5.朝鮮半島の19世紀初頭
19世紀初頭に様々な方法で朝鮮半島を訪れた人々が、朝鮮の様子を記録した書物を残しました。すべてが客観的に書かれたものと思えませんし、人によって、民族によって、考え方や感じ方が異なります。描かれた事象を自由なとらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめましょう。
文中に「朱線」が引かれた部分は女性に関する記述です。当時の朝鮮では、女性を奴隷や慰安婦とみなす極端な男尊女卑の考えがあったことが見えてきます。
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5-1 見聞者の情報
5-1-1 朝鮮・琉球航海記のベイジル・ホール
19世紀のイギリスの海軍将校で旅行家で作家。アマースト使節団の中国訪問の期間を利用して、朝鮮・琉球を訪れたイギリス軍艦艦長で、住民との交流や風俗描写を中心に琉球をヨーロッパに紹介しました。
5-1-2 朝鮮旅行記のゲ・デ・チャガイ
19世紀末の開国まもない朝鮮を旅したソ連科学アカデミー東洋学研究所の研究員、商人、軍人などが書き綴った旅日誌の集成で5件の踏破報告が収められています。ただし、オリーブが取れるとか猿がいるなどの間違いも散見されます。
5-1-3 朝鮮亡滅のH・B・ハルバート
1886年に朝鮮で最初の近代的教育機関である育英公院の英語教師として着任し、高宗(コジョン)に信頼されてその顧問をつとめました。1907年6月、オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議で、李儁(イジュン)ら3名の代表とともに韓国の主権回復に奔走したことでその名が知られています。
5-1-4 朝鮮紀行のイザベラ・バード
英国人旅行作家で、朝鮮を訪れたのは62歳の1894年でした。以後3年余り4度に亘って朝鮮各地を旅し、日清戦争、東学党の反乱、閔妃暗殺などの歴史的事件を目撃しながら、朝鮮の素顔を忠実に伝えた名著です。
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5-1-5 朝鮮時事の柵瀬軍之佐
岩手県一関市出身の政治家で、1907(明治40)年以降衆議院議員として活躍しました。政治家になる前の1894(明治27)年6月、毎日新聞記者として朝鮮に渡り、日清戦争開始直前の朝鮮の事情を取材しました。
5-1-6 悲劇の朝鮮のアーソン・グレブスト
スエーデンの新聞記者で、日本政府が日露戦争の従軍取材を許可しなかったので商人に偽装して朝鮮へ潜入し、当時の朝鮮の様々な姿を体験してまとめました。いまとなっては忘却の彼方へ押しやられていることが多い貴重な記録です。
5-1-7 アメリカの反省のヘレン・ミュアーズ
1920年代から日米両国が開戦する直前まで東洋史・地政学を研究し、二度にわたって中国本土と日本を訪れて実情を調査しました。太平洋戦争中はミシガン大学、ノースウェスタン大学などで日本社会について講義し、連合国軍占領下の日本ではGHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして、戦後の労働基本法の策定に大きな役割を果たしました。帰国後の1948年(昭和23年)に、原作名「アメリカの鏡・日本」を米国で出版しました。
5-1-8 国民の歴史の西尾幹二
日本のドイツ文学者、思想家で評論家。学位は文学博士(東京大学)で電気通信大学名誉教授。新しい歴史教科書をつくる会の設立に参加し初代会長を務められ、2015年春に瑞宝中綬章を受勲。小泉純一郎内閣総理大臣を「狂人宰相」、その政策を「国家犯罪」とまで形容したことで有名。
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5-2 朝鮮の風俗
朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行われていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人は不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。 (朝鮮事情,p.269)
朝鮮人は、本当に怒ると正気を失うといえるかもしれない。自分の生命などどうなってもいいといった状態になり、牙のある動物になってしまう。口のまわりにあぶくがたまり、いよいよ獣めいた顔つきになる。私の印象では、飲酒が節制されれば、喧嘩の数は相当に減るだろう、と思う。朝鮮人は、酒を飲むと、ゴール人ふうというよりはゲール人ふうになる。遺憾なことだが、この怒りの衝動に我を忘れるといった悪癖は、男性だけの独占ではない。それに捉われた朝鮮の女は、ギリシャ神話の三女神を打って一丸としたような、すさまじい凶暴さを発揮する。女は立ちあがってひどい大声でわめくので、しまいには喉から声が出なくなり、つぎには猛烈に嘔吐する。神経錯乱に陥るこうした女たちを見るだびに、私は、どうして脳卒中で倒れずに済んだのかと不思議に思う。どうも朝鮮人は、幼少のときから自分の気分を制御する術を学ぶことがないらしい。子どもも親を見ならって、自分の気に入らないことがあると、まるで気が狂ったように大あばれして、結局、我意を通すか、それとも長くかかって鎮静にもどるか、そのいずれかに落ちつく。(朝鮮亡滅,p.66)
