教育庁教職員給与係長名で「扶養控除等の控除誤りの調査について」という事務連絡が郵送されてきた。札幌中税務署から平成8年度給与所得の源泉所得税で、扶養控除等に誤りがあると思われる者について調査を求められた。別紙調査書の職員について調査し、該当とならない場合は該当とならないことを証明する書類を添付してその理由を記載すること。調査の結果、再調整の対象となる場合は所得税の追徴となるので関係職員に連絡しておくこと。
別紙をみると、S先生の奥さんについて札幌中税務署で把握している配偶者特別控除額は23万円であるが、平成8年度給与所得者の源泉徴収票に出力された配偶者特別控除額は38万円となっている。所得確認のため奥さんの源泉徴収票を添付するようにとの指示である。
S先生に伝えると、「コンビニに頼まれて1日4時間の約束で手伝っていたんです。夕べいろいろ聞いてみると、昼食を用意するからあと2時間とか、もうちょっとだけといって1時間延長とかひどく時間にルーズなんですよ。源泉徴収票は何かに使ったらしく持っていないというんですが、どうしますか」。少々急いでるって雇用者に再発行をお願いして。「真面目に申告しているのにどうして疑われるんですか。他にも何人か該当してるんですか。うちだけ調べられるのはなぜなんですか」。
おそらく何千人分の申告書の中から抽出してみたら、少々誤差があったから調べてみようだろう。30年以上この仕事をしてきたけど初めての経験さ。めったに当たるもんじゃないよ。そうだ、市役所へ行けば平成8年度分の市・道民税証明書をすぐ発行してくれるよ。源泉徴収票の再発行より早いし、ついでに宝くじを買ってきな。ひょっとすると当たるかもしれない。「そうですね。近いから、時間を見つけて行ってきます。」
放課後、自転車で戻ってくる姿が窓越しに見えたので廊下へ出て待っていた。ご苦労さまどうだった、すぐ発行してくれたでしょ。「こんなもの出せませんよ」。S先生は言葉を吐き出した。「こんなことってないですよ。証明書をみたら、80万も所得があることになってるんだ。21万しかもらってないって云ってたのに」。
通りかかった人や生徒に聞かせるわけにはいかないので、膨れている先生を事務室内へと誘い入れた。去年、扶養手当等確認調書作成のときに提出してもらった給与支払証明書の額は、たしか21万円だったよ。疲れるわりに安いって奥さんが嘆いていると云ってたでしょう。控えがあるから確認できるけど、奥さんのはなしの方が信じられるよ。
S先生はやっと証明書を見せてくれた。今年度もすでに16万円の所得があったことになっている。奥さんがパートをやめたのは昨年の3月で、それ以後は家事従事の専業主婦でしょう。先生の月給以外に収入はないよねえ。「そうですよ。どうして16万円も貰ってるんだ。あいつ何やってるんだ」。落ち着きなよ。こんなときは冷静に考えなけりゃ。「だって、市役所の証明書にある金額が間違ってるはずはないでしょう」。
夫婦喧嘩になりかねない剣幕を静め、くれぐれも余計な説明をしないで学校で必要だからと伝え、奥さんから雇用主に源泉徴収票の再発行を依頼してもらうことにした。
朝、S先生は怒り心頭に達した表情で事務室へ入ってきた。昨日、冷静になるよう静めた後に家へ電話し、すぐに源泉徴収票を貰ってこいと指示した。家へ帰ると奥さんに、公認会計士が作成するのであとで届けると云われたけど、なにかあったのと質問された。去年は本当に21万円しか貰っていないのか、今年も手伝いに行っておれにだまっているんじゃないのか。そんな、どうしてそんなふうに考えるの。俺はひとつも不正をしていないのに、所得をごまかしているって調べられるのはおかしいんだ。わたし、あなたに隠してることなんかないわ。
来客のチャイムが鳴り、ドアの閉められる音が聞こえると、奥さんは源泉徴収票を差し出した。21万の表示を見終ると、奥さんはもう一枚同じような用紙を持っている。なんだそれわ。これもとっておいてと云われたの。見ると60万と表示された源泉徴収票である。合わせて81万円。S先生は市・道民税証明書を取り出した。平成8年度の所得額と完全に一致する。
やっぱりこの額も貰っていたんだろう。そんな、あなたわたしの云うことを信じられないの。もらっていなければこんなもの突っ返してこい。折から降り出した氷雨の中、奥さんは泣きながらかっての雇用主宅を訪ね、60万円と表示された源泉徴収票を郵便受けに差し込んできた。今朝は口をきいていないという。
喧嘩なんかしてどうするのよ。だから、冷静にって云ったたろう。夕べあれから考えたんだけど、悪いのは奥さんじゃないよ。奥さんが貰ったのは源泉徴収票の金額で、証明書の額は雇用主が支払ったと申告した額さ。そうじゃなければ辻褄が合わないよ。「でも、配偶者控除の税金の差額は悪いことをしてなくても取られるんでしょ」。
先生の税金なんか論外さ。奥さんへ60万円支払ったことにして、その金はどこへいった。雇用主の懐に入ったというのが自然だろう。「えっ。じゃあ、うちのやつもぼくも利用されただけなんですか」。奥さんは被害者さ。この21万円と記載された源泉徴収票は教育庁へ郵送するよ。そのうち札幌中税務署は、雇用主の所得隠しと脱税容疑で調査に着手すると思うね。あとは心配しないで今日帰ったら奥さんと仲直りしなよ。
