1 おい、ほんとうかい
長い間、嫌な顔もせずに付き合ってくれたワードプロセッサ。年から年中5時間以上も働き続け、時には18時間連続という激務にも耐えてきた文豪の5V。作成した文書の件数は思い出すことができず、保存されている文章類は五インチのフロッピィに40枚をかぞえる。
ワープロは歳をとってきた。電源スイッチの周囲はもちろん、フロッピィ出入口の塗装もほとんどハゲて私の未来を予言している。目を保護するフィルタには九本のヒビが入り文字が見えにくくなってきた。時々プリンタのヘッド送りベルトが空回りして、大幅に印字がずれてしまう。部品を取替えたくても、保存義務期間が過ぎているからメーカーに在庫はないと思われる。
壊れたらどうしようとグチッていたら、新しいのを買えばと妻が云う。まもなく壊れそうだというだけで使えないわけではないが、定価で70万円もしていたマシン達を手放すのは勇気がいる。最新のワープロは機能が増えているので、情報がほしいと飲み仲間に相談した。どうせ買うならコンピュータにすべきと云う。
「この歳になって、フォートランやコボルを覚えろってかい。無茶だよ」
「そうですよ。そんな銀行が使うようなコンピュータを買ってどうします。パソコンでいいんでしょ」
「パーソナルコンピュータかい。でもさあ、MS-DOS もベーシックも分からないよ」
「わたしだって知りませんよ。最近のコンピュータは誰でも使えるようになってるんです。備品管理をやるんでしたらパソコンでなければ無理ですし、いろいろ面白いことができますから決めてしまえば」
「でも、ワープロよりかなり高いでしょう」
「値段ですか。機種にもよりますけどあまり変わりませんよ」
デモ機を借りてみたら、売り場へでむいて比較したら、使っている人に聞いてみたらと助言をいただくのだが、質問しようにも何ひとつ知識がない。自慢じゃないがこの歳まで、コンピュータにさわったことはもちろん、質問できるほどの疑問も待ったことはない。
さまざまなカタログを集めてみたが、使用されている熟語の意味が分からない。学生時代の英和辞典にないスペル、国語辞典にないカタカナ語の多さ。習ったこともない単位にイライラしてきた。呼びかけに答えて飲みにいくと、いつもの顔が待っている。
「決まりましたか。えっ、まだ。なんで迷ってるんですか。だいじょうぶですよ、すぐ慣れますから」
「ウインドウズとマッキントッシュのどちらが良いか分からないし、だんだんイヤになってきた」
「職場だけでなく、自宅でも使うんですね。それなら決まりですよ。マックです、マッキントッシュを選ぶべきです」
「どうして」
「おじさんでも使えるから」
かくして Macintosh LC-575 というコンピュータが届いた。プリンタやキーボードを接続し、使ってみて不都合があれば連絡してくださいと専門家は帰った。席をゆずって窓ぎわへ移されたワープロの文豪がじっとながめている。驚くほど薄い説明書を開いてみたが、書かれている用語の意味がまるで分からない。
電源を入れるのは簡単だが、終了のさせ方が不安である。操作を誤ったらソフトウエアを台無しにしたり、貴重なデータを消してしまうという。トラブルを起こしたら、すぐセールスマンが来てくれるわけではないし、明日の朝9時前に電源を入れてみよう。何かあれば出社時に連絡がとれるだろう。
「そんなに時間はないんだ。」と、文豪がはなしかけてきた。
「徴収金の日計表や給料の計算表がいるんだろう。おれの状態がどうなのか、あんたの身体は感じているはず。いそいでくれよ、おじさんでも使える機械なんだろう。」
恐る恐る電源スイッチを押すと、ポワーンという音をたててコンピュータが目覚めた。明るくなった画面に様々なものが現われ、全体がグレーになると画面は静止した。リンゴのマークやゴミ箱の絵をながめていたがコンピュータはなにも云わない。心が通じ合えるまでには少々かかるだろうと、説明書を開いて手順をたしかめながら電源をおとした。ふーっと息がもれる。
「変わっていないね、あんたわ」と、じっと見ていたワープロがふきだした。
「おれとの出会いもそうだった。気後れや人見知りをしてどうなるんだい。相手はアメリカ生まれの積極派だよ。雪のように白い肌、カリブの海のように澄んだ青い目、風にゆれてきらめくブロンドの髪。彼女の名はジェニー。ジェニー・マックはすごい美人だぜ」