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朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。 (朝鮮事情,p.273)
朝鮮人は毎食すごい量を食べ、結果的に消化障害をよく起こすということだった。食物の相当量が(魚、肉類、野菜はいうに及ばず)生で摂取される。犬肉はその珍味が人気を呼び、牛肉、豚肉のばあいは屠殺後その血を滴らしたまま売られる。豊富にある野生動物は、きまって必要な部分だけ軽く手入れしてから毛皮のまま焼かれ、肉と同じく内臓も好まれる。(悲劇の朝鮮,p.49~50)
朝鮮ではパン焼きが知られていない。製粉所も存在しない。あるのはただ最も原始的な水力による粉碾きのみで、クリはこれによって脱穀されている。小麦粉は稀に麺の形で食用に供されるのみで、手砕きの石臼で製粉されている。かかる食物は贅沢品であって、富裕階級だけが食べられる。庶民の食べ物は主として米と栗で、これに青菜や塩魚、昆布などの香辛料が少量添えられる。(朝鮮旅行記,p.147)
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酔っぱらいは朝鮮の大きな特徴であるといわざるをえない。そしてまた酔っぱらっても恥ではない。正気を失うまで酒を飲んだとしても、粗野だとはみなされない。えらい交換が満腹するまで食事をとり、食事が終わったころには酔いつぶれて床に寝転がっていても、地位を失うことはなく、酔いがさめれば、このようなぜいたくができるほどゆとりがあるのはすばらしいと召したのものから賛辞を受けるのである。(朝鮮紀行,p.125)
朝鮮人は牛の喉を切り開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売る手には得というわけである。(朝鮮紀行,p.223)
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。(中略)都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どおしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴がみぞで狭められている。悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったりひなたでまばたきしてる。(朝鮮紀行,p.58-59)
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ソウルのあちこちを歩いていると、そのなかに特に人の足を止めさせ注意をひくものがある。ごみくずの山の間をぬってくねくねと流れながら不純物を運び、お世辞にも芳しいとはいえぬ匂いを漂わせる下水道や溝のそばに、主婦が列をなして座り込み熱心に洗濯をしている。汚い水に洗濯物を何度も揉み擦りして、結局はわが目を疑うくらいにきれいに仕上げる。(悲劇の朝鮮,p.135)
釜山府使の厩舎と稱する不潔なる屋宇の前に至れば。二箇の年老いたる婦人瓶を頭上に戴きて進み來れり。余等暫く佇立其爲す所を熟視すれば。彼等は便所の側にて其の瓶を頭上より下ろし。携へたる眞鍮の瓶を執りて。湛へる計りに其の小便を酌み分け。再び是を頭上に戴き。急ぎ南方を指して皈へり行けり。而して其の歩行する度々。ダラダラと頭上より肩邊に流下する小便は。白衣を霑ほし。恰かも不時の降雨に打たれたる旅人に異ならず。如何に韓人の頭脳の卑底なる是の如く甚だしと雖も。小便を觀る水の如くならずんば。決して斯かる始末は出來ざる筈なり。(朝鮮時事,p.11)
朝鮮の農家は概して田園に肥料を施す事を爲さず。多くは路傍若くは明き地を所ろ擇ばず。便所と心得敢て殊更に是を設置する所なし。故に掃除運搬の必要を認めざるは一般なるも。其少しく高貴と呼ばるゝ者の宅に至りては。特に便所の設置ある故。是を掃除運搬するに當りては婦人多くは是れが任に當り。矢張り小便と同じく是を頭上に戴き。男子なれば背に擔ふ。韓人の潔不潔を知らざる既に然り。(朝鮮時事,p.12)
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只た施政暴横の結果として。彼等は財資を貯蓄するの念なく。家屋を壯麗にするの意なく。生活を高尚にするの心なく。總ての者は皆な纔かに一片憐む可き炊烟を舉げて一日一日を送過する事を勤め。更らに年後生計の策を畫せざるに至りては。轉た感涙の淋漓たるあるのみ也。(朝鮮時事,p.13)
朝鮮人は男女ともに生まれつき非常に熱情的である。しかし、真の愛情はこの国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない。彼らは、自分自身を満足させるため、手に届く対象にはなんにでもやたらと飛びつくあの動物的な欲望、獣的本能以外はしらない。風紀の腐敗は想像を絶し、「人びとの過半数は、自分たちの両親を知らない」と、大胆に断言さえできるのでる。(朝鮮事情,p.267~268)
彼等は病人、特に伝染病患者を非常に嫌います。病人はただちに自分の家から町あるいは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れて行かれます。そこには彼らを看病する者の外は誰も訪れませんし、誰も彼等と話をしません。その傍を通る者は必ず病人に向かってつばを吐きます。病人を看病してくれる親戚を持たない人々は、病人を看病に行かないで、そのまま見捨ててしまいます。(朝鮮幽囚記p.53)
狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、2千年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。(朝鮮紀行,p.489-490)
彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。 (朝鮮幽囚記,p.52)
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5-3 国王と政府
1637年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を加重することはなかったが、形式的には、これまでよりいっそう屈辱的な従属関係のものとなった。朝鮮国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認しなければならなくなった。(朝鮮事情,p.34)
朝鮮国王は新しく交代するたび、特使を遣わして(中国の)皇帝にその即位に承認を求めねばならない。特使はまた、王家に関すること、朝鮮で発生した主要事件について、すべて報告しなければならない。反対に、ほとんどの中国人使節が宮廷での品階では朝鮮国王より上部位にいるために、朝鮮国王は使節を迎えるときはソウル郊外に出てつつしんで敬礼をしなければならないし、そのうえ、使節が入城した門以外の門を通ってソウル場内に入らねばならない。使節たちは、滞在中は定められた宮殿を一歩も出ることはできないが、毎日の食卓にあげられた食器類、銀器などをすべて自分たちの所有にできるので、朝鮮政府の莫大な出費の原因になってる。また朝鮮の使節は、国境をこえて最初の中国側都市である辺門(ぴょんむん)城門を通過する資格がないので、仕方なく迂回しなければならない。(朝鮮事情,p.35~36)
朝鮮使節は、毎年北京に赴いて貢納し(冬至便)、冊暦を受けて帰る。この「天暦下賜」は、この国の人びとの考えでは、根本的な重要性を持っている。中国では、冊歴の決定権はもっぱら天子一人に留保されている皇帝権である。(中略)毎年、皇帝は大きな玉璽を押した勅令を交付し、それ以外の暦を使ったり作成したりすることを、死刑にあたる行為として厳禁している。(中略)冊暦を受けるということは、皇帝に隷属し朝貢することをみずから宣言することであり、逆にこれを拒否することは、公然たる謀叛とみなされる。この条約(三田渡の盟約)以後、朝鮮の歴代の国王は、天暦なしですますことができなくなった。(朝鮮事情,p.35)
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対馬すなわちスシマは日本とコレアの中間にある島である。それは隠岐諸島と同じく日本の皇帝に属している。対馬には一人の副王すなわち日本人の司令官がいて、コレア人に対抗して兵力を準備している。コレア人は毎年日本の皇帝の代理者としての彼に対して貢物を納める。彼はそういうわけで兵士を対馬に備えておくのである。彼はまたコレアに一軒の家を持っていて、そこに一人の日本人を置いて上記の貢物を取り立てさせている。そしてコレア人は日本人に対するのと同じようにタルタル人のシナの皇帝に対して貢物を送る義務がある。(朝鮮旅行記,p.127)
オランダ東インド会社の社員が1689年に日本の首都江戸に向かった時の旅行の日誌の中に、私は日本の宮廷が会社の人々に対してコレアや琉球諸島は日本の臣下であるので、そこから来る船を襲撃したり、損害を与えるようなことはしないように要求したということを発見した。このことからコレアの人々はシナに対して貢物を納める義務があるのと同時に、日本王国に対してもそうすることを認めていることが明らかであろう。(朝鮮旅行記,p.128)
政府は、おのれの保持のためには必要であると信じているこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。一八七一年、一八七二年の間、驚くべき飢饉が朝鮮をおそい、国土は荒廃した。あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝鮮人は、むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、「どこの道にも死体がころがっている」と訴えた。しかし、そんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。 (朝鮮事情,p.322)
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当地ではタルタル人(中華民族)の支配下にあるとはいえ、国王の権威は絶対です。国王は国全体を自分の思うとおりに統治し、王国顧問官の意見に従うというようなことはありません。彼らの間には領主つまり都市や島や村を領有している人はいません。(朝鮮幽囚記,p.37)
