諸国に配慮して内容を決めているのでしょうか。中国や韓国の教科書に日本や諸外国が苦情を述べたことがあるでしょうか。

アヘン戦争について、中国とイギリスの教科書は同じ歴史認識に立って書かれているでしょうか。日本以外で、教科書の内容が外交上の問題になった例は聞いたことがありません。教科書の内容はあくまでも国内の問題です。

国家は国際法に反しない限り、一定の事項について自由に処理することができる権利をもち、逆に他国はその事項に関して干渉してはならない義務があるという、国家主権から導出される原則を「内政不干渉の原則」といいます。そして、国家が自由に処理できる事項のことを、国内管轄事項または国内問題といいます。

近隣諸国条項の中に「強制連行」の項目があり、「朝鮮人が強制的に連行された旨の表現については、検定意見を付さない」とされることなっていました。朝鮮人強制連行説は80年代以降、歴史教科書を通じて広まることになり、多くの日本人が「韓国併合時代」の日本の蛮行として「事実であるかのよう」に受け止めるようになりました

その後公表された高校教科書検定で、慰安婦について「日本軍に連行」「強いられた」といった自虐史観を強めた表現がみられたほか、南京事件の犠牲者数については「誇大」とされる30万人説が当たり前のように掲載され、文部科学省の検定を合格しています。

領土に関する教科書の記述に自国より中韓の主張を強調する教科書が目立ちはじめ、独立国としての尊厳を放棄して中韓に隷属しなければならないように仕向けられました。日本人の手による自虐洗脳は、民族滅亡という地獄へ向かって堕ち始めました

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 1-4 吉田清治氏の大嘘

1983年に「慰安婦問題」のきっかけとなったのは、吉田清治氏が書いた「私の戦争犯罪私の戦争犯罪鮮人強制連行ー朝(三一書房)」という本です。昭和18年に韓国の済州島で日本の軍人が、赤ん坊を抱いたお母さんや若い未婚の女性を狩り立てトラックで連行したそうです

東京基督教大学教授で麗澤大学客員教授の西岡力氏は1982年から1984年までソウルに住んでいましたが、その時、吉田清治氏は韓国のテレビに出演して、自分の戦争犯罪を謝っていました。しかし、それほど韓国では大きな問題になっていませんでした。

吉田清治氏がテレビに出たあと、西岡力氏は街に出て知り合いの食堂の女の子たちにあのテレビを見たかと訊ねました。すると、「我々韓国人にとっては謝ってくれてありがたいけれど、あの人は帰国して大丈夫なんですか?外国に来て自国の悪口を言ったらよくないでしょう?帰国したら袋叩きに合うのではないかですか?」と答えたそうです。

それぞれの国がそれぞれに愛国心を持っているという、当時の韓国人には当たり前のバランス感覚があったのです。戦争中を知っている韓国のお年寄りは「慰安婦問題」で日本を責められると思っていず、若い人たちも常識がありました

1989年8月14日付で朝鮮の済洲新聞に掲載された許栄善記者による署名入りの記事が、西岡氏の著作「よくわかる慰安婦問題」に掲載されています。西村力氏の日本訳を引用させていただきました。ありがとうございます。

(見出し)済州で慰安婦205名を徴発した  日本人手記「私は朝鮮人をこうして…」波紋  住民たちは「捏造」 日本の恥知らずの商魂に憤慨  著者は山口県労務報告会動員部長「城山浦ボタン工場、発浦、法環里などで強制徴用」と主張、(以下、記事の本文)

開放44周年を迎え、日帝時代に済州島女性を慰安婦として205名を徴用していったという記録が出されて大きな衝撃を投げかけているが、それを裏付ける証言がなく波紋を広げているよくわかる慰安婦問題

1942年から終戦までの約3年間、山口県労務報告会の動員部長として朝鮮人を徴用する仕事に従事していた、吉田清治氏の戦争犯罪記録「私は朝鮮人をこのようにして捕まえて行った」がそれで、清渓研究所現代史研究室によって83年版が翻訳出版された。ここには「光州での男子の連行」「済州島での慰安婦狩り」について、自分が直接加担し、狩り出してきて連行していった当時の様子を記録している。

この記録によると、皇軍慰問朝鮮人女子挺身隊2百名、年齢18歳以上30歳未満、身体強健なるもの、期間1年、給与毎月3千円、支度金として前渡金20円、勤務地中支方面、動員地区朝鮮全羅南道済州島、派遣日時1943年5月30日正午、集合場所西武軍第74部隊、という動員命令までくわしく記述されている。

我々は小さな村落の若い娘を全員捕まえて(車に)乗せ、車の速度を挙げてそこを出発した。高い岩山の間を抜ける道を曲がると飛揚島が見えた。広い海には帆を揚げた船が点々と浮かんでおり水平線は白く霞んでいた…。我々が入っていった建物は事務室と工場を兼ねていたが、4、5人の男が事務をとっていた。年をとり太った男が我々を迎え、組合長だと挨拶した。私はすぐ組合長に「20歳くらいの女を徴用する。すぐに工場内をまわって女を連行する。お前たちも協力せよ!」(済州島での慰安婦狩り、の一部)

卑猥で差別的な表現までも避けることなく使っている。ところが、朝鮮人を徴用した事に関する公式記録や関係文書は敗戦直後、内務次官の通牒により全国の都道府県知事の緊急命令書が各警察署に発送され、完全に廃棄処分された。

しかしこの本に記録されている城山浦の貝ボタン工場で15名から16名を強制徴用したということや、法観里などあちこちの村で行われたこの慰安婦事件の話は、これに関する証言者がほとんどいない。彼らはありえないことと一蹴しており、この記録の信憑性に対する強い疑いを投げかけている

城山里の住民のチョン・オクタンさん(85歳)は「そんなことはない。250余の家しかない村落で、15人も徴用されたとすればどのくらい大事件であるか…、当時そんなことはなかった。」と断言した。

郷土史学者の金奉玉氏も「日本人たちの残虐性と非良心的一面をそのまま反映したものだ。恥ずかしくて口にだすのもはばかれれるようなことをそのまま書いたもので、本だと呼ぶことさえできないと思う。83年に原本が出たとき、何年かの間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠如した本で、軽薄な金儲け主義的な面も加味されていると思う。」と憤慨した。

西岡力氏は東京基督教大学教授で麗澤大学客員教授です。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)の会長を務められ、日本の現代朝鮮研究者として有名な方です。著書「よくわかる慰安婦問題(草思社)」と「朝日・グレンデール訴訟を支援する会」で慰安婦問題を取り上げています。

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 1-5 恥ずかしい日本人

日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が占領政策の1つとして行ったのが、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」です。

1945年9月21日に発布された「日本に与うる新聞遵則」は、通称「プレス・コード」と呼ばれるWGIPの重要要素の1つです。新聞などの報道機関を統制するために、30種の禁止項目を定めて違反した場合は発禁などの処分が行えるようにしました。

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禁止された項目は、
   1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
   2. 極東国際軍事裁判批判
   3. GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
   4. 検閲制度への言及
   5. アメリカ合衆国への批判
   6. ロシア(ソ連邦)への批判
   7. 英国への批判
   8. 朝鮮人への批判
   9. 中国への批判
  10. その他の連合国への批判
  11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
  12. 満州における日本人取り扱いについての批判
  13. 連合国の戦前の政策に対する批判
  14. 第三次世界大戦への言及
  15. 冷戦に関する言及
  16. 戦争擁護の宣伝
  17. 神国日本の宣伝
  18. 軍国主義の宣伝
  19. ナショナリズムの宣伝
  20. 大東亜共栄圏の宣伝
  21. その他の宣伝
  22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
  23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
  24. 闇市の状況
  25. 占領軍軍隊に対する批判
  26. 飢餓の誇張
  27. 暴力と不穏の行動の煽動
  28. 虚偽の報道
  29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
  30. 解禁されていない報道の公表日本人を狂わせた洗脳工作

これらは、自分たちに都合の悪い思想や言論の使用を一切禁止する、または隠蔽や捏造することで貶める行為で、民主主義における言論の自由を無視する行為です。くわしくは、近現代史研究家である関野通夫氏の小冊子『日本人を狂わせた洗脳工作WGIPいまなお続く占領軍の心理作戦』(自由社)をお読みください。

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洗脳工作の結果、戦争についての罪悪感を心に植えつけられ、独立国になってもGHQに禁止されたことを金科玉条のごとく守り、日本や日本人に反感をもって日本を嫌い、悪口を云う反日本人が現れるようになりました。いまもプレス・コードを守っているように感じるのは、日本のマスコミが大東亜戦争をはじめアジア諸国の記事を扱うときです。

日本と韓国や中国が対立する問題で、韓国や中国に同調して日本を非難する日本人もいます。韓国の反日を支持する日本人は、韓国の反日主義者から「良心的日本人」として称賛されることもあります。しかし、韓国系日本人(元在日外国人)の立場から鄭大均氏は「反日日本人は自分では友好や理解だと考えているが、実は韓国の日本に対する偏見を支持しているだけであることに気が付かない」と述べています。

大分県にお医者さんの奥さんで、青柳敦子さんという女性がいました。東京基督教大学教授の西岡力氏は大分の彼女の自宅を訪ね、どのような目的で活動されているのか詳しい話を聞かれました。在日韓国人の宋斗会氏という差別反対運動家を慕い、その言動を学んでいるそうです。

青柳さんは宋氏と組み、日本政府を相手に謝罪と補償を求める裁判を始めました。西岡力氏は東京で青柳さんの背後にいる宋氏にも会って話を聞きました。その聞き取りから西岡力氏が明らかにできたのは次のようなことでした。

裁判の出発点はサハリン在住韓国人問題でした。宋斗会氏は偏屈な人でその上弁護士を使わないので書類を整えられず、書類不備でなかなか裁判所が訴状を受け付けてくれないという嘆きでした

高木健一弁護士そんなときに高木健一という弁護士が現れました。高木健一弁護士は1975年に宋氏を排除して書類を整え、「終戦後サハリンに残された韓国人が韓国に帰国できなかったのは、日本政府の責任だから謝罪し、補償せよ」と日本国を訴えました

この訴えは根拠のないもので、敗戦国日本はサハリン韓国人の戦後の処遇についてまったく関与していません。サハリンを軍事占領したソ連が北朝鮮を支持する立場から、韓国人の韓国への帰国を認めなかったのが悲劇の原因でした。事実を歪曲してでも日本を非難すればよいという姿勢が、高木健一弁護士をはじめとする恥ずかしい日本人の特徴です

謝辞:高木健一弁護氏の写真は「第二東京弁護士会の紹介頁」よりお借りしました。ありがとうございます。

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 1-6 いい加減な活動

高木弁護士にサハリン裁判を乗っ取られた宋斗会氏たちは、今度は韓国から原告を集めようと考えました。当時、「朝日ジャーナル」という左翼雑誌があり、宋斗会氏と青柳グループは1989年5月19日号に「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という広告を出し、12月まで隔週で合計15回掲載されました。掲載された内容の一部を紹介します

その他軍人・軍属・労務者として死傷した者に対して、従軍慰安婦として戦場に投入して、言うに耐えない犠牲に供して置きながらこれらの者たちに対して「この人たちはもはや日本人ではない」の一言で一銭の補償も行わず、「気の毒な事をしました」の慰めの言葉もないままに四十余年が過ぎた。日本国は戦争によって被害を与えた全ての人々に対して陳謝すべきは当然の事として、なかんずく、朝鮮人及び台湾出身者に対して国家と国民の名をもって公式に陳謝し、その犠牲に対しては、日本国民と同等、それ以上の補償を行わなければならない、と我々は考えます。

青柳さんたちがその広告を韓国語に訳して韓国を訪問したのは1989年11月19日で、徴用被害者や元慰安婦などで日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判の原告になってくれる人を探すのが目的でした。青柳さんたちは用意した資料を報道機関などに置きましたが、被害者に会うこともできず帰国しました。

この2人の訪問を受けた毎日新聞ソウル支局の下川政晴記者は、「歴史の発掘という努力はともかく、原告を探すという発想には驚いた」と語っています。日本人がわざわざ韓国まで出向き、日本政府を訴えましょうと韓国語で資料を配って回り、訴訟を起こす原告を探していたというのですから驚きます

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1990年3月、ソウルにある「太平洋戦争犠牲者遺族会」の会員千人が集まった席に顔を青柳敦子氏出した青柳敦子さんは、日本に対して公式謝罪と賠償を求める裁判を呼びかけました。「裁判に必要な費用はいま日本で400万円用意している。」と付け加えたのです

日本人が韓国まで出向いて自国政府を激しく非難し、費用はこちらで持つから日本政府から公式謝罪と賠償をとる裁判をしようと呼びかけたのですから、集まった関係者は喜びました。裁判を起こせば何百万円ものお金が転がり込むという思惑も絡んで、韓国人会員は日本大使館にデモや座り込みを行い、日韓両国のマスコミは誇大に報道しました

これを見たある韓国人が名越二荒之助氏に「慰安婦問題は日韓両国にとって恥部だ。強制の部分があったかもしれないが、全体的には金銭のやり取りがされている。売春も買春も同罪でないか。こんなことを堀り起こせば両国の関係は悪くなる一方だ」と漏らしたそうです

青柳さんが大分に帰って数週間後、韓国から国際電話がかかってきました。朝日新聞社の植村隆記者の義理の母が幹部として働いていた「太平洋戦争犠牲者遺族会」から裁判の原告になりたいという連絡でした。1990年10月29日青柳さんたちが書類準備のほとんどをする形で、東京地裁に22人の韓国人遺族らが日本政府を相手に訴訟を起こしました。

訴訟原告になったのは、戦中に徴兵や徴用で動員され、戦地などで亡くなった韓国人戦争被害者の遺族で、元慰安婦は入っていません。戦後処理は終わっていますが、宋斗会・青柳グループはこのときも弁護士を使わず、きちんとした裁判のケアができなかったので再び高木健一弁護士が登場します。

謝辞:青柳敦子さんの写真は「鮎川ロイコのTwitter」よりお借りしました。ありがとうございます。

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 1-7 被害者をムチ打つ結果に

韓国では全斗換政権以降、対日歴史糾弾外教育を受けてきた人たちがいます。その人たちは日韓併合時代について、事実を知っている人からすればバランスを欠いた、まるで暗黒の時代であったかのような教えを受けています。そういう若者たちは日本の軍隊が突然村に現れ、十代の少女を強姦して連れていったというイメージをすんなり受け人れてしまいます

1991年8月、初めて元慰安婦が名乗り出たときに遺族会は青柳さんたちと別れ、高木健一弁護士とジャーナリスト臼杵敬子さんたちとともに、新たな訴訟の準備をしていました。1992年12月に高木健一弁護士のグループが金学順さんたちを先頭に立て、新たな裁判を日本で起こしました

植村隆記者は、金学順さんを世界初のスクープとして報じました。朝日新聞の1991年8月11日付大阪版に、名前は出していませんが、日中戦争や第二次大戦の際に「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人が名乗り出たと報じたのです

最初の朝日新聞のスクープは、金学順さんが韓国で記者会見する3日前です。金学順さんも加わっている訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任常任理事の、娘の夫が植村隆記者ですからスクープができたのです

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名乗り出た金学順さんが日本政府に宛てた訴状には、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に40円でキーセンに売られた」とはっきり書いてあります。記事を書いた植村隆記者は、金学順さんが「身売り」だったという事実を無視し、植村隆記者問題を大きくしようと挺身隊と慰安婦を混同しています

提訴後の朝日新聞の見出しには「従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の恨提訴へ」、「問われる人権感覚制度の枠超え真の補償を韓国人従軍慰安婦の提訴」とし、「わずか17歳で慰安婦にさせられた」という大キャンペーンを展開しました。

賢明なマスコミなら訴状を見て「方向を間違えた提訴」とか「原告不適格」などの見出しをつけ、次のような理由で訴訟になじまないことを原告と日本国民に伝えるべきでしょう

① 戦争による被徴用の被害に対する保障は、韓国政府に対して行うことがすでに日韓
  両国間で決められています。
 ② 慰安婦は、基本的には「徴用(強制連行」ではありません。裁判の場合は、当事者
  と第三者による確かな証言や記録が揃わなければ成り立ちませんが、原告にはその資
  料が皆無です。
 ③ 訴状には強姦事件も含まれていますが、強姦の場合は7年で事項になります。20
  年以上前の事件で損害賠償を求めても裁判の対象になりません。

