3 大東亜戦争と清算
私は1942年生まれで大東亜戦争も日本の軍隊も知りません。しかし、大人になってから復刻された新聞で、生まれる前の日に空母ホーネットを発艦したB-25爆撃機16機が東京・横浜・名古屋・神戸などを空襲したことを知りました。
その日、東京都葛飾区にあった水元国民学校が機銃掃射を受け児童が死亡しました。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃を故意に行ったことから、朝日新聞社は「鬼畜の敵、校庭を掃射」と報じていました。
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3-1 戦争と性
故人の名越二荒之助氏は、元高千穂商科大学教授で元イオンド大学非常勤講師を務められた評論家です。名越二荒之助氏は1923年3月14日生まれですから、大東亜戦争が始まった1941年には18歳の若者でした。名越二荒之助氏の著書「日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる(明成社)」より、当時の若者の様子を抜粋して紹介します。
純潔は何よりも尊ぶべきことであり、大東亜戦争では童貞のまま戦死した人々も多かった。「たとえ恋人がいても結婚せずに出陣する」のが、当時の若者の一般的な恋愛観であった。恋人が戦争未亡人になることを恐れたからである。
銃後を守っていた女性にも厳しい貞操観念があった。南洋のサイパンやテニアン、沖縄等で婦女子が集団自決をしたのも、一つは敵に犯されたくないという貞操観念の現れであった。
これらのことを考えれば、慰安婦を抱えて戦争をする軍人は許せないと拒否したくなる気持ちはよく解る。しかし、戦場は異常心理が支配するところであることも知らなければ人間性の複雑性は理解できない。戦場では誰もが明日を知れぬ命であり、かつ屈強な若者の世界である。人間の本能が野獣のように働く場所でもある。
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サイパン島の断崖から80m下の海に身を投じた自決者の数は1万人にのぼるとも言われます。多くの自決者が「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と叫び、両腕を上げながら身を投じたことから、戦後その断崖はバンザイ・クリフと呼ばれるようになりました。海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化したと云われます。
外地に進駐した軍隊が現地の女性を強姦したら、軍隊は一挙に現地の信頼を失う。そのような事件が発覚したら、直ちに軍法裁判にかけて処断するのが当時の日本の軍紀(軍隊の規律)であった。そのため軍をあずかる指揮官は、必要悪を承知のうえで慰安所配慮をしなければならなかった。
配慮したのは日本ばかりではなかった。太古・中世のむかしから、戦場は野獣のぶつかりあう場所であった。ジンギスカンの遠征が、征服地の女性をいかに性の奴隷にしたことか。
ナポレオンの遠征から第二次世界大戦に至るまで、どこの国の軍隊にも慰安所は「必要悪」として存在していた。「必要悪」に配慮したのは日本だけではなかったことを教えなければ、バランスを欠くばかりでない。軍隊と性の抱える問題の深刻さは解らない。
これらの事実関係については、M・ヒルシェフェルト編「戦争と性(河出書房)」や両角義彦著「半ナポレオン考(朝日選書)」等を参照されたい。
謝辞:名越二荒之助氏の写真は「世界に生きる日本の心」よりお借りしました。サイパン島のバンザイ・クリフから投身する女性の写真は「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう」よりお借りしました。ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございます。
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3-2 日本軍の性対策
3-2-1 公募された慰安婦
朝鮮人強制連行の調査中に高校の高橋信教論と名古屋市の研究者たちが、朝鮮で発行された大東亜戦争末期の新聞に「慰安婦募集広告」が出ているのを見つけました。「行先〇〇部隊慰安所」「応募資格十八歳以上三十歳以内」などと、募集内容が分かります。
「京城日報」と「毎日申報」は朝鮮総督府の保護を受けて、その政策や方針を擁護・宣伝する立場を採る新聞です。京城日報は日本語版の新聞で、毎日新報は漢字のほかハングルも使われ、朝鮮の人たちにも幅広く読まれていたようです。
1943年5月から8月までの毎日申報縮刷版などで記事と広告の調査でほとんどの広告は女子行員募集や女子挺身隊募集でしたが、二ヶ所だけに慰安婦募集広告がありました。
高橋さんらは「この当時には、恥も外聞もなく、慰安婦を表に出して広告募集するまでになっていたらしい」と話していたと1993年9月18日の朝日新聞(名古屋本社版)は伝えました。
半世紀前には半世紀前の道徳がありました。半世紀前の姿を現在の尺度で評価するのは誤りで、軽薄な言葉をそのまま掲載する報道姿勢にも呆れます。
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3-2-2 悪徳業者は摘発された
慰安婦を斡旋する業者の中には、違法行為に手を染める者もいました。悪徳業者が摘発された様子を当時の新聞記事で確認された杉野洋明氏が、主宰される「極東亜細亜研究所~韓国系企業の元社員が語る韓国」で「SAPIOで杉野のブログがパクられた?いや、引用されたというべきかな・・・?」と「従軍慰安婦の強制連行の証拠?!」で紹介されました。記事と資料を引用させていただきました。ありがとうございます。
1939年8月5日の東亜日報の記事には、誘拐犯の顔写真入りの記事(しかも”処女貿易”とまで言われてる)がある。1934年4月14日の記事では災害地で「仕事を紹介してやる」と甘言を用いて、遊郭に騙し売ろうとした火事場泥棒のような誘拐犯の記事もある。
1939年3月15日の申報東亜に、「河允明誘拐事件波紋拡大」として「逮捕された河允明は、妻と共に32年から各地の農村を歩き回り「生活難であえぐ貧しい農夫達」に良い仕事があるとだまして、約150人を満州や中国本土などに700円から1000円で売ったという。ついでに河允明から50余人を買った京城の遊郭業者を警察が呼び出すと、それを察知して彼女達を牡丹江や山東省に転売したことも判明する」と人身売買の記事が掲載されました。
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悪辣な遊郭業者、警察の救出を念慮、続々と外国に転売、人事紹介所に検察のメス!、特別調査隊編成内探などの見出しが躍っています。この河允明誘拐事件は「毎日申報」だけでなく、「東亜日報」でも毎日のように続報が報じられていました。誘拐した百余の処女、貞操を強制蹂躙、河允明余罪は続出という見出しが並んでいます。
朝鮮日報という大新聞社があります。当時、朝鮮日報社は「朝光」という雑誌を出していたのですが、1939年3月号の特集で河允明事件を取り上げていました。「処女の泣呼」「色魔誘拐魔河允明」という見出しが目に付きます。「満州に売られていった3処女」という見出し入り写真で誘拐事件を解説しています。
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河允明事件を受けて、遊郭業者が18歳の趙鶴南という少女を「山東省の?鏡慰安所」に転売されたと報じています。私娼窟ではなく「慰安所」に転売されたと韓国の当時の新聞で報じているのですが、慰安所が私娼窟なんでしょうか?そしてこの誘引は解放後も変わらず、「就職させてあげる」等の甘言で誘引しています
1956年4月11日の「東亜日報」には「少女2名誘拐、売淫ブローカー拘束」、記事では「就職させてやる」とだまして誘引したことが述べられている。7月11日には「田舎の処女誘引、酷業を強要した老婆」という記事もあります。
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1959年8月6日の「東亜日報」に、「田舎の処女を誘引 売春窟に売った女人を検挙」という記事があります。転売先は慰安所だったことが、原文を通じて知ることが出来ました。
今までの調査を通じ、当時の朝鮮半島では未成年の人身売買が至る所ではびこり、警察が取り締まりを厳重に行っていたこと。人身売買は養父や実父によるもの第三者によるもので、一部警察の名前を騙って人身売買を行っていたこと等が報道されていたわけです。
とはいえ、私人や警官が(職務命令を無視して)個人の行動で、人身売買に加担していた可能性はありますが、それを証明することは極めて困難であり「国家的犯行」とは全く違うものです。
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3-2-3 強制連行は不可能
朝鮮人強制連行を調査していた名古屋市の研究者たちと高校の高橋信教論は、大東亜戦争末期の新聞に「慰安婦募集広告」が出ているのを見つけることはできましたが、朝鮮人の強制連行を示す有力な資料を入手することはできなかったのです。
一方、「極東亜細亜研究所~韓国系企業の元社員が語る韓国」を主宰される杉野洋明氏は、当時の朝鮮半島では未成年の人身売買が至る所ではびこり、警察が取り締まりを厳重に行っていたこと。人身売買は養父や実父によるもの第三者によるもので、一部警察の名前を騙って人身売買を行っていたことなどを、当時の新聞記事で証明されています。
ネット上に出ている様々な資料には「強制連行があった村や町の名前」や、「1990年代以前の韓国の記録で慰安婦強制連行を記載した資料」は見当たりません。慰安婦を強制連行するために必要な組織、人員、設備、費用に関する記録も見当たりません。
東京大学薬学部の池谷裕二教授は「韓国人は文化的に感情の表現を表に出します。例えば泣き方一つとっても、日本人はシクシク泣き、韓国人は道端でも大声でワーッと泣きます。これは文化的な違いで、私達から見ると凄くオーバーアクションに見えますが韓国人にとっては当たり前のことで、感情を表に出して皆で共有する文化なのです。」と述べています。
誰にも見られずに多数の人を連行するのは不可能ですし、娘・妻・母・姉・妹が日本軍にさらわれたという人の記録もありません。多数の女性がさらわれたら暴動が起きたはずですが、20万人もが強制連行されて沈黙しているというのは不自然です。抗議活動の新聞記事は一件も見当たりません。
