はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第13章 記念誌の編纂

町内会の設立30周年記念事業で栞と記念品を配付し、30周年記念誌編纂の要請を受けてA五判140頁200部を20万円で自作しました。明治維新で仙台藩白石城より札幌市白石区東札幌へ移住した武士のまちづくりなどの前段部分36頁分を転載しました。

1 創立三十周年の事業

1-1 過去は公園で植樹

2003(平成15)年の7月初旬、町内会長より「ちょっと、相談したいことがあります。」との連絡を受け、社会福祉部長兼総務部長のわたしは町内会長宅へ伺いました。

実は今年、町内会ができてから30年目に当るんですよ」。えっ、総会の議案にはありませんでしたよね。「迷っていたんで載せなかったんです。他の町内会では区切りをつけるようなことをしていますが、どうしますか」。知らん顔はできませんし、事業案と予算案にでていないのでどうすべきか考え、七夕祭りの打ち合わせをする役員会でみなさんのご意見を伺いましょう。

役員会で七夕祭りの業務分担が終わって、今年は町内会設立30周年目に当ります。総会で提案されていませんが、記念の事業は「本会の目的に適する事業」のひとつに該当するので、いかがでしょうかと提案しました。環境部長が「なにをやるつもりなのさ。」と口火を切りました。

会長さんは10周年と20周年のときの記念事業をご存知ですか。「10周年のときは桜の木を植樹しました。公園の北西側の角にあり大木になっています。20周年のときは北側と東側の出入口の門になるようにオンコ(イチイ)を植樹しました。」「あれがそうか、知らなかった。」と、副会長が素っ頓狂な声を上げました。

「公園に木が多すぎるから植樹はやめようや。他になんかないのかい。」と環境部長に促されて、お隣の町内会のように町内会の歴史を記録した記念誌を編纂して配付するとか、町民に記念品を配っている町内会もあります。「記念品ってどんなものさ」。祝何周年と町内会の名前を印刷したフエースタオル類が多いようです。

「文字を印刷すると高くなるしょ。顔を拭くものに文字なんかいらないよ。」「無地のタオルのほうが使い道があるな。」と副会長が賛同しました。今年度の町内会員数は83世帯ですからタオルを100枚購入するとして、1枚100円なら1万円です。昨年度の雑費は予算10万円で支出は約7万円、今年の予算も同額ですから、雑費から1万円の支出は可能です。会長さん、タオルの配付でいかがでしょう

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1-2 栞をつくります

「そうですね、フエースタオルならもらっても役に立ちますね。」「タオルをどこで買うのさ」。町内会長の相槌に、環境部長が問いかけました。すると、「わたしがむかし取引をしていた卸問屋がありますから、そこにお願いするというのでどうでしょう」。会長さんが卸問屋をご存じなら、少々タオル生地の厚いものをお願いしませんか。

役員会へ参加したのは会長を含めて四人、会計は体調を崩して欠席された。「おれは昼間仕事があるからタオルのことは任せるわ。」「俺もまかせるよ」。では会長さんよろしくお願いします。「わかりました。ひとつ気になることがあるんですが、いいですか」。

「無地のタオルを班長さんに配ってもらうことになりますが、もらった人はなぜ町内会がタオルを配るのか分からないでしょう。質問されたり、受取らない人がでたときはどうしますか。」「タオルに30周年記念という文字を入れれば分かるけど、それはそれでいいんじゃないかい。無理やり受取れというのも変だし」。

受取りやすくするため町内会結成30周年の記念品と分かるようにしましょう。千円でおつりが来ますが、A4判の上質紙で「祝町内会結成三十周年」と題した栞(しおり)をつくります。町内会ができた頃のことや公園のリニューアル、ごみステーションの管理や夏祭りのジンギスカンなど、みんなの町内会が30周年を迎えたお祝いに「タオル」を配りますと書いた栞です。

班長さんに「栞とタオル」を同時に配付していただくというのはどうですか。栞は原稿をつくって印刷するのに1日もあれば十分ですし、タオルを受取った方は栞を読んで町内会の概略や活動がわかるでしょう。手伝おうという人が現れるかもしれません。

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1-3 三十周年のしおり

A4判の薄い若葉色で、少々厚めの上質紙にプリンタで両面印刷しました。

祝 町内会結成三十周年のしおり

1-3-1 町内会の誕生と現状

昭和50年3月に東札幌の単一町内会として発足しました。佐野清町内会長を中心に、街路灯の設置とごみステーションの整備、公園の清掃受託管理をはじめとして、七夕祭りやラジオ体操などの青少年育成事業などを活発に行ってきました。

