1 パソコンとの出会い
1-1 Macintosh LC-575
1994年(平成6年)10月6日、52歳のときに店頭展示品の Macintosh LC-575 とドット・インパクト・プリンタを34万円で購入しました。Macintosh LC-575 は一体型のパソコンで、クロック周波数 33MHz のCPU を登載し、RAM は 8MB、HD は 320MB、内蔵ディスプレィは 13inch、32,000色の表示が可能でした。
翌年 500MB の HD と交換、10万円で 32MB の RAM にアップグレードしました。20年後に自作パソコン用メモリ DDR2ー800、2GB×2枚組は税込で9,380円ですから当時はいかに高価であったか分かります。
1-2 Performa 5320
1996年(平成8年)5月16日、札幌市教育委員会より Macintosh Performa 5320 が届きました。学校物品管理事務改善プロジェクトチームが学校専用物品標準名称鑑のメンテナンスを行うためのパソコンで、普段は事務室で校務処理に利用しても良いとされたマシンです。クラリスワ-クスやファイルメーカーPro、Adobe Page Maker という一流のソフトウエアが添付されていました。
翌日、業務用としていた私物の Macintosh LC-575、ジェニーと名付けたパソコンは自宅へ引越しました。クラリスワークス・プレミアムが主力ソフトであったため、Performa 5320 のクラリスワークスと互換性があり、自宅で作成した書類は職場で利用でき、職場の書類は自宅で修正が可能となりました。
1-3 LC-575 との別れ
自宅で稼働していた Macintosh LC-575 のジェニーは購入後3年半で不調となり、マザーボードは技術者が初めて見たというほど損傷していました。本人はうれしさのあまり説明をよく聞いていなかったのでしょう、店頭展示品の中でも少々以上くたびれたものを購入したようです。新品のマザーボードに交換すると他の部品に無理がかかり、いつ故障するかわからないので修理はあきらめたほうが良いとされました。店頭展示品を購入する場合は十二分に注意が必要です。
コンピュータ修理店の棚には修理依頼品や修理済みのパソコンが並んでいます。中古パソコンと表示の棚に Performa630 が展示されていました。LC-575 に装着した 32MB の RAM が使え、ハードディスクは 4GB 程度のものと交換可能で4万円です。工賃の5千円は LC-575 の下取り代で充当できます。
1-4 Performa 630
1998年1月、中古の Macintosh Performa 630 に別売の中古ディスプレィをつけて購入しました。LC-575 から外しておいた 32MB の RAM を装着して HDを 2GB にアップグレードし、小松左京氏原作の小説「日本沈没」にでていた「雄飛」という名前を付けました。
雄々しく飛躍したいとの願いをかけたのに、1時間連続で仕事をしていると突然太く黒い走査線が数本現れます。しばらくすると画面が赤系色に変わります。すぐに元へ戻ることもありますが10分以上続くこともあり、保証期間は一ヶ月しかないので購入した修理店へ持ち込みました。4日間ほど預けても説明したような症状はあらわれず、2日後に再び持ち込んで3日間預けても変化は起こりません。
症状が短時間でおさまるのでしたらもう少し使ってみて下さい。保証期間中に起こっていた問題ですからいつでも修理します。症状がひどくなったときにもう一度持ち込んでいただけませんか。と言われて4ヶ月後、電子銃の故障が原因と判明してディスプレィを交換していただきました。
1-5 マック貧乏
自宅で過去の研究物や原稿類の整理保存を始めましたが、クラリスワークス・プレミアムはなかなか思うように使えこなせません。パソコンを購入する前はNECの文豪5Vを12年間使用し、ワープロ機能に慣れていたせいかクラリスワークスは使いづらく感じました。
日本人が日本人のために作った使いやすいワープロソフトがないだろうかと、パソコンショップやパソコン誌などをさがしてエルゴソフトの EG-WORD を見つけました。自由に原稿用紙の升目を増減でき、両面で数10ページになる印刷物の綴代(とじしろ)も調整しやすく、印刷物を作成する機能は非常に使いやすく感じました。
クラリスワークスに馴れてきたころ Microsoft の Excel や Office がどんなものかと購入しました。コリャ英和やドキュメントトーカ、 ColerIt! などにも飛びつきました。あれもしたいこれもやりたいと、Hyper Card の製品版やシマンテックの C++ まで購入しました。
もっとも利用したのはファイルメーカーPro3.0で、市販の手引書を8冊、本代だけで2万円を超えました。使っていると夢はさらに膨らみ、日々の飲み代を節約して13万円もするファイルメーカーPro4.1 の hybrid 版 Developer まで購入してしまいました。
しだいに流行を追い求めるようになりました。データ保存用に外付けハードディスクを接続し、バックアップ用に 230MB のMOを外付けし、クラリスワークス4.0の発売時にはすぐ飛びつき、町内会報やマンション管理組合の理事会報など一枚物の印刷物はドロー機能を利用するようになっていました。
初めてであったとき Macintosh LC-575 ジェニーの OS は漢字 Talk 7.0 でした。7.5 が現われて購入し、改良された 7.5.3 や 7.5.5 も購入しました。 Performa 5320 には自腹で MacOS 8.0 を導入し、Performa 630 のために MacOS 8.1 を購入すると操作性が向上しました。ところが、OSを更新すると一度も使っていない高価なソフトをアップグレードしなければならなくなり、ソフトの種類が多いせいもあって頭を抱え込んでしまいました。
1-6 インターネットへ挑戦
インターネットが話題にのぼるとアクセスしたくなりました。プロバイダから暗号のようなユーザー名とパスワードが届き、説明書を読みながら設定しても接続できません。一箇月後には利用料金が口座から引き落とされていました。