2日後、教職員給与係の女性より電話がきた。「源泉徴収票の額を見ますと税務署が指摘した額と違いますので、市役所から所得証明書を取って送付してください」。本人が得た所得を証明する源泉徴収票を提出したのに、なぜ所得証明書まで必要なんですか。「源泉徴収票の額以外に所得があると指摘されているからです」。本人も奥さんも他の所得はないと云っています。したがって本人達の問題ではありません。奥さんに支払ったという人がいるのなら、税務署に説明して事実を確かめてもらえばいいでしょう。違いますか。
ちょっと待ってくださいと、その女性は通話を保留にした。そして、男性の声に変わった。「税務署が指摘している額とあまりにも掛け離れている源泉徴収票の額ですから、受け取っている所得額を証明できる所得証明書を提出してもらえませんか」。何度でも説明しますが、本人が受け取った額を証明する源泉徴収票を提出していますし、それ以外の所得はないと本人から聞いています。それなのに、料金を支払ってまで他の証明書を取る必要があるんですか。
男性職員は当惑した。「税務署から指摘されたら、私たちはその証明書を提出してもらわなければなりません。なんとか所得証明を取ってもらえませんか」。平成8年度の市・道民税証明書なら先日取ったので、まだ本人が持っていると思います。しかし、そこに記載されている所得額は本人はおろか奥さんも知らない金額といいます。本人が受け取った額と一致していると認めた源泉徴収票を提出したのですから、税務署の要請に答えたはずです。だれが奥さんに多額のお金を支払ったと云うんですか。奥さんを雇用した会社がどのような申告をしたかは、税務署が調べる仕事じゃありませんか。「もらったもらわないは本人と会社の関係で、教育庁は税務署の指摘に答えなければなりません」。
その先生も奥さんも不正をするような人でないことを私はよく知っています。先生本人と奥さんを守るのは私の仕事と思い、事実確認のために若干プライバシーにまで立ち入って確認してきました。現場にいる私や教育庁が真面目に申告している先生を信じないで、いったい誰が先生方を救うんですか。「税務署が指摘した書類をそろえなければならないことをわかってください。提出しなければあとで面倒なことになるかもしれませんよ」。受け取った額を真面目に申告しているのですから、税務署の職員は二人を信じてくれますよ。そして、支払ったと虚偽の申告をしたほうを摘発してくれるでしょう。「税の証明書があるなら、それでもいいですからなんとか送って貰えませんか」。本人にその意志があるかどうか確認してからになりますので、二日ほど余裕をください。「お忙しいと思いますが、証明書を郵送戴けるかどうか、結果を電話でお知らせください」。
長電話を切ると、目の前の廊下でS先生が生徒に掲示物の指示を与えている。手が空くのを待って、後ろから声をかけると近づいてきた。どうだった。奥さんと仲直りできたかい。「おかげさまで。うちのやつ驚いていました。去年出した証明書の金額まで覚えてるのはすごいって」。それは商売だからさ。その後のはなしがあるんだけどちょっとならいいかい。「ええっ、続きがあるんですか」。
さっき、教育庁の係から源泉徴収票の金額のことで電話があったんだけど、今度は市・道民税証明書を提出してくれっていうんだ。所得がないと本人が申し出ているから必要ないと突っぱねたら、教育庁の係はかなり困っている様子だった。提出する証明書の余白に「源泉徴収票の金額以外の所得はありません。この証明書の額を支払ったと申告した側をお調べください。」と書いて記名押印するのさ。正しい所得を申告しているなら問題はないと思うが、どうする。
S先生は納得した。「お任せします。事務官は信じてくれたけど、信じてくれない人もいるんですね。お手数をおかけしてすみません」。なに云ってるんだ、こんな喧嘩なら任せておきな。行政職員は弱いもの苛めや、不正をやるやつばかりじゃないよ。
それから一時間ほどすると教育庁の男性から電話がきた。「うえの方と相談した結果ですが、本人が受け取った所得を証明する源泉徴収票が提出されたのですから、受け取っていない所得が記載されている所得証明書は必要ないということになりました」。
そうですか。本当に必要ないんですね。じゃあ、市・道民税証明書はどうします。先程先生に確認しましたら、奥さんが持っているというので明日届けてくれるようにお願いしましたけど。「証明書は学校に保管しておいてください。必要になることはまずないと思いますが」。わかりました、先生にもそう伝えます。お手数をかけましたがよろしくお願いします。
翌朝届けにきた先生に、あのあと教育庁から話はわかったと電話連絡がありこの証明書は学校で保管することになったよと伝えた。「不正を公表された職場の人達は、真面目にやっている人も自分たちと同じだと思うんでしょうね。」とS先生が嘆く。
違うよ。不正に荷担しなかった人達も白い目で見られていると思うから、自分の身を守ることだけを考えるようになる。相手の立場に立っことを忘れて指示にしがみつくのさ。許してやんなよ、最後は正しい判断をくだしたんだから。「でも、これだけゴタゴタさせた家内の父は反省するかなあ」。えっ、雇用主は奥さんのお父さんだったの。
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