1 力道山の誕生
1-1 キム・シルラクの故郷
金信洛(キムシルラク)の出身地は、朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡南道浜郡龍源面新豊里37番地で、父親は金錫泰(キムソクタイ)と母親巳の三人兄弟の末っ子であった。家は貧しく漢学者であった父親は働かず、母親が米を作るかたわら雑貨屋を営んでいた。
信洛の少年時代は「シルム」という格闘技の力士として剛腕をうならせ、兄たちとともに家計を助けていた。5月5日や8月16日に行われるシルムで優勝すると牛1頭、準優勝には米1俵という賞品だった。信洛は長男とともに大会を荒らしまわった。
シルムは激しい相撲で、互いに距離を取りながら突っ張りや張り手を連発させる。まともに顔面に食らえばそのまま血反吐をはいて土俵に叩きつけられるという妥協を許さぬデスマッチだった。たまたま朝鮮にやってきてシルムを見学した百田巳之吉に目を止めた。
百田巳之吉は長崎県で興行師や置き屋の経営をしていた。大の相撲フアンで二所ノ関親方や元横綱玉の海の後援会幹事をつとめていた。信洛の雄姿を見てすっかりほれ込んだ百田は、信洛をスカウトして日本へ連れ帰った。昭和14年のことである。
玉の海は信洛を秘蔵子として可愛がったが、理由なき民族差別のまっただなかで生き抜くためには出世するより道はなかった。新弟子の生活は辛く苦しい。買い出し、薪割り、チャンコづくり、給仕、洗濯、関取衆の背中流し、巡業の荷物運び、使い走り等々。
金信洛は力道山信洛の四股名で昭和15年夏場所で初土俵を踏み、昭和17年春場所の東三段目で全勝優勝、昭和19年夏場所で東幕下優勝している。昭和23年5月場所では、前頭3枚目で殊勲賞を獲得、新入幕から四場所で東の小結に昇進した。
関取衆が起きると新弟子は土俵に上がれない。力道山はどんなに寒い朝でも、暗いうちから土俵に上がり稽古に励んだ。同期の力士を誘いむやみやたらとぶつかっていく。組み打ち、押し合いを何度も重ね、関取衆が起きてくるころには汗が滝になって流れ落ちた。
太鼓腹になるために、飯はどんぶりで一度に15~6杯をたいらげ、ビールは50本飲んでもびくともしなかった。昭和17年に二所ノ関部屋に入門した芳の里は、後輩にあたる若ノ花(後の二子山理事長)とともに、よく力道山に稽古をつけてもらった。
1-2 修羅の男
己の闘争心を掻き立てることにおいては、力道山のやり方は独特だった。芳の里や付き人の田中米太郎を連れて料理屋へ繰り出し、大一番の前日になると力道山は異常に興奮した。大鉢の中の料理を全部放り出すと、芳の里に向かって吠えた。
「芳の里、ここにその酒を入れろ」。たらいほどもある大鉢になみなみと酒を注ぐと「よし、それを一気に飲み干せ」。途中で息を吸えば、傍らのビール瓶で力まかせに頭を殴られる。付き人の田中米太郎は、何度殴られたかわからない。
「おれが飲んでやる」と力道山は一息で飲み干した。この程度は序の口である。「これを食ってみろ」と差し出したのはガラスのコップである。芳の里は肝をつぶしたが、食わなければいやというほど打ちのめされる。
ガラスの破片が口腔に突き刺さり、口の中は血だらけである。見ていた力道山が苛立って叫んだ。「芳の里、こうやって食うんだ」。コップを手にした力道山は、縁に添いながらぐるぐる回してかじっていく。ガラスが細かく砕ける鈍い音が聞こえる。
すべて口の中に入れると、まるでいくつもの飴をいっぺんにかみ砕くようにして飲み込んでしまった。常識では考えられないことを人に強い、この野郎と思わせて相手の闘争心をかきたてる。