平成3年度に近代化の波が押し寄せ、本格的な分譲マンションの建設工事が始まりました。翌年6月に鉄筋コンクリート6階建て21戸が完成し、完売されて全戸室への入居が開始されました。マンション管理組合が設立され、自衛消防組織もつくられて管理体制が整備されていきました。

その後、公園の街路灯増設やリニューアルが行われる一方、単身者用アパートの建設や家主不在のアパートなども増加して、在住の確認もできないまま回覧書類が滞るという弊害もでてきました

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1-3-2 公園リニューアル事業

平成5年度に阿部章胤会長のご努力が実り、公園内を照らす街路灯が増設されました。樹木の成長に伴い薄暗くなっていた公園内は、ともすると防犯上危険な印象を与えていました。

平成9年度事業として、札幌市緑化推進部公園計画課と札幌市白石区土木部土木事業所公園緑化係による「公園リフレッシュ事業」が決定し、住民打ち合わせ会が数回もたれました。公園内には古くて形の良い樹木が多く大きい子と小さい子が遊ぶ場所を分けて、近くを鉄道が走っていた思い出となる公園にふさわしい設備をつくり、トイレも設置したいという計画でした。概要説明を受けた後の役員会で、公園内にトイレを設置することについては、あれば便利だ、見通しや臭気で迷惑を蒙る方々がでるのは好ましくない、との二つの意見に別れました。

その後の打ち合わせで、トイレは本当に必要なのかという疑問が参加者から出され、この規模の公園にはどこでもトイレは設置していないとの説明があると、不要との意見が多数を占めました

既存の生け垣を残し、出入口は線路にたとえ、遊ぶところはダスト舗装部分にする。いまある築山は北西側の角へ移動し、高さを2メートル位に盛り上げて、ソリ遊びなどができるようにする。小さい子と大きい子用の遊具を配置して、大きい子用の遊具は既存の樹木を利用したユニークなものを設置するとの説明に住民は合意し、平成9年8月中旬過ぎに工事が開始されて12月に完成しました。

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1-3-3 ボランティア活動

25年間にわたって公園の除草などの清掃奉仕に当られた佐藤光雄氏は、平成12年6月27日付で東札幌連合町内会では唯一人、白石区クリーンさっぽろ衛生推進協議会長表彰を受けられました。なお、佐藤氏は平成14年2月に逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。

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1-3-4 夏祭り

恒例となっている夏祭りは例年8月上旬に開催され、最も多くの町内会員が参加する行事として定着しています。普段顔を合わせることが少ない町民同士がジンギスカンを囲んで和気合い合いと楽しむようすは、町内の風物詩として定着しました。

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1-3-5 ゴミステーションネット

平成12年12月19日に札幌市の助成を受けてゴミネットを購入し、町内五ヶ所に設置しました。これによりゴミをあさるカラスの姿を見かけなくなりましたが、かわいいからとエサを与える人がいるためノラネコが繁殖し、駐車場などは排せつ物の置き去りで悩むようになりました。

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1-3-6 賃貸型マンションの増加

平成10年ころより独身者用貸室型賃貸マンションが増加し始めました。

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1-3-7 東札幌会館建替えの寄付

町内会館運営委員会は、東札幌会館建設期成会並びに役員各位宛に平成16年6月10日付で東札幌会館建設建設募金についてのお願いを提出しました。

私共五町内会は、昭和54年12月の町内会館建替え以来、運営委員会の下に独立採算制の会館として町内活動をはじめコミュニテイセンターとして機能を果たし、早くも19年の歳月を経ました。(中略)社会情勢の変化に伴う少子化、近代葬祭場充実などによる長期契約件数等の利用減少が著しく、最近では単年度収支のアンバランスが生じ、このまま推移するならば若干の積立金も底をつき、参加町内会より年間20万円余の負担金を生ずることが明らかとなり、役員一同苦慮しているところであります。