当時の朝鮮の警察官や役人の大半は朝鮮人でした。その方々より強制連行実行者の証言も見当たりません。日本の当局は悪質な売春業者を取り締まっていましたし、日韓基本条約の時にも議論されていません。
元慰安婦の誰一人として、軍に強制連行されたことをはっきりと証言している人はいません。荒唐無稽な話の中でそれに近いことを言っていても、明確に強制されたことを証明できる証言は皆無なのです。
西村力氏の著作「よくわかる慰安婦問題」から、「この問題に闇がある(朝鮮人女衒の存在)」の冒頭部分を引用しました。
私がソウルであったある韓国人記者は、「自分はこの問題についてこれ以上書かない」と言った。「それはどういうことですか」と尋ねると、「もと慰安婦の女性にかなり取材をしてきた。ところが彼女たちは慰安所に入れられてからの悲惨な生活についてはよくしゃべるのだが、しかし連れて行かれる過程になるととたんに口ごもることが多い。それで追求していくと、どうも女衒(ぜげん)がからんでいるらしういことがわかってきた」とのことだった。
私が「女衒って日本人ですか」と聞くと、「あんたね、日帝時代朝鮮の田舎に、日本人が入っていけると思いますか」というのである。つまり、取材を重ねるにつれ、朝鮮人の女衒が関与し、身売りとして売られていったという人たちなのだということがだんだんわかってきたと言うのだ。
そして彼は言うのだった。「当初、取材を始めたときには、日本というのは、ほんとうにひどいことをやったと思ったけど、取材を続けるうちにどこの国でも、戦争になったらあるのだろうなというふうに、今は思っている。」と語った。そして、ぼそっと、「この問題には闇がある」と言った。
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3-2-4 慰安婦の実態
陸軍省兵務局兵務課の副官の通達
防衛庁防衛研究所図書館に、陸軍省兵務局兵務課の副官が北支・中支の軍に出した通達「軍慰安所 従業婦募集ニ関スル件」が所蔵されています。
「軍慰安所 従業婦等 募集に関する件」 陸支密 副官より北支方面軍 及 中支派遣軍 参謀参謀長宛 通牒案
支那事変に於ける慰安所設置の為、内地に於てこれが従業婦等を募集するにあたり、故(いたず)らに軍部諒解等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ かつ 一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、あるいは従軍記者・慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題を惹起する虞(おそれ)のあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選の適切を欠き、為に募集の方法・誘拐に類し警察当局に検挙・取調を受くるものある等、注意を要するもの少なからざるに就ては将来これらの募集等にあたりては、派遣軍において統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施にあたりては、関係地方の憲兵および当局との連携を密にし、もって軍の威信保持上、並に社会問題上、遺漏なきよう配慮あいなりたく、その依命通牒す。 陸支密 第745号 昭和拾参年 参月四日
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相川平松氏の手記
2007年6月号の「財界にいがた」に、元日本軍憲兵の相川平松氏の手記が掲載されています。
休日ともなると、慰安婦たちが営門のそばや沿道にきて兵隊たちを待っている。兵隊がやってくると、慰安婦たちはいそいそと近づき、袖を引いて慰安所に連れていく。むしろ慰安婦側で店を構えて、日本軍を待っていたというのが実態である。
慰安婦たちもカネを貯めて、郷里の家族に仕送りをしていた。おかげで慰安婦たちの実家が裕福になったという話を御用商人から聞いたことがある。
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文玉珠さんの請求
1992年3月、名乗りでた元慰安婦という文玉珠さんの訪日記事が新聞に掲載されました。文玉珠さんは1942年から1944年までの2年間をビルマで慰安婦として生活し、その間に軍人から貰った現金などを現地部隊の軍事郵便局に預けました。この「貯金を払い戻してほしい」と下関郵便局に請求しました。
郵便局の調査で軍事預金の原簿が発見され、12回の貯金記録で残高は26,145円となっていました。貯金した当時は家が一軒5千円ですから、文玉珠さんの貯金は家を五軒買える金額となります。
強制連行された保証をと日本政府を相手に裁判を起こしている元慰安婦の一人が、2年3ヶ月間で家を五軒買える大金を手にしていたのです。しかしマスコミは、1965年の韓国政府との協定で個人の請求権消滅を確認し、韓国政府が保証することになっていることを報道しません。
1992年7月に韓国人学者の聞き取り調査で文玉珠さんは「北京で軍人に暴力的に連行された」と話されていますが、1991年12月に裁判所に提出した訴状にはそのようなことは記載されていません。時間経過に伴い証言内容が変化しているのです。
ゴードン・トーマス氏の手記
ミツジのブログで紹介されている、南太平洋のニューブリテン島ラバウルで日本軍の捕虜となった、雑誌の編集者兼記者ゴードン・トーマス氏(オーストラリア国籍)が終戦後に清書して出版された「ラバウルの囚人」から引用しました。
船は朝鮮人の女性たちを運んできた。華やかな着物姿、飾りをつけたヘアスタイルで、カポカポと下駄を鳴らして歩く彼女たちは輝いていた。200人以上の慰安婦である。小さくて、おしゃべりで、笑いながら子供のようにはしゃいでいた。実際、その多くはほとんど子供みたいなものだった。
興味深いのは、ニューブリテン島に最初の部隊が上陸して24時間後には、1軒の慰安所が北岸でフル稼働していたことである。日本軍部隊が上陸して3週間後には、小さな女性たちは3千人以上になり、10万の部隊の要求を満たすため、全力で奉仕していた。
この全文を読まれたミツジさんはブログの中で「少女というのは、白人から見れば、アジア人の成人女性が単に子供に見えただけの話なのかもしれない。」と述べています。また、読み進めていくと、中国人街の慰安所で起きた朝鮮の女性たちの乱闘劇の描写は明らかに大人の喧嘩であることが分かります。
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日本人捕虜尋問報告 第49号
日本人捕虜尋問報告第49号は、1944年8月10日にビルマのレド捕虜収容所で朝鮮人慰安婦20名に対して行われた、アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属アメリカ戦時情報局心理作戦班による尋問の結果です。YAHOO!知恵袋から邦訳を引用しました。ありがとうございます。
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。
ミッチナでは慰安婦たちは、通常個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
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慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。
1 兵 午前10時~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円 30分~40分
3 将校 午後9時~午前0時 5円 30分~40分
以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。
兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60%を受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
この証言から、慰安所の楼主の搾取がいかにひどいものであったかが分かります。
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1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。
慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
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米政府の慰安婦問題調査
2014年11月27日の産経新聞に「米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに」という記事が掲載されました。YAHOO!知恵袋から邦訳を引用しました。ありがとうございます。
米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。
米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。
調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。
日本に関する文書の点検基準の一つとして、「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。
ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは「20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした」という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。(産経新聞ワシントン駐在客員特派員・古森義久)
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マイケル・ヨン氏の主張
ケント・ギルバート氏のブログ「知ってるつもり」に、「マイケル・ヨン氏の記事とその日本語訳」が掲載されています。記事の題名は下記のような衝撃的なもので、主要な部分を引用させていただきました。ありがとうございます。
n-Korea: Were Korean Men Cowards during World War II?