裁判を起こした韓国の元慰安婦たちを、「あの連中の中には、最近まで売春を商売にしていたものがいる。彼女らは戦争中慰安婦として稼ぎ、戦後も売春で稼ぎ、韓国政府に補償を要求し、日本からももぎ取ろうとしている。四重取りを狙っている。」と、平成7年当時の韓国人は避難していました。

ところが朝日新聞は「責任を取らぬ46年許されない。来日の韓国の女性、従軍慰安婦問題を批判」「問われる人権感覚、制度の枠超え真の保障を、韓国人従軍慰安婦の提訴」などと扇動的な見出しをつけて報道しました。原告の支援者たちは「軍隊による組織的な性暴力システムの構築」とか「軍事的奴隷制がアジアの女性に加えた犯罪性」等という言動で煽り立てました。

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日韓の国交が回復した1965年に結ばれた「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」によれば、第一条で日本は韓国に無償で3億ドル、長期低利の借款を2億ドル供与することを約束しています。(当時の韓国の外貨保有高は1億3千万ドルでした。)

第二条で、韓国の独立に伴う未精算部分が完全かつ最終的に解決されたことを確認するとして、議事録に次のように書かれています。

韓国およびその国民の財産、権利及び利益並びに両国およびその国民の間の請求権に関する問題には、日韓会議において韓国の対日請求権要項の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって同対日請求要項に関しては、いかなる主張もなし得ないことになることが確認された

この中の「韓国の対日請求権要項」というのは8項目あり、3で「非徴用韓国人の未収金」、4で「戦争による非徴用の被害に対する補償」となっています。

日本国と大韓民国との間の協定で、日本に徴用(強制連行と云われている)された韓国人に対する未払いの給与等や被害があったら、それは韓国政府が支払うことになっています。日本は韓国に膨大な財産を残して引き上げたうえ、有償・無償で計5億ドルを払っているのでそれを韓国人の賠償に当ててもらいたいという趣旨です

本来、日本と韓国の補償問題は1965年の条約と協定で終わったことであり、遺族会も青柳さんたちがけしかけるまで日本大使館へのデモなどしていないのです。高木健一弁護士はおばあさんから話を聞いているのですから、「あなたは当てはまりません、出ないほうがいいですよ」と、アドバイスすべきではないでしょうか。

謝辞:上村隆記者の写真は「産経ニュースの早坂洋祐史撮影」のものをお借りしました。ありがとうございます。

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 1-8 朝日新聞購読者の姿勢は

朝日新聞社大阪本社整理部に勤務され週刊朝日副編集長を経て退社された稲垣武氏の「朝日新聞血風禄(文春文庫)」の「あとがき」で、次のように述べられています。

朝日新聞は、日本が戦後一環してアメリカの軍事的擁護の下にあることを朝日新聞血風禄忘れて、「平和」を唱えさえすれば平和が達成されると思い込む「平和念仏主義」と、「平和憲法」のおかげで日本の平和と安全が保障されているとする「一国平和主義」を奉る「言論の五五体制」の一方の極に安住している。その理由はオウム教団と同質の集団幻想が朝日を支配しているからではないかと思う(p.278~279)。

それを構成する要素は次の三つだろう。
 ① 敗戦までの日本を「悪の帝国」と断
  罪した東京裁判史観の呪縛。
 ② 権力イコール悪、人民イコール善とするマルクス主義的善悪二元論
  に立脚し、権力に虐げられている弱者(犯罪者を含む)を擁護するこ
  とが民主主義であるとの思い込み。
 ③ 自分たちこそ、遅れた大衆を正しい方向に導く使命を負っていると
  の選民意識。(p.279)

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2016年の師走に「こんな朝日新聞に誰がした?(WAC)」という衝撃的な書籍が発売されました。この書籍に掲載されている朝日新聞の社説をキヨスクで立ち読みしたとき、朝日新聞は来日中国人を対象にしている新聞だったのかと認識を新たにしたことを思い出しました。

民主党政権下の2010年9月7日に、沖縄県尖閣諸島の日本領海で操業中の中国漁船が警戒中の日本の海上保安庁の巡視船に衝突を企て、巡視船を破損させたが、その船長は海保に逮捕され送検されたものの、いかなる政治圧力が政権から加わったか、結局、間もなく釈放されるという事件が発生した。海上保安庁側は違法漁船の加害行為を詳しく撮影していたが民主党政権がその映像の一般公開をしなかったため、情報隠ぺいに抗議して一人の海上保安官がその映像をネットに流した。それによって日本国民は違法漁船の狼藉を知り得たのである。(P.172~173)

ところが、同年11月6日付の朝日新聞社説は、一般国民からその映像を隠した民主党政権を糾弾するどころか、「(映像が)政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことは、驚くほかない」などと、領海侵犯、暴力行為の無法漁船ないし中国をむしろ守り、抗議の情報公開をした海上保安官を非難し、敵視した。(P.173)

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「こんな朝日新聞に誰がした?(WAC)」は、「WiLL」や「歴史通」などで企画された「朝日新聞社OBである長谷川熙氏と永栄潔氏の対談」などを、ワックの仙頭寿顕氏が再編集されたものです。朝日新聞社の記者が、改革に取り組んだ現職時代の苦悩が分ると思いましたが、期待は裏切られました。

朝日新聞にある編集委員の署名記事が載っていて、海外のスポーツ大会で「君が代」が始まると席を立つ観客が多いと書いてあった。疑問に思っこんな朝日新聞に誰がしたた川村氏がその編集委員に借問したところその編集委員は、あれは「ウソですよ。だけど、今の社内の空気を考えたら、ああいうふうに書いておく方がいいんですよ」と言ったので、川村氏は言葉を失ったというのである。(P.228~229)

1988年に、リクルートの未公開株が政界に流された事件が明るみに出た。その未公開株が当時の宮澤喜一蔵相にも渡っていたことが報じられ、「週刊朝日」の同僚が宮沢蔵相の緊急記者会見のことを出稿した。その記事の中に蔵相は何を聞かれても「ノーコメント」で通し、その数は13回に及んだと書いてあった。永栄氏が「それにしてもよく数えたな」とその同僚に言ったら、彼は「ウソに決まっているじゃないですか。死刑台の段数ですよ。」と答えたというのだ。(P.229)

この二つの話はそれぞれにやや性格が違うように思われるが、いずれについても永栄氏はもう暗然としたようである。二つとも捏造以外の何物でもないからだ。(P.229)

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朝日新聞社内のある種の空気に媚びた、捏造、半分捏造の記事がほかにもけっこうあるのではないか、と思えてくる。その編集委員の行為は、たまたま白状してしまったから知られたに過ぎない氷山の一角なのかもしれない。(P.232)

朝日新聞は、戦後の非占領期もそれ以降も、歴史の経過を完全に無視して、一方的に日本を悪、中国を含めた連合国側を善とする、GHQないし米国の歴史検閲による虚構の「太平洋戦争史」の延長線上にとどまったままである。(P.173)

最後まで読み終えると、朝日新聞血風禄と異なり飲み下せない違和感が残ります。帯封にある「歴代佐長・幹部社員たちの『平和ボケ』『左翼リベラル』こそが元凶だ!」と内容が合致しないのです。

誤報や虚報を傍観し、つくり話などで国や民を恥ずかしめている姿を暴露することで善人ぶっているようすを披露して、あなた方がこんな朝日新聞にしたのだと怒るワック株式会社の仙頭寿顕氏の姿を推理するのは行き過ぎでしょうか

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2015(平成27)年7月7日の夕方に、朝日新聞の訪問勧誘員が訪ねてきました。オートロックマンションですが、他の階の区分所有者がオートロックを開錠したのでしょう、扉を開けると玄関前に二人います。

一人が身分証明書を提示してから話し始めました。「朝日新聞の購読をお願いに来ました。三ヶ月間でも結構ですから購読していただけませんか。購読者数が減少して困っています。」

購読者数の減少って、そんなにひどいの。「最近はかなり落ち込んでいます。他の階の方は、気の毒だから三ヶ月ならいいよと言ってくださいました。助けると思ってお願いできませんか」。

購読者数の減少は、慰安婦についていい加減な記事を書くからでしょう。「あの記事が出てから極端に解約が増えました。私たちも生活が懸かっているので困っています。購読していただければ、感謝の気持ちとして生活必需品を差し上げます」。

あなた方の責任ではないと思いますが、慰安所の軍関与を示す資料という記事は悪意を持った曲解です。資料と記事の内容はまるで異なり、非難されるのは資料を自己都合で利用している新聞社ではないですか。勧誘員は、更にトイレットペーパーの包みをもう2袋朝日新聞勧誘員が積み上げた景品玄関内に置きました。

ほかの新聞も時々ありますが、特に誤報が多い朝日新聞は購読する価値はないですね。「そんなことをおっしゃらずにせめて三ヶ月でも取っていただけませんか。洗剤もお付けします」。話をしているうちに9品にもなったので、新聞購読の勧誘に景品を付けるのは法律違反じゃないのと質問すると否定しました。

しかし、昭和49年10月24日付の公正取引委員会の「排除命令」が、株式会社朝日新聞社広岡友男代表取締役宛に出ています。「公正取引委員会は、右の者に対し不当景品類及び不当表示防止法(以下景品表示法と言う)第六条第一項の規定により、次の通り命令する」として排除命令が出されています。

資料の内容を理解できずに記事を書き、日本非難の自慰好きな朝日新聞を購読する気はありません。正しい記事が掲載されるようになったら検討します。面倒でも景品はすべて引き取ってください。

朝日新聞社を支えているのは購読されている方々ですから、誤報や虚報やつくり話が大好きで、国や国民を辱めることが当たり前と考えておられる方々がまだいる?と推測すべきでしょうか。

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2 恥知らずの政治家

 2-1 朝日新聞の虚報

何らかの過失により事実と異なる報道がなされる誤報と違って、虚報ないし虚偽報道は故意に事実と異なる報道がなされることです。従来、虚報は誤報の文脈で語られてきましたが、明確にこれと区別する必要があります。

朝日新聞は1992年1月11日朝刊の一面トップで「慰安所への軍関与示す資料、政府見解揺らぐ」という見出しの記事を載せました。吉見義明中央大学教授が防衛研究所で「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という資料を発見したという記事です。朝日新聞の朝刊トップ

記事の内容は、これまで慰安婦問題に政府は関与していないと説明してきたのに、政府の関与を示す資料が見つかった。挺身隊の名で主として朝鮮人婦女子を強制連行した。その数は8万とも20万とも言われているというものです

この記事に驚いた当時の宮沢内閣は、記事の真偽についての確認も行わず2日後の1月13日に加藤紘一官房長官は次のような謝罪談話を発表しました。「関係者の方々のお話を聞くにつけ、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦の方々が体験された辛い苦しみを思うと胸のつまる思いがする。今回従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与したと思われることを示す資料が防衛庁で発見されたことを承知しており、この事実を厳粛に受けとめたい」。

このような雰囲気の1992年1月に訪韓した宮澤喜一首相は、単なるセンチメンタリズムから慰安婦問題について涙ながらに反省と謝罪の演説を行いました。これを見ていた韓国人は、これまで報道されてきたことはすべて真実だと信じ、反日感情を増幅する結果を招きました。

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しかし、発見された資料をよく読むと、日本国内で慰安婦を斡旋する業者が人さらい紛軍慰安所従業婦等募集に関する件の文書いのことをしているが、それは「軍の威信」に関わるから業者の選定を厳しくせよ、という「業者を取り締まる」内容でした。軍の関与は、業者が軍の名前を騙って「強制連行」するな、といういわばよい方向に関与しています。しかも、「挺身隊の名で強制連行した」という記事は全く根拠のないものであり、読者に誤解を与えることを目的としたものでした

なぜ、加藤官房長官や宮沢首相は、挺身隊の名で8万とか20万名の朝鮮人女性を強制連行した事実があったと考え、このような謝罪と反省を口にしたのでしょう。少なくとも外国では、朝日の記事を日本政府が事実として全面的に認めたものと受け止めました。これによって「日本政府による強制連行」「20万人」という数字が定着し、その後は独り歩きするようになりました

また、大東亜戦争時に12歳で慰安婦にさせられた人がいたと韓国の新聞が報道しました。彼女は勤労挺身隊で日本に働きに来た人です。その彼女を送り出した教師が自分が送り出した子たちの何人かが終戦後、帰ってこないのでどうなったかと手紙を出して調べたら、京城に戻らないで田舎に行き全員無事だったそうです。それを韓国の新聞が、「12歳の少女も挺身隊に動員された」という記事にしたのです。

韓国人は挺身隊と慰安婦を同様に考えています。挺身隊というのは、戦時中の労働力不足に対応して総動員業務に動員されたもので、総動員業務とは総動員法に列挙された総動員物資の生産、輸送、保管等の業務でした。慰安婦が徴用の対象になることは制度上あり得ず、韓国政府も「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」で挺身隊と慰安婦は無関係であると述べています

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 2-2 国民を愚弄した対応

韓国政府は、1992年7月31日に「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表しました。この報告書は、それまで韓国政府が強く要求していた強制連行について、吉田清治氏とか千田夏光氏など日本人の著作を引用して強制連行を推定する手法を採ったり、元慰安婦13名の証言を裏付け調査も行わずに列挙して強制連行を説明しようとするものでした

当時、韓国内では戦時中を体験的に知っている人が多数散在し、この人達の目撃証言こそ実態究明の決め手となり得るものでしたが、この中間報告では強制連行の根拠をそこに求めた記述はなく、強制連行の根拠として説得力のある記述は希薄です

日本政府は1992年7月6日に第1次調査結果を発表し、防衛、警察、外務、文部、厚生、労働の各省庁の保管する資料を調査して127件の資料を公表しました。この中には慰安所の設置、慰安婦の募集取り締まり、慰安所の築造、慰安所の経営監督、慰安所の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書の発行などの資料があり、政府の関与は明らかでしたが強制徴用の裏付けとなる資料はありません

1993年8月4日に「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」と題した第2次調査報告書を発表しました。この中にも強制連行を証するものはなく、逆に300円から1000円を家族に払って22名の朝鮮人女性を集め、女性を連れてビルマに行ったという、20名の慰安婦とともに捕虜になった民間人慰安所経営者と妻の証言が連合軍の調査報告書にありました

また、1943年の後半に、陸軍は負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は帰国して良い旨の命令を出し、帰国をゆるされた慰安婦がいました。さらに、前借金の弁済が終われば自由に朝鮮に帰ることができたという記述も連合軍調査報告書に記載がありました

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このような経緯の中で韓国政府の要請を受けて調査員をソウルに派遣し、太平洋戦争犠牲者遺族会の事務所で聞き取り調査を行い、裏付け調査を全くせずに河野内閣官房長官が個人的な感情に流された談話を発表しました。これにより、日本政府が公式に強制連行を認めたと誤解される根拠をつくってしまったのです

いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。 われわれはこのような歴史の真実を回河野洋平内閣官房長官避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

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平成9年1月と3月の参議院予算委員会でその証言の裏付け調査をしていないことが明らかになり、政府調査が行った「従軍慰安婦」関係資料集成が1999年に公表されました。河野内閣官房長官は談話を発表する前に目を通されたはずの資料に、日本軍が強制連行したと推測できるものはひとつもありません。

政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成 1999年PDF
   第一巻  第二巻  第三巻  第四巻  第五巻 

河野内閣官房長官の談話の根拠となった16人の元慰安婦の聞き取り調査で、「明らかに彼女たちは自分の過去について真実を話したと断定できた理由と、そう判断すべき裏付け」を国民に開示すべきです

これまで強制連行はないと信じてきた国民に恥をかかせ、日本政府が公式に強制連行を認めたと誤解される根拠を創ったのですから、国民と国際的な誤解を解くために日本政府は全力をあげるべきです。過ちはぐずぐずせずに改めるべきです

謝辞:河野洋平氏の写真は Wikipedia よりお借りしました。ありがとうございます。

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 2-3 反日へ駆り立てるマスコミ

日本の政府はマスコミに迎合的でいつも顔色を窺っています。膨大な記録や資料を保存しているのは政府ですから、誤報や虚報に正しい情報を示して国民を愚弄するなとマスコミを叱るべきです

日本のマスコミが取り上げた「挺身隊」は、韓国で身体をささげることと同じ意味と理解されているため、女子児童が富山県に「勤労挺身隊」として派遣されたことを知った韓国では、小学生まで日本軍の性的犠牲にされたと誤解して報道しました。

