1 吹雪の中へ消えて
その一
夜どおし荒れつづけた吹雪もやみ、朝日がいてついた町並みを照らしだしている。駅前通りの並木や家々の垣根に樹氷が宝石のように輝いていた。昨日までのぬかるみや、泥だらけの板壁もすべて消し去られた白銀の世界に再び朝が訪れた。
しだいに昇りゆく日の光は夜の闇に打ち勝って、軒下のつららに七色の虹をやどらせる。昨日までの吹雪が残していった小さな吹き溜りが町角のそこここに丘をつくって。
その丘のそばに、もう50をいくつか越えた女性がうずくまっていた。雪よりも白いものがいく本も混じっている頭、ほころびがつくろわれたあとを残している絣の上着に膝あてがついている紺のもんぺ。
もうねずみ色になってしまったゴムの長靴。数年もの長い間たった一人で働き続け、その苦しみの代償を奪い取られた母親が、自分の一生を託した希望をしっかりと抱きしめながら旅立った姿だった。
その二
郊外にそびえたつ白亜の殿堂。その附属病院の一室に年のころ17~8であろうか、青白く痩せ衰えた男がただ一人横たわっている。古ぼけたベットが部屋の大部分を占領し、枕もとにある物入れの上に牛乳びんにさされたネコヤナギがあたたかな花をつけている。
男の左腕には透明な管が差し込まれ、天井からぶらさげられたガラスビンの中より真紅の液体が一滴また一滴と落ちこんでいた。右足はその付け根からなく、そこに赤く染まった包帯がまいてある。
頭も包帯に包まれ、青白い顔だけが奇妙に浮かび上がっていた。彼はほとんど動こうとはしない。いや、動くことができないのだろう。ほんのちょっとした不注意のため、後ろから走ってきた自動車にはねられて右足は切断され、後頭部にひどい裂傷をおってしまった。
それのみか、毎日の食事が偏っていたために、そんな日が長く続いていたために典型的な壊血病症状が現れ、彼の血液は凝固することができなかった。脊髄はすでに湾曲になり、内蔵はその圧迫に耐えられないほどの限界にきていた。
「先生、先生。子どもは、子どもは助かるでしょうね。あのように高いお薬を飲ませたんですもの。きっと助かりますね。先生、助かりますね」
病院の廊下で医師は涙を流しながらすがりつく母親をあつかいかねていた。
「お母さん、私達は最善をつくしました。交通事故だけであったら救うことができたのですが、お子さんの壊血病だけはこれ以上どうすることも出来ないのです。ご承知のとおりこの病気にかかると、血液が止まらなくなってしまいます。
傷口はふさがることなく、身体は血液の不足のために日毎に衰弱してゆき、どのような治療もどのような薬もその効果を現さないのです」
母は驚愕した。驚きのあまり涙は乾いてしまった。
「壊血病、壊血病。」
母は何度も、何度もつぶやいた。
「血がとまらない病気。私の子が、そんな恐ろしい病気って」
「お母さん、お気の毒です」
医師は深々と頭をたれた。その時、母の瞳に光がさした。
その三
「壊血病。なおるはずです。私、知っています。外国のお薬で名前は、思い出せない。何といったか、長い名前のお薬。それを使ってください。ずいぶん多くの人が治ったと聞いています。それを使ってください。」
その言葉を聞くや医師は当惑した。こんなみすぼらしい老婆がそんなことまで知っていようとは。しかも、医学界でも貴重品扱いされている薬の名前まで知っていようとは。
「お母さん、この病院にはその薬がないのです。私達も以前から手に入れようと努力していたのですがまだ見たこともないのです。壊血病が治ったというはなしは私も聞いたことがあります。ですが、治療の方法も正直なところわかりません。まして、薬を手に入れることなど思いもよらないのです。薬の名はエル・アスコルビン酸という注射薬です。
これはドイツで創られ、我が国へも毎年わずかながら入ってきてはいます。非常に数が少なく、そのために高価薬となっています。いま我が国はその薬をほとんど使いはたしてしまい、アンプルが1~2二本程度しか残っていないのです。ですから、お子さんの病気はどうすることもできないのです」