われわれの理解するところでは、朝鮮人は主要な三階層に区分が可能である。即ち、高貴なる階層の両班(ヤンバン)、半ば高貴な中人(チュイン)、高貴でないイワノミがそれである。これらの三階層は、外観(衣服)でも権利においても、お互いに厳しく識別し合っており、決して婚姻を介して相互に混じり合ってはならない。これらの階層のそれぞれには、たくさんの下位区分が存在する。(朝鮮旅行記,p.79)
朝鮮慣習法の基礎は収奪である。階級の階級に対する支配、奴隷制、民衆の無権利、権力の集中、これらすべてが農民を重く締め付ける。国内で最も恐ろしい悪は、住民のカースト的細区分である。(朝鮮旅行記,p.78)
一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は政府の二大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司や守礼はなるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼はその徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁盛して富裕になったような人は、たちまちにして守礼の執心の犠牲となった。(朝鮮の悲劇,p.28)
守礼は、とくに秋の収穫の豊かであった農民のところにやってきて、金品の借用を申し出る。もしも、その人がこれを拒否すれば郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同然にさせたうえ、日に1~2回の笞刑を加えるのであった。もちろん善良な守礼も悪徳な守礼もいたが、総じて官衛はすべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。(朝鮮の悲劇,p.28)
当時はひとつの道に44人の地方行政官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。総員1万7,600人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的にくいものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。(朝鮮紀行,p.424)
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奴隷は王国で最も醜悪な現象で、決定的に風紀を退廃させている人口である。奴隷のおかげで、両班や中人のみならず、家内手工業の諸階級も寄食を決め込んでいる。奴隷は誰でも購入が可能だからである。朝鮮における奴隷と女奴隷の総数は百万にも達する。これらの不幸なる連中のみが現実に勤労者階級を構成し、自らの顔を流れる汗でもって、残りの1千万人全員を養う。国家は彼らのみによって支えられている。一種王働き続けることが義務付けられているにもかかわらず、彼らには一切の人権が、また所有も認められていない。奴隷所有者はすべからく自らの奴隷の生殺与奪権を握っている。(朝鮮旅行記,p.80)
奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の夫人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合は、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は、(女奴隷の)主人に帰属します。(朝鮮幽囚記,p.38)
夫はたとえ子供が数人生まれた後でも、妻を追い出して他の夫人と結婚することができます。これに反して、妻はもし判事が離別させた場合でなければ、他の男性と結婚することはできません。男性は扶養して費用を与えることができる限り、妻を何人もってもよいし、好きな時に娼家に行くこともできます。(中略)妻たちは通常おのおの別々に生活し、夫は気に入った妻のところに行きます。この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。(朝鮮幽囚記,p.48)
この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。夫は子供を引き取ろうとはしませんので、子供は妻が連れて行かねばなりません。したがってこの国は人口が多いのです。 (朝鮮幽囚記,p.48)
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李朝時代のもっとも有名な小説として作者不詳の「春香伝(チュンヒャンジョン)」があります。李朝後期、1700年代のはじめに成立した作品で国字のハングルによる文学である。李朝時代を舞台にしているが、春香(チュンヒャン)という美しい娘と全羅道の地方大韓に当たる府使の息子の夢竜(モンヨン)という青年とのあいだの恋愛小説である。(中略)
夢竜は科挙に合格し、物乞いに変装して隠密検察官である暗行御使になって全羅道に戻ってくる。そして、春香を救い、悪代官をとらえて罰するという筋書きである。そのなかで、悪代官が宴会をしている席上に夢竜が現われて歌を吟じるシーンがある。
「金の樽の中の美酒は千の民の血にして、玉のようなる盤の上の佳き肴は万の民の膏なり、燭台の蝋が落ちるとき、民の涙落ち、歌声の高き処に民の恨みの声も亦高まる(許南麒訳、岩波書店、昭和31年)」。(韓国・堕落の二千年史,p.100~101)