韓国第13代の盧泰愚(ノ・テウ)大統領は、平成5年3月号の文芸春秋で浅利慶太氏のインタビューに答えて次のように語っています。

(挺身隊問題は)実際に日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が盧泰愚大統領国の国民感情を炊きつけ、国民を憤慨させてしまいました。(中略)そうなると国民の言論も日本は反省していないと叫び、日本に対して強い態度にでない政府の対応はひどいとさらに感情論で煽ってきます。こうした両国の言論のあり方は、問題をさらに複雑にしても、決して良い方向には導かないと考えているのです

盧泰愚大統領、日本のマスコミが韓国の国民感情に火をつけ、韓国のマスコミも感情論を煽り、両国を悪い関係に持っていこうとしていると指摘しました

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韓国第14代の金泳三(キム・ヨムサン)大統領は就任直後、慰安婦問題ついては日本に真相究明を要求するが国家補償を求めず、韓国として元慰安婦の生活支援に着手すると言明しました。これは、日韓基本条約の趣旨に基づいた発言です。

韓国政府は平成5年3月に元慰安婦に対する生活措置を発表しました。元慰安婦140人のうち、国内居住者135人に対して500万ウオン(2万円)を支払うことを決め、平成6年度予算に具体化しました。

韓国政府が努力しているときに日本の首相はめまぐるしく交代し、そのたびに「侵略戦争と認識」し「植民地支配を反省謝罪」していました。平成7年に訪韓された名越二荒之助氏に、ある韓国人が次のように漏らしたそうです。

日本の首相は訪韓するたびにお詫びするが、口先だけのお詫びはもうたくさんだ。そこには謝罪しておけば済む、という安易さがある。韓国をなめているのではないか。日本人に誠意があるのなら、当時の日本の立場はこうだった。しかし、この点は気付かず行き過ぎもあり申し訳なかった、と具体的に言えば我々も納得がいくのに・・・

日韓関係は基本条約の締結以来、好転しつつあった。それなのに日本の首相が全面的に謝罪するようになっておかしくなった。そんなに謝罪するなら、条約で決めた補償金にさらに上乗せして、多額の資金を支払わなければ筋が通らないのではないか。

謝辞:盧泰愚氏の写真は Wikipedia よりお借りしました。ありがとうございます。

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 2-4 狂気の沙汰

  2-4-1 教科書への掲載

一方的に煽るマスコミに乗せられ、「従軍慰安婦」を教科書に載せる動きが出てきました。平成7年の秋に来日した韓国の教科書研究院の院長は、当時池袋にあった韓国文化院で列席した日本人に次のように講演しました。

慰安婦問題は日本だけでなく、韓国にとっても恥部だ。日本では教科書に載せるそうだがどう教えるのか。日本が取り上げたら韓国でも採用すれという声が起こる。もうこれ以上、我々に恥をかかせるのはやめてくれ。

慰安婦を教科書に載せることは、韓国の良識派が嫌っているばかりではありません。日本人のほとんども反対していることと思います。自分の子どもに、教科書を通して教えることを望んでいる親がいるでしょうか

平成9年度から使われる文部省検定の中学校「歴史的分野の教科書(7種)は、すべて日本軍だけが「従軍慰安婦を強制連行した」ような扱いです。いったん採択された教科書は最低4年間は修正できません。

慰安婦問題は、複雑な人間関係の課題です。男女の性の差、性病の存在、軍隊の秩序維持、戦場浄心理などがからんでいて、中学生を対象に教材化すべき課題ではありません

日本では1958年まで売春は公娼として認められていました。現在では売春が禁じられていますが、テレビドラマで煽られた不倫が広がり、中高生までが援助交際と称して売春を行うようになりました。節度のない報道の自由が国民の道徳を蝕んでいきます。

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  2-4-2 クマラスワミ報告

また、1996年に女性に対する暴力とその原因及び結果に関する報告書(クマラスワミ報告)は、国連人権委員会がスリランカ出身のラディカ・クマラスワミを特別報告者に任命して同委員会へその調査結果を提出させたものです。

日本弁護士連合会(日弁連)連会長だった土屋公献氏は、国連において慰安婦を「性的奴隷」として扱い、国連から日本政府に補償を行うように働きかけたと言明しました。日本政府は「クマラスワミ報告」に反論する文書を提出しています。主なものを挙げると、

北朝鮮在住のチョン・オクソンの証言で「13歳の時に日本人の守備兵に拉致され警察署で数人にレイプされた。左目を殴られそれ以来左目は見えない。連れて行かれた恵山市の陸軍の守備隊には朝鮮人の女の子が4百人くらいいて、毎日5千人を超える日本兵の性奴隷として1日40人と相手をさせられた。慰安婦仲間の一人がなぜ1日に40人も相手をするのかと聞くと、ヤマモト中隊長は他の慰安婦の前でその女を全裸にしたうえ釘の出た板の上で転がし釘は血や肉片で覆われた。その後その女の首を切り落としその肉を茹で他の慰安婦へ食べさせろと命じた。」と言っている。

① 北朝鮮在住の女性の「証言」は、特別報告者が直接聴取していない
  「伝聞証言」である。特別報告者自ら問いただして確認するなどの努
  力もなしに、いかに供述の真実性を確認することができたのか、全く
  不明である。

※ この物語は秦郁彦氏の調査で、北朝鮮平壌で1992年7月15日に発行された
  「労働新聞」に掲載された元慰安婦、李福汝の身の上話と酷似しているそうです。

※ これが当事者の話ではないことがわかるのは、1933年当時の朝鮮半島に軍の慰
  安所はなく、その兵舎に「400人の女の子」がいるのも荒唐無稽です。通常慰安所
  は兵営の外にあり慰安婦は数10人でした。400人の慰安婦が「1日40人」も相
  手にしたら、毎日16千人。5千人の兵士は毎日3回以上もセックスしていたことに
  なります。

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強制連行を行った一人である吉田清治は戦時中の体験をもとに書いた中で、国家総動員法の一部である国民勤労報告会の下で、他の朝鮮人とともに1000人もの女性を「慰安婦」として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白している。

② 虚偽だと判明している、旧日本軍が韓国・済州島で慰安婦を強制連
  行したとする故吉田清治氏の証言を引用している。

③ 旧日本軍の慰安所に関する歴史的経緯、いわゆる従軍慰安婦の募集
  や慰安所における生活等についての記述は日本政府に批判的な立場の
  G.Hicks氏の著書から、ほぼ全面的に特別報告者の結論を導く 
  のに都合の良い部分のみを抜粋して引用している

④ 一般刊行物に依拠する場合、十分な裏付け調査を行わなければなら
  ないことは職責上当然のことだが検証が行われた形跡がない。その上
  主観的な誇張を加えている。

⑤ 特別報告者の主張は法律的な論理が欠如した主観的見解の表明であ
  ると言わざるをえない。

⑥ 1929年の捕虜に関するジュネーヴ条約に関する主張の如く我国
  が当事国ではない条約を論拠として条約違反を主張したり、1904
  年の醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女賣買取締ニ関スル國際協定等にかかる
  主張の如く、条約の規定内容を何ら点検することなく短絡的にすべて
  「従軍慰安婦」に結びつけわが国の条約違反を主張している。

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⑦ 歴史の一時点における一定の行為ないし事実について法的な評価を
  行う場合には、その時点において有効な法に基づいて評価する必要が
  ある。現行法規の遡及的な適用は、当事国間の合意なき限りは認めら
  れない。

⑧ 「従軍慰安婦」の制度を「奴隷制度」と定義することは法的観点か
  ら極めて不適当。

⑨ サンフランシスコ平和条約、日韓請求権・経済協力協定等において
  はほかに未償請求権があっても追及しないという「完償条項」がある
  ところ、サンフランシスコ平和条約等の交渉過程において「従軍慰安
  婦」問題が具体的に議論されていないとしても、わが国としては、条
  約等の定めるところを誠実に履行してきており、先の大戦にかかる一
  切の賠償、財産・請求権の問題は「従軍慰安婦」の損害の問題を含め
  てサンフランシスコ平和条約等の当事国との間では法的に解決済みで
  ある

⑩ 勧告に対する日本政府の見解は、特別報告者が展開しているような
  法律論を受け入れる余地は全くない。政府として元慰安婦の方々に対
  して個人補償を行うことは考えておらず、特別行政裁判所を設立する
  ことも考えていない。

日本が国連人権委員会へ提出した「女性に対する暴力に関する特別報告書(クマラスワミ女史)提出にかかる報告書付属文書1に対する日本政府の見解」は、理路整然としています。

なお、虚偽だと判明している吉田清治の話を英訳して配布し、慰安婦を性奴隷と英訳して世界に紹介したのは当時ソウル大学客員研究員だった戸塚悦朗弁護士で、韓国の保守系日刊全国紙「世界日報」とのインタビューで、彼は「私が性奴隷と命名した」と自慢しています。この方も恥を知らない日本人です。

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 2-5 良識者の問題提起

2013年3月8日の衆議院予算委員会で、午後質問に立った日本維新の会の中山成彬議員と下村国務大臣の質疑応答の議事録が公開されています。長文のため要約しました。

中山(成)委員 日本の留学生が、アメリカとかカナダで中国や韓国の留学生に、あなたたちの祖先に自分たちの祖先はひどい目に遭ったんだといって責められ、肩身の狭い思いをして過ごしています。この話を聞いたことはありますか。

下村国務大臣 我が国の子供たちは日本のことをよく知らない、日本の歴史や文化、伝統を知らない。諸外国の人たちともきちっと話すことができるのが真の国際人です。しかし、外国に行くと自分が何も日本のことを知らないと気付く。領土問題あるいはいろいろなことについて何ら反論もできない。留学した日本人は日本のことを知らないと痛感し、改めて日本の勉強をし直している。しっかり日本の教育について変えてほしい、こういう話をたくさん聞いております

中山(成)委員 日本の戦前の朝鮮とか台湾の統治、これは欧米諸国の植民地主義、いわゆる略奪だけを目的としたものとは違っていました。学校や病院をつくり、道路や鉄道をつくり、そして、例えば台湾では八田技師が大変な灌漑事業をやりました。5月8日には地域の住民たちが集まって八田技師の遺徳をしのんでいる、そういう場面にも出くわしたことがありました。私は、朝鮮でも同じようなことをしていたということを皆さん方に御理解いただきたいと思います。

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下のパネルの右側に「京城に地下鉄」と見出しがあります。東京で一番古い地下鉄、銀座線が浅草と渋谷の間に開通したのは1939年です。しかし、翌年の1940年にはもう京城に地下鉄ができています。この一例だけで、いかに日本が当時の韓国の近代化に熱心であったかということがおわかり戴けると思います。

当時の新聞記事の切り抜き


 その横の朝鮮半島の地図でございますけれども、昭和12年の時点で朝鮮の国鉄、私鉄合わせて5千キロメートルの鉄道ができていた。そして、昭和20年までにはさらに千キロメートル延長したんですね。下の写真は漢江の大鉄橋ですが、この大鉄橋ができた1899年、我が国が京城と仁川の間に鉄道を敷設するまで鉄道はなかったんです。ですから、鉄道網を短期間につくったということがわかっていただけると思います。

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左の写真は京城帝国大学です。大阪帝国大学よりも7年早く、名古屋帝国大学よりも15年も早く建てられています。日韓併合の時点では公立学校はたった百校しかなかった。しかし、昭和5年の段階では公立小学校は千5百校。昭和17年には4271校の公立学校を設置したんです。

(学校の)写真をご覧ください、これは鉄筋コンクリートで、これはレンガ造りです。私は昭和25年に小学校に入りましたけれども、木造のおんぼろ校舎でした。本当に日本は、台湾も朝鮮も内地と同じように統治をしたんだということを御理解いただきたいと思っています。この一番下の女学校など、今、日本にあったら、これは文化財指定物じゃないかな、このようにさえ思うんですね。

麻生副総理に後でお聞きします。下の右側は、創氏改名は朝鮮人が望んだと東大で講演したら朝日新聞でたたかれた記事です。現在使われている高校の日本史の教科書を見ますと、三つの教科書には「日本風に改める創氏改名が強制された。」「日本式氏名を強制した創氏改名など。」「創氏改名などを強制した」と検定教科書には書いています

当時の新聞記事の切り抜き

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ところが、この左の方を見ていただくと、「氏の創設は自由 強制と誤解するな 総督から注意を促す」という記事があります。そして、「内地式に変更、締め切り後も変更することができます」と書かれているので決して強制ではない。真ん中の写真を見ますと、創氏改名に殺到しているソウル市民、このように書かれています。

中山(成)委員 慰安婦問題は、官憲が介入したと誤解させた最初の記事というのは、平成四年のこの記事なんですね。「慰安所 軍関与示す資料」。ところがこの資料をよく見ますと、悪徳業者が募集に関与しているようなので注意するように、という通達なんですね。全く逆なんですよ。

当時の新聞記事の切り抜き

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 昭和8年5月11日付の「朝鮮朝日」は、朝鮮半島十三道の「道議会議員選挙当選一覧」を掲載し、当選者の約80%は朝鮮人でした。そして、忠清南道の知事は、初代、六代、八代、九代、十代、そして昭和20年に至るまで全部朝鮮人でした。ほかの道も同じようなものでした。更に大田の警察、ナンバーツーの警部と高等刑事も朝鮮人が務めていた。これらの体制で、官憲の強制連行というのは考えられないんじゃないですかね。

当時の新聞記事の切り抜き


 今、この従軍慰安婦の問題が世界に広まっている。ソウルの日本大使館の前には従軍慰安婦と称する少女の像があり、アメリカでも朝鮮人の多いニュージャージー州には同じような銅像が建てられた。高速道路に大きな看板が出て日本人が朝鮮女性を20万人セックススレーブにした、性奴隷にしたという看板がかけられている。

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これは日本人にとって屈辱だと思います。大体、20万人もの女性をさらっていく、その親たちは一体黙って見ていたんでしょうかね。やはり、そんなことはないと思うんですよ。

日本の兵隊さん、昔の兵隊さん、世界一軍律厳しい軍隊だったと世界から称賛されていたんです。日本がおくれて列強の仲間入りしたからよく見られたいということもあったでしょうけれど、根底にあるものはやはり武士道だったと思います。武士道があったから、日本の兵隊さんというのは立派な戦いをしたんです。それなのに我々の先祖が侮辱されているというのは看過しがたいと思っています

下のパネルの新聞切り抜きは一枚だけが東亜日報の記事で、あとは全部当時の朝日新聞朝鮮版ですが、これを見ますと官憲が強制連行したんじゃなく、朝鮮人が良家の子女を誘拐して満州に売り飛ばした、17歳と19歳の日本人だったと書いてあります。あとは見てもわかりますように、農村の娘に毒牙とか、桃色の巣を暴くとか、警察がしっかり仕事をしていたということが全部わかる。日本人が何かやったということは、調べても調べても出てこないんです。

当時の新聞記事の切り抜き

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 私は、戦前、日本も貧しかった、ですから、いわゆる慰安婦として苦界に身を投じなければならなかった、そういう悲しい身の上の女性がいっぱいいたということも知っています。
 いかにも朝鮮人だけが従軍慰安婦にされた、こういうふうな誤解を解いてもらいたい。(中略)午前中に辻元議員がここに出しましたけれども、各国で従軍慰安婦に関する決議、動議が出されている。(中略)これは自民党にも責任があると思うんです。

自民党のずっと歴代の外交、その場しのぎ、その場しのぎで、謝ればもうそれ以上は追及しませんから、そういう言葉に乗せられて、いろいろな談話等が出されました。そのツケが全部、安倍総理、今ここに来ているんですね。だから私は、自民党にも責任がある、このように思うんですね。

日本人は惻隠の情といいますか「大体お互いわかるでしょう」、あるいは「謝ったんだからいいじゃないか」「人をだましてはいけない」と小さいころから教えられますけれども、しかし「だまされる方が悪いんだ」、「うそも百回言えば本当になるんだ」といってプロパガンダに励んでいる国民もいることを忘れちゃならない

さきの戦争は侵略戦争だったと私たちは思い込まされていますが、昭和26(1951)年にGHQの総司令官であり東京裁判を主宰したダグラス・マッカーサーは、米国議会の上院の軍事外交委員会におきまして、第二次世界大戦について「日本は米国によって閉じ込められ、資源供給の道を断たれた。日本が戦争を始めた目的は主として安全保障の必要に迫られてのことだった」と明確に侵略戦争を否定しているんですよ。

謝辞:資料の写真は「阿修羅さんのブログ」よりお借りしました。ありがとうございます。

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 2-6 政治家の限界

松下政経塾の熟成レポートで卒業生の二之湯武史氏が「政治の限界」について次のように述べています。

政治家は建前と本音を巧みに使い分ける。ポスター、選挙公報ビラなどを見ると、如何にも素晴らしい言葉が踊っている。(中略)しかし国民は理解している。これらが建前であることを。ポスターに踊る言葉も、接する態度も。

