平成6年3月15日(火)午前10時、札幌市立の中学校では一斉に卒業式が挙行された。本校の屋内体育館でも定刻に開会が宣せられ、来賓はもちろん卒業生とその保護者、職員の大半は挙式に参列している。
式のもようは音声が校内放送されていた。PTAの役員が父母の控え室で、正面玄関隣の事務室では生徒指導主事が外へ目を光らせながら進行状態を聞いている。わたしは取り引き業者と新年度用品の納品日を話し合っていた。卒業証書授与に続いて校長とPTA会長のお祝いのことばが終わった。
祝電を披露する声が聞こえ始める。今日の声は一段といいな、張りのある低音で。「本当にいい声ですねえ」。すばらしいテノールだよ、歯切れも響きもいいし。「音楽の先生ですか」。いや、美術の先生。そこの壁に掛かっている風景画を描いた先生だよ。「この絵を描いた先生ですか」。そう。いいだろう、校長が欲しがっていた絵だよ。
祝電の披露を終えた美術の先生は、マイクスタンドより一歩下がって一礼した。ゆったりとした足取りで自席へもどると、折畳み椅子の座席部分へ右手を伸ばしながら前のめりの状態で崩れ落ちるように倒れた。近くにいた養護教諭があわててかけ寄り美術の先生のポケットを探った。このようすを見た内科の開業医がかけつけ腕の脈を取った。
養護教諭が、美術準備室からニトロのカプセルを持ってきたとき、美術の先生は屋内体育館の後方へ運ばれ人工呼吸を受けていた。口をこじ開けようとしたが硬直して開かず、内科医は救急車の出動要請を指示した。
卒業式は20~30秒中断したが、なにごともなかったように進行していった。時折走る足音が聞こえても、生徒は卒業生の父兄が壁になって後方のようすを伺い知ることはできず、儀式は留まることなく流れていった。
事務室のインターフォンが鳴った。はい、山崎です。「救急車は来てませんか」。来てないけど、なにかあったの。「来たらすぐに職員室へ知らせてください」。養護教諭は送話器を置いてしまった。窓ガラスを開けてみたがサイレンの音は聞こえない。
2名に増えていた、業者も立ち上がって窓のそばへきた。緊張した生徒が倒れたのかなあ。「貧血ですか」。そうとしか考えられないよ。最近の子供は耐久力がないからなあ。どうしてあんなに虚弱なのか不思議だよ。「やはり、食生活の乱れですか」。さあ。そろそろサイレンが聞こえてもいいのにいやに遅いなあ。
廊下に数人の足音が聞こえる。事務室から出てみると、男の先生が担架を運んでくる。左横に脈を取りながら付き添っている男性がいる。先頭を歩いていた養護教諭が「救急車来てますか」。と叫んだ。まだ。あれっ、美術の先生生でしょう。どうしたの。「どこを走ってるのかしら、救急車わ」。
担架は事務室の前に下ろされ、内科医師が人工呼吸を始めた。養護教諭はマウス&マウスで人工呼吸を試みる。時折心臓部分に耳を押し当てた医師はつぶやいた。「止まっている。止まってしまった」。
わたしは送話器を握った。さきほど救急車の出動をお願いしましたがどうなりました。患者は心臓が停止しているんです。「近くの救急車は三台とも出動中なんです。ただいまススキノ方面から一台、そちらへ向かっています。もう少々お待ちください」。
廊下へ出てみると、養護教諭は嗚咽を繰り返しながら意識を戻そうと名前を呼び続けていた。人工呼吸をしながら医師は、私を見て痙攣が起きているという。美術の先生は顎は小刻みに震えていた。
救急車のサイレンに養護教諭が説明のため外へ走り出し、専用のキャスター付き担架が入ってきた。医師は直ちに酸素吸入が必要と救急隊員に要請したが、だれが付き添うか家族への連絡はついているかで時間が浪費される。かかりつけの医師の指示で、同学年の先生と養護教諭が付き添って移送することになった。
美術の先生宅へ電話をかけたが奥さんは不在。長男の通学先を探すと退学していた。最新情報が記入された個人票は施錠された校長専用の引き出し内に眠っている。あの校長が卒業式の式場から中途半端でてくるはずがない。万一の場合肉親が死水を取れなかったらどうしようと考えた。
