1 誇りを失った日本人
戦争について多くの反省点はあるだろうが、今一度、日本人が歩んできた歴史を謙虚に学ぶべきではないだろうか。私たちは先の大戦を検証し、なぜ戦争になったのかを正しく知るべきである。戦争で日本の果たした役割や意味を正当に評価すべきである。
日本は戦争を起こした犯罪者であるという自虐史観を押し付けられ、いまだにそう主張する人々がいる。しかし、二十世紀の戦争の解釈が間違っているのではと多くの人々が気づき始めている。歴史の真実を今一度見つめなおしてみよう。
司馬遼太郎氏が「老台北」と呼ばれた蔡焜燦(さいこんさん)氏は「台湾人と日本精神」で次のように訴えている。
自分の国をも愛せない人が、どうして他人や他の国の人々を愛せるだろうか。自らの祖先を敬い、親兄弟を愛し、そして、そうした人々が幸せに暮す祖国を愛してこそ、世界の人々を愛せるのだ。
日本の戦後教育のごとき、“反日教育”が生むものは、祖先への軽蔑と他人を憎悪する卑しさだけであり、決して愛する心を育まない。現代日本の青少年による凄惨な事件の数々や、教育現場の荒廃はこうした戦後教育の悲しい結末であろう。
もっとも、歪曲した歴史観によって自国をさげすむことは、実に残念であるばかりか、そうした考えに正義感を覚える輩は、ただ“無知”としかみなされないことも肝に銘じて置く必要があろう。
近年、台湾でこれまでの国民党主導による反日教育が改められ、新しい歴史教科書「認識台湾」によって、日本統治時代を正しく評価する歴史教育が始まった。台湾におけるこうした教育は、将来のアジアの歴史観を大きく変えてゆくことだろう。
ところが日本では、自虐史観という“虚構”が日本人から「自信」と「誇り」を奪い去り、日本国を世界の期待の声に応えることのできない“自信喪失国家”につくりかえてしまった感がある。しかし、それはアジア地域を不安定にさせているばかりか、世界の平和構築の障害となっているのである。
台湾には、日本がいまこそ学ぶべき“正しい日本史”がある。どうぞ台湾に日本の正しい歴史を学び、自信と誇りを取り戻していただきたい。そして誇りある日本が、アジア地域の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。日本人よ胸を張りなさい!
1994(平成6)年にマレーシアを訪れた当時の村山富市首相と土井たか子衆議院議長が、過去の戦争での謝罪を口にした。この時マレーシアのマハティール首相は「なぜ日本が50年前に起きた過去の戦争ことを、いまだに謝り続けるのか理解できない。」と返された。
日本は軍国主義が非生産的であることを理解して、その高い技術とエネルギーを貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。
東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
もし、日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは永遠に世界を支配したことだろう。
日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、マレーシアのガザリー・シャフェー元外相は次のように答えている。
あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシアもシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ?
日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。この国に来られた「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。
日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍やその英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展の為にそれぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育をおこなってくれたのです。
日本はインドネシア語の公用語を徹底して推進し、インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け、広域の大衆をインドネシアという国家の国民として組織しました。とくに若者に民族意識を植え付け、革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。またPETA(ペタ)の革命における意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかったのです。
1-1 目隠しされた国民
昭和17年4月18日、米軍の空母オーネットから飛び立った16機の航空機は、東京を焼夷弾で初空襲し、川崎で児童1名が死亡したと新聞は報じている。焼夷弾には「オーネットからトージョーとヒロヒトへ」と書かれていたそうだ。その翌日、私は札幌で生まれた。
小学校時代は米軍の実弾演習地の中心部で育った。中学校や高校で学んだ世界史と日本史は近世に入ると授業時間が足りなくなり、あとは教科書を読んでおけで終わった。大学で学んだ歴史はどの方向への流れがつくられていったのか、現在を形つくった歴史の流れのとらえ方と考え方だった。
近世の歴史について図書館で様々な書籍を読み漁った。1941(昭和16)年12月12日に東條内閣が閣議決定した「大東亜戦争」という名称を、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が自らの戦争目的を隠すために「太平洋戦争」に置き換えたことが分かった。