返す刀でおのれに対しては、血走った相手に挑戦状を叩きつけられた時のようなどん詰まりに追い込んでいく。自分を火と燃え上がらせ、張り詰めさせた闘争心を翌日の大一番で爆発させた。力道山はまさに修羅の男であった。
愛媛県松山市の巡業で稽古を終えてまわしを締めたままの力道山は、県大会の百メートル競争に飛び入りで参加し裸足で走った。みごとに1位となり、小学6年生の時に千葉県陸上部で敵なしだった芳の里の舌を巻かせた。
そんな力道山は、喧嘩も日常茶飯事で一晩に2回は当たり前だった。夜遊びには脚力を見込んで必ず芳の里をつれていった。巡業で地方を回っていると、かならず土地のやくざや有力者から座敷を設けられる。力道山は酒を飲むと人が変わった。
酒乱である。だが力自慢の相手が因縁を吹っかけてきても3度までは我慢をした。4度も5度になるともう黙ってはいない。相手がたとえ10人であろうと、鍛え上げた剛腕で全員を殴りつけ血の泡を吹かせた。
芳の里が割って入る間もない速さである。呆然とその光景を見ている芳の里にことごとく相手をのばして力道山は叫んだ「芳の里、逃げろ!」。ふたりは一目散に走りだした。逃げ足は速い。かたがつけばかならずそうやって逃げた。
逃げるのは警察沙汰になることを恐れたからだった。これ以上やっては、相手を殺してしまうかもしれなかった。ものすごいスピード出世のため、力道山は兄弟子からうんさ臭がれていた。嫉妬、羨望、怨恨が、兄弟子たちのあいだに渦巻いていた。
神宮外苑の相撲場へ横綱でも国電千駄ヶ谷駅からとぼとぼ歩いてゆく時代に、オートバイで疾走してゆく入幕間もない力道山は、先輩格の力士たちから反発を買うのも当然だった。力道山が朝鮮出身であることは、兄弟子クラスなら誰も知っていた。
そのため稽古が終わると力道山はすぐに街へ出て行った。街へ出ていくとまた喧嘩三昧である。ときには髷を結った頭でスーツをピタリと決め、大型バイクのインデアンにまたがる。けたたましい爆音を轟かせ、猛スピードで焼け跡の東京を疾走した。
よく通っていたのは柳橋のふぐ料理屋である。座敷に上がるとかならず特別に注文。出されたのはマグロのように厚く切ったフグの刺身である。それを強靭な歯で噛み、一升瓶をラッパ飲みに一息で干す。あげくのはてに、弟弟子にガラスのコップを食べさせる。
何ものかに立ち向かう怒り、苛立ちのようなものがそう仕向けているようだった。己を傷つけ他人を挑発し、それによって再びおのれを奮い立たせる。まるで勝負の世界に棲む魔物に取りつかれ、自分の顔を思わずかきむしってしまう自家中毒患者のようだった。
力道山の勝負への執着は人並み外れていた。力道山の張り手が顔面に炸裂して大関東富士は張り倒された。のちに横綱となる千代の山との対戦では、攻める隙を与えずに張り手とつっぱっりで土俵の外へ吹っ飛ばした。だが、力道山は二人にかわいがられた。
1-3 自ら力士廃業
プロレス王としての力道山の生みの親となる一代の侠客、新田新作と出会ったのは昭和23年5月場所後に小結に昇進してまもなくのことである。新田新作は戦前から博徒として鳴らした人物で、戦争中は日本橋蛎殻町一帯の賭場を仕切っていた。
戦中は捕虜収容所に勤めアメリカ軍の捕虜たちにタバコや菓子などの差し入れをした。戦争が終わり解放され、アメリカ軍に復帰してGHQの高級将校となった人物がいた。彼は戦争中の新田の恩を忘れず、日本の復興のため焼け跡の整理を新田に任せた。
