はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第20章 カラオケ

日本人の2人に1人はカラオケを楽しむ。おじさんたちは夜の酒場でマイク片手に仕事のうさを晴らせば、若者や主婦はカラオケボックスで盛り上がる。戦後が産んだ最大の庶民文化だが、そのカラオケが生まれ発展するには思わぬ工夫があった。

1 消えてしまった流し

むかしから日本では結婚式や祝い事があると宴席には酒と歌がつきものであり、宴たけなわともなれば大きな声で歌う人が多かった。しかし、居酒屋やスナックでは、ギターの弾き語りや流しの方に金を払って楽しむのが一般的であり、客が歌うことはまれだった。

そんな時代にカラオケが登場しても、酒場の客の中には「なぜ人前で金を払ってまで歌わなければならないんだ」といった雰囲気が強く、誰もが歌って楽しむという雰囲気ではなかった。誰でも好きな歌を気軽に歌えるようになるには相当後の事である。

秋田市随一の繁華街「川又」の夜が更けると、ギターを背負った男が姿を現した。「ヒラさん『川又ブルース』をお願い!」スナックのおなじみさんが声をかけると、ヒラさんは自慢の喉を披露し始めた。今は姿を見かけることがなくなった流しの演歌師である。

ヒラさんこと平元利春は九州の筑豊出身である。戦後すぐに長崎の炭鉱の寮に住んで積み込みの仕事をしていたが、そこで先輩からギターの手ほどきを受けた。しばらくして炭鉱で爆発事故が起き、40人ほどの犠牲者が出た。朝、一緒に寮を出た同僚も死んだ。

平元は炭鉱に見切りをつけて名古屋へ働きに出た。務めていた豆腐店を辞めて困っていると、知人が流しの親方を紹介してくれた。ギターをちょっと弾いたら、早速今晩からということになり3人一組で回ると、初日にいきなりお客さんから千円を渡されて驚いた。

炭鉱時代の一ヶ月分の給料であり10代のころだった。平元は一年もすると若い者を引き連れるほどになっていた。名古屋から岐阜、長野からに新潟へと足を延ばし、旅人と呼ばれる演歌師となっていた。

昭和30~40年頃は最低でも一晩5~60曲は歌っていた。一晩中一つの店から出られないこともあり、そうすると「お客さんが待っているんだから早く来て」と他の店から文句が来る。3曲で100円だったがいい稼ぎだったそうだ。

秋田に居を構えたのは昭和36年のこと。一時期は10数人もの若い者をかかえていたこともあり、演歌師の渥美二郎も平元を師と仰ぐ一人であった。全盛期に名古屋でも70~80人の流しがいたというが、15年ほど前から急激に少なくなった。

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最大の原因はカラオケの普及だった。平元はカラオケを恨んでいるわけではない。「現在はカラオケを置いていない店はほとんどありませんね。いまは2曲で1000円ですがひどいときは一晩で2000円しか入らない日もあったんですよ」。

カラオケには、カラオケの良さがあると十分認めていた。「でも、心がこもっていなよね。私の場合は、お客さんの声に合わせて弾いているから、みんな歌いやすいと言ってくれる。ヒラさんが辞めると川又の灯が消えるという人もいるしね」と懐かしむ。

カラオケの登場は盛り場の風景を一変させた。芸者の姿が消え、ホステスはカラオケ機械の操作が主な仕事になってしまった。ジュークボックスもお目にかかれなくなった。平成6年の長者番付の全国第二位にアシャー・コ-ガンとジュークボックスいう女性の名があった。

夫の故アシャー・コーガンが設立したカラオケ機器のタイトーの株譲渡益が収入の大部分だという。ジュークボックスは戦後進駐軍と共に日本へ上陸した。このアシャー・コーガンがジュークボックスを日本に広めた先駆者だった。