プロパイダへ手紙で照会し、返信通りに設定しても接続できずに再び質問の手紙をだしました。自宅へかかった電話には出られず、年休をもらって早めに帰えりダイヤルを回しました。担当者の説明が始まって一分もしないうちに、文章よりも言葉のほうが間違いなく伝わることを発見しました。プロバイダから連絡されたユーザー名の文字、英語の「o(オー)」を数字の「0(ゼロ)」と思い込んでいたのです。
インターネットに接続して最初にみたのは NASA の日本語ニユース。宇宙開発の情報や文部省の宇宙科学研究所ものぞきました。南極のニュースを見終わって、冒険心がまだ残っていることに苦笑しました。そして、その日はすぐやってきました。
ある日の朝、自作コンピュータのホームページを発見したのです。世界中で八割の人々が PC/AT 互換機を使っていること、現代のコンピュータはプラスドライバー1本で組み立てること、自作コンピュータのページが無数にあることも発見し、組み立てのための参考書も紹介されていました。
1-7 自作パソコンへの挑戦
世界に一台しかない自作コンピュータの魅力にとりつかれました。複数の書店で数十冊の実習書を立ち読みし、自分のレベルに合っていると思える二冊を購入しました。部品が掲載されている雑誌をもって部品の扱い店へ見に行きました。
平成10(1998)年12月末、エーアイ出版の「自分で作る Windows 98 マシン AT互換機」を教科書に、つくも電機店で部品の組み合わせをご指導をいただき、日曜日の午前中に部品を購入して正味2時間程度で組み立てました。自作パソコンが稼働して二週間後、Macintosh Performa 630と専用ソフトの大部分は新しい持ち主の元へ旅立ちました。
自作パソコン1号機の CPU は 350MHzで、一年後に 450MHz へアップグレードし、2年後にはマザーボードを交換して 800MHz へアップグレードしました。
1999年に職場での必要性に迫られ、三井物産デジタル社の PR-A-C333S/N:050054を組み立て、ICOM のディスプレイ CD-F15 を接続しました。
自作パソコン1号機の性能を上げるために交換した部品は自作パソコン2号機の性能を向上させ、SCSI接続で CD-ROM の高速バックアップを可能としたり、HD を4台内蔵させて Dualboot や Multboot の実験を繰り返して楽しみました。
Macintosh Performa 5320 はカバーをかけられたままの状態が続き、退職が迫った時期にお伺いを立てると廃棄処分の許可が下りました。障害者施設へ寄贈し、自立訓練機として余生を送っています。
2003年1 月、定年退職が目前となったので自作7号機に当たる CPU 2.53GHz を組み立てました。自作2号機を Linux専用機にすべく Vine Linux 2.6 や Turb Linux 8 などをインストーした内蔵 HDを取り替えるときにマザーボードを破損し、慌てたのが原因で CPU とメモリを静電破壊して燃えないゴミにしました。焦りは禁物です。
自作7号機は、データ保管用とデータバックアップ用の HD を内蔵させ、OS 用の HDをラトックシステム社のリムバーブルケースで入れ替えできるようにしました。本体をあけなくても Windows や Linux の OS を楽しめるようになりました。
1-8 最終の自作機
Windows7が普及しだすと自作9号機がシャットダウンしました。冷えると電源が入り、熱くなると切れる症状からマザーボードと推定できます。データーをポータブルのハードディスクヘバックアップしてから、XP用のマザーボードを探し回りましたがパソコン店にありません。悩んでいるとついに電源が入らなくなりました。
Windows XP との別れはかなりの苦痛です。Windows7(36bit)にすると、Microsoft Office XP や File Maker Pro 5.5 の Developer も使えなくなります。50本以上のソフトと80冊以上の解説書籍もゴミと化し、SCSI 仕様にしたので Lnux用 HD も廃棄しました。
ディスプレィを残して手持ちの部品をすべてジャンク屋さんで処分し、最小限の部品で自作10号機を組み立てました。内部を冷やすために直径25cmフアンが横についているケースにすると、本体が大きくなりすぎて少々邪魔な感じもします。ソフトは最小限にして参考書も Windows7 と Web 関係だけにしました。
2010年12月31日の午前中、残してあったディスプレィを接続してマルチスクリーンを実現しました。ポインターを右の画面から左の画面へ移動できるように設定すると、資料を参照しながら文書を作成できるようになりました。
ディスクトップ型を Windows 専用機にし、パソコンショップで見つけた中古のノートパソコン「TOSHIBA Satellite J40」を購入して Linux 専用機にしました。Ubuntu 12.04 や Debian3.1(Sarge)を試していると、書店で「理系PC初心者のための KNOPPIX 活用法(株式会社カットシステム)」を発見しました。
文系出身ですが、 Linuxの基本の基本からマスターすべきと考え購入しました。ノートパソコンに KNOPPIX/Math/20101130 をインストールして、Windows 7 のサポート終了後はデスクトップ機を Linux に切り替えるための訓練をはじめました。
マルチスクリーンを構築した液晶ディスプレィに縦の線が入るようになり、時折カラーの画面がモノクロになることがあります。2012年の春にマンション管理組合の理事長を降り、2013年の春に町内会長を降りたので広報紙の作成業務が不要になりました。
ボランティア業務がなくなったので、ディスクトップ型のマルチスクリーンを廃止して劣化した液晶ディスプレィを処分し、パソコン本体とディスプレィのみのシンプルな組み合わせに戻しました。
過去のデータと写真を整理して失敗や挫折の経験があなたの参考になればと願いつつ、「はげちゃんの世界」と題した Webページにありのままの体験を紹介することにしました。