日韓問題:第二次世界大戦中、韓国人男性が臆病者だったとでも言うつもりか?
第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍が20万人もの韓国人女性を強制連行して、性奴隷(慰安婦)にしたという疑惑について、裏付けの取れない主張が現在も拡大し続けている。それらは主に韓国からの主張である。
慰安婦たちの主張を裏付ける証拠を求めて、米政府は3千万ドル(30億円超)の費用を掛けて調査を行った。約7年の歳月を掛けて、大勢の米政府職員や歴史学者が過去の公文書を徹底的に調査した結果、有力な証拠は何一つ見つからなかった。結局3千万ドルが無駄に費やされた。
日本軍には韓国人の兵士がたくさんいた。だから日本軍が20万人の女性を強制連行したのであれば、韓国人兵士が韓国人女性の強制連行に加担していたことになる。これはやっかいな現実である。しかし、もっとややこしくなる。
朴大統領は日本が数10万人の韓国女性を、性奴隷にするために強制連行したと言うが、彼女の父親はその当時、日本軍の陸軍将校だったのだ。しかも韓国人男性が日本軍の行為に反抗して戦ったという証拠は何も残っていない。
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テキサス州の女性を20万人強制連行しようとしたら何が起きるだろうか。きっと辺りは血の海に染まるだろう。その目的に動員された軍隊は何千人もの兵士を失うし、その報復として何千人もの市民が軍隊に虐殺されることは間違いない。
その場所には証拠がいくらでも残るだろう。写真、動画、戦闘の痕跡など。テキサスで20万人の女性を奪ってレイプしようとしたら、辺りは間違いなく血の海になる(しかし韓国にはそのような痕跡が無い)。つまり朴大統領の話は必然的に、第二次世界大戦中の韓国人男性は、臆病者の集団だったと言っていることになってしまうのだ。
この件について日本軍の将軍や提督の立場からも考えてみよう。日本は米国、オーストラリア、イギリス、中国、さらに連合国とも戦争している最中である。どう考えても手いっぱいのはずだ。特に米国は海軍と海兵隊が進軍し、日本兵を見つけ次第どこであろうと攻撃していたのである。
20万人の女性を強制連行して、彼女たちを監視し、移動させ、食べさせる目的に経営資源を費やす将軍がいるとすれば、どんな種類の馬鹿なんだろうか。わざわざもう一つの戦争を作っているようなものだと気付くはずだと思うが?
米軍と連合軍の攻撃がのど元まで迫ってきているのに、日本軍の将軍たちが貴重な資源を女性の強制連行に費やすはずが無い。彼らは戦争の真っ最中だった。春休み中だったわけではない。
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真面目な軍人やビジネスマンであれば、20万人の女性を強制連行することの愚かさが常識として分かるだろう。全く馬鹿げているし、そんなことをしたら朝鮮半島内で新しい戦争を生み出してしまう。朝鮮半島(韓国)は日本の陣地である。そして、韓国人は米国人を相手に戦争をしていたのだ。韓国人は我々(米国人)の敵だったのである。
韓国人男性の話に戻ろう。米陸軍が20万人のテキサス女性を強制連行しようとすれば、惨劇になるだろう。特に、軍人の中に多くのテキサス男が含まれていたとしたらどうなるだろうか。多くの韓国人男性が日本兵に含まれていたのと同じように。
テキサス男は立ち上がり、米陸軍を攻撃するだろう。橋は爆破される。兵士たちは毎日射殺される。基地は燃やされる。陸軍側も報復して全面戦争になるはずだ。
ということは、韓国人男性は、韓国人女性を守ろうとこぶしを振り上げる人間が一人もいないほど、臆病者なのだと我々は信じればいいのか? 数多くの女性が強制連行されるのを黙って許したのであれば、確かに韓国人男性は臆病者であり、その息子である現代の韓国人男性は、臆病者の父親を持っていることになる。
全部が嘘だったのだ。誰かがどれだけ日本を憎んでいようとも関係が無い。嘘は嘘であることに変わりはない。
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3-3 恥ずかしい無法者たち
しかし、すべての日本人が称賛に値するわけではありません。当然非難されるべき人々も多数いました。アメリカのキリスト教至上主義者でジャーナリストのH・B・ハルバート氏は、著書「朝鮮亡滅」に明確な例を挙げて日本人の不法行為を非難する記録を残しています。
日本軍隊は中間階級上層の出身の人間からなる。下層の出身者は、日本軍隊ではやっていけないのである。周知のごとく、日本軍兵士の出身階層は、他のどの国の場合より高い。日本軍兵士は昔ながらの武士精神の権化で、下層階級とは一線を画している。まさにこの理由にもとづき、日本軍が撤退し、そのあとから数千人となく一旗組やがりがり亡者が流れ込んできてからの朝鮮は、様相が一変したのである。(p.273)
日本軍兵による不法行為はほとんどなく、朝鮮民衆が旧来の日本人への疑惑を捨てて、日本軍兵を新しい幸福な使者として受け入れたのも、無理はない。したがって、下層の日本人が群れを成して流入しはじめ、勇武の日本軍隊の威光をかさにきて、朝鮮人を人間の屑のように見下し、ありとあらゆる蛮行をはじめるにいたって、大きな反動が起こらざるを得ないのは避けるべくもない。(p.273)
戦争が終わり、悪質な日本人を適宜取り締まれるだけの法律機構をもうけるための応急措置を講じるまで、日本政府がなぜこうした渡朝日本人の波を抑えなかったのかなんとも説明しがたい。(p.273)
はたして朝鮮人が日本人のためにひどい目にあったというはきりとした証拠があるかどうか、この点は十分吟味の必要がある。以下に紹介するのは、私のほかソウルその他朝鮮各地在留アメリカ人が現に見聞きしたいくつかの事例であり十分検討に値する。(p.273)
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アメリカ紳士が鉄道駅のプラットホームにいると、おりしも二十人ばかりの日本人が汽車到着を待っていた。そこに一人の朝鮮老人が杖を引きながら上がってきた。興ありげにあたりを見回した。いままで鉄道というものを見たことがなかったのであろうか。ところが上半身をむき出しにした日本人鉄道員がその老人のあごひげをつかむなり、プラットホームの上に強く突き倒した。老人はやっと立ち上がり、杖を拾ってその場から立ち去ろうとした。するとこんどは、その日本人は老人をプラットホームのレールの上に突き落として、仲間と一緒にあれな格好を笑った。当時の在朝日本人はみな、軽い冗談のつもりでこんなことを平気でするのが普通だったのは、間違いない。老人はひどい怪我をして、立つこともおぼつかなかったが、連れの何人かの朝鮮人が助け起こしてその場を離れた。(p.274)
一朝鮮人が、日本貨と変えようと思ってなにがしかの朝鮮貨をもって上京した。彼は大きな日本人両替商のところに、朝鮮貨の現金を預け、代わりに持参人一時払いの手形を受け取った。二日後その手形を現金にかえてもらおうと思ってやってくると、両替商はすでに手形は支払い済みだが、混雑に紛れてその手形の現物を返してもらわなかった、という。朝鮮人は日本の関係当局に三度にわたってこの一件を持ち込んだが、その都度突っ返され、一外国人の援助のおかげでやっと一件を取り上げてもらうことができたが、外国人の力を借りるのは怪しからんといたく叱責された。しかし、金はどうやら無事に戻ったのである。(p.275)
一朝鮮人が、日本人がさる事務所を高い値段で買い取り、その引き取りに行ってみると前の持ち主からそれを賃貸していた日本人店子は、他に行き場所がないという理由でそこを引き払うのを拒んだ。新しい持ち主は、この事件の解決を何度も日本当局に持ち出したが、一向にはかどらず、外国人が間に入って解決を強く迫ってから、やっと日本当局はおくればせながら法律的処分の措置をとったのである。(p.275)
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日本の最高首脳がどれほどよい意図を抱いていようと、肝心の出先機関がその意図を忠実に遂行しようと思っていないということが、禍の元なのである。(p.276)