民主主義の限界はここにあろう。そして民主主義における政治家の役割の限界もここにあろう。政治家は決して市民の気に障る言葉を発することはできない。落選するからである。正しい人間が選ばれるとは限らない。正しいことを公の場で話せない力学が働く。政治における建前と本音は完全にシステム化されてしまった

今の国会の議論はおかしい。重箱の隅をつつくようなスキャンダルを野党が追及し、肝心の国家ビジョンや根本的な議題がまったく議論されていない。そもそも、日本の問題を経済に求めるのはおかしい。国家、企業、あらゆる組織の根本は人である。個人の力の集積が国家の力である。個人の力とは、金でも地位でも名誉でもなく、精神力である。日本人のモラル・精神力・創造力が回復しない限り日本再生はあり得ない

政治家自身が、現在の日本の問題点の本質を理解していない。経済でもない。政治でもない。文化である。日本の文化が失われていることが問題なのである。アイデンティティーがないのである。自分たちが一体何者かわかっていないのである。だから自分たちに自信がないのである。政治家はそこを救わなければいけない。政策ばかり頭に詰め込んで、頭でっかちになっても仕方がない。

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もっと現実を見るべきである。もはや国民は政治家に期待していない。政治家の話を多くの国民はもう聞かない。ワイドショーは政治家を歪めて報道する。偏った報道によって政治というものを汚れた商売のように演出する。これが現実である。マスコミ(ワイドショー・週刊誌)によって小泉首相は作られ、田中外相は作られ、マスコミによって両者は葬り去られようとしている。これが現実なのである。

マスコミにも登場しない、若くもない、ルックスもよくない、こうした政治家にもはや国民は期待していないのである。こうした恐ろしい状況が実際に起こっている。しかし悲しいかなこれが現実である。多くの国会議員はマスコミへの登場を狙ってパフォーマンスに終始する。国会での議論がいっそう本質から遠ざかる

政治家は、慰安婦や歴史認識問題などの歴史の分析について、個人的な感情を持ち込んだりうかつな意見を言うべきではありません。政治家の吐いた言葉、行った議論というのは政治的な意味を持ち、内容によっては外交的な問題を生ずる場合もあります

その結果、いわれのない理由で国民は非難され、肩身の狭い思いをすることになりますし、日本の将来を考えて命をささげた方々を冒涜することにもなります

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3 大東亜戦争と清算

私は1942年生まれで大東亜戦争も日本の軍隊も知りません。しかし、大人になってから復刻された新聞で、生まれる前の日に空母ホーネットを発艦したB-25爆撃機16機が東京・横浜・名古屋・神戸などを空襲したことを知りました。

その日、東京都葛飾区にあった水元国民学校が機銃掃射を受け児童が死亡しました。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃を故意に行ったことから、朝日新聞社は「鬼畜の敵、校庭を掃射」と報じていました。

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 3-1 戦争と性

故人の名越二荒之助氏は、元高千穂商科大学教授で元イオンド大学非常勤講師を務めら日韓共鳴二千年史れた評論家です。名越二荒之助氏は1923年3月14日生まれですから、大東亜戦争が始まった1941年には18歳の若者でした。名越二荒之助氏の著書「日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる(明成社)」より、当時の若者の様子を抜粋して紹介します。

純潔は何よりも尊ぶべきことであり、大東亜戦争では童貞のまま戦死した人々も多かった。「たとえ恋人がいても結婚せずに出陣する」のが、当時の若者の一般的な恋愛観であった。恋人が戦争未亡人になることを恐れたからである。

銃後を守っていた女性にも厳しい貞操観念があった。南洋のサイパンやテニアン、沖縄等で婦女子が集団自決をしたのも、一つは敵に犯されたくないという貞操観念の現れであった

これらのことを考えれば、慰安婦を抱えて戦争をする軍人は許せないと拒否したくなる気持ちはよく解る。しかし、戦場は異常心理が支配するところであることも知らなければ人間性の複雑性は理解できない。戦場では誰もが明日を知れぬ命であり、かつ屈強な若者の世界である。人間の本能が野獣のように働く場所でもある

トップへ戻る絶壁より飛び降り自決する婦人

サイパン島の断崖から80m下の海に身を投じた自決者の数は1万人にのぼるとも言われます。多くの自決者が「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と叫び、両腕を上げながら身を投じたことから、戦後その断崖はバンザイ・クリフと呼ばれるようになりました。海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化したと云われます。

外地に進駐した軍隊が現地の女性を強姦したら、軍隊は一挙に現地の信頼を失う。そのような事件が発覚したら、直ちに軍法裁判にかけて処断するのが当時の日本の軍紀(軍隊の規律)であった。そのため軍をあずかる指揮官は、必要悪を承知のうえで慰安所配慮をしなければならなかった

配慮したのは日本ばかりではなかった。太古・中世のむかしから、戦場は野獣のぶつかりあう場所であった。ジンギスカンの遠征が、征服地の女性をいかに性の奴隷にしたことか。

ナポレオンの遠征から第二次世界大戦に至るまで、どこの国の軍隊にも慰安所は「必要悪」として存在していた。「必要悪」に配慮したのは日本だけではなかったことを教えなければ、バランスを欠くばかりでない。軍隊と性の抱える問題の深刻さは解らない

これらの事実関係については、M・ヒルシェフェルト編「戦争と性(河出書房)」や両角義彦著「半ナポレオン考(朝日選書)」等を参照されたい。

謝辞:名越二荒之助氏の写真は「世界に生きる日本の心」よりお借りしました。サイパン島のバンザイ・クリフから投身する女性の写真は「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう」よりお借りしました。ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございます。

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 3-2 日本軍の性対策

  3-2-1 公募された慰安婦

朝鮮人強制連行の調査中に高校の高橋信教論と名古屋市の研究者たちが、朝鮮で発行された大東亜戦争末期の新聞に「慰安婦募集広告」が出ているのを見つけました。「行先〇〇部隊慰安所」「応募資格十八歳以上三十歳以内」などと、募集内容が分かります。

「京城日報」と「毎日申報」は朝鮮総督府の保護を受けて、その政策や方針を擁護・宣伝する立場を採る新聞です。京城日報は日本語版の新聞で、毎日新報は漢字のほかハングルも使われ、朝鮮の人たちにも幅広く読まれ慰安婦募集の新聞広告ていたようです

1943年5月から8月までの毎日申報縮刷版などで記事と広告の調査でほとんどの広告は女子行員募集や女子挺身隊募集でしたが、二ヶ所だけに慰安婦募集広告がありました

高橋さんらは「この当時には、恥も外聞もなく、慰安婦を表に出して広告募集するまでになっていたらしい」と話していたと1993年9月18日の朝日新聞(名古屋本社版)は伝えました。

半世紀前には半世紀前の道徳がありました。半世紀前の姿を現在の尺度で評価するのは誤りで、軽薄な言葉をそのまま掲載する報道姿勢にも呆れます

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  3-2-2 悪徳業者は摘発された

慰安婦を斡旋する業者の中には、違法行為に手を染める者もいました。悪徳業者が摘発された様子を当時の新聞記事で確認された杉野洋明氏が、主宰される「極東亜細亜研究所~韓国系企業の元社員が語る韓国」で「SAPIOで杉野のブログがパクられた?いや、引用されたというべきかな・・・?」と「従軍慰安婦の強制連行の証拠?!」で紹介されました。記事と資料を引用させていただきました。ありがとうございます。

1939年8月5日の東亜日報の記事には、誘拐犯の顔写真入りの記事誘拐犯尾写真入り記事(しかも”処女貿易”とまで言われてる)がある。1934年4月14日の記事では災害地で「仕事を紹介してやる」と甘言を用いて、遊郭に騙し売ろうとした火事場泥棒のような誘拐犯の記事もある。

1939年3月15日の申報東亜に、「河允明誘拐事件波紋拡大」とし悪辣遊興業者の記事て「逮捕された河允明は、妻と共に32年から各地の農村を歩き回り「生活難であえぐ貧しい農夫達」に良い仕事があるとだまして、約150人を満州や中国本土などに700円から1000円で売ったという。ついでに河允明から50余人を買った京城の遊郭業者を警察が呼び出すと、それを察知して彼女達を牡丹江や山東省に転売したことも判明する」と人身売買の記事が掲載されました。
貞操を強制蹂躙の記事

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悪辣な遊郭業者、警察の救出を念慮、続々と外国に転売、人事紹介所に検察のメス!、特別調査隊編成内探などの見出しが躍っています。この河允明誘拐事件は「毎日申報」だけでなく、「東亜日報」でも毎日のように続報が報じられていました。誘拐した百余の処女、貞操を強制蹂躙、河允明余罪は続出という見出しが並んでいます。

朝鮮日報という大新聞社があります。当時、朝鮮日報社は「朝光」という雑誌を出していたのですが、1939年3月号色摩誘拐魔の特集記事の特集で河允明事件を取り上げていました。「処女の泣呼」「色魔誘拐魔河允明」という見出しが目に付きます。「満州に売られていった3処女」という見出し入り写真で誘拐事件を解説しています。

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河允明事件を受けて、遊郭業者が誘拐事件多端の記事18歳の趙鶴南という少女を「山東省の?鏡慰安所」に転売されたと報じています。私娼窟ではなく「慰安所」に転売されたと韓国の当時の新聞で報じているのですが、慰安所が私娼窟なんでしょうか?そしてこの誘引は解放後も変わらず、「就職させてあげる」等の甘言で誘引しています

1956年4月11日の「東亜日報」には「少女2名誘拐、売淫ブローカー拘束」、記事では「就職させてやる」とだまして誘引したことが述べ少女二名誘拐の記事られている。7月11日には「田舎の処女誘引、酷業を強要した老婆」という記事もあります。

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1959年8月6日の「東亜日報」に、「田舎の処女を誘引 売春窟に田舎の処女誘拐の記事売った女人を検挙」という記事があります。転売先は慰安所だったことが、原文を通じて知ることが出来ました。

今までの調査を通じ、当時の朝鮮半島では未成年の人身売買が至る所ではびこり、警察が取り締まりを厳重に行っていたこと。人身売買は養父や実父によるもの第三者によるもので、一部警察の名前を騙って人身売買を行っていたこと等が報道されていたわけです。

とはいえ、私人や警官が(職務命令を無視して)個人の行動で、人身売買に加担していた可能性はありますが、それを証明することは極めて困難であり「国家的犯行」とは全く違うものです。

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  3-2-3 強制連行は不可能

朝鮮人強制連行を調査していた名古屋市の研究者たちと高校の高橋信教論は、大東亜戦争末期の新聞に「慰安婦募集広告」が出ているのを見つけることはできましたが、朝鮮人の強制連行を示す有力な資料を入手することはできなかったのです。

一方、「極東亜細亜研究所~韓国系企業の元社員が語る韓国」を主宰される杉野洋明氏は、当時の朝鮮半島では未成年の人身売買が至る所ではびこり、警察が取り締まりを厳重に行っていたこと。人身売買は養父や実父によるもの第三者によるもので、一部警察の名前を騙って人身売買を行っていたことなどを、当時の新聞記事で証明されています。

ネット上に出ている様々な資料には「強制連行があった村や町の名前」や、「1990年代以前の韓国の記録で慰安婦強制連行を記載した資料」は見当たりません。慰安婦を強制連行するために必要な組織、人員、設備、費用に関する記録も見当たりません

東京大学薬学部の池谷裕二教授は「韓国人は文化的に感情の表現を表に出します。例えば泣き方一つとっても、日本人はシクシク泣き、韓国人は道端でも大声でワーッと泣きます。これは文化的な違いで、私達から見ると凄くオーバーアクションに見えますが韓国人にとっては当たり前のことで、感情を表に出して皆で共有する文化なのです。」と述べています。

誰にも見られずに多数の人を連行するのは不可能ですし、娘・妻・母・姉・妹が日本軍にさらわれたという人の記録もありません。多数の女性がさらわれたら暴動が起きたはずですが、20万人もが強制連行されて沈黙しているというのは不自然です。抗議活動の新聞記事は一件も見当たりません

当時の朝鮮の警察官や役人の大半は朝鮮人でした。その方々より強制連行実行者の証言も見当たりません。日本の当局は悪質な売春業者を取り締まっていましたし、日韓基本条約の時にも議論されていません

元慰安婦の誰一人として、軍に強制連行されたことをはっきりと証言している人はいません。荒唐無稽な話の中でそれに近いことを言っていても、明確に強制されたことを証明できる証言は皆無なのです。

西村力氏の著作「よくわかる慰安婦問題」から、「この問題に闇がある(朝鮮人女衒の存在)」の冒頭部分を引用しました。

私がソウルであったある韓国人記者は、「自分はこの問題についてこれ以上書かない」と言った。「それはどういうことですか」と尋ねると、「もと慰安婦の女性にかなり取材をしてきた。ところが彼女たちは慰安所に入れられてからの悲惨な生活についてはよくしゃべるのだが、しかし連れて行かれる過程になるととたんに口ごもることが多い。それで追求していくと、どうも女衒(ぜげん)がからんでいるらしういことがわかってきた」とのことだった。

よくわかる慰安婦問題

私が「女衒って日本人ですか」と聞くと、「あんたね、日帝時代朝鮮の田舎に、日本人が入っていけると思いますか」というのである。つまり、取材を重ねるにつれ、朝鮮人の女衒が関与し、身売りとして売られていったという人たちなのだということがだんだんわかってきたと言うのだ。

そして彼は言うのだった。「当初、取材を始めたときには、日本というのは、ほんとうにひどいことをやったと思ったけど、取材を続けるうちにどこの国でも、戦争になったらあるのだろうなというふうに、今は思っている。」と語った。そして、ぼそっと、「この問題には闇がある」と言った。

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  3-2-4 慰安婦の実態

 陸軍省兵務局兵務課の副官の通達

防衛庁防衛研究所図書館に、陸軍省兵務局兵務課の副官が北支・中支の軍に出した通達「軍慰安所 従業婦募集ニ関スル件」が所蔵されています。

「軍慰安所 従業婦等 募集に関する件」 陸支密 副官より北支方面軍 及 中支派遣軍 参謀参謀長宛 通牒案
 支那事変に於ける慰安所設置の為、内地に於てこれが従業婦等を募集するにあたり、故(いたず)らに軍部諒解等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ かつ 一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、あるいは従軍記者・慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題を惹起する虞(おそれ)のあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選の適切を欠き、為に募集の方法・誘拐に類し警察当局に検挙・取調を受くるものある等、注意を要するもの少なからざるに就ては将来これらの募集等にあたりては、派遣軍において統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施にあたりては、関係地方の憲兵および当局との連携を密にし、もって軍の威信保持上、並に社会問題上、遺漏なきよう配慮あいなりたく、その依命通牒す。  陸支密 第745号 昭和拾参年 参月四日

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 相川平松氏の手記

2007年6月号の「財界にいがた」に、元日本軍憲兵の相川平松氏の手記が掲載されています。

休日ともなると、慰安婦たちが営門のそばや沿道にきて兵隊たちを待っている。兵隊がやってくると、慰安婦たちはいそいそと近づき、袖を引いて慰安所に連れていく。むしろ慰安婦側で店を構えて、日本軍を待っていたというのが実態である。

慰安婦たちもカネを貯めて、郷里の家族に仕送りをしていた。おかげで慰安婦たちの実家が裕福になったという話を御用商人から聞いたことがある。

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 文玉珠さんの請求

1992年3月、名乗りでた元慰安婦という文玉珠さんの訪日記事が新聞に掲載されました。文玉珠さんは1942年から1944年までの2年間をビルマで慰安婦として生活し、その間に軍人から貰った現金などを現地部隊の軍事郵便局に預けました。この「貯金を払い戻してほしい」と下関郵便局に請求しました。

郵便局の調査で軍事預金の原簿が発見され、12回の貯金記録で残高は26,145円となっていました。貯金した当時は家が一軒5千円ですから、文玉珠さんの貯金は家を五軒買える金額となります。

強制連行された保証をと日本政府を相手に裁判を起こしている元慰安婦の一人が、2年3ヶ月間で家を五軒買える大金を手にしていたのです。しかしマスコミは、1965年の韓国政府との協定で個人の請求権消滅を確認し、韓国政府が保証することになっていることを報道しません

1992年7月に韓国人学者の聞き取り調査で文玉珠さんは「北京で軍人に暴力的に連行された」と話されていますが、1991年12月に裁判所に提出した訴状にはそのようなことは記載されていません。時間経過に伴い証言内容が変化しているのです。