騒然としている最中に、次男が通学していた中学校名を思い出した先生がいた。転校先の高等学校で授業中の長男に連絡がつき、奥さんの勤務先へ事情が通報された。倒れてより1時間20分後、美術の先生は急性心不全であの世へ旅立った。行年57歳である。
札幌市立病院へ出向いた教頭からの電話連絡を受けて緊急の職員集会が開かれた。処置のもようと治療の経過、掛かり付けの病院から市立病院への移送。遺族への連絡と現在の状態が報告された。だが、だれもが同じ疑問を持った。なぜ大病院へ向かわずに個人病院へ行ったのだろう。蘇生装置が完備している大病院へ向かっていれば、ひよっとすれば助かったのではないだろうか。
美術の先生は心臓病を抱え、ニトロのカプセルをいつも持ち歩いていた。どこのポケットに入れているか、机のどの位置に保管しているかを養護教諭は知らされていた。定期的に検査を受けている病院も知っていた。だから彼女は主治医の指示をあおいだ。奥さんは呆然自失の状態であり、死んだことを認めようとしない。養護教諭は泣きながら謝っている。市立病院へつれてくれば良かったと嘆き悲しんでいる。養護教諭が戻ってきたらそっとしてやってほしいという。
考え違いもは甚だしいと私は思わず発言した。養護教諭の嘆きはわかりますが、彼女に判断のミスはありません。直接市立病院へ行けばとだれもが考えますが、彼女は主治医に電話して指示を仰ぎました。電話を受けた主治医は、すぐにつれてきなさいと指示しました。不幸な結果になりましたが、美術の先生はこれまでの寿命だったと考えるべきでしょう。養護教諭の判断は正しいのです。どんなに悲しんでも死んだ者は帰ってきません。養護教諭が戻ったらそっとしてやるのではなく、ご苦労さまと元気づけてあげるべきです。精神誠意命を救おうと努力している姿を私は見ています。言い終わると同時に、目を真っ赤にした養護教諭が入ってきた。
美術の先生が自ら壁に掛けてくださった風景画の真下に、名札と新聞の死亡広告を貼り付けていたとき、一人のお母さんが事務室を訪れた。給食費の袋を出し忘れていたので届けにきたという。請われるままに急逝のもようをお話すると、先生を偲ぶ2~3の事象に続いて父母が主催した行事の模様を話し始めた。
卒業式の夜に開かれた謝恩会はまるでお通夜と化し、生徒の前途を祝福する先生方の言葉も涙声となっていた。退席もせずに終始泣き続けている先生もいた。このような状況下ではしかたがないのでしょうが、なんのために開いたのか解らなくなりました。参加された先生方は公私を混同されているような気持ちがしましたう。
人の死を悲しむべき事象と感じたのはネアンデルタール人が最初で、眼窟内の異物や不純物を流しだす目的の涙が感情の表現に使用され始めたのもこの時代であった。生き続けるのが精一杯であった時代から、ゆとりが生まれる時代への過渡期にこの感情は芽生えたと推測され、悲しみの感情は人類の感情の中で大きな位置を占めるようになった。
別離はだれもが悲しい。しかし、悲しみ続けるというのは個人的な感情であり、全体とは無関係な自己満足の表現手段であるともいえる。故人との別離に望んで悲しいと思わない人はいない。だが、自我の命ずるまま泣き続け他人に慰めを強いる幼児性。自己を見失い、直接関係のない者にまで悲しみを押し付けてしまう加虐性。驚くべき自己中心主義ではないだろうか。いかに泣き叫ぼうと、どんなに悲しもうと事態は好転しないのである。
悲しみを乗り越えなければ社会生活ができなくなる。事実を事実として受け入れ、心にけじめをつけさせるためには儀式が必要となる。お世話になった故人に感謝して心のけじめをつけ、死という事象の意味を考えて自らの生き方を見直すと共に、遺族を慰め励ますことが葬儀の意図である。
葬式は死者のためではなく、生存者がお互いのために故人の名のもとに行う通過儀式というのが正しい考え方である。祭壇の飾りや供花が故人ではなく、生存者の方を向いている理由を悟るべきである。
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