ジュークボックスは戦後、進駐軍とともに日本へ上陸した。ボタンで選曲するとレコードを自動演奏してくれる魔法の装置は、米軍キャンプの生活必需品だった。進駐軍が撤退するたびに払い下げ品が放出され、米軍払い下げのジュークボックスに目をつけた。

ウオッカの販売先だったバーなどに卸したところ評判がいい。名古屋の松坂屋で展示販売したところ、黒山の人だかりができて大変だった。昭和30年代から40年代にかけて「ジュークボックスの時代」となり、全盛期には全国で10万台を数えたという。

タイトーはゲーム機の製造販売を始めたこともあり、カラオケが世に出た昭和47年頃にはジュークボックスから手を引き、カラオケに乗り換えている。カラオケの登場と共にジュークボックスはどんどん姿を消していった。

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2 下手な社長のお陰で

港町、神戸。外国航路の玄関口として栄えたこの街は、日本での映画館、ゴルフ、ジャズなどの発祥地として知られている。そして、カラオケもまたこの町で生まれた。神戸には流しの歌い手は育たたず、弾き語りもいなかった。

カラオケ販売会社クレセントの井上大祐創業者が、業界ではカラオケ装置を最初に造った人と言われている。流しや弾き語りという職業は、店から店を渡り歩いてギターやピアノを弾きながら自分で歌うと云うのが一般的だったという。

ところが神戸ではクラブやキャバレーと専属で契約し、しかも自分では歌わずに客の歌の伴奏をするという職業が成り立っていた。彼等は「先生」と呼ばれ、人気のある先生は店の間で引き抜きもされることがあった。

クレセントの井上大祐も先生と呼ばれた一人だった。高校在学中からダンスホールでドラムを叩き、その後ジャズバンドに入ってクラブを回っていたが、昭和45年に29歳で弾き語りを始めた。といっても楽譜は読めない。

有線放送で曲を覚え慣れないキーボードをたたいた。もちろん上手な先生ではなかったが、それがかえって重宝がられた。口を見ながら下手な人にも合わせた。18番は何という曲かで、どれくらいの高さの声が出るかまで覚えたので下手な人ほど御贔屓にした。

昭和47年頃のお客さんに鉄工関係の会社社長がいた。めちゃくちゃなテンポで自分勝手に歌うタイプで、井上でなければ合わせられない。その社長が有馬温泉で会合を持った時、井上は呼ばれて伴奏をしたほどだった。今度は石川県の加賀温泉に来いと云う。

店を開けられない井上は一計を案じた。小さいオープンリールのテープに社長が得意にしていたフランク永井の歌三曲の伴奏を吹き込んで渡した。加賀温泉から返ると、今度は「有楽町で逢いましょう」を作ってくれという。あっ、これば商売になるなと思った。

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井上は弾き語りのかたわら、音楽テープを喫茶店にレンタルする商売もしていたカーステレオなどで使われていた8トラックのテープだった。カセットに比べ頭出しが簡単で、レコードと比べ手間がかからない。この8トラックを使えばカラオケができると思った。

歌詞抜きの「君の瞳に恋してる」を編集し直したことをきっかけに、ギターとアコーディオンとドラムの3人で録音して空演奏のテープを製作した。さらに、アンプにエコーをつけて、百円で5分間作動するタイマー付きコインボックスとマイクをつけた。

これに「8ジューク」という名をつけて第1号カラオケマシンが完成した。神戸市内のスナック11軒に置いてもらった。ところが一曲も利用者はいない。井上がいたクラブの女の子に「サクラ」になってもらい、歌い終わると隣りの客に勧めてもらった。

井上大祐

最初は恥じらいながら歌っていた客は病みつきになって、次の日はスナックが空くと同時に練習に来たそうだ。それからは次から次へと注文が来るようになった。井上は特許を取らなかったため、100億円ともいわれる特許料を逃したが後悔はしていない。