また、李氏朝鮮末期の代表的な知識人だった李人稙(イイジク、1862~1916年)が、「血の涙」という詩をつくっている。
「両班たちが国を潰した。賤民は両班に鞭打たれて、殺される。殺されても、殴られても、不平をいえない。少しで値打ちがある物を持っていれば、両班が奪ってゆく。妻が美しくて両班に奪われても、文句を言うのは禁物だ。両班の前では、まったく無力な賤民は、自分の財産、妻だけでなく、姓名すらその気ままに委られている。口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか、遠い島へ流される。両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない(「韓国現代史」第八巻、新丘文化社、ソウル)(韓国・堕落の二千年史,p.101)
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極東のロシア当局者たちは、日本が自分たちのような大国に対して、あえて攻撃をしかけようとしているその考え方をあざ笑っていた。いっぽう韓国政府は、この両強大国に対して中立宣言をした公式声明書を発し、それでもって自国の安全を確保できたと考えていた。その結果は周知のとおりである。(朝鮮の悲劇,p.104)
1904年2月10日、万世一系の日本天皇は、ロシアに対して宣戦を布告したそのおもなる理由は、宣戦布告文にもみられるように、ロシアによる満州の脅迫的併合と、その当然の結果としての韓国保全の危機ということであった。(朝鮮の悲劇,p.104)
日本政府は時を同じくして、公式通知を各国政府に対して行ったが、そこでも、もっとも厳粛にかつ方式にかなったかたちで、この戦争の目的が韓国の独立と領土保全の維持とすべての外国に対する門戸解放、および機会均等の保証にあることを繰り返し述べている。(朝鮮の悲劇,p.104~105)
寒い2月の夜半、凍りついた海岸に立って、戦火によって上陸用桟橋の上に照らし出された、装備よくしかも敏捷な日本軍の歩兵を見て、韓国の古い歴史もこれで終わりを告げ、新しい時代が始まるのだと悟ったのである。(朝鮮の悲劇,p.104~105)
朝鮮は、二十世紀における世界興亡の動きの最初の舞台となった。だが朝鮮は眠り続けた。たしかに改革は企てられた。それは間違いない。だが最も正確に言えば、その企てが、じっさいの改革実施において何かよわよわしかったのである。外国人の助言者がつぎつぎと入国したが、しかし彼らの助言は実際上聞き入れられなかったのである。(中略)朝鮮(政府自身)は一度も、改革問題に新権威取り組もうとはしなかった。すべての努力が、宮廷臣下たちの腐敗と懦弱と無能によって、打ちこわされたのであった。(朝鮮の悲劇,p.39~40)
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5-4 王族と両班
王妃と王妾以外に、宮女と呼ばれているおおぜいの侍女がいる。彼女たちは、全国から無理やりにかり集められ、いったん宮中の侍女となったからには、重病か不治の病にでも陥らない限り、そこで一生を過ごさねばならない。国王が彼女たちを妾としない限り結婚は考えられないことなので、彼女たちは永遠の処女だと決め込まれている。だから、もし彼女たちが純潔でないことがわかれば、罪人として流刑にされるか、ときには死刑に処せられる。想像されるように、このハイムはしばしば模造鵜の放蕩と犯罪の舞台となり、哀れな女たちは王族の欲情の犠牲となる。また、彼女たちの住居は、あらゆる恥辱の巣窟である。これらのことは公然たる事実である。(朝鮮事情,p.53)
すべての宦官たちは結婚しており、そのほとんどが妾を何人も囲っている。これらの妾は、手くだや暴力で誘惑したり、あるいは多額の金をはたいて買い入れた貧民の娘たちである。彼女たちは、貴族階級の婦人たちよりもさらに厳しく閉じ込められ、男の執拗な嫉妬心によって監視されている。(朝鮮事情,p.33~34)
朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。(朝鮮事情,p.192)
国王に仕えていた貴族あるいは奴隷は、国王あるいは国家の税金を納めるだけでよいのです。奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の夫人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は、(女奴隷の)主人に帰属します。(朝鮮幽囚記p.38)
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朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。 (朝鮮事情,p.192)
朝鮮の災いのもとのひとつに、この両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥じとはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけかき集め引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。(朝鮮紀行,p.137)