大東亜戦争終結に伴いポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(略称:GHQ)は、米国政府の指令を受けてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program 略称:WGIP)に取り組んだ。
WGIPとは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」である。日本を再び米国及び連合国の脅威にならないよう、徹底的に無力化し弱体化するためだった。この目的の下に行われた占領政策は、日本人を精神的に去勢し、当時の日本人が持っていた愛国心を抹殺し、アメリカの属国的・被保護国な存在へと貶めようとする、日本弱体化政策だった。
国民に対する罪を犯したのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべては「軍国主義者(政治家・軍隊・軍人)」の責任である。大都市への無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であり、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、という方向へ進めていった。
連合軍に都合の悪いニュースや考え方を隠蔽して国民が真実に気付けないようにするため、ラジオや新聞などの報道機関の活動を制限する30種の禁止項目を定めて、違反した場合は活動停止などの処分が行えるようにした。
連合軍に都合の悪い考え方や批判を一切禁止し、極東国際軍事裁判で事実の隠蔽や罪人を捏造することで、戦争についての誤った罪悪感を日本人の心に植えつけた。いまもこの占領政策を守っているのがNHKをはじめとするマスコミである。
紀元前三世紀に、秦の始皇帝が儒教の書物を焼き捨て、儒者たちを穴に埋めて殺してしまった事件を「焚書坑儒」というが、これは書物を破棄して民族に伝わる考え方や文化を忘れさせて民を服従させる行為である。連合軍はこれと同じことを行った。
日本へ進駐したアメリカ軍は七千数百タイトルの単行本を、全国の書店、出版社、古書店、官公庁、倉庫、印刷所、取次会社など、流通機構から輸送中のものも含めて没収した。歴史書や思想書類を大規模に焚書して、日本民族に伝わる生き方やものの考え方を奪い取ってから、国際法に反して押し付けた憲法で思想の自由や出版の自由をうたったのだ。
生き方やものの考え方を奪い取って、日本国民が受ける苦痛と非難は日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであると洗脳していった。そして、極東国際軍事裁判で決定的な自虐史観を日本国民に植え付けた。
起訴状で日本の犯した犯罪は「侵略による世界支配と平和に対する罪及び人道に対する罪」である。判決文の内容は裁判の前に作成され、判事は秘密にするよう誓約書への署名を強要された。そして、戦争犯罪人という罪名を作り上げて60名を処刑した。
この結果、米国が望んだように日本は侵略国家としての歴史を持ち、日本人はアジアの諸民族に多大な迷惑をかけた悪い民族である。日本国憲法は平和憲法で、すばらしい憲法だから守り続けて行かなければならないと誤った考えが広がった。
これに迎合して過去に日本や日本人がしたことを罪悪視し、日本を嫌悪する日本人が増加してきた。日本人の目から真実を覆い隠し、自分達に都合の良い正義感を振り回す人々が現われ、なぜ日本が戦争をしなければならなかったのかわからなってしまった。
1-2 ルーズベルト神話
日本政府は、1941(昭和16)年の春からなんとしても日本の国益を守りながら、アメリカと戦争しない方向を探ろうと大変な苦労を続けていた。7月に発足した第三次内閣の近衛文麿首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談し、日米首脳会談でルーズベルト大統領と直接会って日米戦争を回避したいと強く訴えていた。
近衛首相の和平提案を駐日アメリカ大使も、中日イギリス大使も祈るような気持ちで実現を期待していた。しかし、アメリカは妥協ではなく力によって封じ込めるべきだとし、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
歴史家でもある第31代アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、退職後にフリーダム・ビトレイド(Freedom Betrayed)と題した第二次世界大戦を論じる論文を表した。フーヴァーの亡き後、この論文は五十年間も出版されなかった。
出版されなかった理由は、一般のアメリカ人に信じられている第二次世界大戦感、すなわちフランクリン・ルーズベルト神話を真っ向から否定する内容だったからである。ルーズベルト神話の否定につながり、世の中が混乱するのを恐れたからだった。
ルーズベルト神話とは、第二次世界大戦はファシズムや軍国主義とデモクラシーの戦いで、アメリカをはじめとする連合国が、日本の軍国主義、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムに勝利した、全く正しい正義の戦いであったとする見方である。
フランクリン・ルーズベルトの母親サラ・デラノ一族は、19世紀からチャイナ貿易で財を成したファミリーだった。彼らは、チャイナからクーリーと呼ばれる労働者を大勢連れてきて、大陸横断鉄道建設の労働者として酷使した。奴隷同然の過酷な労働を行わせるためにアヘンも使われ、アヘンと労働者の輸入に関わっていたのが祖父のウォーレン・デラノだった。
フランクリン・ルーズベルトは、祖父ウォーレン・デラノの莫大な遺産を相続した。彼の家には、チャイナの古い美術品が所狭しと飾ってあったと言われる。日本は日清戦争と日露戦争に勝利し、戦争により合法的に得た権利や利権が数多くあった。
日本がチャイナの権益を独占している状況がルーズベルトには許せなかった。しかし、「攻撃を受けない限りアメリカは絶対に参戦しない」と公約していたルーズベルトは、復讐心を利用して最少の犠牲を払うことでアメリカを奮い立たせようとした。