東京下町一帯の焼け跡の復興は新田が一手に引き受け、アメリカ軍のキャンプも建設した。新田建設を興し、GHQから入ってくる豊富な資材と潤沢な資金で、新田はたちまち実業家として財を成した。
背中から手首まで全身入れ墨をほどこした博徒は、戦災で焼けた明治座の復興も松竹に頼まれて見事に果たし、明治座の興行も一手に引き受けることになった。さらに、復興と興行に乗じて由緒ある明治座の社長まで手中に収めた。
GHQとのつながりが、新田を一介の博徒から実業家へと大転身させた。新田新作の名は日本橋一帯で知らぬものはなかった。路地裏の老婆でさえ「蛎殻町の会長」と呼んだ。その人物と力道山が出会ったのは、横綱東富士の紹介であった。
東富士はまもなく横綱になり、力道山は東富士の太刀持ちだった。「横綱、横綱」といってぴったりと寄り添ってくる力道山を、江戸っ子で人のいい東富士はかわいがった。新田は九州山に大関時代の東富士を紹介され、新田は東富士の最大の贔屓だった。
新田は人形町近くの浜町川岸に3千万円をかけて仮設国技館を建設して日本相撲協会に寄付した。これにより新田は、押しも押されもさせぬ相撲界の大立者として君臨することとなった。力道山が新田と親しくなったのはこの頃である。
力道山は、昭和24年5月場所に関脇として登場した。しかし、場所前にアクシデントが起こった。全身が熱っぽく、咳や淡がとめどもなく出た。吐き気が治まらず、体重が見る間に落ちて18キロも痩せた。力が全く湧いてこない。
これまで1日も休場したことがない力道山は医者の制止を振り切って土俵へあがた。結果は3勝12敗で関脇の座は吹き飛んだ。場所前に川カニを食べたのが原因で肺ジストマに侵されていた。アメリカから取り寄せた薬を注射してもらい2か月後に退院した。
ところが、入院費用、薬代、注射代などとても個人で払える金額ではなかった。親方や相撲協会に相談しても知らぬ顔をだった。力道山の入院は二所ノ関部屋には知らされず、自慢のオートバイや自宅を売り払ったが足りなかった。
出羽ノ海部屋の有力後援者だった針金の製造工場を経営していた小沢に泣きつき、すべての費用を支払ってもらった。力道山の相撲界に対する不信感は、消えるどころかますます膨らんでいった。二所ノ関親方との関係も完全に冷え切っていた。
関脇に返り咲いた場所で8勝7負けと勝ち越したが、東の関脇にはならなかった。民族問題が力道山の出世を阻んだのである。さらに肺ジストマの後遺症が現れ、できものが体のあちこちにでき、それを掻きむしらなくても血が皮膚を食い破るように流れ出た。
昭和25年は大相撲の観客は7割入ればいいほうで、巡業に出れば決まって赤字となった。力道山の手元に金がほとんどなくなった。神奈川県の巡業で取り組みを終え、親方に法外な借金を申し入れて断られると力道山は二所ノ関部屋から姿を消した。
力道山は巡業先を飛び出したあと、贔屓である新田新作にあてがわれた日本橋浜町の自宅へ戻った。親方と喧嘩をしたら相撲取りをやめるしかない。一晩泣き明かした翌日両目は腫れ上がり、瞼がふさがったような姿で明治座の新田新作を訪ねた。
「わしはもう土俵に上がらん決意をしました」と新田に話して軽挙妄動を叱り飛ばされたが、力道山は何も言わずに明治座を出た。8月25日の夜明け、台所から刺身包丁を引っ張り出し、音をたてないように思いを込めて静かに砥石で砥いだ。
髷を結わえてある元結をほどくと、髪が両肩になだれ落ちた。左手に束ねて持ち、右手の持った刺身包丁を逆手にもって髪に当てた。うっと声を詰まらせるや、気合一閃、思い切って包丁を引いた。力道山はその場に立ちすくみ声を殺してひとしきり泣いた。