ソウル市内では、日本領事館のすぐそばに住む一人の朝鮮人寡婦が、筆者の家にやってきて、自分の家を5セントで買って筆者の名の表札を出してほしいと頼むのである。そのわけを聞いてみると、隣に住む日本人に半額で家を売らなければ、家を爆破しておまえをその下敷きにしてやるぞ、といっておどかされているのだ。何人かの朝鮮人が言葉少なに語る所によれば、時折、素っ裸になった日本人が朝鮮人の家に押し入ってきて、女たちを死ぬほどおびえさせるのは、ただ、家の持ち主に、どんな値段でもいいから、こんな家は早く売ってしまったほうが身のためだと思わせるのが目的なのだそうである。(p.280)
強姦の記録がないのは幸いですが、このような無法者が現在も存在するのは事実です。同じ教育を受けても、心許ない親の背中を見続ける家庭環境やその者を取り巻く環境が自己中心の無法者を生み出してしまうのでしょう。心の貧しい人たちが周囲の人々を辱め、日本民族や日本の信用を失墜させてしまうのも悲しい現実です。
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3-4 敗戦時の苦悩
3-4-1 引揚者の苦難
ウィリアム・ニンモ氏の著書「検証・シベリア抑留(加藤隆訳、時事通信社)」には、連合軍最高司令官の幕僚が受け取った手紙の抜粋が掲載されています。
満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は口ではいい表せないほどひどいものだった。暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。…とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍が初めて国境を超え、満州に侵入した時、まず日本人の開拓民ほか一般人を攻撃したが、男たちは略奪品やお金を一緒に連れ去り、女たちもまた連れ去って、子どもたちだけが残された。ロシア人が日本の女にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった。
暗くなるのを待つようにして、ソ連兵は婦女暴行と略奪目当てに街へ繰り出した。植えたオオカミの群れのように、位通りを夜明け頃までうろつき周り、民家や店に押し入っては、食べ物と酒、そして女を略奪していった。
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若槻泰雄氏の著作「戦後引揚げの記録 新版(時事通信社)」の125ページには次のように掲載されています。
ソ連兵の日本婦人への暴行はすさまじいの一語に尽きる。それが12~3歳の少女であろうと、70歳近い老婆であろうと、そして、人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、そういうことは全く頓着しなかった。
樺太の場合同様に、女性たちは丸坊主になり顔に墨をぬり男装して難を逃れようとしたが、彼らは一人ひとり胸を触って女であることを確かめると引き立てていった。
もとより日本女性のすべてが易々諾々とソ連兵の毒牙に身を任せたわけでない。凌辱に耐えかねて死をもって抗議する若い夫人、暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた。
敦化の日満パルプの社宅で、ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、170人の婦女子全員を独身寮に監禁し夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際23人の女性は一斉に青酸カリによって自殺している。
たまたま、けがのため新京の病院に入院していた平本直行という男性はその経験を次のように綴っています。
病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板をくくりつけた足をひきずりながら、玄関に出て見て驚いた。12~3の少女から20ぐらいの娘が10名程タンカに載せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることのできる姿ではなかった。
その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子どもの恥部は紫にはれ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞き取れない。次の女性はモンペだけをはぎ取られて下(しも)の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。
次の少女は乳房を切り取られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。
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木村秀明氏の著書「ある戦後史の序章ーMRU引揚医療の記録ー(西日本図書館コンサルタント協会)」に、京城帝国大学医学部の日本人教授らと共に避難民の救助活動を行っていた医学部生、石田一郎氏の手記が紹介されています。MRUは、 Mwdical Relied Union の略称です。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦の末、やっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達も同じ運命を辿るであろうことを不憫に思い、近くの林の中の松の木に縊(くび)って自決させ、これはその遺髪です、といって私に見せてくれた。もう涙も涸れたのか淡々と他人事のように語る表情の中に私は深い悲しみを見た。
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3-4-2 水子の供養
1946年に入ると、一割近い女性がソ連人や朝鮮人に暴行を受けて妊娠したり、性病に冒されて帰国し、先行きを悲観して引き揚げ船から身を投げることも多かったと伝えられます。
そのような女性たちを救うべく、民間組織である在外同胞援護会救療部が、厚生省引揚援護局の協力を得て「二日市保養所」という施設を福岡県二日市町(現・筑紫野市)につくりました。当時、堕胎は罪でしたたが、厚生省はこの施設に限って超法規的処置として「強姦によって身ごもった女性」の堕胎手術を黙認しました。
二日市保養所の医務主任である橋爪将氏が作成した1946年6月10日付の部外秘の現状報告書には、一保養所の限られた期間だけでも次のように記録されています。
不法妊娠ヲ地区別ニ分類スルニ北鮮二十四ニシテ最多、南鮮十四、満州四、北支三ノ順ニシテ鮮人ニ因ルモノ二十八、ソ連人ニ因ルモノ八、支那人ニ因ルモノ六、米人ニ因ルモノ三、台湾人比島人ニ因ルモノ各一ナリ。
強姦した者は、朝鮮人28名、ソ連人8名、支那人6名、米国3人、台湾及びフィリピン人が各1名。
1947年の二日市保養所の閉鎖までに堕胎手術件数は500件を数え、三ヶ所の施設で約1000件にも及びました。堕胎をすれば小さな骸が残されます。事情が事情ですからお墓を建てるわけにもいかず、雑用係であった初老の男性が建物の近くに埋葬しました。その位置に保養所母子堂が建立されています。
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3-4-3 どんなことがあったのか
日系米国人作家ヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんの著作「竹林はるか遠く(ハート出版)」は、終戦時に家族とともに朝鮮半島を縦断した決死の体験記です。アメリカで優良図書に選ばれ、中学校の教材として多くの学校で使用されていました。しかし、韓国人や韓国系アメリカ人がこの本の内容に反発し、事実無根と教材使用禁止運動を繰り広げました。
著者のヨーコさんは、日本女性に対して見境ない状況で強姦する現場を何度となく目撃していました。共産軍(朝鮮人保安隊のことらしい)は、日本人だけでなく反共産主義者とみなせば朝鮮人でも殺すという有様でした。
一方、金属供出で自宅に来た日本憲兵はヨーコさんを足蹴にして怪我を負わせました。ヨーコさんたちの荷物を盗もうとした日本人引揚者もいました。