今回の老朽化した東札幌会館建て替えについては、地域住民の永年の念願であったことから慶びをもってその達成を希うことに異存なく、可能な限りご協力を申し上げる次第であります。(中略)さりながら、一般募金に当っては大変申し上げにくいことでございますが、特段のご配慮を賜りますようお願い申し上げる次第であります。具体的には一般会員募金目標の二分の一以下としていただければ幸甚であります。(中略)今後期成会として最大の難関は募金活動であり、かつ一般会員への一律負担要請であると存じます。私共の町内会館所属の一般会員の了解を得るためにも、以下の諸点をご賢察のうえ特段のご配慮と決断をお願い申し上げる次第であります。

独立採算制の町内会館を維持するため、五町内会で組織する運営委員会は的確な認識と近未来の資金計画を考慮しなければならない立場を訴えて理解を求めました。しかし、東札幌会館建設期成会の小委員会において協議されたのち9月16日の臨時総会に報告されましたが、否決取り下げとなりました。

やむをえず町内会の支出を切り詰め、町内会会員が利用することはない会館建設のための寄付を募り、篤志寄付を含めて88万円を捻出して義務を果たしました

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1-3-8 感謝状の受賞

a. 昭和59年6月6日、白石区防犯協会連合会より町内会役員が表彰されました。
  ・ 白石区防犯協会連合会長感謝状  志賀 博(防犯部長10年)

b. 平成2年11月11日、東札幌町内連合会30周年で町内会役員が表彰されまし
  た。
  ・ 白石区長感謝状
     上西至廸氏、佐藤光雄、小林二朗、岩泉春雄、志賀 博、堀江知司
  ・ 連合町内会長感謝状
     上西至廸氏、佐藤光雄、小林二朗、岩泉春雄、志賀 博、堀江知司、
     佐藤克則、岩倉トシ子

c. 平成13年4月28日、町内会役員が表彰されました。
  ・ 札幌市長感謝状   志賀 博
  ・ 白石区長感謝状   杉山孝之、佐藤克則
  ・ 連合町内会長感謝状 佐々木忠七
               調査漏れを追加し、敬称を略させていただきました。

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1-3-9 歴代町内会長

  初代 佐野 満   二代 上西至廸(故人)  三代 佐藤光雄(故人)
   四代 阿部章胤   五代 志賀 博

                    敬称を略させていただきました。

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1-3-10 町内会結成三十周年記念事業

これまでの周年行事は公園に植樹をしてきました。10周年記念と20周年記念に植樹された桜やオンコ(イチイ)は大きく育ち、見事な景観をつくりだしています。30周年記念事業は町内会会員と喜びを共有する目的で、全世帯へ「タオル」を配付することにいたしました

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2 記念誌をつくれませんか

2-1 歳の正しい計算は

平成15・16年度の任期2年という町内会役員は、後任者を見つけることができず全員留任しました。平成17年度の七夕まつり予算の確認で総会議案書を取りだすと、表題は「第31期定期総会」となっています。

平成15年度に町内会結成30周年と言われて栞とタオルを配付しましたが、平成15年度の議案書は第29期となっていました。町内会ができたのは昭和50年と聞いたので町内会長は「数え歳」で計算していました。

年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年5月24日法律第96号)

1.この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治35年法律第50号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。

2.この法律施行の日以後、国又は地方公共団体の機関が年齢を言い表わす場合においては当該機関は、前項に規定する年数又は月数によつてこれを言い表わさなければならない。但し、特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢を言い表わす場合においては、特にその旨を明示しなければならない。

附則の2項 政府は、国民一般がこの法律の趣旨を理解し、且つ、これを励行するよう特に積極的な指導を行わなければならない。

年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日法律第50号)

1.年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス

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2-2 会計倒れる

この当時の副会長は二人で一人は会計を兼務し、もう一人は父の跡を継いで公園の草刈りを担当していました。総務部長兼社会福祉部長と環境部長兼道路交通部長の5人は役員会の常連ですが、青少年部長は年に2回ほど顔を見せ、会長の親戚にあたる防犯部長は役員会に参加したことがありません。

会長は自宅隣の土地や建物の賃貸業をされ、会計兼務の副会長は昨年退職され、総務部長兼社会福祉部長のわたしは一年間の再任用を断って、マンション管理組合の理事長で修繕工事担当のため退職していました。町内会の日常業務は主にこの3人で処理し、夏祭りなどの大きな行事のときは役員全員に協力いただきました。

2005(平成17)年7月中旬に会計部長が脳梗塞で倒れました。大好きなコーヒーを入れ、椅子に腰を下ろそうとしたときに発作に襲われました。一命を取り留めましたが左半身が麻痺して引退、わたしは会計業務も引き受けざるを得なくなりました。