「でも、あるのですね、お薬が1本か2本は。お願いです先生。そのお薬さえあればあの子は助かります。取り寄せてください。取り寄せて」
「残念ながらそれは不可能なのです。薬が少ないために、いまではとても考えられないほどの高価なものとなっているのです。また、この薬を必要としている人たちがあまりにも多いため、手に入れることはできないのです」
彼女は急きこんでいた。流れゆく一本のワラにしがみつくように、手は医師の白衣をひきちぎらんばかりに握りしめた。
「どこで、どこで作っているのですかお薬は。おしえてください、どこで」
「ドイツで」
「ドイツのお薬。日本にないのなら、ドイツから取り寄せてください。それさえあれば子供が助かるのでしたら。どうか、送ってもらってください。先生、子供の命がかかっているのです。きっと送ってくれるでしょうね」
「残念ですが、この薬は世界中から非常に注文が多く、どの国にも割り当てがきまっていてそれ以上は取り寄せることはできないのです。でも、一つだけ望みはあります。お金があれば」
「おかね」
「そう、お金です。お金があれば、なんとか方法があるでしょう」
「いくら、いくらあれば」
「はっきりは云えませんが、20万か30万円あれば世界のどこかから」
「20万か30万円。そんな、そんなお金」
「お金の用意がなければどうしようもありません。たとえ、薬があったとしても取り寄せることはできないのです」
「取り寄せれないですって。そのお薬がなければ子どもは、子どもは死んでしまうのですよ。先生、そんなひどいことを。助かることがわかっていながら死ぬのを待つなんて。そんなひどいことを、そんなひどいことを」
くたくたと足もとに崩れ落ちる母親を、医師は静かに助け起こしながら低くつぶやくのだった。
「お母さんお気の毒です。ですが、私達はできる限りの努力をしたのです」
その四
母親は胸に針が突き刺さる思いだった。明日の生活にもことかく母親に夢のような額のお金。お金さえあれば、何10万円かのお金がありさえすれば、我が子の命を救うことができる。お金があれば、生き続けさせることができる。
なによりも尊いと言われる人の命もつまるところはお金が握っている。毎日お酒を飲み歩いている人達、競馬や競輪に通う人々、流行のみを追い求めている若者たち。彼らが快楽を得るために使うお金の十分の一、いや百分の一があるだけで一人の人間の命が救える。
思いかえせば12年前。働きざかりの夫に死に別れ、母一人子一人で社会の荒波と戦ってきた。近所の子供たちや、同じクラスの子どもたちにも決して負けない立派な子になってと祈りつつ、やっとたどりついたその日。就職もきまり、二人だけの詫び住まいに初めて笑顔が訪れたあの日。
「お母さん、今日からは僕が働きます」
「いいよ。お前が仕事になれるまでは母さんが働くから」
「いけないよ母さん。母さんはいままでずいぶん無理してきたんだもの。これからは楽してください。今日から僕が働きます」
元気にそういってくれたその子が、出社する途中であのような事故に。しかも、不治の病にかかっているとは。母にできることは祈ることしかなかった。一枚の宝くじに未来を託す人達のように、自分の畑だけを嵐がさけるよう祈る農夫のように、なんとむなしいことであろうか。(お父さん。あなたはこんなときどうするのですか。お父さん)母は冷たい廊下の上で身をかがめて泣き続けた。
薄暗い個室の中に時計の音だけが鋭く聞こえている。だれもが声をひそめ、青白い蛍光燈の光が四人の影を長く壁にはりつけていた。医師が青年の胸に聴診器をあてている。その医師のすぐ横に、注射器を手にした看護婦が一人。反対側に老婆がじっと青年を見守っている。」