建物の端に六つの便所があったが、ドアもなく男女の区別もなかった。私達の前にいた女性がまどいながらズボンとパンツを下ろしてしゃがみこんだ。私は彼女を見ないように目をそらし、母が来て女の人の前に立ってなるべく見えないようにしてあげた。彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。ふりかえると、烈の終わりで朝鮮人の男、四人が彼女を捕まえていた。だが、自分たちも危ないので、私も母も何もできなかった。(p.117)
その日は悪夢のようだった。独立を祝いながら、酔った朝鮮人が私達の周りに来た。一人が前後にふらつきながら好に執拗に迫った。「お前は男か女か」「男だ」と好は答えた。「女の声のようだ。触らせろ」「触ってみろ」好は言い返した。私はどんなに、誰か助けに来てくれないかと祈っただろう。しかし、他の人々は朝鮮人をこれ以上怒らせると、倉庫ごと中にいる日本人を焼き払うかもしれないと恐れていたので、誰もそういった若い女性たちを助けようとはしなかった。酔った朝鮮人は大きな手を好の胸に当てた。「平らだ」彼はいった。「男に興味がない」。男たち集団は去ったが、彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘達を見つけるたびに外へ引きずり出した。たびたび女たちの悲鳴が響いた。(P.118)
小さな小川で水を飲もうと立ち止まった時、私は泣き叫ぶ声を聞いた。草むらの中で女性の上に乗った朝鮮人がいた。彼女は思いっきり男を蹴飛ばしながら、金切り声を上げていた。私の膝が震え始めた。(P.119)
ヨーコさん兄の淑世(ひでよ)さんが出会った優しい朝鮮人一家がいました。何度も死に直面しながら逃避行を続けた淑世さんは、一人で雪の中に行き倒れになったところを金さん一家に助けられます。日本人を匿っているのが解れば、自分たちも殺されるかもしれないというのに助けてくれたのです。
竹林はるか遠くは思想的に全く色のついていない内容で、幼かった自分と家族が体験したことを日記風に淡々と綴っています。日本を美化したり、朝鮮人を特に悪く書いてもいません。しかし、都合の悪い史実が書かれているからと韓国で発売禁止となり、今なお自分たちだけが被害者であるかのような主張をするのはいかがなものでしょう。
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3-5 日本の戦後処理
ミツジのブログで紹介されている「決着済みの歴史」で、ワルシャワ大学のアンジェイ・コズロフスキー氏は次のように述べています。
天皇の降伏決定を知ってからは、かれらは模範的に軍律を守って行動している。外交官でもあり、インドネシアのサンファレで捕虜となっていたある英軍海軍将校は、自分たち捕虜は、連合軍が上陸した場合には自ら墓場となるべき塹壕を掘らせたが、しかし、突然配給食が増え、収容所の司令官が将校たちに英語で次のようにいったと記述している。
みなさん、天皇陛下はこれ以上流血を避けるために戦争は終わるべき
だと決心されました。みなさん、あなたがたは自由です。次回はわれわ
れが勝ちます。
と。捕虜収容所の何人かの監視員は裁判にかけられ絞首刑になった。証拠を隠蔽しようとする試みは全くなかったのである。
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3-5-1 韓国への対応
1965年6月22日に日韓両国は、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結びました。この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、無償資金と借款を援助することを約束し、韓国は対日請求権(相手国家に対する個別請求権)を放棄することに合意しました。
大韓民国に対し、三億合衆国ドル(当時の日本円で1,080億円)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたつて無償で供与するものとする。
現在において2億合衆国ドル(当時の日本円で720億円)に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けを10年の期間にわたつて行なうものとする。
両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に、すべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。
また、朝鮮半島から流出した文化財の返還問題については、返還する国際法の義務はありませんが、韓国の文化問題に関して誠意をもって協力するということで1,321点の文化財を引き渡しています。
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3-5-2 アジア女性基金への協力
日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきました。アジア女性基金の、フィリピン、韓国、台湾における償い事業は平成14年9月までに終了しました。また、アジア女性基金は、オランダ及びインドネシアにおいてもそれぞれ国情に応じた事業を実施しており、オランダにおける事業は2001年(平成13年)7月に、また、インドネシアにおける事業は2007(平成19)年3月にそれぞれ終了しました。
3-5-3 インドネシア
日本政府は、日本国民の償いの気持ちを表すためにインドネシアにおいてどのような事業を行うのが最もふさわしいかにつき検討してきましたが、インドネシア政府が元慰安婦個人を対象とした事業ではなく、同国政府から提案のあった高齢者社会福祉推進事業に対し、日本政府からの拠出金を原資として10年間で総額約3億7千万円規模の支援を行うこととしてインドネシア政府との間で覚書が交わされました。
3-5-4 オランダ
オランダにおいては元慰安婦の方々の認定が行われていないことを踏まえ、日本政府はアジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すために如何なる事業を行うのがふさわしいかにつきオランダ側の関係者と協議しつつ検討してきました。
アジア女性基金とオランダ事業実施委員会との間で覚書に基づき、日本政府からの拠出金を原資として、同委員会に対し3年間で総額約2億5千万円規模の財政的支援を行うこととし、この事業は2001(平成13)年7月14日に終了しました。
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3-5-5 歴史の教訓とする事業
アジア女性基金は、このような問題が二度と繰り返されることのないよう歴史の教訓として未来に引き継いでいくべく、日本政府と協力しつつ慰安婦問題に関連する資料の収集と整理等を行いました。
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3-6 各国兵士の性処理
名越二荒之助氏がおっしゃるように、「戦場は異常心理が支配するところであることも知らなければ人間性の複雑性は理解できない。戦場では誰もが明日を知れぬ命であり、かつ屈強な若者の世界である。人間の本能が野獣のように働く場所」です。
日本の考え方は、外地に進駐した軍隊が現地の女性を強姦したら一挙に現地の信頼を失います。軍をあずかる指揮官は、必要悪を承知のうえで性本能を処理する慰安所などの配慮をしなければならないというものでした。
西洋人はレイプを自由恋愛と表現し、国によって対応は異なりました。米当局は公には売春を非難しますが、それを防止するための対策はほとんどとらず、米軍の駐屯地では兵士が利用可能な商業性サービスを持つことを望んでいました。
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3-6-1 アメリカ軍の性処理(仏蘭西)
米ウィスコンシン大学のメアリー・ルイーズ・ロバーツ教授(歴史学)の「兵士とセックス 第二次世界大戦中下のフランスで米兵はなにをしたのか?(明石書店)」は、戦後約70年たったいま「フランス側から見た実態」を明らかにすることによりノルマンディー上陸作戦を捉え直す目的で、米仏で膨大な量の第2次大戦中の資料を研究してまとめた著作です。
米兵たちは、ノルマンディーの人々から「性のアバンチュール」を求めてやってきた、セックスに飢えた荒くれ者と見られていた。米メディアがノルマンディーに上陸した米兵について、キスをする米兵と若いフランス女性の写真を掲載するなどロマンチックな視点で解放者として描いていた間、地元の人々は「問題」に直面していた。地元には「ドイツ人を見て隠れるのは男たちだったが、米兵の場合は女たちを隠さねばならなかった」という話が伝わっているという。