この世では、もっとも良いことでも、常に悪い反面を伴っている。これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを野放しにすることである。これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、あちこちをぶらぶらしながら生活する。もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家にまるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。 (朝鮮事情,p.265)
朝鮮の重大な宿痾は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶養しなければならない。それもあって人々はわれがちに官職に就こうとし職位は商品として売買される。 (朝鮮紀行,p.556-557)
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両班の「妻の仕事といえば、子供をみる以外は侍女を監督して内房(あんぱん=女性部屋)の秩序を維持することだけで、彼女たちの一生は何事もなすことなく過ぎてゆく。しかし、常民の婦人は、激しい労働にしたがわねばならない。彼女たちは食物を用意し、布を織ってそれで服を仕立て、選択し、家の中のすべてに気を配り、そのうえ夏には野良へ出かけて夫のするすべての仕事を助けなければならない。男たちは種蒔きや収穫のときは働くが、冬は休む。休みの時の彼らの唯一つの仕事といへば、山に出かけて燃料にする薪をとってくることだけで、残りの時間は遊んだり、煙草を吹かしたり、親せきややう宇人を訪ね歩くことに費やす。女たちは決して休むことなく、事実上奴隷のように働き詰めである。(朝鮮事情,p.228~229)
貴族は娼婦やその他の仲間たちと楽しみを求めてしばしば修道院へ行きます。というのはそれは山や森の中にあって、非常に快適で、国中で最も立派な建物の部類にはいるからです。したがってそれは寺院であるというより、むしろ売春宿か料亭だといったほうが適当です。いうまでもなく一般の修道院でも僧侶は泥酔するまで酒を飲みます。(朝鮮幽囚記,p.46)
改革があったにもかかわらず朝鮮には階級がふたつしかない。盗む側と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人口の5分の4をゆうに占める下人は文字通り「下の人間」で、吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする。(朝鮮紀行,p.558)
宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上ほしいままにしてきた。この点について日本は新しい理論を導入し、庶民にも権利はあり、各階級はそれを尊ばなければならないということを一般大衆に理解させ、無料新聞も同じ路線を取った。
朝鮮の農民には、日本と西洋の指導的手段を通して、食い物にされるばかりが自分たちの運命ではない、自分たちも市民としての権利を持ち、法的見地から見た平等に値し、収入を守られるべき存在なのだということが徐々にわかりはじめてきたのである。(朝鮮紀行,p.560-561)
朝鮮政府に政変をもたらした栄誉は、私に言わせるなら、カトリックの宣教師らでも、また法外なる利己主義により一貫して評判を落とし続けたアメリカならびにヨーロッパの山師らでもなく、偏に自らの垂範で朝鮮人に目を開かせ、最善の生活を提示した日本に帰せられる。(朝鮮旅行記,p.108)
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5-5 刑罰の残虐さ
朝鮮で注目されるのは、犯罪者が死刑ないし奴隷の身分を宣告されるという事実である。その他の刑罰はほとんど存在しない。奴隷身分の刑は、もしそれが子孫にまで受け継がれなければ、わが国の終身徒刑に匹敵させることが可能であろう。奴隷身分の刑を宣告された者は政府の所有物となり、政府経営の仕事場で使役される。政府所有奴隷の数は、新たなる宣告を通じても、また出生によっても年ごとに増大している。若い奴隷たちは自らの父親な宿命を、やはり一生涯にわたって担い続け、さらには子孫へと受け継がせる。政府は自らが所有するぢ奴隷を私人へ売却するといった事態もしばしば生ずるが、その場合には、これらの不幸な人々が、彼らを購入した者の完璧なる、自由に処分可能な財産となる。(朝鮮旅行記,p.87)
私たちが滞在していた時、国王の兄弟の婦人についてそのような事件が起こりました。彼女は針仕事がよくできるので有名でしたので、国王は彼女に下着を作るよう命じました。彼女は国王を憎んでいましたので、それにいくつかのまじないを縫い込みました。そのため国王が下着を身に着けると、ゆったりすることができません。そこで国王はそれをほどいて検査させてみると、そこからまじないが発見されました。国王はその婦人を一室に幽閉しました。そこには銅板の床が作ってあって、その下で火をたいて彼女を死に至らしめました。彼女の親戚の一人は身分の高い家柄の出身で、当時太守の職にあり、宮廷で非常に尊敬されていましたが、彼は国王に手紙を書いて、婦人、まして彼女のような婦人には他の刑罰を課すことができたはずであり、また婦人は男性よりも寛容に扱われるべきであると述べました。国王はそれを読んで彼を呼び出させ、一日に脛を120回も叩かせ、首をはね、彼の財産と奴隷を全部没収させました。(朝鮮幽囚記p.40~41)