 ゴードン・トーマス氏の手記

ミツジのブログで紹介されている、南太平洋のニューブリテン島ラバウルで日本軍の捕虜となった、雑誌の編集者兼記者ゴードン・トーマス氏(オーストラリア国籍)が終戦後に清書して出版された「ラバウルの囚人」から引用しました。

船は朝鮮人の女性たちを運んできた。華やかな着物姿、飾りをつけたヘアスタイルで、カポカポと下駄を鳴らしてラバウルの囚人歩く彼女たちは輝いていた。200人以上の慰安婦である。小さくて、おしゃべりで、笑いながら子供のようにはしゃいでいた。実際、その多くはほとんど子供みたいなものだった。

興味深いのは、ニューブリテン島に最初の部隊が上陸して24時間後には、1軒の慰安所が北岸でフル稼働していたことである。日本軍部隊が上陸して3週間後には、小さな女性たちは3千人以上になり、10万の部隊の要求を満たすため、全力で奉仕していた。

この全文を読まれたミツジさんはブログの中で「少女というのは、白人から見れば、アジア人の成人女性が単に子供に見えただけの話なのかもしれない。」と述べています。また、読み進めていくと、中国人街の慰安所で起きた朝鮮の女性たちの乱闘劇の描写は明らかに大人の喧嘩であることが分かります。

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 日本人捕虜尋問報告 第49号

日本人捕虜尋問報告第49号は、1944年8月10日にビルマのレド捕虜収容所で朝鮮人慰安婦20名に対して行われた、アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属アメリカ戦時情報局心理作戦班による尋問の結果です。YAHOO!知恵袋から邦訳を引用しました。ありがとうございます。

尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。

ミッチナでは慰安婦たちは、通常個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。

彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された

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慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1 兵    午前10時~午後5時 1円50銭  20分~30分
 2 下士官  午後5時~午後9時  3円     30分~40分
 3 将校   午後9時~午前0時  5円     30分~40分
以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。

兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった

「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60%を受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。

この証言から、慰安所の楼主の搾取がいかにひどいものであったかが分かります。

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1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった

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 米政府の慰安婦問題調査

2014年11月27日の産経新聞に「米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに」という記事が掲載されました。YAHOO!知恵袋から邦訳を引用しました。ありがとうございます。

米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。

米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された

調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。

日本に関する文書の点検基準の一つとして、「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。

ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは「20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした」という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。(産経新聞ワシントン駐在客員特派員・古森義久)

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 マイケル・ヨン氏の主張

ケント・ギルバート氏のブログ「知ってるつもり」に、「マイケル・ヨン氏の記事とその日本語訳」が掲載されています。記事の題名は下記のような衝撃的なもので、主要な部分を引用させていただきました。ありがとうございます。

  n-Korea: Were Korean Men Cowards during World War II?
  日韓問題:第二次世界大戦中、韓国人男性が臆病者だったとでも言うつもりか?

第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍が20万人もの韓国人女性を強制連行して、性奴隷(慰安婦)にしたという疑惑について、裏付けの取れない主張が現在も拡大し続けている。それらは主に韓国からの主張である。

慰安婦たちの主張を裏付ける証拠を求めて、米政府は3千万ドル(30億円超)の費用を掛けて調査を行った。約7年の歳月を掛けて、大勢の米政府職員や歴史学者が過去の公文書を徹底的に調査した結果、有力な証拠は何一つ見つからなかった。結局3千万ドルが無駄に費やされた。

日本軍には韓国人の兵士がたくさんいた。だから日本軍が20万人の女性を強制連行したのであれば、韓国人兵士が韓国人女性の強制連行に加担していたことになる。これはやっかいな現実である。しかし、もっとややこしくなる。

朴大統領は日本が数10万人の韓国女性を、性奴隷にするために強制連行したと言うが、彼女の父親はその当時、日本軍の陸軍将校だったのだ。しかも韓国人男性が日本軍の行為に反抗して戦ったという証拠は何も残っていない

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テキサス州の女性を20万人強制連行しようとしたら何が起きるだろうか。きっと辺りは血の海に染まるだろう。その目的に動員された軍隊は何千人もの兵士を失うし、その報復として何千人もの市民が軍隊に虐殺されることは間違いない。

その場所には証拠がいくらでも残るだろう。写真、動画、戦闘の痕跡など。テキサスで20万人の女性を奪ってレイプしようとしたら、辺りは間違いなく血の海になる(しかし韓国にはそのような痕跡が無い)。つまり朴大統領の話は必然的に、第二次世界大戦中の韓国人男性は、臆病者の集団だったと言っていることになってしまうのだ

この件について日本軍の将軍や提督の立場からも考えてみよう。日本は米国、オーストラリア、イギリス、中国、さらに連合国とも戦争している最中である。どう考えても手いっぱいのはずだ。特に米国は海軍と海兵隊が進軍し、日本兵を見つけ次第どこであろうと攻撃していたのである。

20万人の女性を強制連行して、彼女たちを監視し、移動させ、食べさせる目的に経営資源を費やす将軍がいるとすれば、どんな種類の馬鹿なんだろうか。わざわざもう一つの戦争を作っているようなものだと気付くはずだと思うが?

米軍と連合軍の攻撃がのど元まで迫ってきているのに、日本軍の将軍たちが貴重な資源を女性の強制連行に費やすはずが無い。彼らは戦争の真っ最中だった。春休み中だったわけではない。

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真面目な軍人やビジネスマンであれば、20万人の女性を強制連行することの愚かさが常識として分かるだろう。全く馬鹿げているし、そんなことをしたら朝鮮半島内で新しい戦争を生み出してしまう。朝鮮半島(韓国)は日本の陣地である。そして、韓国人は米国人を相手に戦争をしていたのだ。韓国人は我々(米国人)の敵だったのである

韓国人男性の話に戻ろう。米陸軍が20万人のテキサス女性を強制連行しようとすれば、惨劇になるだろう。特に、軍人の中に多くのテキサス男が含まれていたとしたらどうなるだろうか。多くの韓国人男性が日本兵に含まれていたのと同じように。

テキサス男は立ち上がり、米陸軍を攻撃するだろう。橋は爆破される。兵士たちは毎日射殺される。基地は燃やされる。陸軍側も報復して全面戦争になるはずだ。

ということは、韓国人男性は、韓国人女性を守ろうとこぶしを振り上げる人間が一人もいないほど、臆病者なのだと我々は信じればいいのか? 数多くの女性が強制連行されるのを黙って許したのであれば、確かに韓国人男性は臆病者であり、その息子である現代の韓国人男性は、臆病者の父親を持っていることになる

全部が嘘だったのだ。誰かがどれだけ日本を憎んでいようとも関係が無い。嘘は嘘であることに変わりはない。

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 3-3 恥ずかしい無法者たち

しかし、すべての日本人が称賛に値するわけではありません。当然非難されるべき人々も多数いました。アメリカのキリスト教至上主義者でジャーナリストのH・B・ハルバート氏は、著書「朝鮮亡滅」に明確な例を挙げて日本人の不法行為を非難する記録を残しています。

日本軍隊は中間階級上層の出身の人間からなる。下層の出身者は、日本軍隊ではやっていけないのである。周知のごとく、日本軍兵士の出身階層は、他のどの国の場合より高い。日本軍兵士は昔ながらの武士精神の権化で、下層階級とは一線を画している。まさにこの理由にもとづき、日本軍が撤退し、そのあとから数千人となく一旗組やがりがり亡者が流れ込んできてからの朝鮮は、様相が一変したのである。(p.273)

日本軍兵による不法行為はほとんどなく、朝鮮民衆が旧来の日本人への疑惑を捨てて、日本軍兵を新しい幸福な使者として受け入れたのも、無朝鮮亡滅理はない。したがって、下層の日本人が群れを成して流入しはじめ、勇武の日本軍隊の威光をかさにきて、朝鮮人を人間の屑のように見下し、ありとあらゆる蛮行をはじめるにいたって、大きな反動が起こらざるを得ないのは避けるべくもない。(p.273)

戦争が終わり、悪質な日本人を適宜取り締まれるだけの法律機構をもうけるための応急措置を講じるまで、日本政府がなぜこうした渡朝日本人の波を抑えなかったのかなんとも説明しがたい。(p.273)

はたして朝鮮人が日本人のためにひどい目にあったというはきりとした証拠があるかどうか、この点は十分吟味の必要がある。以下に紹介するのは、私のほかソウルその他朝鮮各地在留アメリカ人が現に見聞きしたいくつかの事例であり十分検討に値する。(p.273)

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アメリカ紳士が鉄道駅のプラットホームにいると、おりしも二十人ばかりの日本人が汽車到着を待っていた。そこに一人の朝鮮老人が杖を引きながら上がってきた。興ありげにあたりを見回した。いままで鉄道というものを見たことがなかったのであろうか。ところが上半身をむき出しにした日本人鉄道員がその老人のあごひげをつかむなり、プラットホームの上に強く突き倒した。老人はやっと立ち上がり、杖を拾ってその場から立ち去ろうとした。するとこんどは、その日本人は老人をプラットホームのレールの上に突き落として、仲間と一緒にあれな格好を笑った。当時の在朝日本人はみな、軽い冗談のつもりでこんなことを平気でするのが普通だったのは、間違いない。老人はひどい怪我をして、立つこともおぼつかなかったが、連れの何人かの朝鮮人が助け起こしてその場を離れた。(p.274)

一朝鮮人が、日本貨と変えようと思ってなにがしかの朝鮮貨をもって上京した。彼は大きな日本人両替商のところに、朝鮮貨の現金を預け、代わりに持参人一時払いの手形を受け取った。二日後その手形を現金にかえてもらおうと思ってやってくると、両替商はすでに手形は支払い済みだが、混雑に紛れてその手形の現物を返してもらわなかった、という。朝鮮人は日本の関係当局に三度にわたってこの一件を持ち込んだが、その都度突っ返され、一外国人の援助のおかげでやっと一件を取り上げてもらうことができたが、外国人の力を借りるのは怪しからんといたく叱責された。しかし、金はどうやら無事に戻ったのである。(p.275)

一朝鮮人が、日本人がさる事務所を高い値段で買い取り、その引き取りに行ってみると前の持ち主からそれを賃貸していた日本人店子は、他に行き場所がないという理由でそこを引き払うのを拒んだ。新しい持ち主は、この事件の解決を何度も日本当局に持ち出したが、一向にはかどらず、外国人が間に入って解決を強く迫ってから、やっと日本当局はおくればせながら法律的処分の措置をとったのである。(p.275)

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日本の最高首脳がどれほどよい意図を抱いていようと、肝心の出先機関がその意図を忠実に遂行しようと思っていないということが、禍の元なのである。(p.276)

ソウル市内では、日本領事館のすぐそばに住む一人の朝鮮人寡婦が、筆者の家にやってきて、自分の家を5セントで買って筆者の名の表札を出してほしいと頼むのである。そのわけを聞いてみると、隣に住む日本人に半額で家を売らなければ、家を爆破しておまえをその下敷きにしてやるぞ、といっておどかされているのだ。何人かの朝鮮人が言葉少なに語る所によれば、時折、素っ裸になった日本人が朝鮮人の家に押し入ってきて、女たちを死ぬほどおびえさせるのは、ただ、家の持ち主に、どんな値段でもいいから、こんな家は早く売ってしまったほうが身のためだと思わせるのが目的なのだそうである。(p.280)

強姦の記録がないのは幸いですが、このような無法者が現在も存在するのは事実です。同じ教育を受けても、心許ない親の背中を見続ける家庭環境やその者を取り巻く環境が自己中心の無法者を生み出してしまうのでしょう。心の貧しい人たちが周囲の人々を辱め、日本民族や日本の信用を失墜させてしまうのも悲しい現実です

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 3-4 敗戦時の苦悩

  3-4-1 引揚者の苦難

ウィリアム・ニンモ氏の著書「検証・シベリア抑留(加藤隆訳、時事通信社)」には、連合軍最高司令官の幕僚が受け取った手紙の抜粋が掲載されています。

満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は口ではいい表せないほどひどいものだった。暴行と強奪は日常的だった。検証シベリア抑留そして残虐な行為を犯した。…とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、抵抗するものは片っぱしから殺した。

ソ連軍が初めて国境を超え、満州に侵入した時、まず日本人の開拓民ほか一般人を攻撃したが、男たちは略奪品やお金を一緒に連れ去り、女たちもまた連れ去って、子どもたちだけが残された。ロシア人が日本の女にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった

暗くなるのを待つようにして、ソ連兵は婦女暴行と略奪目当てに街へ繰り出した。植えたオオカミの群れのように、位通りを夜明け頃までうろつき周り、民家や店に押し入っては、食べ物と酒、そして女を略奪していった

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若槻泰雄氏の著作「戦後引揚げの記録 新版(時事通信社)」の125ページには次のように掲載されています。

ソ連兵の日本婦人への暴行はすさまじいの一語に尽きる。それが12~3歳の少女であろうと、70歳近い老婆であろうと、そして、人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、そういうことは全く頓着しなかった。

樺太の場合同様に、女性たちは丸坊主になり顔に墨をぬり男装して難を逃れようとしたが、彼らは一人ひとり胸を触って女であることを確かめると引き立てていった。

もとより日本女性のすべてが易々諾々とソ連兵の毒牙に身を任せたわけでない。凌辱に耐えかねて死をもって抗議する若い夫人、暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた

敦化の日満パルプの社宅で、ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、170人の婦女子全員を独身寮に監禁し夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際23人の女性は一斉に青酸カリによって自殺している

たまたま、けがのため新京の病院に入院していた平本直行という男性はその経験を次のように綴っています。

病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板をくくりつけた足をひきずりながら、玄関に出て見て驚いた。12~3の少女から20ぐらいの娘が10名程タンカに載せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることのできる姿ではなかった。戦後引揚者の記録

その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子どもの恥部は紫にはれ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞き取れない。次の女性はモンペだけをはぎ取られて下(しも)の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。

次の少女は乳房を切り取られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。

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木村秀明氏の著書「ある戦後史の序章ーMRU引揚医療の記録ー(西日本図書館コンサルタント協会)」に、京城帝国大学医学部の日本人教授らと共に避難民の救助活動を行っていた医学部生、石田一郎氏の手記が紹介されています。MRUは、 Mwdical Relied Union の略称です。

北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦の末、やっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達も同じ運命を辿るであろうことを不憫に思い、近くの林の中の松の木に縊(くび)って自決させ、これはその遺髪です、といって私に見せてくれた。もう涙も涸れたのか淡々と他人事のように語る表情の中に私は深い悲しみを見た。

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  3-4-2 水子の供養

1946年に入ると、一割近い女性がソ連人や朝鮮人に暴行を受けて妊娠したり、性病に冒されて帰国し、先行きを悲観して引き揚げ船から身を投げることも多かったと伝えられます。

そのような女性たちを救うべく、民間組織である在外同胞援護会救療部が、厚生省引揚援護局の協力を得て「二日市保養所」という施設を福岡県二日市町(現・筑紫野市)につくりました。当時、堕胎は罪でしたたが、厚生省はこの施設に限って超法規的処置として「強姦によって身ごもった女性の堕胎手術を黙認しました。

二日市保養所の医務主任である橋爪将氏が作成した1946年6月10日付の部外秘の現状報告書には、一保養所の限られた期間だけでも次のように記録されています。

不法妊娠ヲ地区別ニ分類スルニ北鮮二十四ニシテ最多、南鮮十四、満州四、北支三ノ順ニシテ鮮人ニ因ルモノ二十八、ソ連人ニ因ルモノ八、支那人ニ因ルモノ六、米人ニ因ルモノ三、台湾人比島人ニ因ルモノ各一ナリ。
 強姦した者は、朝鮮人28名、ソ連人8名、支那人6名、米国3人、台湾及びフィリピン人が各1名

二日市保養所母子像堂1947年の二日市保養所の閉鎖までに堕胎手術件数は500件を数え、三ヶ所の施設で約1000件にも及びました。堕胎をすれば小さな骸が残されます。事情が事情ですからお墓を建てるわけにもいかず、雑用係であった初老の男性が建物の近くに埋葬しました。その位置に保養所母子堂が建立されています。

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  3-4-3 どんなことがあったのか

日系米国人作家ヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんの著作「竹林はるか遠く(ハート出版)」は、終戦時に家族とともに朝鮮半島を縦断した決死の体験記です。アメリカで優良図書に選ばれ、中学校の教材として多くの学校で使用されていました。しかし、韓国人や韓国系アメリカ人がこの本の内容に反発し、事実無根と教材使用禁止運動を繰り広げました