病室の空気はしだいに冷えて、喉に詰まるような重さに変わっていった。秒針だけが何事もないように過ぎてゆく。さらに長く短い時が流れた。そして、ついにその静寂が破られた。
「御臨終です。」
低く冷たい厳然とした医師の言葉が響くや、母親はすべてを忘れて子どもの、我が子の腕にすがりつき大声をあげて泣き伏した。
未来を楽しみにいままで苦労し、その苦しみがかなえられる一歩手前でもろくもくずれゆく夢のはかなさ。いく年もの長い間、だれの手もかりずに戦い続け、やっと目前まできた幸せが虹のように消えゆくとは。」
お金さえあったら助けられたはずの我が子を、少しの蓄えもないために見殺しにしなければならなかった自分を彼女は責めた。ほんのわずかな着物も古ぼけた家具もすべて売りつくしたのに、薬代の十分の一にも達しなかった微力さを嘆き続けた。
母は泣きながら問うた。わたしが何をしたというの。なぜ、こんな苦しみを受けなければならないの。こうなるのは約束だったの。生まれる前から決まっていたことなの。お願い、誰か教えて。わたしはなにを楽しみに生きてゆけばいいの。
たったひとつの希望を、それ以上許されなかった夢を一瞬の間に奪われて、やせ衰えた我が子のか細い腕にしがみつき老婆は泣き続けた。
再び朝が訪れた。昇りゆく日の光は町並みをくっきりと浮かび上らせ、澄みきった大気の中で小さな子たちがはしゃぎまわっていた。老婆は冷たくなった我が子と共に一夜を過ごした。昨夜、自分の子どもはもう手の届かない世界へ去っていった。いまごろはきっと父親と共にわたしを見下ろしているだろう。
母は考えた。わたしにはたったひとつの夢も残されていない。この先どうしたらいいのだろう。昨夜まで親切にしてくださったあの医師の言葉に従おうか。二度とこのような悲しい結果がおこらないように病気の原因をしらべたい、病気をなくするために。そう、こうもはなしていた。もしお子さんのお葬式がだせないなら病院が負担しますと。
その五
母は一晩中迷った。わたしにはもう蓄えはない。残されているものはこの体だけ。とても人並みのお葬式など。いや、お葬式もだせるかどうか。どうしよう。でも、この子を解剖するなんて」
そんなことはできない。これ以上、痛い思いをさせるのはかわいそう。日の光がベットの上に差し込み、もう硬くなった青白い腕を照らしだしている。医師が部屋に入ってきた。
「お母さん、決心がつきましたか。病院はお子さまのために心を込めたお葬式を用意しました。どうか決心してください。いまも苦しんでいる多くの人々のために。お母さん、あなたのためにも」
母の声は弱々しく、聞き取れないほど力がなかった。
「先生、よろしくお願いいたします」
昨夜と同じように子供の手を握りしめながら振り向いた顔に、いくすじもの新らたな涙が関を切ったようにあふれでていた。医師は気の毒そうに母親を見下ろした。
「お母さんどうか安心してください。私達はお子さんを決して粗末にいたしません。お子さんは多くの貴重なものを与えてくださるでしょう。さあ、お母さん。あちらで休んでいてください。ずいぶん無理をなさったでしょうから」
医師が母親の手を引いて病室をでると入れ違いに若い医師が数人病室へ入っていった。いまはもう冷えきってしまった子どもを、用意してきたベットに移して運び去った。母親は手を引かれながらそのようすを振り返り、ふりかえりながら見送っていた。
西日が待合室の窓に赤い光をなげかけている。その広くガランとした部屋の片隅に、老婆が純白の布に包まれた小さな箱と、墨の香りがまだ残っている白木の板を抱えて腰掛けている。時計がうつろな音をたてて鳴りだした。」
もうどのくらいたったであろうか。ゆっくりと腰をあげた彼女は、しっかりとそれらを胸に抱きしめて硬く締まった雪道へ消えていった。折から山の端に落ちゆく太陽がその老婆の背を赤く照らしだしていた。(1966年昭和41年12月ちょんが会誌第一号に掲載)