米兵たちの放蕩ぶり、不法行為、さらには組織的な人種差別などもあった。特に、ルアーブルやシェルブールでは、米兵たちのマナーの悪さが目立ったという。米兵たちは、女性を見れば既婚女性でさえ公然とセックスに誘い、公園、爆撃を受けて廃墟と化した建物、墓地、線路の上など、街中いたるところが性行為の場となった。しかし、全てが両者の合意のもとで行われたわけではなく、米兵によるレイプの報告も数100件残されている。
資料によれば「セックスをしている男女を見かけずに街を歩くことは不可能」なほどで、当時のルアーブル市長が米駐留部隊の司令官に改善を求めたと記されていた。米軍の上官らは兵士たちの行為について公式な非難声明は出したが、改善の努力はしなかったという。
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3-6-2 アメリカ軍の性処理(日本)
アメリカ軍は軍人の性処理のための慰安所を設置せず、自由恋愛という美名のもとで占領地や駐留地の犠牲を黙認しました。但し、植民地フィリピンで導入した公娼制度で児童買春の実態が明らかにされ、調査者と裏取引を行って米軍慰安所を存続させています。
以下は、ウィキペディアの「特殊慰安施設協会」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。
日本を占領するアメリカ軍は公娼制度を認めず、慰安所を置かないことが判明していました。イギリス軍やオーストラリア軍も大量の将兵を占領任務に当てることから、これらの連合国軍兵士による日本の一般女性に対する強姦事件が予測されます。
連合国軍が日本へ進駐した最初の10日間、神奈川県下で1,336件の強姦事件が発生しました。8月17日に成立した東久邇内閣は「日本の婦女子の操が進駐軍兵士らに汚される恐れがある。性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい」とし、特殊慰安施設協会を設立して「連合軍兵士専用の慰安所」の設営を決断しました。
日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」を募集し、総計55千人が応募しました。しかし、仕事の内容が外人専門の慰安婦であると聞いて、多くの女性は去ったと云われます。戦時中の慰安婦と違う点は、仲介業者を通さず広告に応募した一般女性たちに慰安婦を依頼したことです。
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1945年8月28日、9月に開業予定の大森海岸小町園慰安所にマシンガンで武装したアメリカ軍兵士達が乗り込み、すべての慰安婦たちを強姦しました。横浜の慰安所では100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日に乗り込み、慰安婦14名を輪姦して翌日抵抗した慰安婦を絞殺するという事件が起きました。
開業後の慰安所では、どの部屋からも男たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が聞こえ、精神を患う慰安婦、自殺する慰安婦も少なくなかったそうです。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦されました。武蔵野市では小学生が集団強姦され、病院に2~300人の米兵が侵入して妊婦や看護婦らが強姦されました。しかし、GHQのプレスコードの発令後はこのような報道はできなくなりました。
占領軍は「連合軍兵士専用の慰安所」だけでは満足できず、9月28日にGHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が、占領軍用の女性を世話してくれと要求しました。また、連合国軍の女性兵士用の「慰安夫」も設営され、松坂屋近くの木造アパートに数名の男性に1人一室が与えられ、半年間特定の女性伍長の専属になりました。
1946年に当時のアメリカ大統領夫人、エレノア・ルーズベルトの反対で特殊慰安施設は廃止されました。必要悪は赤線経営者の組合組織に変更して存続し、職を失った女性の中にはパンパンと呼ばれる街娼になったり、風俗街に移動したものもいました。
特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均40件ありました。特殊慰安施設協会が廃止された後の、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均330件でした。連合国軍から日本女性の純潔を守ることは不可能でした。
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3-6-3 イギリス軍の性処理
以下は、ウィキペディアの「慰安所」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。
第二次世界大戦中のイギリス軍は軍公認の慰安所を設置せず、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認しました。
1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査で、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14~18歳でした。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在していました。主に売春婦はカーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいいました。
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3-6-4 フランス軍の性処理
以下は、ウィキペディアの「慰安所」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。
フランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があり、第一次世界大戦・第二次世界大戦・インドシナ戦争、アルジェリア戦争の際に存在しました。慰安婦には北アフリカ出身者が多く、現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされました。
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3-6-5 ソ連軍の性処理
ソ連兵は侵攻した地域で略奪や凌辱を繰り返し、軍は兵士の行動を黙認していました。中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書「1945年満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略(朱建栄訳、三五館)」の222頁~225頁で次のように記録しています。
ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。
ソ連軍は自ら非公式に次のように背景を説明した。ドイツとの激しい戦争で大量の死傷者を出し、兵力補給の不足を来たし、戦争後期、多くの刑事犯も軍隊に補給した。そのため軍紀の引き締めが十分にできず、悪質者を一部銃殺して何とか規律を維持しているという。この説明の内容は事実かも知れないが、ソ連軍首脳部が軍中の非行者とその行為を真剣に取り締まらず、事実上、野放しにしたことの責任は逃れられない。
ファシストに対する敵愾心をもって兵士の非行を説明し、中国を敗戦国のドイツに譬えたことは、八路軍の将兵の中で憤りを引き起こした。仮に敗戦国だったにせよ、無辜な一般市民に狭量な民族報復を働いていいということにはなるまい。異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、なおさら政治の堕落だ。
ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する教育を怠ったのだろう。
ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と強奪事件を起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。
ソ連軍がドイッの東部を占領した後も、強奪と暴行を繰り返し、ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイッ政権なのに、統治の基盤が不安定だったのはそれが一因でもあった。
ソ連の女性革命家であり政治家だったアレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイ女史は「性の唯物論」を唱え、「男女を取り替えるのはコップを取り替えるようなもので洗ってから使えば良い」というのもので、男女の乱交が流行しました。この影響を受けて、
ソ連軍は慰安婦に対する配慮をしていなかったため、終戦間際に満州や北朝鮮に侵攻してきたときに手当たり次第に女性を襲いました。当時満州に在留していた日本女性たちは身を守るために頭を坊主にして顔に墨を塗り、ズボンをはいて男性に変装しましたが、梅毒を移されたり妊娠させられたりするに犠牲者が続出しました。妊娠した女性は下関上陸時に、マル秘で堕胎の手術を受けるという悲劇が生まれました。
満州帝国の首都新京(長春)の長春第二病院に、侵攻してきたソ連軍が看護婦の派遣を要請してきました。婦長は要請に答えて三名の看護婦を派遣しました。要請に三度答えましたが誰一人戻ってきません。彼女たちは傷病者の看護ではなく、ソ連兵の慰安婦にさせられていました。これが判明した後の四回目の派遣要請時に、残りの看護婦22名は集団自決で抗議をしました。
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3-6-6 ドイツ軍の性処理
以下は、ウィキペディアの「慰安所」から資料を引用して、内容や主張されている趣旨を変えることなく事実関係をわかりやすくするために若干の捕捉をしました。
1939年にドイツ政府は、軍人の健康を守るために街娼を禁止しました。売春宿を警察の管理下において衛生上の監督をさせ、さらに1940年には性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止しました。
ヒトラーは「性病の蔓延は民族の没落の現れ」とみなしたため、ナチスドイツはドイツ国内および占領地でも売春を徹底的に管理し、路上客引きを禁止して民間の売春宿は警察と保健所の監督下に置きました。
ドイツ軍が1904年にフランス人の売春婦を使って官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を連行して慰安婦にしたと伝えられます。また、オーストリア、ドイツ、ポーランドの強制収容所などに13の強制売春施設を建設し、そのうち9ヶ所が囚人専用、4ヶ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用とされています。
ミツジのブログにリンクされているワルシャワ大学のアンジェイ・コズロフスキー氏は「戦争犯罪-ドイツ対日本」で、「日本政府はその慰安婦制度について謝罪したが、ドイツが謝罪したことはなく、いかなる元国防軍売春婦へも補償金を支払ったことはない。」としています。
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3-6-7 中国人民解放軍などの性処理
中国瀋陽市生まれで日本に帰化したジャーナリストの鳴霞(メイカ)さんは、元中国共産党員で近畿福祉大学の中国語講師をされていました。 YouTube の「80万人の中国共産党慰安婦」動画で次のように述べています。
実は、中国共産党と人民解放軍の慰安婦は80何万人もいます。今から10数年前にフランスの専門家が80年代の中国の慰安婦の調査をしました。人民解放軍の兵士たちは独身ばかりで結婚相手が欲しかった。(地方の共産党員や人民解放軍に嫁ぐと)僻地で農作業をしたりすることになるので女性は誰でも嫁に行きたがらない。
当時の15歳から20歳くらいの都会の若い女性は、農村に下放(一定期間労働)させられていた。これらの若い女性のうち、無理やり強姦されたり慰安婦にさせられた女性が80数万人もいます。強姦未遂の女性たちはあわせて800万人ぐらいいます。
中国共産党は自分たちがやってきたことを隠すために、最近になってから「何十万人もの中国女性が日本軍に慰安婦にさせられた」と言ってきたのです。恥ずかしくないのか。自分の国民を強姦したり、無理やりにどれくらいの中国人の若い女性に、あの時、人口流産をさせたのか。いままで中国政府は一切報道しません。
慰安婦として世界中で一番の被害者は中国人女性です。下放されたこれらの女性たちに対して、中国政府からは今まで何の謝罪もないし賠償もない。病気がちでも何の支援もありません。
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3-6-8 韓国人の性処理
年配者にとっては常識
2013年11月7日に韓国の複数メディアは「朴正煕政府が売春女性を慰安婦と呼び管理」と、日本人の年配者なら誰でも知っていることがニュースになりました。
韓国野党・民主党のユ・スンヒ議員は6日に行われた女性家族省の国政監査で、朴正煕時代に国が米軍兵を相手に売春する女性らを直接管理し、女性らを「慰安婦」を呼んでいたことを示す資料を公開した。
国政監査でユ議員は、「米軍慰安婦という言葉を聞いたことがあるか」と発言。「国が(米軍慰安婦を)組織的に主導した証拠がある」と述べ、国家記録院から提出を受けた資料「基地村浄化対策」を発表した。同資料は1977年4月に作成されたもので、表紙に朴正煕大統領の直筆サインがある。
資料には、当時政府が全国62カ所の基地村に9,935人の女性が暮らしていたことを把握し、浄化政策の一環として基地村に専用アパートを建てる計画があったことなどが記されている。当時の被害者の証言によると、専用アパートの建設は、公娼として認めることになるとの論争が起きたことで白紙化したという。
ユ議員は、各地域に基地村の女性を強制的に収容する「性病管理所」があったとし、関連する条例や登記簿謄本を公開した。この中の議政府市の条例改定案には、「国連軍駐屯地域の慰安婦のうち、性別保菌者を検診、探し出して収容治療や保険・教養教育を実施する」との記述があった。
ユ議員は、「基地村の女性に対して“慰安婦”という用語を使用し、強制収容して治療を行っていたことが明らかとなった」と述べた。強制収容治療では性病が完治するまでペニシリン注射が行われ、この過程でペニシリン・ショックを起こして死亡する女性は多かったという。
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1961年1月31日付の東亜日報は「慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われている」ことを報じました。
東光劇場で伊淡支署主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った。
2004年に韓国で売春が禁止されたときに、大東亜戦争当時満州鉄道に勤務されていた方の息子さんから「慰安婦の教養講習内容」を聞きました。「女性の稼ぐ外貨が韓国の経済発展にいかに大切か」の講義と「外国人客との接し方」の実技などで、講習を終了すると韓国観光公社から「遊興営業所就業証明書」を貰えました。これはホテルに出入りする通行手形で、売春行為の許可書だったそうです。
1961年9月14日の東亜日報に「UN軍相対慰安婦13日から登録実施」という記事が掲載されていました。
ソウル市警では市社会局に「国連軍相手慰安婦性病管理士業界」計画によって3日から国連軍相手慰安婦の登録を官下一線署に伝達して実施している。今度の登録対象は「法的婚姻関係がなくただ一人の外国人と同居している女性」国連軍相手慰安婦など。
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韓国の独立記念館
名越二荒之助氏の著書「日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる(明成社)」に韓国の独立記念館に掲示されている従軍慰安婦4名の写真について次のように説明があります。共に苦労された朝鮮人慰安婦に哀悼の意を表します。(P.668~669)