竹林はるか遠く著者のヨーコさんは、日本女性に対して見境ない状況で強姦する現場を何度となく目撃していました。共産軍(朝鮮人保安隊のことらしい)は、日本人だけでなく反共産主義者とみなせば朝鮮人でも殺すという有様でした
 一方、金属供出で自宅に来た日本憲兵はヨーコさんを足蹴にして怪我を負わせました。ヨーコさんたちの荷物を盗もうとした日本人引揚者もいました。

建物の端に六つの便所があったが、ドアもなく男女の区別もなかった。私達の前にいた女性がまどいながらズボンとパンツを下ろしてしゃがみこんだ。私は彼女を見ないように目をそらし、母が来て女の人の前に立ってなるべく見えないようにしてあげた。彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。ふりかえると、烈の終わりで朝鮮人の男、四人が彼女を捕まえていた。だが、自分たちも危ないので、私も母も何もできなかった。(p.117)

その日は悪夢のようだった。独立を祝いながら、酔った朝鮮人が私達の周りに来た。一人が前後にふらつきながら好に執拗に迫った。「お前は男か女か」「男だ」と好は答えた。「女の声のようだ。触らせろ」「触ってみろ」好は言い返した。私はどんなに、誰か助けに来てくれないかと祈っただろう。しかし、他の人々は朝鮮人をこれ以上怒らせると、倉庫ごと中にいる日本人を焼き払うかもしれないと恐れていたので、誰もそういった若い女性たちを助けようとはしなかった。酔った朝鮮人は大きな手を好の胸に当てた。「平らだ」彼はいった。「男に興味がない」。男たち集団は去ったが、彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘達を見つけるたびに外へ引きずり出した。たびたび女たちの悲鳴が響いた。(P.118)

小さな小川で水を飲もうと立ち止まった時、私は泣き叫ぶ声を聞いた。草むらの中で女性の上に乗った朝鮮人がいた。彼女は思いっきり男を蹴飛ばしながら、金切り声を上げていた。私の膝が震え始めた。(P.119)

ヨーコさん兄の淑世(ひでよ)さんが出会った優しい朝鮮人一家がいました。何度も死に直面しながら逃避行を続けた淑世さんは、一人で雪の中に行き倒れになったところを金さん一家に助けられます。日本人を匿っているのが解れば、自分たちも殺されるかもしれないというのに助けてくれたのです

竹林はるか遠くは思想的に全く色のついていない内容で、幼かった自分と家族が体験したことを日記風に淡々と綴っています。日本を美化したり、朝鮮人を特に悪く書いてもいません。しかし、都合の悪い史実が書かれているからと韓国で発売禁止となり、今なお自分たちだけが被害者であるかのような主張をするのはいかがなものでしょう

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 3-5 日本の戦後処理

ミツジのブログで紹介されている「決着済みの歴史」で、ワルシャワ大学のアンジェイ・コズロフスキー氏は次のように述べています。

天皇の降伏決定を知ってからは、かれらは模範的に軍律を守って行動している。外交官でもあり、インドネシアのサンファレで捕虜となっていたある英軍海軍将校は、自分たち捕虜は、連合軍が上陸した場合には自ら墓場となるべき塹壕を掘らせたが、しかし、突然配給食が増え、収容所の司令官が将校たちに英語で次のようにいったと記述している。
  みなさん、天皇陛下はこれ以上流血を避けるために戦争は終わるべき
 だと決心されました。みなさん、あなたがたは自由です。次回はわれわ
 れが勝ちます。
と。捕虜収容所の何人かの監視員は裁判にかけられ絞首刑になった。証拠を隠蔽しようとする試みは全くなかったのである。

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  3-5-1 韓国への対応

1965年6月22日に日韓両国は、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結びました。この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、無償資金と借款を援助することを約束し、韓国は対日請求権(相手国家に対する個別請求権)を放棄することに合意しました。

大韓民国に対し、三億合衆国ドル(当時の日本円で1,080億円)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたつて無償で供与するものとする。

現在において2億合衆国ドル(当時の日本円で720億円)に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けを10年の期間にわたつて行なうものとする。

両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に、すべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。

また、朝鮮半島から流出した文化財の返還問題については、返還する国際法の義務はありませんが、韓国の文化問題に関して誠意をもって協力するということで1,321点の文化財を引き渡しています

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  3-5-2 アジア女性基金への協力

日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきました。アジア女性基金の、フィリピン、韓国、台湾における償い事業は平成14年9月までに終了しました。また、アジア女性基金は、オランダ及びインドネシアにおいてもそれぞれ国情に応じた事業を実施しており、オランダにおける事業は2001年(平成13年)7月に、また、インドネシアにおける事業は2007(平成19)年3月にそれぞれ終了しました。

  3-5-3 インドネシア

日本政府は、日本国民の償いの気持ちを表すためにインドネシアにおいてどのような事業を行うのが最もふさわしいかにつき検討してきましたが、インドネシア政府が元慰安婦個人を対象とした事業ではなく、同国政府から提案のあった高齢者社会福祉推進事業に対し、日本政府からの拠出金を原資として10年間で総額約3億7千万円規模の支援を行うこととしてインドネシア政府との間で覚書が交わされました

  3-5-4 オランダ

オランダにおいては元慰安婦の方々の認定が行われていないことを踏まえ、日本政府はアジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すために如何なる事業を行うのがふさわしいかにつきオランダ側の関係者と協議しつつ検討してきました。

アジア女性基金とオランダ事業実施委員会との間で覚書に基づき、日本政府からの拠出金を原資として、同委員会に対し3年間で総額約2億5千万円規模の財政的支援を行うこととし、この事業は2001(平成13)年7月14日に終了しました

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  3-5-5 歴史の教訓とする事業

アジア女性基金は、このような問題が二度と繰り返されることのないよう歴史の教訓として未来に引き継いでいくべく、日本政府と協力しつつ慰安婦問題に関連する資料の収集と整理等を行いました。

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 3-6 各国兵士の性処理

名越二荒之助氏がおっしゃるように、「戦場は異常心理が支配するところであることも知らなければ人間性の複雑性は理解できない。戦場では誰もが明日を知れぬ命であり、かつ屈強な若者の世界である。人間の本能が野獣のように働く場所」です。

日本の考え方は、外地に進駐した軍隊が現地の女性を強姦したら一挙に現地の信頼を失います。軍をあずかる指揮官は、必要悪を承知のうえで性本能を処理する慰安所などの配慮をしなければならないというものでした

西洋人はレイプを自由恋愛と表現し、国によって対応は異なりました。米当局は公には売春を非難しますが、それを防止するための対策はほとんどとらず、米軍の駐屯地では兵士が利用可能な商業性サービスを持つことを望んでいました。

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  3-6-1 アメリカ軍の性処理(仏蘭西)

米ウィスコンシン大学のメアリー・ルイーズ・ロバーツ教授(歴史学)の「兵士とセックス 第二次世界大戦中下のフランスで米兵はなにをしたのか?(明石書店)」は、戦後約70年たったいま「フランス側から見た実態」を明らかにすることによりノルマンディー上陸作戦を捉え直す目的で、米仏で膨大な量の第2次大戦中の資料を研究してまとめた著作です。

米兵たちは、ノルマンディーの人々から「性のアバンチュール」を求めてやってきた、セックスに飢えた荒くれ者と見られていた。米メディアがノルマンディーに上陸した米兵について、キスをする米兵と若いフランス兵士とセックス女性の写真を掲載するなどロマンチックな視点で解放者として描いていた間、地元の人々は「問題」に直面していた。地元には「ドイツ人を見て隠れるのは男たちだったが、米兵の場合は女たちを隠さねばならなかった」という話が伝わっているという。

米兵たちの放蕩ぶり、不法行為、さらには組織的な人種差別などもあった。特に、ルアーブルやシェルブールでは、米兵たちのマナーの悪さが目立ったという。米兵たちは、女性を見れば既婚女性でさえ公然とセックスに誘い、公園、爆撃を受けて廃墟と化した建物、墓地、線路の上など、街中いたるところが性行為の場となった。しかし、全てが両者の合意のもとで行われたわけではなく、米兵によるレイプの報告も数100件残されている

資料によれば「セックスをしている男女を見かけずに街を歩くことは不可能」なほどで、当時のルアーブル市長が米駐留部隊の司令官に改善を求めたと記されていた。米軍の上官らは兵士たちの行為について公式な非難声明は出したが、改善の努力はしなかったという。

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  3-6-2 アメリカ軍の性処理(日本)

アメリカ軍は軍人の性処理のための慰安所を設置せず、自由恋愛という美名のもとで占領地や駐留地の犠牲を黙認しました。但し、植民地フィリピンで導入した公娼制度で児童買春の実態が明らかにされ、調査者と裏取引を行って米軍慰安所を存続させています。

以下は、ウィキペディアの「特殊慰安施設協会」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。

日本を占領するアメリカ軍は公娼制度を認めず、慰安所を置かないことが判明していました。イギリス軍やオーストラリア軍も大量の将兵を占領任務に当てることから、これらの連合国軍兵士による日本の一般女性に対する強姦事件が予測されます。

連合国軍が日本へ進駐した最初の10日間、神奈川県下で1,336件の強姦事件が発生しました。8月17日に成立した東久邇内閣は「日本の婦女子の操が進駐軍兵士らに汚される恐れがある。性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい」とし、特殊慰安施設協会を設立して「連合軍兵士専用の慰安所」の設営を決断しました。

日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」を募集し、総計55千人が応募しました。しかし、仕事の内容が外人専門の慰安婦であると聞いて、多くの女性は去ったと云われます。戦時中の慰安婦と違う点は、仲介業者を通さず広告に応募した一般女性たちに慰安婦を依頼したことです。

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1945年8月28日、9月に開業予定の大森海岸小町園慰安所にマシンガンで武装したアメリカ軍兵士達が乗り込み、すべての慰安婦たちを強姦しました。横浜の慰安所では100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日に乗り込み、慰安婦14名を輪姦して翌日抵抗した慰安婦を絞殺するという事件が起きました。

開業後の慰安所では、どの部屋からも男たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が聞こえ、精神を患う慰安婦、自殺する慰安婦も少なくなかったそうです。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦されました。武蔵野市では小学生が集団強姦され、病院に2~300人の米兵が侵入して妊婦や看護婦らが強姦されました。しかし、GHQのプレスコードの発令後はこのような報道はできなくなりました

占領軍は「連合軍兵士専用の慰安所」だけでは満足できず、9月28日にGHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が、占領軍用の女性を世話してくれと要求しました。また、連合国軍の女性兵士用の「慰安夫」も設営され、松坂屋近くの木造アパートに数名の男性に1人一室が与えられ、半年間特定の女性伍長の専属になりました。

1946年に当時のアメリカ大統領夫人、エレノア・ルーズベルトの反対で特殊慰安施設は廃止されました。必要悪は赤線経営者の組合組織に変更して存続し、職を失った女性の中にはパンパンと呼ばれる街娼になったり、風俗街に移動したものもいました。

特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均40件ありました。特殊慰安施設協会が廃止された後の、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均330件でした。連合国軍から日本女性の純潔を守ることは不可能でした

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  3-6-3 イギリス軍の性処理

以下は、ウィキペディアの「慰安所」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。

第二次世界大戦中のイギリス軍は軍公認の慰安所を設置せず、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認しました。

1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査で、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14~18歳でした。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在していました。主に売春婦はカーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいいました。

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  3-6-4 フランス軍の性処理

以下は、ウィキペディアの「慰安所」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。

フランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があり、第一次世界大戦・第二次世界大戦・インドシナ戦争、アルジェリア戦争の際に存在しました。慰安婦には北アフリカ出身者が多く、現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされました。

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  3-6-5 ソ連軍の性処理

ソ連兵は侵攻した地域で略奪や凌辱を繰り返し、軍は兵士の行動を黙認していました。中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書「1945年満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略(朱建栄訳、三五館)」の222頁~225頁で次のように記録しています。

ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた

特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。1945年満州進軍

ソ連軍は自ら非公式に次のように背景を説明した。ドイツとの激しい戦争で大量の死傷者を出し、兵力補給の不足を来たし、戦争後期、多くの刑事犯も軍隊に補給した。そのため軍紀の引き締めが十分にできず、悪質者を一部銃殺して何とか規律を維持しているという。この説明の内容は事実かも知れないが、ソ連軍首脳部が軍中の非行者とその行為を真剣に取り締まらず、事実上、野放しにしたことの責任は逃れられない

ファシストに対する敵愾心をもって兵士の非行を説明し、中国を敗戦国のドイツに譬えたことは、八路軍の将兵の中で憤りを引き起こした。仮に敗戦国だったにせよ、無辜な一般市民に狭量な民族報復を働いていいということにはなるまい。異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、なおさら政治の堕落だ。

ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する教育を怠ったのだろう。

ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と強奪事件を起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。

ソ連軍がドイッの東部を占領した後も、強奪と暴行を繰り返し、ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイッ政権なのに、統治の基盤が不安定だったのはそれが一因でもあった。

ソ連の女性革命家であり政治家だったアレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイ女史は「性の唯物論」を唱え、「男女を取り替えるのはコップを取り替えるようなもので洗ってから使えば良い」というのもので、男女の乱交が流行しました。この影響を受けて、

ソ連軍は慰安婦に対する配慮をしていなかったため、終戦間際に満州や北朝鮮に侵攻してきたときに手当たり次第に女性を襲いました。当時満州に在留していた日本女性たちは身を守るために頭を坊主にして顔に墨を塗り、ズボンをはいて男性に変装しましたが、梅毒を移されたり妊娠させられたりするに犠牲者が続出しました。妊娠した女性は下関上陸時に、マル秘で堕胎の手術を受けるという悲劇が生まれました。

満州帝国の首都新京(長春)の長春第二病院に、侵攻してきたソ連軍が看護婦の派遣を要請してきました。婦長は要請に答えて三名の看護婦を派遣しました。要請に三度答えましたが誰一人戻ってきません。彼女たちは傷病者の看護ではなく、ソ連兵の慰安婦にさせられていました。これが判明した後の四回目の派遣要請時に、残りの看護婦22名は集団自決で抗議をしました

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  3-6-6 ドイツ軍の性処理

以下は、ウィキペディアの「慰安所」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。

1939年にドイツ政府は、軍人の健康を守るために街娼を禁止しました。売春宿を警察の管理下において衛生上の監督をさせ、さらに1940年には性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止しました。

ヒトラーは「性病の蔓延は民族の没落の現れ」とみなしたため、ナチスドイツはドイツ国内および占領地でも売春を徹底的に管理し、路上客引きを禁止して民間の売春宿は警察と保健所の監督下に置きました。

ドイツ軍が1904年にフランス人の売春婦を使って官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を連行して慰安婦にしたと伝えられます。また、オーストリア、ドイツ、ポーランドの強制収容所などに13の強制売春施設を建設し、そのうち9ヶ所が囚人専用、4ヶ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用とされています。

ミツジのブログにリンクされているワルシャワ大学のアンジェイ・コズロフスキー氏は「戦争犯罪-ドイツ対日本」で、「日本政府はその慰安婦制度について謝罪したが、ドイツが謝罪したことはなく、いかなる元国防軍売春婦へも補償金を支払ったことはない。」としています。

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  3-6-7 中国人民解放軍などの性処理

中国瀋陽市生まれで日本に帰化したジャーナリストの鳴霞(メイカ)さんは、元中国共産党員で近畿福祉大学の中国語講師をされていました。 YouTube の「80万人の中国共産党慰安婦」動画で次のように述べています。

実は、中国共産党と人民解放軍の慰安婦は80何万人もいます。今から鳴霞さん10数年前にフランスの専門家が80年代の中国の慰安婦の調査をしました。人民解放軍の兵士たちは独身ばかりで結婚相手が欲しかった。(地方の共産党員や人民解放軍に嫁ぐと)僻地で農作業をしたりすることになるので女性は誰でも嫁に行きたがらない。

当時の15歳から20歳くらいの都会の若い女性は、農村に下放(一定期間労働)させられていた。これらの若い女性のうち、無理やり強姦されたり慰安婦にさせられた女性が80数万人もいます。強姦未遂の女性たちはあわせて800万人ぐらいいます。

中国共産党は自分たちがやってきたことを隠すために、最近になってから「何十万人もの中国女性が日本軍に慰安婦にさせられた」と言ってきたのです。恥ずかしくないのか。自分の国民を強姦したり、無理やりにどれくらいの中国人の若い女性に、あの時、人口流産をさせたのか。いままで中国政府は一切報道しません。