その後のカラオケ革命についていけず苦汁をなめたのはクレセントの井上大祐だった。炭からガスに替わったときも徐々に浸透していったように、8トラックからレーザーへと云っても移行期間に3年はかかるだろうと思っていた。

テープ工場を作るなど投資をしていたので引くに引けず、さらに引くのが惜しかった。経営が身についていないバンドマン上がりの悲しさだった。

1999年アメリカ「タイム」誌の特集「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」に「世界の夜を変えた」として、井上大祐が選ばれた。2004年9月30日にカラオケの発明者として、イグ・ノーベル賞(愚かなノーベル賞)の平和賞を受賞した。

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3 カラオケの誕生

カラオケのもう1人の発明者は浜崎巌である。浜崎は1968年頃にスロットマシンなどの娯楽機械を輸入販売する会社「昭和娯楽」を経営していた。膵臓病で入院中にジユークボックスを小型化出来れば、カウンターだけの狭い店にも置いてもらえると考えた。

当時、すでにジュークボックスは広く普及していたが、レコード盤を使った大型のものばかりだった。その上、レコード盤のジュークボックスは大きすぎて導入しようにも、カウンターだけといった小さな店では置けなかった。

その前にも、ジュークボックスにマイクをつけて歌っている人がいたので、カラオケ的な発想は以前からあったようだ。昭和44年に濱崎巌が、テープを使えば小型のジュークボックスが作れるのではと考え、8トラックの製造販売会社に提案して7台作った。

1970年に完成したのが「ペティジューク203」という名で、ソフトは8トラックカートリッジ1巻に24曲を入れ、6本(後に12本)を付けて販売開始した。タイマーも装備しており、100円を入れると30分間だけ聴けるようになっていた。

「ペティジューク203」は、レコードジュークボックスのようにただ音楽を聴く装置に過ぎず、付属の8トラックカートリッジは再生専用の音楽テープだった。小型のジュークボックスだったが、それでも狭いバーやスナックなどに良く売れた。

店から「この機械で歌えるようにして欲しい」という声が寄せられようになった。そこで歌手の声だけ小さく再生する機能を付け、オーケストラの演奏に合わせて歌えるようにした。その後、この機械にマイクミキシング機能を付ければもっと面白いと思いついた。

浜崎は事業化を決意し帝国電波(現在のクラリオン)に製造を依頼、マイクミキシング機能を付けた「歌えるジューク」として販売した。この「歌えるジューク」がバーやスナックで大変な人気を呼び、東京だけでなく全国に広がって行った。

この頃のテープの中身は貧弱で、民謡や軍歌が多かった。大手のレコード会社が出しているような流行歌を簡単には利用させてもらえなかったからだろう。

カラオケのテープも機械もどっと出始め、夜の盛り場はジュークボックスからカラオケへ主役が交代していった。その頃、兵庫の柴田卓己は「ファッショナブルステレオ」の在庫の山を抱えて弱り切っていた。

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8トラックのテープデッキにレコードプレーヤー、カセットデッキ、チュ-ナーまでがセットになっているステレオだった。8トラックでは実績があったが、カセットやチューナーの技術は未熟で、電子チューナーに故障が多く、苦情や返品が相次いでしまった。

8トラックとアンプには自信があったのでセットにして売り出そうと考えた。ラジオから流れていた「歌の歌謡曲」を録音して、スナックにおいてもらうと評判がいい。電気店を通して500台ほど販売できた。8トラックテープ

そこで、本格的に歌ってもらうためにテープを東芝EMIに依頼して作ってもらった。昭和50年の春に、歌いにくいという苦情が柴田の下へ寄せられるようになった。作ってもらったテープにはメロディが入っていたので歌いにくかった。

いったいどうなっているんだと東芝EMIのディレクターに文句を言うと、「歌えませんよ。カラオケじゃないとね」と言われた。カラオケってどういうものだよ聞くと、メロディーのないオーケストラ演奏の事だと教えてくれた。

