1 禁止されたチャンバラ
戦前から日本映画の人気を支えていたのは、五大スタート言われた時代劇俳優、坂東妻三郎、嵐勘十郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門だった。しかし、GHQ(連合軍総司令部)の占領政策で刀を振り回す時代劇映画は禁止された。
このため、市川右太衛門は得意の華麗な立ち回りを披露することができず、世話物の「お夏清十郎」や「ジルバの鉄」でジルバを踊るマドロスを演じていた。「多羅尾伴内」シリーズでは片岡千恵蔵が七変化の探偵を演じ、林家木久扇が頻繁に真似をしている。
時代劇は勧善懲悪の単純な娯楽で、だからこそ多くの人の楽しみにつながっていた。GHQから「たとえいい人でも武士の殺し合いはダメだ」と禁じられていたが、昭和3年に初監督として時代劇一筋で通してきた松田定次は、何が何でも時代劇を撮りたかった。
東映の前身である東横映画は、プロデューサーのマキノ光雄が中心になり昭和22年から京都で製作を始めた。監督の松田定次、マキノ雅弘、脚本の比佐芳武、俳優の市川右太衛門、片岡千恵蔵と、時代劇を知り尽くしている映画人が集まっていたがむなしかった。
脚本家の小川正は、庶民のために役人に反攻する国定忠治の物語ならアメリカへの反抗心を呼び起こして共感を呼ぶはずと考えた。忠治は侠客だが商人として登場し民衆のために水田に水を引くという物語で、悪代官も登場し立ち回りもあった。
小川正が書いた脚本で松田は昭和21年に坂東妻三郎主演の「国定忠治」を撮った。そのころGHQの映画検閲官にウォルター御旗という日系二世がいた。父親がハワイや西海岸で日本映画を輸入していたせいで、戦前から小川はこのウォルターを知っていた。
ウォルターと小川はゴルフを通じて親しくなり、いつも厚木飛行場近くの進駐軍ゴルフ場でプレーをしていた。ウォルターは賭け事が大好きだった。伊豆・川奈ゴルフ場で、1ドルから始めてホールを連続して取れば倍々になっていく賭けゴルフをした。
18ホールすべて負けると天文学的な金額になるという危険な賭けに小川は勝ち、金の代わりに「国定忠治」を検閲で通すように求めた。ウォルターはああしろこうしろといろいろ条件を出して10回位突き返したが、上映すると映画は大当たりだった。
チャンバラ映画が堂々と撮れるようになったのは昭和25年で、市川右太衛門は「旗本退屈男」シリーズを松田監督の「七人の花嫁」で復活させた。三日月型の眉間の傷に派手な装束で巨悪を暴くという退屈男は、佐々木味津三の小説の映画化である。