慰安婦として世界中で一番の被害者は中国人女性です。下放されたこれらの女性たちに対して、中国政府からは今まで何の謝罪もないし賠償もない。病気がちでも何の支援もありません。

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  3-6-8 韓国人の性処理

 年配者にとっては常識

2013年11月7日に韓国の複数メディアは「朴正煕政府が売春女性を慰安婦と呼び管理」と、日本人の年配者なら誰でも知っていることがニュースになりました。

韓国野党・民主党のユ・スンヒ議員は6日に行われた女性家族省の国政監査で、朴正煕時代に国が米軍兵を相手に売春する女性らを直接管理し、女性らを「慰安婦」を呼んでいたことを示す資料を公開した。

国政監査でユ議員は、「米軍慰安婦という言葉を聞いたことがあるか」と発言。「国が(米軍慰安婦を)組織的に主導した証拠がある」と述べ、国家記録院から提出を受けた資料「基地村浄化対策」を発表した。同資料は1977年4月に作成されたもので、表紙に朴正煕大統領の直筆サインがある。

資料には、当時政府が全国62カ所の基地村に9,935人の女性が暮らしていたことを把握し、浄化政策の一環として基地村に専用アパートを建てる計画があったことなどが記されている。当時の被害者の証言によると、専用アパートの建設は、公娼として認めることになるとの論争が起きたことで白紙化したという。

ユ議員は、各地域に基地村の女性を強制的に収容する「性病管理所」があったとし、関連する条例や登記簿謄本を公開した。この中の議政府市の条例改定案には、「国連軍駐屯地域の慰安婦のうち、性別保菌者を検診、探し出して収容治療や保険・教養教育を実施する」との記述があった。

ユ議員は、「基地村の女性に対して“慰安婦”という用語を使用し、強制収容して治療を行っていたことが明らかとなった」と述べた。強制収容治療では性病が完治するまでペニシリン注射が行われ、この過程でペニシリン・ショックを起こして死亡する女性は多かったという。

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1961年1月31日付の東亜日報は「慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われている」ことを報じました。

i慰安婦教養講習の新聞記事東光劇場で伊淡支署主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った。

2004年に韓国で売春が禁止されたときに、大東亜戦争当時満州鉄道に勤務されていた方の息子さんから「慰安婦の教養講習内容」を聞きました。「女性の稼ぐ外貨が韓国の経済発展にいかに大切か」の講義と「外国人客との接し方」の実技などで、講習を終了すると韓国観光公社から「遊興営業所就業証明書」を貰えました。これはホテルに出入りする通行手形で、売春行為の許可書だったそうです

1961年9月14日の東亜日報に「UN軍相対慰安婦13日から登録実施」という記事が掲載されていました。

慰安婦登録実施の記事ソウル市警では市社会局に「国連軍相手慰安婦性病管理士業界」計画によって3日から国連軍相手慰安婦の登録を官下一線署に伝達して実施している。今度の登録対象は「法的婚姻関係がなくただ一人の外国人と同居している女性」国連軍相手慰安婦など。

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 韓国の独立記念館

名越二荒之助氏の著書「日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる(明成社)」に韓国の独立記念館に掲示されている従軍慰安婦4名の写真について次のように説明があります。共に苦労された朝鮮人慰安婦に哀悼の意を表します。(P.668~669)

いま韓国の独立記念館に「従軍慰安婦」コーナーが新設され、そこには「慰安婦」4人の写真が大きく引き伸ばされて飾られています。それはビルマ国境に近い中国大陸の拉孟要塞(1200人、守備隊長金光恵次郎少佐)にまで出かけた朝鮮人慰安婦の姿なのです。

この要塞地帯には、天草出身の日本人15人、朝鮮人5人の計20人の慰安婦がいました。蒋介石軍の最精鋭部隊が攻撃してきたのは、昭和19年5月12日からでした。金光隊長は「民間人(慰安婦)」を道連れにす日韓共鳴二千年史ることが耐えられず、後送するか、投降させることを考えました。しかし彼女たちには将兵との一体感があり、熱い家族気分が育っていたので、全員後送も投降も拒否しました。

拉孟地域には13の陣地があり、それぞれ地下壕で結ばれていました。彼女らは壕を廻って兵を慰め、敵陣に斬込隊が出撃する前には、必ず慰安婦がサービスをしました。150日間に渡る玉砕戦は壮絶で、その戦いぶりを敵の蒋介石総督も「東洋道徳の模範」と讃えたほどです

激戦のさなかには、慰安婦たちは炊事を手伝い、弾薬を運び、戦傷者の手当に当たりました。最後が迫ってくると、弾薬のために失明したT伍長とS嬢は隊長が媒酌人となり、正式に結婚式を上げました。4日後に2人は同じ場所で戦死したのです。

かくして日本人慰安婦15人は、あるいは青酸カリを飲み、あるいは手榴弾をだいて自決しました。日本の慰安婦たちは降伏せず、全員が戦死しましたが、朝鮮人慰安婦5人は投降しました。そのうち4人を占領後米軍が撮影し、その写真がいま独立記念館に掲げられているのです

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 13~4歳に売春を強要

2015年に米国立公文書記録管理局(NARA)の公文書で明らかになりましたが、韓国軍はベトナム人女性を強姦しただけでなく、彼女たちを韓国兵のために設置した「トルコ風呂」(Turkish Bath)という名称の慰安所に集め、韓国兵相手に売春を強要していました。

ベトナム戦争に参戦経験のあるアリゾナ州選出のジョン・マケイン上院議員は著書「戦争の傷あと:ベトナムの慰安婦」で次のように記録しています。

ベトナム戦争時、韓国軍の多くの部隊がベトナム人女性を強姦したり、農民や老人を虐殺するといった残虐行為に手を染め、多くの女性たちが韓国兵のための売春婦として強制的に働かされた

ベトナム戦争中、韓国軍は反共勢力を支援し、自分たちの慰安所設置のため軍の部隊を送り込んだ。当初、韓国兵たちは多くのベトナム人女性を強姦し、その後、慰安所で働くよう強制した

ベトナム戦争に参戦経験のある元米ミネソタ州選出のノーム・コールマン上院議員は、FOXニュースに次のオピニオン記事を投稿しています。

韓国兵は13歳から14歳(の女性)を含む数千人のベトナム女性に対し激しい強姦または性的暴行を行った。そして、強姦されたことによって多くの女性が妊娠・出産し、彼女たちが産んだ混血児が現在、ベトナムには5000人から3万人存在する。

さまざまな資料を調べましたが、日本兵が13歳から14歳の女性が強姦したという記録は見つかりません

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 恥ずかしい現実

朝鮮日報のソク・マヌジュン記者は、2012年6月15日に「性産業輸出大国、韓国の恥ずかしい現実」を掲載しました。

1人当たりの国民所得が2万ドル(約169万円)を突破し、G20(主要20カ国・地域)首脳会議まで開催した韓国が「売春婦輸出国」という汚名を着せられている。専門家はその原因として①海外での韓国人男性の需要、②簡単に金を稼ごうとする女性、③韓国特有の風俗産業の構造―を挙げている。

韓国での売買春の実態


 韓国人女性が海外で売春を行う要因は、何よりも需要があるからだ。海外に移住した韓国人だけでなく、韓国企業の駐在員、出張で訪れる男性たち、観光客などがこうした女性たちの顧客となる。ソウル大学国際大学院のチョン・ジェウォン博士は「韓国社会の飲酒文化に慣れた韓国人男性たちは、海外でも接待女性のいる店に行く。このような需要があるため、女性は売春目的で海外に出ていく」と指摘する。

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韓国人女性が海外に出てまで売春するもう一つの理由は金だ。昨年5月にカナダの売春宿で警察に身柄を拘束された10人の韓国人女性も「短時間でたくさん稼げると聞いて、つい来てしまった」「ヤミ金からの借金を返すためやむなく出国した」と話した。この売春宿を経営していた女性社長(36)は、普段から女性たちに「1カ月に2千万ウォン(約137万円)稼げる」と話していたという。

世界各国に広まる韓国の売春文化


 女性家族部(省に相当)が2007年に実施した実態調査によると、韓国の風俗産業の経済規模はおよそ14兆952億ウォン(現在のレートで約9622億円、以下同じ)と試算されている。これは、この年の国家予算である2399兆ウォン(約16兆円)のおよそ6%に相当する額だ。

調査によると、韓国全土で4万6247カ所の風俗店が営業しており、これらの店で働く女性は26万9707人に達するという。さらに、客となる男性は年間で延べ9395万人に達する。成人男性の数を2千万人と考えると、韓国では1人の成人男性が1年に5回近く風俗店を利用していることになる

「米国で売春を行う外国人女性の国籍(推定)と韓国での売買春の実態」、「世界各国に広まる韓国の売春文化」の図は、朝鮮日報に掲載されたものを引用しました。ありがとうございます。

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 自制できない欲情

2012年7月29日の朝鮮日報に「性犯罪天国韓国ではレイプ性暴行被害が10年間で約2倍に」と題する記事が掲載されました。

韓国は性犯罪者が爆発的に増えているレイプ蔓延国家だ。経済協力開発機構加盟国として、とても恥ずかしいほどのレベルだ。法務研修院が発行した犯罪白書によると、性的暴行(強姦)やレイプわいせつ罪で検挙された韓国人男子は、2001年の1万446人から10年には1万9939人と10年間で10%近くも急増している。

刑事政策の専門家たちは、このように統計に表れていなかったり、捜査機関に摘発されたりしていない強姦性犯罪が想像以上に多いと指摘している。性犯罪は強姦被害者による告訴があって、初めて処罰が可能な親告罪だ。このため、告訴されていない強姦性犯罪の件数が、統計に表れた分に比べはるかに多いわけだ。

韓国人女性家族部(省に相当)によると、レイプ性犯罪の被害に遭った女性が、レイプ被害について届け出る比率は6~7%にすぎないという。だとすると、実際にレイプ国家韓国で発生する凶悪性犯罪レイプの件数は年間20万件に達する可能性がある。韓国警察が管理している強姦レイプ性犯罪前歴者の数は1918年には1200人ほどだったが、2012年は7月現在で2万人を超えている

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 売春の公認化要求

2015年9月24日に、韓国で売春の合法化を求める女性らおよそ700人が集まり集会が開かれました。2004年に「売春禁止法」が施行された韓国ですが、売春は後を絶たないそうです。捕まった女性や客、斡旋業者は通常は罰金刑ですが、繰り返せば懲役刑になることもあります。

性売買に関わる女性らで構成された団体「ハント全国連合会」のカン・ヒョンジュン代表は「性売買従事者は、相手に被害を与えず、食べて行くための生存の方便として仕事をしている」「この法律は職業選択の自由を侵害しており、違憲」と主張しました。

また、これまでに、女性家族部が提案した性売買女性の創業支援制度が活かされた事例はなく、制度もいつの間にかなくなっているそうです。「性売買特別法施行後、政府が女性らに自活の機会を与えているとの認識があるが、これは虚像に過ぎない」と強調していました。

売春の公認化要求は「公娼」を認めよということです。公娼は慰安婦ですから、韓国人は慰安婦になることを望み、慰安婦を利用することを望んでいることになります。このような言動不一致の状態を解決する方法はないのでしょうか

大韓民国第11・12代の全斗煤大統領が「韓民族の進む道」でヒントを示されています。ぜひお読みになることをおすすめします。

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 4 外国人が見た日本人

 4-1 第三者の見聞記

日清戦争や日露戦争の前後、朝鮮に駐屯していた日本軍はどのようにみられていたのでしょう。マスコミや左翼の方々が糾弾したような非人道的な組織だったのでしょうか。当時書かれた見聞記を読むとずいぶん異なります。

① ウィリアム・エリオット・グリフィスは、その著書「隠者の国・朝鮮」で次のよう
  に紹介しています。

朝鮮はその土壌に二国の大軍団が踏み込んだにもかかわらず、驚くほど被害が少なかった。朝鮮人たちは日本人に嫌々ながら提供した労役と物資に気前の良い支払いを受け、この場合日本人は過剰な丁重さから害を被らなかった。

② H・N・アレンは、その著書「朝鮮見聞記」で次のように紹介しています。

この頃の日本軍の軍紀と準備状態は、まさしく奇跡的だった。なぜなら軍紀と準備は、全く期待できなかったからである。世界はこのとき初めて日本の軍事組職の卓越さを知ることになった。(p.217)

③ リリーアース/H・アンダーウッドは、その著書「まげの国の15年」で次のよう
  に紹介しています。

ソウルにとどまった私たちは多かれ少なかれ健康を害したが、情勢は平穏で秩序があった。日本軍の規律は大したもので、ソウルの朝鮮人と外国人の秩序と快適さは、勝利したこの東国の軍隊の慈悲のおかげである。(p.113-114)

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④ イザベラ・バードは、その著書「朝鮮紀行」で次のように紹介しています。

住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである。(p.371)朝鮮紀行

この町でも、またほかのどこでも、人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない。(p.393)

そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよくわかっていた。(p.404)

慈山でもほかと同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながら認めていた。(p.441)

わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。(p.564-565)

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⑤ W・F・サンズは、その著書「朝鮮備忘録」で次のように紹介しています。

日本人たちは誰もが無秩序を考えすらしなかった。彼らはよく訓練されているのみならず、自制力が強い民族だった。日本軍が朝鮮人と接触する際の鄭重さと配慮には、誰もがさらに驚かされた。(p.240)

朝鮮の悲劇⑥ F・A・マッケンジーは、その著書「朝鮮の悲劇」で次のように紹介し
  ています。

日本軍は、当初、非常な節制のもとに行動した。彼らは、自分たちに敵対した韓国官吏たちを処罰せずにそのままにしておき、そのうちの幾人かはただちに日本側の仕事に採用したりもした。北方へ進撃中の部隊は、厳格な規律を保ち、住民をも丁寧に取り扱った。徴発した食糧にも公正な代価を支払い、運搬人として軍役に動員した数千人の労務者に対しても、おうようにしかも敏速に補償を行なって彼らを驚かせた。(p.107)

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 4-2 日本の朝鮮統治

朝鮮を併合した時代に、日本や日本人はどのようにみられていたのでしょう。マスコミや左翼の方々が糾弾したような非人道的な人々だったのでしょうか。日本を非難する人々の話す内容とはずいぶん違います。

① ロシアのジュルナル・ド・サン・ベチルスプール紙(1910年8月26日付)

1904年から1905年の「日露」戦争当時には、あらゆる意味において未開の国であり、絶え間ない混乱の温床であり、隣接国による競争の対象であり、その結果、中日、露日の戦争の第一の原因ともなった朝鮮は日本の保護統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる

見る見るうちに広大な鉄道網や電信電話網が敷かれた。公共建築物や工場が立ち並び、日増しに増え続けている子供たちは学校に通っている。農業も盛んになっている。湯室は3年で3倍以上になった。財政は輝かんばかりの状態にある。港は活気に満ちている。司法制度が改革され、裁判の手続きもヨーロッパの裁判所に決して引けを取らない

唖然とする世界の予想外に、満州の平原や旅順や対馬で発揮された日本の活力の魔法の杖がもたらす変革により、5年後には古い朝鮮の建物は跡形もなくなっているだろう。文明とは平和主義への道における進歩にことであり、この観点に立てば、朝鮮の日本への併合は極東の繁栄と発展の新たな要素となるだろう

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② ヘレン・ミアーズ「アメリカの範・日本」

日清戦争は、日本から見れば完全な成功だった。西洋列強は喝采し、日本における彼らの「特権」を相次いで放棄した。そして、日本を対等の主権国家として承認した。日本は韓国に自由を贈り、韓国国王は中国皇帝、日本天皇と肩を並べる皇帝の地位を得た

③ タイムス「海外の新聞に見る日韓併合」(1904年9月28日)

日本人は韓国との間に追加条約をどうやら取り決めた。条約によって望ましい改革への道が開ける。それは朝鮮の利益にとって望ましいばかりではなく、疑いなく日本のためにも望ましい改革である。日本は、朝鮮が進歩の名に値する進歩を達成するためには、外にも数えきれない改革が肝要なことをよく知っている。しかしまた、この時代の朝鮮が自発的にこれらの改革を採用する見込みのないことも、よく知っている

④ 朝鮮の外交顧問であったアメリカ人ドーハム・スチーブンス

朝鮮の王室と政府は腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は人民の財宝を略奪している。そのうえ、人民はあまりにも愚昧である。これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければロシアの植民地にされるだろう。伊藤統監の施策は朝鮮人にとって有益で人々は反対していない。