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2-3 会長の友人の助言

周年事業として「町民へタオルを配付した」ことは他の町内会役員へも広がりました。正しくは、町内会長が町連の役員会で話したから広がったというべきでしょう。無地のタオルを手にした町民がなぜ周年事業の記念品と分かったのだろう、どなたも素朴な疑問を持たれたようです

栞をいっしょに配付したのでわかるとの説明に、参考にするので見せてほしいとの要望が寄せられたそうです。すると、「お宅の町内会は周年記念事業で記念誌をつくらなかったんですか。いままではつくれる人がいなかったのは分かるけど、この栞を1日でつくれる役員がいるときがチャンスですよ。あなたが町内会長のときにつくっておかなければ、いつつくるんですか。」と助言があったそうです

町内会の現状を考えると、会計部長が倒れてその業務を引き継ぎ、総務部長と社会福祉部長を兼務しているので「町内会結成三十周年記念誌」の編纂までは頼めないと思ったそうです。しかし、80歳を超えて持病も悪化し、町内の巡視も辛くなってきたので記録類をまとめなければならないとの焦りが生まれたようです。

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2-4 やりましょう

町内企業から町内会の年会費を受領した日に、「町内会の30周年記念誌をつくれませんか。」と相談されました。「平成15年に30周年でタオルを配付しましたが、30周年から2年も過ぎているので難しいと思いますが」。

平成18年度は32期目に当たりますが、数え歳で31期目になります。30周年の年から検討を始めて数え歳で31年目で記念誌をつくる、役員が多いところは通常その程度の時間がかかるものです。資料をお貸し頂ければ、すぐにでも作業にかかりますよ。

「他の役員は仕事があるので頼めませんし、文章を書ける人もいないのでどうするつもりですか」。会長さんが保管されている資料と、図書館にある町連や諸団体の資料をまず調べます。町内会役員や一戸建ての方々に保管しているむかしの写真がないか、その時のエピソードなども含めて回覧板で調査します。

印刷業者に発注すれば予備費の100万円以上はかかるでしょう。パソコンで原稿を作成してプリンタで印刷すれば100部をつくるとして30万円以内で治まると思います。製本は難しいので製本の専門業者に外注します。完成は年度末になるか年末になるか、会長さんの任期中に完成させますよ。

七夕祭りの業務分担役員会で、町内会長は30周年記念誌を総務部長につくってもらうので全役員の協力を要請しました。取り敢えず、手持ちのアルバムなどから昔の写真を探し出して、説明を加えて次の役員会に持参することが決まりました。

七夕祭りが終わると回覧板で「昔の写真の提供」をお願いしました。写真をお貸し頂ける方は総務部長へ電話連絡し、借用した写真はOCRで読み込んでその日のうちに返却しました。

若いときに小学校で郷土史を編纂するお手伝いをしたので、記念誌の編纂は見よう見まねで覚えていました。資料さえそろえばそれほど難しい作業ではなく、むしろ、ひとランク上のデジタルカメラ購入を妻に話すほうがむずかしく思えました。

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2-5 支出は20万円

項目数量金額
本文用紙代(A5判縦目裁断料込み)20,000枚23,000円
色刷用の紙代(専用用紙A5判裁断料込み)  3,500枚  9,100円
表紙用の紙代(A4判レザック裁断料込み)     440円
試刷り用の表紙紙(A4判レザック三種類)     440円
トナーキット(プリンタ用)        3本31,500円
感光体ユニット(プリンタ用)        2本16,800円
黒インク(プリンタ用)44,940円
カラーインク(プリンタ用)       20組44,940円
製本代     200冊20,000円
封筒(10枚入り)          4袋     420円
切手代(郵送用)       16枚  4,320円
穴埋め(前任会計領収書不明)14,954円
残金     506円
      予備費からの支出合計200.000円

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脳梗塞を起こした会計宅より受領した会計書類を整理すると領収証が不足しています。前年度まではきちんと整理されていますが、現在は入院中で面会もできません。先日渡した書類以外はないと奥さんの答えです。使途不明金として年度末に会計監査を受けるわけにもいかず、町内会長に相談しました。

町内会長もわたしも、前任会計が疑問をもたれる会計処理をする人でないことを知っています。これまでは支出総額しか知らされなかった事業の支出を、町内会長のご理解を得て記念誌編纂費用と領収書を役員会で公表し、見当たらなかった領収証に該当する金額の穴埋めをする了解をいただきました。