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宣教師たちは中国から、あるときは小舟をあやつって、またあるときは陸地をつたって朝鮮に入った。彼らは絶えず変装し、居所をかくして隠密裏に行動し、発見を免れるための多くの手段を準備した。彼らはおのおのの場所ごとに違った姓名を名のり、昼は寝て夜歩き、ときには乞食、ときには行商人、またときには喪服をまとった高級官人にもなった。フランス人宣教師とそれに同行した改宗者たちは、いずれも常に剣をたずさえていた。ある時、官憲が一行を襲って改宗者数名を殺害したが、そのときフランス人アムベールはそれ以上の犠牲を避けるため、その仲間二人とともに官憲に自首して出た。彼らは投獄され、もっとも過酷かつ非道な拷問をうけた。彼らは、最終刑執行前に予備的にそれぞれ笞66の刑に処せられたが、その刑罰だけでも多くの人々を死に至らしめたのであった。死刑執行の日、彼らは断首刑場に引き出され、そこで公開の拷問を死刑執行前にうけたが、その光景はとうてい言語でえがききることのできるようなものではなかった。アムベールは1839年にこうして死んだ。(朝鮮の悲劇,p.5~6)
朝鮮の裁判制度は、長いこと中国の強い影響下にあったため、途方もない厳しさが朝鮮法典の基本特徴をなす。(中略)朝鮮における裁判制度の実態はきわめてお粗末である。判事たちは投げやりに職務を執行し、原告の申し立てにも、また証人の声にもしかるべく耳を傾けることすらなしに、判決を下す例もまれではない。まず尋問を行い、次いで詳細な報告書を作成するのが本分である補佐役に、判事は全幅の信頼を寄せている。その報告書に基づいて判事は判決を宣告するのである。補佐役は様々な運命を決定する蔭の主役であるから、自らの立場を存分に乱用し、受領した報酬に合わせて審理を方向付けるのである。(中略)自らの個人的な目的を追求するこの側近連は、相当額の報酬と引き換えに判事に対する影響力を行使して、裁判事件の風向きを変えることもあえて辞さない。(朝鮮旅行記,p.310~311)
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最初のころ朝鮮に渡来した欧米人たちがみたように、当時の朝鮮の諸制度は多くの点で何か5~6世紀前の中国のそれに似ていたのだ。(中略)行政秩序を維持するために、王はあたかもアメリカの百万長者実業家の私設代理人に相当する密使(暗行御史)の制を持っており、密命をおび王に代わって全国各地を巡視させ諸般の事柄を監察して王に直接報告させた。監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人を絞首してしまい、裁判は売買された。(朝鮮の悲劇,p.27~28)
この朝鮮どんなに長く住んでいる者でも、住民が公正な裁判を受けられるといういささかの望みもなしに生きていかねばならぬみじめな状態で案外平気であるわけが、どうしても納得いかないだろう。文明国なら直ちに民衆の反乱を呼び起こすに相違ないような不正かつ野蛮な事件を見聞きしないで済む日は、ないに等しい。(朝鮮滅亡p.85)
過失致死犯は次のようにして罰せられます。彼等は酸っぱい、濁った、鼻を刺すような臭いのする水で死者の全身を洗いますが、彼等はその水をじょうごうを使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、それから胃の所を棒で叩いて破裂させます。当地では盗みに対しては厳重な刑罰が課せられていますが、盗賊は非常にたくさんいます。その刑罰は足の裏を叩いてしだいに死にいたらしめるのです。(朝鮮幽囚記,p.41)
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一般に用いられる拷問の方法は以下の通り。即ち、膝下の脚部を殴打して、骨の脱臼や変形をもたらすための板、両腕を後へ回して結縛すること。髪の毛を縛って吊り下げること、編み紐を用いて足を挽くこと、特殊な木製斧で被拷問者の肉部を削ぐこと、火を体に押しつけて焦がせることなどである。(朝鮮旅行記,p.312)
李氏朝鮮の刑の残酷さはほかの国々では類例がなく、アーソン・グレブストは著書「悲劇の朝鮮」に見学した笞刑(ちけい)や死刑の模様を詳細につづっています。驚くのはこれらの刑の執行を見物人が目を見張りながら見ていることです。
庭の中央に膝の高さほどの長い台が置かれ、その上に男が一人縄を打たれたままうつ伏せになっている。下半身はふくら脛まで、上半身は肩まで着物をはいで、尻など胴の部分が完全に裸にされている。(悲劇の朝鮮,p.234~235)
囚人は笞刑(ちけい)の宣告を受けたのであるが、刑の執行命令を待つ間に、執行人らは縛られた囚人の後頭部のすぐ上の虚空を鞭で切りながら嬉々としている。鞭が囚人の耳元を過ぎるときのその音はぞっとするものであろう。囚人は怯えた視線でこの残忍な遊戯を追い、すでに鞭が肉に食い込む痛みを感じているかのように全身をけいれんさせる。(悲劇の朝鮮,p.235)