そこで、兵庫クラリオン独自でカラオケテープを作った。それを本社が面白いと認めてくれて商品化された。昭和51年8月にクラリオンは「カラオケ8」の商品名で、業務用カラオケ機器を売り出した。カラオケという名は柴田卓己が考案したものである。カラオケデッキ

空のオーケストラという意味のカラオケという言葉は、以前からバンドマンの用語として音楽業界でよく口にされていた。だが、定説ではこの「カラオケ8」が商品名に使った最初ということになっている。しかし、流しや三味線芸者など商売を奪われた人からは恨まれた。 (写真は後世の製品)

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4 カラオケ機器のリース

ところが、「何言うてまんのや。誰が早いとか言えるもんやありません。俺に言わせれば、俺が一番早い」と話すのは、日光堂の高橋喜三郎創業者である。昭和50年5月に業務用カラオケ機器の販売を開始したとき、カラオケジュークの名前だったという。

昭和37年にレコード店の経営から出発した高橋は、録音テープが出てきたときにレコード販売は将来衰退すると考えた。ラジオから録音できるので、だれもレコードを買わなくなるだろう推測した。高橋喜三郎

当時、夜の街にはスナックが出現していた。あまりにも急に増えすぎて女の子の数が不足している。そんなときに、ギターの流しに合わせて客が大勢で歌っている光景を目にした。テープに伴奏を録音して客に歌わせれば、女の子が相手をしなくても済む。

これは商売になるのではないかと、4軒あったレコード店をすべて売って賭けにでた。「正倉院には琵琶があるほど、人類は昔から音楽と共に生きてきた。うれしいとき悲しいとき人間は歌を歌ってきたわけで、歌は絶対に滅びない」という理由だった。

最初に30台作り、付き合いのあったジュークボックス業者を招いて展示会を開いた。ジュークボックスは一曲20円だったが、カラオケは一曲百円取れると思った。そしたら一か月で25万円入る。競争相手も少なかったし大手の参入も遅かった。

大阪で高城が商売をはじめたころ、東京でもカラオケを保志忠彦産業として確立させた男がいた。現在業界最大手と言われる第一興商社長の保志忠彦である。北海道生まれの保志は27歳で上京し、電機器具の販売を経てジュークボックスの営業をしていた。

ところがジュークボックスは高すぎてそれほどもうからない。そんな時にカラオケを知り、これはいけるとひらめいた。昭和52年からリースを始めたが、バーやスナックにリースしてある機械などは担保にならず、融資が下りない。

資金もないのにがむしゃらにつぎ込み、その利益を資金に充てるという自転車操業の繰り返しだった。だれにも害毒を及ぼさず、逆に喜んでもらってなおかつ、儲けさせてもらえる。本当にいい商売に行き当たっと思いますねと保志は語った。

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5 ビデオソフトの登場

昭和53年8月15日、それまでの常識を揺るがすようなカラオケソフトが発売された。それまでのカラオケは頭出しが簡単な8トラックのテープから曲が流れ、客は歌詞カードを見ながら歌うだけだったが、その曲と歌詞をビデオテープに収めたものだった。

画期的なカラオケビデオを作ったのは東映ビデオだった。ビデオ製作責任者だった小倉紀行は次のように語る。「当時は家庭用ビデオ機材は値段が高く、それほど普及していなかった。そのため、ビデオソフト会社も経営は苦しく、当社も細々とやっていました。

そんなとき、営業マンの一人がカラオケのアイデアを出した。歌うとき歌詞カードで探すのは大変だが、歌詞を画面に出したら便利ではないか。ついでに、映像を流したら面白い。これいけるとなって、早速制作が始まった。

一番最初に作ったのは軍歌で、海軍編と陸軍編の12曲ずつ収録した。ビデオ機器の展示会へ持って行くと評判がいい。遺族会からの問い合わせも相次ぎ、オリジナルのビデオソフトとして商売になると小倉は確信を得た。

