1 消えてしまった流し
むかしから日本では結婚式や祝い事があると宴席には酒と歌がつきものであり、宴たけなわともなれば大きな声で歌う人が多かった。しかし、居酒屋やスナックでは、ギターの弾き語りや流しの方に金を払って楽しむのが一般的であり、客が歌うことはまれだった。
そんな時代にカラオケが登場しても、酒場の客の中には「なぜ人前で金を払ってまで歌わなければならないんだ」といった雰囲気が強く、誰もが歌って楽しむという雰囲気ではなかった。誰でも好きな歌を気軽に歌えるようになるには相当後の事である。
秋田市随一の繁華街「川又」の夜が更けると、ギターを背負った男が姿を現した。「ヒラさん『川又ブルース』をお願い!」スナックのおなじみさんが声をかけると、ヒラさんは自慢の喉を披露し始めた。今は姿を見かけることがなくなった流しの演歌師である。
ヒラさんこと平元利春は九州の筑豊出身である。戦後すぐに長崎の炭鉱の寮に住んで積み込みの仕事をしていたが、そこで先輩からギターの手ほどきを受けた。しばらくして炭鉱で爆発事故が起き、40人ほどの犠牲者が出た。朝、一緒に寮を出た同僚も死んだ。
平元は炭鉱に見切りをつけて名古屋へ働きに出た。務めていた豆腐店を辞めて困っていると、知人が流しの親方を紹介してくれた。ギターをちょっと弾いたら、早速今晩からということになり3人一組で回ると、初日にいきなりお客さんから千円を渡されて驚いた。
炭鉱時代の一ヶ月分の給料であり10代のころだった。平元は一年もすると若い者を引き連れるほどになっていた。名古屋から岐阜、長野からに新潟へと足を延ばし、旅人と呼ばれる演歌師となっていた。
昭和30~40年頃は最低でも一晩5~60曲は歌っていた。一晩中一つの店から出られないこともあり、そうすると「お客さんが待っているんだから早く来て」と他の店から文句が来る。3曲で100円だったがいい稼ぎだったそうだ。
秋田に居を構えたのは昭和36年のこと。一時期は10数人もの若い者をかかえていたこともあり、演歌師の渥美二郎も平元を師と仰ぐ一人であった。全盛期に名古屋でも70~80人の流しがいたというが、15年ほど前から急激に少なくなった。
最大の原因はカラオケの普及だった。平元はカラオケを恨んでいるわけではない。「現在はカラオケを置いていない店はほとんどありませんね。いまは2曲で1000円ですがひどいときは一晩で2000円しか入らない日もあったんですよ」。
カラオケには、カラオケの良さがあると十分認めていた。「でも、心がこもっていなよね。私の場合は、お客さんの声に合わせて弾いているから、みんな歌いやすいと言ってくれる。ヒラさんが辞めると川又の灯が消えるという人もいるしね」と懐かしむ。
カラオケの登場は盛り場の風景を一変させた。芸者の姿が消え、ホステスはカラオケ機械の操作が主な仕事になってしまった。ジュークボックスもお目にかかれなくなった。平成6年の長者番付の全国第二位にアシャー・コ-ガンという女性の名があった。
夫の故アシャー・コーガンが設立したカラオケ機器のタイトーの株譲渡益が収入の大部分だという。ジュークボックスは戦後進駐軍と共に日本へ上陸した。このアシャー・コーガンがジュークボックスを日本に広めた先駆者だった。
ジュークボックスは戦後、進駐軍とともに日本へ上陸した。ボタンで選曲するとレコードを自動演奏してくれる魔法の装置は、米軍キャンプの生活必需品だった。進駐軍が撤退するたびに払い下げ品が放出され、米軍払い下げのジュークボックスに目をつけた。
ウオッカの販売先だったバーなどに卸したところ評判がいい。名古屋の松坂屋で展示販売したところ、黒山の人だかりができて大変だった。昭和30年代から40年代にかけて「ジュークボックスの時代」となり、全盛期には全国で10万台を数えたという。
タイトーはゲーム機の製造販売を始めたこともあり、カラオケが世に出た昭和47年頃にはジュークボックスから手を引き、カラオケに乗り換えている。カラオケの登場と共にジュークボックスはどんどん姿を消していった。