いま韓国の独立記念館に「従軍慰安婦」コーナーが新設され、そこには「慰安婦」4人の写真が大きく引き伸ばされて飾られています。それはビルマ国境に近い中国大陸の拉孟要塞(1200人、守備隊長金光恵次郎少佐)にまで出かけた朝鮮人慰安婦の姿なのです。
この要塞地帯には、天草出身の日本人15人、朝鮮人5人の計20人の慰安婦がいました。蒋介石軍の最精鋭部隊が攻撃してきたのは、昭和19年5月12日からでした。金光隊長は「民間人(慰安婦)」を道連れにすることが耐えられず、後送するか、投降させることを考えました。しかし彼女たちには将兵との一体感があり、熱い家族気分が育っていたので、全員後送も投降も拒否しました。
拉孟地域には13の陣地があり、それぞれ地下壕で結ばれていました。彼女らは壕を廻って兵を慰め、敵陣に斬込隊が出撃する前には、必ず慰安婦がサービスをしました。150日間に渡る玉砕戦は壮絶で、その戦いぶりを敵の蒋介石総督も「東洋道徳の模範」と讃えたほどです
激戦のさなかには、慰安婦たちは炊事を手伝い、弾薬を運び、戦傷者の手当に当たりました。最後が迫ってくると、弾薬のために失明したT伍長とS嬢は隊長が媒酌人となり、正式に結婚式を上げました。4日後に2人は同じ場所で戦死したのです。
かくして日本人慰安婦15人は、あるいは青酸カリを飲み、あるいは手榴弾をだいて自決しました。日本の慰安婦たちは降伏せず、全員が戦死しましたが、朝鮮人慰安婦5人は投降しました。そのうち4人を占領後米軍が撮影し、その写真がいま独立記念館に掲げられているのです。
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13~4歳に売春を強要
2015年に米国立公文書記録管理局(NARA)の公文書で明らかになりましたが、韓国軍はベトナム人女性を強姦しただけでなく、彼女たちを韓国兵のために設置した「トルコ風呂」(Turkish Bath)という名称の慰安所に集め、韓国兵相手に売春を強要していました。
ベトナム戦争に参戦経験のあるアリゾナ州選出のジョン・マケイン上院議員は著書「戦争の傷あと:ベトナムの慰安婦」で次のように記録しています。
ベトナム戦争時、韓国軍の多くの部隊がベトナム人女性を強姦したり、農民や老人を虐殺するといった残虐行為に手を染め、多くの女性たちが韓国兵のための売春婦として強制的に働かされた。
ベトナム戦争中、韓国軍は反共勢力を支援し、自分たちの慰安所設置のため軍の部隊を送り込んだ。当初、韓国兵たちは多くのベトナム人女性を強姦し、その後、慰安所で働くよう強制した。
ベトナム戦争に参戦経験のある元米ミネソタ州選出のノーム・コールマン上院議員は、FOXニュースに次のオピニオン記事を投稿しています。
韓国兵は13歳から14歳(の女性)を含む数千人のベトナム女性に対し激しい強姦または性的暴行を行った。そして、強姦されたことによって多くの女性が妊娠・出産し、彼女たちが産んだ混血児が現在、ベトナムには5000人から3万人存在する。
さまざまな資料を調べましたが、日本兵が13歳から14歳の女性が強姦したという記録は見つかりません。
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恥ずかしい現実
朝鮮日報のソク・マヌジュン記者は、2012年6月15日に「性産業輸出大国、韓国の恥ずかしい現実」を掲載しました。
1人当たりの国民所得が2万ドル(約169万円)を突破し、G20(主要20カ国・地域)首脳会議まで開催した韓国が「売春婦輸出国」という汚名を着せられている。専門家はその原因として①海外での韓国人男性の需要、②簡単に金を稼ごうとする女性、③韓国特有の風俗産業の構造―を挙げている。
韓国人女性が海外で売春を行う要因は、何よりも需要があるからだ。海外に移住した韓国人だけでなく、韓国企業の駐在員、出張で訪れる男性たち、観光客などがこうした女性たちの顧客となる。ソウル大学国際大学院のチョン・ジェウォン博士は「韓国社会の飲酒文化に慣れた韓国人男性たちは、海外でも接待女性のいる店に行く。このような需要があるため、女性は売春目的で海外に出ていく」と指摘する。
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韓国人女性が海外に出てまで売春するもう一つの理由は金だ。昨年5月にカナダの売春宿で警察に身柄を拘束された10人の韓国人女性も「短時間でたくさん稼げると聞いて、つい来てしまった」「ヤミ金からの借金を返すためやむなく出国した」と話した。この売春宿を経営していた女性社長(36)は、普段から女性たちに「1カ月に2千万ウォン(約137万円)稼げる」と話していたという。
女性家族部(省に相当)が2007年に実施した実態調査によると、韓国の風俗産業の経済規模はおよそ14兆952億ウォン(現在のレートで約9622億円、以下同じ)と試算されている。これは、この年の国家予算である2399兆ウォン(約16兆円)のおよそ6%に相当する額だ。
調査によると、韓国全土で4万6247カ所の風俗店が営業しており、これらの店で働く女性は26万9707人に達するという。さらに、客となる男性は年間で延べ9395万人に達する。成人男性の数を2千万人と考えると、韓国では1人の成人男性が1年に5回近く風俗店を利用していることになる。
「米国で売春を行う外国人女性の国籍(推定)と韓国での売買春の実態」、「世界各国に広まる韓国の売春文化」の図は、朝鮮日報に掲載されたものを引用しました。ありがとうございます。
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自制できない欲情
2012年7月29日の朝鮮日報に「性犯罪天国韓国ではレイプ性暴行被害が10年間で約2倍に」と題する記事が掲載されました。
韓国は性犯罪者が爆発的に増えているレイプ蔓延国家だ。経済協力開発機構加盟国として、とても恥ずかしいほどのレベルだ。法務研修院が発行した犯罪白書によると、性的暴行(強姦)やレイプわいせつ罪で検挙された韓国人男子は、2001年の1万446人から10年には1万9939人と10年間で10%近くも急増している。
刑事政策の専門家たちは、このように統計に表れていなかったり、捜査機関に摘発されたりしていない強姦性犯罪が想像以上に多いと指摘している。性犯罪は強姦被害者による告訴があって、初めて処罰が可能な親告罪だ。このため、告訴されていない強姦性犯罪の件数が、統計に表れた分に比べはるかに多いわけだ。
韓国人女性家族部(省に相当)によると、レイプ性犯罪の被害に遭った女性が、レイプ被害について届け出る比率は6~7%にすぎないという。だとすると、実際にレイプ国家韓国で発生する凶悪性犯罪レイプの件数は年間20万件に達する可能性がある。韓国警察が管理している強姦レイプ性犯罪前歴者の数は1918年には1200人ほどだったが、2012年は7月現在で2万人を超えている。
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売春の公認化要求
2015年9月24日に、韓国で売春の合法化を求める女性らおよそ700人が集まり集会が開かれました。2004年に「売春禁止法」が施行された韓国ですが、売春は後を絶たないそうです。捕まった女性や客、斡旋業者は通常は罰金刑ですが、繰り返せば懲役刑になることもあります。
性売買に関わる女性らで構成された団体「ハント全国連合会」のカン・ヒョンジュン代表は「性売買従事者は、相手に被害を与えず、食べて行くための生存の方便として仕事をしている」「この法律は職業選択の自由を侵害しており、違憲」と主張しました。
また、これまでに、女性家族部が提案した性売買女性の創業支援制度が活かされた事例はなく、制度もいつの間にかなくなっているそうです。「性売買特別法施行後、政府が女性らに自活の機会を与えているとの認識があるが、これは虚像に過ぎない」と強調していました。
売春の公認化要求は「公娼」を認めよということです。公娼は慰安婦ですから、韓国人は慰安婦になることを望み、慰安婦を利用することを望んでいることになります。このような言動不一致の状態を解決する方法はないのでしょうか。
大韓民国第11・12代の全斗煤大統領が「韓民族の進む道」でヒントを示されています。ぜひお読みになることをおすすめします。
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