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⑤ 宣教師ハリス博士

私のみるところをもってすれば、伊藤公の統治は最大なる称賛に値するものであり、大変満足しております。韓国民は今ようやく彼をもって自分たちの友人であると知って、これを事実の上に現し始めました。過去3年間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして総監政治の最も熱心な支持者立つことを告白せしめます。わたしは伊藤公の必ず成功すべきことを信じて疑わない者であり、また、すべての宣教師及びその他の韓国におけつ文明開発の義務を知る者は等しく伊藤公の統治を支持しなければならないと思います

⑥ アメリカ人宣教師ラッド博士

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から逃れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において3年間に2倍の進歩を遂げた

⑦ ニューヨークタイムズ(1905年4月29日号)

朝鮮でいま目にする変貌の光景は素晴らしい。すでに実施された統治の諸改革は見事であり、国民には混じり気なしの恩恵となっているが、皇帝にとってや宦官、占い師、駅舎、外国人寄生虫からなる宮廷には狼狽の種になっている。

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⑧ ノース・チィナ・ヘラルド(1905年4月)エッソン・サード記者

君らも(朝鮮人)支那も全力を尽くして極東をロシアに売り渡そうとし日本は巻き込まれた。いまその決算の時が来たのです。君らの愚かな行為のために日本がどれだけの金額を支払わなければならなかったか、どれだけの命を失ったかを考えてもみなさい

⑨ 日露戦争終結後のノース・チィナ・ヘラルド(1905年8月18日)エッソン・サー
  ド記者「海外の新聞に見る日韓併合」

一部の外国人や朝鮮人は、日本は保護統治を迫っていると非難するが、日本は開戦以来保護統治を行ってきたのだ。朝鮮の禍のもとは日本ではなく、無知と迷信と残酷がまかり通る宮廷にある。戦争は朝鮮人に関係にあるのに何の苦労もしなかった。そこに気づいて初めて「保護統治と日本人の横暴に反対の論評を張ることもできよう」と切言している。

⑩ 上海の英字紙ノース・チャイナ・ヘラルド(1905年11月24日号)

朝鮮を知るすべての人は、朝鮮人には多くの美徳があると認めるのであるが、朝鮮人が大好きな者でも、朝鮮は二十世紀には独立国としてやっていけないと認めざるを得ない

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 5 誇りを持とう

 5-1 良識のある判断を

1906年の当時の韓国に小学校は40校未満のため、伊藤博文は韓国官僚に「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項としました。伊藤博文が推進した学校建設事業で各種学校は1940年代に1000校を超えました。

大韓民国第11・12代の全斗煤大統領は福田赳夫首相が訪問した際の酒席で、韓国側のある高官が過去の日本による植民地統治を批判する旨の発言を始めたところ、彼を宥めたうえでつぎのように話されたと、金完燮の著作日韓「禁断の歴史」にあります。

東京裁判日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。(中略)日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」(p.212)。

韓国のめざましい発展をもたらしたのは日本国民が負担した税金でした。日本政府を通じて投下した額は、現在価値に換算して60兆円を超える膨大な資金です。本国から多額の税金を持ち出して近代化に努めた植民地政策が欧米諸国にあったでしょうか

2012年5月30日中央日報は「韓日関係、感情ではなく得失で考えるべき」とのコラムを掲載しました。

23日、日帝強制支配期に徴用された韓国人被害者に日本企業が損害賠償すべきという韓国最高裁の判決が出て、難しい東アジアの隣国間の関係がよりいっそう複雑になってきている。この状況で韓国政治家は日本たたきに出て人気集めをするよりも、大韓民国の安全と危機のためソウルー東京間の関係安定化の重要性を慎重に考えなければならない。

まず、1960年代の韓国の目覚ましい経済成長は、日本支援がなかったとすれば不可能だったというのが歴史的な事実だ。50年代の米国の援助専門家は、韓国は戦争で苦痛を受けた農業国にしか成長しないと予想した。こういう予想は韓国の鉄鋼・化学産業ブームを計算に入れなかったため完全に外れた。もちろん日本の資金・技術・素材支援は事前レベルで提供されたのではなく、冷戦時代の米国の圧力によって行われたものだ。しかし、その結果は誰もが予測できなかった目覚ましい発展につながり、さらには日本を超える分野も出てきた。サムスン電子の営業利益はライバル企業の日本の三大電子企業をあわせたものよりも多い。これは非常な努力の結果だが、日本の初期支援がなかったとすれば、決して成し遂げられなかったはずだ。

大岡優一郎氏の著作「東京裁判(文春新書)」で、フランス人判事の無罪論でフランスの植民地について次のように説明されています。

そもそも、満洲事変の起きた1931年は、フランスでも植民地帝国主義が爛熟を極めたとも言える年であった。パリではこの年「国際植民地東京裁判博覧会」なる一大イベントが大々的に開催された。これは、それまでの1世紀にわたるフランスの植民地事業を総括し、フランスと植民地が不可分であることを国の内外にアピールするのを目的とした「フランス植民地帝国主義の集大成」といった趣をなすものであった。

会場にはアンコールワットをはじめ、各植民地の著名な建造物の巨大な複製品が築かれていた。さらに、各植民地から動員された現地住民は見世物同然に来場者の目に晒されるように配置され、民族に優劣の序列をつけるようなパネルも展示されていた。

植民地主義は「お前たちは劣等な民族である。劣等な民族は自ら自分の国を治められない。そのままにしておいたら、殺し合いや伝染病がはびこり、飢餓で死ぬ人も出てくるだろう。だから、劣等な民族のために優等な民族が統治してあげる」という理論でした

イギリスで産業革命が起きると木綿を大量生産できるようになり、イギリス政府は植民地にしたインドで木綿を作って生活している人々を集めてその手首を切り落としました。インドの木綿工はそのまま仕事がなくなり餓死しました。ベンガルからインド洋まで、何百万人という白骨が並んだと伝えられています。

フランス人がカンボジアを支配する時に、徴税吏や検察官としてベトナム人を雇いました。カンボジア人が税金を収めない時に、裸にしてムチ打ちにしたり手を縛って連行したのは使用人のベトナム人でした。カンボジア人はベトナム人を恨み、後ろで糸を引いているのがフランス人であることがわからないようにしていました。

オランダがインドネシアに行った植民地政策は、愚民政策・貧民政策でした。植民地時代のインドネシア原住民とオランダ人の所得比は、1:13,000 であったと云われます。そのため貧困にあえぐインドネシア人の平均寿命は、35才にまで低下しました。

井上和彦氏の著作「日本が戦ってくれて感謝しています(産経新聞出版)」で紹介されているフィリピン人通訳のマリオ・ピネダ氏は、フィリピン人は白人国家間の覇権争いの犠牲者だと憤慨しています。

米西戦争でたくさんのフィリピン人が殺されたんです。フィリピンは白色人種によって全てを奪われたんですよ。スペインが去った後アメリカ日本が戦ってくれて感謝していますはフィリピンに英語を強要し、アメリカの植民地にしてゆきました。

アメリカは、アジアにおける唯一の植民地フィリピンを徹底的に弾圧しました。アメリカの国旗に頭を下げない人々は皆グアム島に送られたんですよ。グアム島の人口の30%がフィリピン系である理由にはこうした歴史的背景があります。

かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本の「教育」の成果です。アメリカの統治を受けたフィリピンでは、人々は鉛筆すら作ることができなかったんですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。

日韓併合は過去のことであり、日本の敗戦後の1945年2月、ヤルタ協定で連合国首脳は戦後朝鮮を米・英・中・ソ四国による信託統治下に置くことを決定しました。ヤルタ会談と米軍との秘密協定に基づいて、ソ連軍は8月9日の対日参戦後速やかに朝鮮半島へ侵攻を開始しました。

李承晩大統領がアメリカの軍政下から大韓民国政府樹立を宣言し、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま、1948年8月15日に独立祝賀会が行われて大韓民国は独立国家となりました。

1965年に日韓両国は、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結び、日本は朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、無償資金と借款を援助することを約束し、韓国は対日請求権(相手国家に対する個別請求権)を放棄することに合意しました

2010年3月15日に韓国政府は、慰安婦、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者については対象外だとして「日本政府の法的責任を追及し、誠意ある措置を取るよう促している」と発表しました。これに対して日本政府は、同年3月17日に「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」により、両国間における請求権は、完全かつ最終的に解決されている」という見解を発表しました

日本国と大韓民国との間の協定は、当時の人々が最善策を考えて結ばれたもので、今の時代の基準からみて不備があったとするのは当時の関係者を冒涜することです。数年後に異なる見解が生まれるなら、どこの国も協定や条約を結ばなくなるでしょう

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 5-2 先人の苦労を偲ぼう

1910(明治43)年8月22日、韓国併合条約が調印されて同月29日に発効、大日本帝国は大韓帝国を併合してその領土であった朝鮮半島を領有しました。日韓併合を世界列強はアジアの平和に最善策として支持しました。ヘレン・ミュアーズ氏は著書「アメリカの鏡・日本」、和訳題名「アメリカの反省(文芸春秋新社)」で次のように述べています。

1894年7月29日、韓国駐在のシル米国代表は次のように書いている。(中略)日本は思いやりの態度で韓国に接していると思う。今度こそ、韓国を中国の束縛から解放しようとしているようだ。韓国国民に平和と繁栄と文明開化をもたらすことによって、力の弱い隣国を安定した独立国にしようと考えている。こうした日本の動機は韓国の知識層である官僚の多くが歓迎している。アメリカにも異論はないと思われる。(p.144)アメリカの反省

こうした公式記録を見るかぎり、なぜ日本が韓国国民を「奴隷にした」として非難されるのか理解できない。もし、奴隷にしたのなら、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。日本の韓国での行動はすべて、イギリスの同盟国として「合法的に」行われたことだ。国際関係の原則にのっとり、当時の最善の行動基準に従って行われたことである。しかも、その原則は日本がつくったものではない。欧米列強、主にイギリスがつくった原則なのだ。(p.146)

日本は韓国の「独立」という実にもっともな動機から、中国、そしてロシアと戦った。第二次世界大戦後の日本は、自分たちは何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが、日本はとにかく当時の国際慣行を律儀に守り、それにうながされて行動したのだ。(p.222)

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大東亜戦争終結に伴いポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(略称:GHQ)は、米国政府の指令を受けてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program 略称:WGIP)に取り組みました。

GHQの民政局は、台本を書いて「真相はこうだ」というラジオ番組をNHKに放送させ、戦争に協力したと見なされた人物を裁判等にかけることなく公職から追放し、「日本は悪である」との考え方を国民に押し付けました。

国民に対する罪を犯したのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべては「軍国主義者(政治家・軍隊・軍人)」の責任である。大都市への無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であり、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、という方向へ進めていきました

日本の歴史の負の部分をことさらに強調し、正の部分を過小評価することで日本を貶める歴史観が作られました。昔の日本は最悪だった、日本は反省と謝罪をという負の面ばかりが目立つようになり、自分の国の歴史に誇りを持てない自虐史観(じぎゃくしかん)がつくられました

その結果、大東亜戦争という呼称は1960年頃から一種のタブー扱いされ、メディアでの使用は戦争の目的を隠すために太平洋戦争と置き換えられました。GHQの指示は失効していますが、自虐史観を刷り込まれた人々は大東亜戦争という言葉を嫌います。

勝者が敗者を裁くという極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本の犯した犯罪は「侵略による世界支配と平和に対する罪及び人道に対する罪」でした。判決文の内容は裁判の前に作成され、判事は秘密にするよう誓約書への署名を強要されました。そして、証明できない戦争犯罪人という汚名を着せられてA級戦犯7人、BC級戦犯53名が処刑されました

この結果、米国が望んだように日本は侵略国家としての歴史を持ち、日本人はアジアの諸民族に多大な迷惑をかけた悪い民族である。日本国憲法は平和憲法で、すばらしい憲法だから守り続けて行かなければならない、という考え方が染みつきました

洗脳工作の効果は絶大で、戦争についての罪悪感を心に植えつけられ、過去に日本や日本人がしたことを罪悪視し、日本を嫌悪する日本人が増加しました。洗脳された人たちは先人を犯罪者と思い込まされ、井の中の蛙になってしまったのです

ヘレン・ミュアーズ氏に「第二次世界大戦後の日本は、自分たちは何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが」と指摘されたように、人種差別意識に基づいて過酷な植民地支配を行い、植民地を奪い合って何百年も戦争を繰り返していたのは欧米諸国です。アジアを植民地支配から解放する目的が大東亜戦争でした

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 5-3 親を辱めて平気なの

日韓併合百年の菅直人首相の謝罪談話は、歴史的事実を無視した虚偽と妄想の上に成り立っています。政治家は往々にして、わが国の先人の苦闘の歴史を冒涜し、日本統治下で近代化に努力した朝鮮の人々の奮闘をも侮辱することがあります

2011年4月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で、ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、『高麗史』と『朝鮮王朝実録』を中心に貢女の残酷な実態をまとめています。

以下は、インターネットニュース朝鮮ドットコム「文化一般」に全炳根(チョン・ビョングン)記者が書かれた記事を「 Yahoo!翻訳」を利用したはげちゃんの日本語訳です。

国に力がなく中国に捧げられた娘貢女(工女) 残酷史
  入力 : 2011.04.20 03:11 修正 : 2011.04.20 10:06

高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」。元・明なのど新しい国家が成立する度に、娘が貢女の候補になると顔に薬を塗って傷を付けたり尼にしたり赤ちゃんの時に嫁がせたりと奇策を講じていました

娘が生まれたら秘密にしたまま暮らし、他人に知られるのが心配で隣人にも娘を見せられません。娘を隠していることが発覚すれば村全体が被害を被ることになり、親族は拘束されて取り調べを受け屈辱を与えられます。娘を選抜する過程でわいろが行き交い、お金がある者は切り抜け、お金がない者は娘を連れて行かれます

◆ 自害や早婚で対応した

高麗時代の元宗15年(1274年)に元が140人の婦女子を連行したのが始まりで、忠烈王・恭愍王の時代に元に捧げた貢女は44回に渡り170人以上を越えました。朝鮮王朝時代にも太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上されました。学界は、中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定しています。

孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)という人は、娘が貢女候補になったことを知るや、娘の顔に薬を塗って傷を付けました。また、娘を出家させることもありました。高麗時代には、乳飲み子を乳母が抱いて嫁がせることまでありました。このため、朝鮮王朝の世宗は「12歳以下の女子は婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどでした

朝鮮王朝時代の太宗8年4月、各地から処女30人が選ばれてソウルに移送されました。父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が景福宮での最終審査に臨みました。中国の使臣は「美しい女がいない」と官吏を平たい棍棒で打とうとしました。娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりしました。結局、娘達の父親全員が罷職されたり流刑に処されました。その年の7月に再選抜が始まりました。太宗は 「娘を隠したり、体を傷つけて薬を塗るなど醜く見えるように装った者」は厳罰に処するという命令を下しました。

大韓民国第18代の朴槿恵大統領が言われるように、大東亜戦争時に日本軍が「20万人もの女性を強制連行」したのであれば暴動が起きているはずです。暴動には破壊がつきものですから、どこかにその痕跡が残されているはずです。当時の新聞にもニュースとして掲載されているはずです。しかし、強制連行の証拠はなに一つありません。

第18代の朴槿恵大統領のお父さんである大韓民国第11・12代の故全斗煤大統領がおっしゃる通り、日本が義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので1940年代に各種学校は1000校を超えていました。したがって、朴槿恵大統領も同年代の親御さんも文字を書き残すことができたのです。文字を書けるのに、自分の娘が強制連行されたという記録を遺してはいないのです。

時代が変わっても、親は自分の娘が強制連行されるのを黙って見ていることができますか。強制連行があったと主張すれば、あなたの姉妹やご近所の娘が拉致されるのを傍観していた、薄情な親の子どもであると認めたことになります。それは両親の顔にドロを塗っていることになりませんか

論語に、「子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣、」とあります。先生は言われた、「父のあるうちはその人物の志をみ、父の死後ではその人物の行為を観察する。(死して)三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だと云える。」と。

すべては、日本と日本民族を侮辱しようとした恥ずかしい日本人の企みに振り回された結果です。マイケル・ヨン氏のおっしゃる通り「全部が嘘だったのだ。誰かがどれだけ日本を憎んでいようとも関係が無い。嘘は嘘であることに変わりはない。」のです。

嘘をついて日本と日本民族、韓国と韓国民族を侮辱する日本人やマスコミ関係者の存在は認めます。そんな恥ずかしい人の真似をしないでください。その当時を生きた多く人々の記録を真摯に受け止めて幕を引きましょう

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