ルーズベルト大統領は日本打倒のためにオレンジ計画を国策とした。これは日米戦のあらゆる場面を想定した侵略計画で、以後の日米交渉、開戦挑発から終戦、占領政策など、すべてこの日本侵略計画で貫かれている。
アメリカが開戦の動機をつくる常套手段は「リメンバー」である。かってテキサスはメキシコの領土であった。入植したアメリカ人は独立戦争を起こし、アラモの砦の155人の守備隊をおとりにしてメキシコ軍に先制攻撃させ、「リメンバー・アラモ」を合言葉にテキサス・ニューメキシコ・カリフォルニアなどメキシコの国土の半分を奪い取った。
ハバナを表敬訪問中の米軍艦「メーン」号を自爆させ、2060人の乗組員を犠牲にして「リメンバー・メーン」を合言葉にスペインに宣戦布告し、94人の子どもたちを含む1095人を生贄にして「リメンバー・ルキタニア号」を合言葉に第一次世界大戦に参戦した。
奇襲せざるを得ないように追い詰めた参戦口実は「リメンバー・パールハーバー」、ベトナム戦争の参戦口実は「リメンバー・トンキン湾」、イラクのフセイン大統領を騙してクウェート侵攻に誘い出し、侵略者に仕立て上げた湾岸戦争の参戦口実は「リメンバー・311」である。
アメリカほど、正義の「建前」と冷静着実な国益追求の「本音」とが、これほど乖離している国も珍しいのである。歴史は繰り返すことから「Renember World Trade Cebter and Pentagon」の準備はすでに始まっていても不思議ではない。
1-3 狂人の欲望
アメリカは主力艦隊を太平洋のハワイに集結し、イギリスもシンガポールに極東艦隊を増強して戦争配備についていた。日本の真珠湾攻撃よりも前に、ルーズベルト大統領は秘密命令で戦争指令を出していたことが、米国の軍法会議及び上下両院の合同調査委員会で明らかにされた。
ルーズベルト大統領とハル長官はハルノートを日本が受託しないと思い込み、日本側の回答を待つことなく野村大使に手渡した翌日にアメリカの前哨地帯の諸司令官に対し、戦争の警告を発し戦争体勢に入ることを命令している。
日本を窮地に追い込み、日本を挑発することで日本を戦争をしかけさせ、ルーズベルトは第二次世界大戦参加のきっかけを作った。戦後、ピアード博士、タンシル教授、グルー大使、キンメル太平洋艦隊司令長官、ウェッデナイヤー陸軍大将など、有力な当時のアメリカの責任者たちは次々と証拠を基に明らかにした。
ついに日本は開戦せざるを得なくなって、山本司令長官の連合艦隊は千島に集結してハワイへ向かった。ルーズベルトは、真珠湾から新鋭戦艦十九隻と二隻の航空母艦を外海に移動させ、廃船に近い戦艦十九隻を集めて連合艦隊の攻撃を待っていた。
開戦当時、太平洋艦隊司令長官だったセオボルト少将は、その著書「真珠湾の最後の秘密」で「真珠湾は日本に最初の一発を放たせるためのオトリであった」と証拠を上げて述べている。
キンメル司令官はレーダで日本軍の動向を捉えていたが、奇襲攻撃が成功するようにハワイの部隊には伝えなかった。この結果、ルーズベルトが望んだように、真珠湾の奇襲を騙し打ちと決めて宣伝し、アメリカ国民を怒らせて開戦へ駆り立て、世界史にアメリカの正当性を残そうとたくらんだのである。
ルーズベルトの長女の夫、カーチス・B・ドールの告発の書「操られたルーズベルト」で、ルーズベルトは会食の席で家族に「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ」と述べた。真珠湾攻撃前日の会食では「明日戦争が起こる」とつぶやいていたと記録されている。
アメリカでは大統領には宣戦布告する権利がなく、宣戦布告するのは議会の権限とされている。真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は日本に対し宣戦布告を求める議会演説を行った。この演説に、下院議員として支持する演説をせざるを得なかったのがハミルトン・フィッシュⅢ世である。
フィッシュは「ルーズベルトの開戦責任」で、ハル・ノートのことは全く知らなかったと述べている。
ハル・ノートは、誰がどう見ても宣戦布告そのもの。これを突きつけられたら、どの国でも開戦せざるを得ない。ルーズベルトは国民を欺いた。
フリーダム・ビトレイドで、フーヴァー前大統領が日本でマッカーサー大将と話し合ったことが記録されている。
私が、日本との戦争のすべてが戦争を開始したいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサー大将も同意した。
1941年7月の日本に対する金融制裁は、挑発的であったばかりでなくその制裁が解除されなければ自殺行為になるとわかっていても、日本が戦争せざるを得ないような状況へ追い込んだのだ。
制裁は、殺戮と破壊以外のすべての戦争行為を実現させるものであり、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば我慢できることではなかったと述べた。この私の発言にもマッカーサーは同意した。
1951年5月のアメリカ上院の軍事外交合同委員会でマッカーサーは、日本の戦争は自衛戦争であったと証言している。
日本人は工場を建設し、多くの優秀な労働力を抱えていましたが、原料を算出することができません。
日本には蚕を除いては、国産の資源はほとんどなにもありません。彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油の算出がなく、スズがなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。
これらの供給が断たれた場合には、日本では1千万人から1千2百万人の失業者が生まれるであろうという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要にせまられてのことだったのです。