1 膨らまないパン
文化祭のPTAバザーで「中学校名が入ったまんじゅう」を購入した。直径が4センチ程のあんまんが二つ入っていて、皮に中学校名の焼き印が押してある、のが市販品との違いという。一箱購入して戻ると、休息のパートさんが質問した。「事務官は、おまんじゅうが好きなんですか」。
好きというほどじゃないよ。清涼飲料水は飲まないし、アルコール飲料はバザーで扱わないでしょう。滅多に食べないけど、まんじゅうは中身より皮の方が好きだね。「どうしてですか。あんが入ってるから美味しいんでしょう」。甘いのは苦手さ。包んでいる皮のふわっとしているところが好きなんだ。「じゅあ、ふわふわの中華まんじゅうはお好きでしょう」。豚まんやあんまんかい。そう云えば中華まんじゅうもしばらく食べていないなあ。
そんな頃、新聞代の集金人が「点心」というB6判の冊子を自宅に置いていった。本場中国瀋陽市で30年以上も点心を作り続けた一級面点師と、特一級厨師に手ほどきをお願いしてまとめたものという。水餃子や焼売、小籠包や麻花(マーファ)などのレシピのなかに、皮だけのまんじゅうが載っていた。
あんまんや肉まんのように、中にあんが入っているものを「中華まんじゅう」と呼んでいたが、正確にはあんの入ったものを包子(パオズ)、何も入っていないまんじゅうを饅頭(マントウ)と区別するという。
中華まんじゅうの発祥は三世紀の三国時代とされている。当時、風雨や河川の氾濫を鎮めるため、水の神へ人間の頭と牛や羊を備える習慣があったらしい。時の宰相軍使だった諸葛孔明が人身を犠牲にするのはしのびないと、小麦粉を練って豚や牛の肉を包みこれを人間の頭に似せた供え物を考案した。これが包子と饅頭の始まりという伝説がある。中国での饅頭は、ご飯やパンのように主食とされているらしい。
饅頭の魅力に取りつかれた11月初旬の休日。前日からの曇り空で気温は例年よりも低い。午前10時に着手すれば昼食に間に合うと、一級面点師と特一級厨師の手ほどきに従い道具と材料を用意した。
牛乳、溶かしバター、砂糖、塩の中に、ぬるま湯で溶かしておいたドライイーストを加えて、薄力粉の中央に少しずつ注ぎ入れながら太い指でゆっくり混ぜていく。粉と水分がほぼ混ざり合ったら、まな板の上にのせて体重をかけながら生地を練り始める。汗が落ちて塩分が増さないように、手ぬぐいで額に鉢巻きをした。耳たぶくらいの軟らかさになったら常温で20分寝かせると、生地は二倍くらいに膨れ上がる。膨れた生地に体重をかけてガス抜きをし、四等分して丸くかたちを整えてから再び常温で20分間寝かせる。蒸し器の中にさらしを敷き、蒸し上がりりは膨らむので間隔をあけて並べ、20分ほど蒸したらできあがる。
なんの感情も交えず、広げたレシピに従って事務的に作業は進めた。耳たぶくらいの軟らかさになった生地をポリエチレンの袋へ入れ、口を軽く結んでまな板の上に安置する。クッキングタイマーのスイッチを20分に合わせた。
ベルの音に飛んでいくと、生地の大きさに変わりない。注意深く見ると、一割くらいは膨らんでいるようである。曇り空で気温は例年よりも低いため、イースト菌の働きが鈍ったのだろう。この日、小麦粉が固まっただけの硬い饅頭を食した。翌日曜日も気温は上がらない。
晩酌をしながら天気予報を見ていると、明日の土曜日は時々晴れで気温も少々上がるという。しめたと叫んだら、また、挑戦するんでしょうと妻が笑った。常温で20分寝かせると、生地は三割しか膨れていない。レシピの記述を何度も読み返してみたが、手順や分量に誤りはない。
翌日の気温は低かったが、ベランダから日が差し込んでいる。外気温が低くても日光が差し込む場所の気温は上がる。生地を直射日光に当てれば、温度が上がるからイーストの働きは活発化するだろう。三度目の正直にすべく生地を練り上げたとき、雲は太陽を覆っていた。
週休の二日間は、天気予報と天候の違いに一喜一憂していた。中国人が語った常温は、18から20度くらいかもしれない。気温の上昇こそが成功へのカギと考えたが、気象台は凡人の希望をかなえようとはせず、再三の挑戦は悉く失敗した。どうして膨れないのと心配していた妻は、もうなにも話さなくなっていた。
晴れた土曜日に恵まれても、風が強すぎる日もあった。差し込む日の光に寒暖計を当てていると、イーストは細菌だから紫外線に当たれば死滅することに気づいた。ダンボールの箱に漬物の重しを二つ入れ、生地を安置したら黒のゴミ袋でフタをして縁をホッテキスで留める。ベランダへ出して、アイデアに満足しながらクッキングタイマーをのぞき込んでいた。
生地は大きく膨らんだ。お祭りで見かける綿飴のように、ふんわりと膨らんでいる。表面はまるで赤ちゃんのほっぺたのようだ。ポリエチレンの袋の口を開けて、そっと指を触れた。ガスの抜ける音がして、指穴の周りにしわがより、生地が下に沈んでいった。すっぱい匂いが漂う。発酵のしすぎで、ピザの台にしかならならない。
マンションへ引っ越した年から初詣を始めた神社で、家族に知られないようにさい銭を投げ込んだ。百円は家内安全で、追加した百円は誰もが喜ぶ饅頭造り成就である。挑戦するたびに200グラムの薄力粉が消費され、すべては一人で消化した。
何度も、何度もレシピを読み返して分量や手順を確認した。製造年月日の新しいイーストを入手し、薄力粉も最上級のものを使用した。再三の挑戦にもかかわらず、生地は四割以上に膨らまない。そして、6キロの薄力粉は夢と消えた。