その後、演歌や民謡も出すということになり、最終的には一巻四曲入りを150巻を製作した。難しかったのは、この歌にどのような絵を着けると良いかだった。映画の主題歌ならその映像を当てればよかったが、見当もつかない曲もある。

はじめは地名の入った曲から手を付けたが、だんだんなくなって頭を悩ませた。それでも数百本売れればいい時代に、何千本も売れたからかなりのヒット商品だった。だが、絵に出るカラオケにも欠点は多かった。頭出しが容易ではなく、ビデオテープは劣化した。

音響メーカのパイオニアから企画が持ち込まれた。独自に開発した「レーザーディスク」を発売していたが、テープに比べ鮮明な画像と音が特徴のニューメディアに注文が殺到したが、すぐに売れ行きがパタッと止まってしまった。

パイオニア営業本部長の工藤恒夫はこう説明する。「再生しかできないのにソフトが少ないわけです。東映ビデオのカラオケが人気があるらしいと聞いて、苦肉の策としてこれをレーザーディスクでやったらどうかと考えました。」

東映ビデオの映像をそのままレーザーディスクに収録し、まずは200曲でスタートした。1枚10曲入りで定価は12,500円だった。営業部は月に100枚売れればと考えたが、500枚をプレスすると10日で売り切れてしまった。

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6 カラオケボックス

第一興商、日光堂といった大手カラオケ業者が参入し、他にも日本ビクターや松下電気がVHD方式、ソニーがCD方式を発表するなど「絵の出るカラオケ」は夜の盛り場を席捲した。岡山市街から新岡山港へ向かうと「カラオケ広場」という大きな看板がある。

コンテナを改造したカラオケボックスが数棟置かれ、日本中でおなじみの「カラオケボックス」は佐藤洋一が創始者である。昭和60年5月に佐藤の妻が運転していた車に一時停止を怠った車が突っ込んできた。妻は3日間意識不明となり10か月間入院された。

妻が経営していたカラオケ喫茶の常連客が歌いたいと店にやってくる。妻抜きで喫茶店をやるのは無理だった。近くのうどん屋さんにカラオケを置いてもらうと、長居する客がいて回転が悪い。それじゃあカラオケだけを置いて勝手に歌ってもらおうと考えた。

業務用のトラックからコンテナだけを外してうどん屋の隣に置いた。勝手に一曲百円を払って歌ってくださいとしたら、そのうち若い人が来るようになり、グループ同士でいさかいを起こすようになった。それでもう一部屋作って一時間千円で貸し切りにした。

評判は上々で、土地の借り賃の助けになればと思っていたが、一ヶ月で30万円も入るようになった。気をよくして7台並べたら、土曜日曜は朝から予約が殺到するほどで、4年後には5億円近くも売り上げていた。戦後史開封

このアイデアが及ぼした影響は小さくなかった。それまで夜酒を飲みながら歌うものだったカラオケが、ボックスの出現以降は酒なしでも歌える道具になり、中高生から主婦、お年寄りまでカラオケ族の仲間入りをした。

その一方で、カラオケは日本を離れて海外にもどんどん普及していった。業界大手の日光堂は中国語のカラオケを作り始め、現在は13カ語を作っている。特に、アジアは、中国、台湾、フィリピン、タイ、それにミャンマーなどに次々進出した。

カラオケは普及するに従い客同士の殺人事件も起き、騒音問題や著作権問題、さらにはカラオケボックスが非行の温床になるといった批判もあった。平成4年にダイトーは通信カラオケがを売り出し、現在はカラオケ各社から光ファイバーによる配信が行われている。

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謝辞:文中の敬称は省略させていただきました。

参考文献:戦後詩開封1(産経新聞社)、一般社団法人全国カラオケ事業者協会HP、カラオケ秘史(烏賀陽弘道著 新潮社)など