刑の執行はすぐに始まった。看守長が命令を下すと、二人の執行人がそれぞれ配置についた、彼らは最後にもう一度鞭を空中で鳴らしてみてから笞刑を開始した。最初のひと打ちは鋭い音で、銅色の尻は真っ赤な痕跡を鮮やかに残した。哀れな囚人はびくっとして全身を縮めたので、縛ってある板が倒れんばかりであった。二度目の鞭で、彼は骨にしみるような悲鳴をあげた。その体が13回も繰り返しめった打ちにあうや、悲鳴をあげていた囚人も結局気を失ってしまった。(悲劇の朝鮮,p.235)
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すると、刑の執行が一時中断となり、囚人の頭の上に冷水がぶっかけられる。囚人はひとしきり体をぶるっと震わせてけいれんを続けたが、意識を取り戻した。(悲劇の朝鮮,p.235)
彼は呻きながら許してくれと哀願した。しかし法の執行にはいささかの情の挟まれることも不可能で、彼にはまだ笞刑12回分が残っていた。こうして刑の執行が終わってみると、囚人の体はもはや人間のそれでなく、ただの血だらけの肉塊にすぎなかった。(悲劇の朝鮮,p.235~236)
こんどは小さな建物から別の囚人が引き出された。40歳台に見える男で顎のひげをぼうぼうに生やしており、体はというとすっかり痩せさらばえている。悪臭が漂い、その目にはすでにあきらめの光がさしている。痩せ細った体を包むぼろ服は、彼がそれまでいた監獄がいかに汚く不潔なものであるかを物悲しく語って余りあった。(中略)官軍との血戦の末彼はついに捕らえられ、死刑宣告を受け、今日まさに私たちの目前でその一生を終えることになったのである。(悲劇の朝鮮,p.236)
準備はあっという間にととのった。さきほどの苔刑のときに使われたあの血のついた縄が、こんどは彼の足をしっかり縛りつけることになった。それから両腕が両脇に縛られて少しも身動きできぬようになった。すると執行人は彼の体を押して、彼はバランスを失ってその場に倒れた。いまや囚人は、死刑が執行されるまさにその場面に倒れる身となった。(悲劇の朝鮮,p.236)
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死刑執行人はさきほど笞刑を行った同一人物たちだ。彼らは太い棒を手にして現れた。(中略)囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人たちは自分の体重をすべて棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつに凄惨なものだった。足の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も囚人の凄絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにかかわらず、上体を起こした死刑囚は、ほとんど座った姿勢になった。(悲劇の朝鮮,p.237)
顔には、死人のそれのようにまったく血の気がなく、唇は、固く閉じられてひとつの細い真っ青な線になっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力なく垂れた。体がだらりと地面にのびた。死刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に手足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。(悲劇の朝鮮,p.237~238)
死刑が執り行なわれる間、まわりでは見物人が目を見張りながら見ていた。彼らは、首を長く伸ばしながら、一瞬たりとも見逃すまいと息を詰めたまま悲劇の現場を見守っていた。(悲劇の朝鮮,p.238)
気絶した囚人は、ややあって意識をとりもどした。カなく首を左右にゆすりながら呻き声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を絞めて殺し、その死体をどこへやら引きずっていった。(悲劇の朝鮮,p.239)
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ところが私には疑問がひとつ湧いてきた。この国にキリスト教が布教されてもうだいぶ経ったし、西洋の文化大国がこの国の行政の各部門を助けてからも一日二日でないのに、なぜ今だこのような野卑きまわりない拷問が続いているのか。エンバリーの言うように、獄内の出来事に関する生きた証拠が整っていないという、それだけの理由だろうか。それともほかの理由がまだあるというのか。(悲劇の朝鮮,p.239)
理由がなんであれ、こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ。異教徒の改宗に汲々とするあまり、そのまま見過ごしてはならない実状には盲目となってしまう私たちキリスト教徒の態度は、私たちに残された大きな課題のひとつである。(悲劇の朝鮮,p.239)
監獄改善に関しては多くの対策がなされてきたが、囚人の区分をはじめまだ手付かずのままになっている問題も多い。それでも、ソウルの監獄は改革が行われていない清その他の東洋諸国にくらぶれば、非常に好ましい方向に差をつけている。拷問は少なくとも表向きには廃止されたし、切断された首や胴体をさらしたり、笞打ちや身体のそぎ切りで死にいたらしめるようなことは日本の支配を受けていた時代になくなった。(朝鮮紀行,p.554)
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