役員会終了時に慰労用の缶ビールを人数分購入し、記念誌編纂費用の残金506円で漬物を購入しました。一般会計の穴埋めをせざるを得なくなったことに不満があるのか、役員は黙ったままビールを飲み干して散会しました

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2-6 記念誌の配本先

30周年記念誌は200部を20万円で作成、乱丁等に備えて10冊を余分につくりました。町内会員69世帯へ配本し、写真などの資料提供者へ10冊贈呈しました。東札幌町内連合会加盟町内会へ15冊、白石区役所と東札幌連絡所長へ各1冊贈呈しました。

町内の児童生徒が通学する学校の図書館へ3冊、市内の図書館と地区図書館へ16冊贈呈し町内会館運営委員会の構成メンバーである豊平区の町内会へ1冊贈呈しました。建築中の15階建て高層マンション用として44冊を預かり、残りの40冊は町内会用として保管しました。

乱丁等に備えて余分につくった10冊中6冊を交換し、残りの4冊はマンション管理組合用として2冊、北海道立図書館と様々な資料や情報などの文化的資産を収集保存している国立国会図書館へ寄贈しました。

平成19年に15階建て高層マンションの管理組合設立総会で預かっていた44冊と管理組合用の1冊を配本し、平成25年2月に賃貸マンション5棟の住人が町内会へ加入したので、40冊を配本すると町内会の保管する町内会設立30周年記念誌は1冊となりました。

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3 記念誌の前段部分

町内会設立30周年記念誌は140ページで、大半が単一町内会の記録ですが、前段の36ページは「白石区と東札幌地域」に共通する歴史です。町内会に居住している人々のための部分を削除して、共通する前段の歴史部分36ページのものみを参考に掲載しました。

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第一 白石の誕生

1. 仙台藩白石の落日

仙台藩の祖先は、藤原氏を滅ぼした奥州征伐の功績により源頼朝から伊達郡を領地として授けられた。その後、関ヶ原の戦いで上杉景勝を破った功績で徳川家の優遇を受け、仙台藩伊達家は62万石を領する大名となった。

江戸幕府ができて約250年もの平和が続いていた日本に、寛永5年(1852年)8月、嵐の前触れがもたらされた。長崎オランダ商館のカピタンであったクルチウスはオランダ領インド提督の書簡を幕府に呈し、アメリカが日本との通商を開くため艦隊派遣の準備をすすめていることを進言した。幕府は情報を秘密として、なぜか具体的な対策はとらなかった。

翌年6月、神奈川県浦和の沖合に黒船が現れた。牽引力を備えた蒸気動力式軍艦と、大型帆船で編成する四隻の艦隊である。江戸湾へ侵入してきた軍艦は一隻に24門以上の大砲を備え、すべての大砲は江戸をにらんでいた。

アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは、久里浜で応対した幕府の使者に開国と通商を求める大統領国書を手渡し、回答を得るため翌年再び訪れることを告げて去った。

この時期、欧米では産業革命が物質的な富をもたらしていた。急速な工業化は安い原料の確保と自国の商品を売る市場を必要とし、列強はアフリカとアジアへ植民地を拡大させていた。

フランスとイギリスはカナダとインドで植民地争奪戦を繰り広げ、インドに植民地を確保したイギリスはアヘンを栽培させて中国貿易の代価に利用し、販売と吸引を禁止した中国清朝に自由貿易の妨害と口実をつけてアヘン戦争を仕掛けた。圧倒的な軍事力で海上を封鎖し、2年余りで勝利したイギリスは中国を開国させ、香港島を割譲させて(1997年7月1日に返還)幕末の指導者に深い衝撃を与えた。

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安政元年(1854年)1月16日、米軍艦7隻が江戸湾に侵入して小柴沖に投錨し、2月に砲門外交(欧米列強がアジア諸国に用いた武力で脅して要求をのませる手法)を開始し、武力で対抗できないと判断した幕府は日米和親条約を結び、静岡県下田と北海道の函館を開港した。

その後、治外法権を認めて関税自主権のない日米修好条約を結んだが、アヘンの輸入禁止条項を付け加えることには成功した。

外国の武力に脅威を感じた幕府は洋式大砲の採用を決め、オランダに軍艦を発注して海戦術の指導者を派遣されるよう要請した。翌年、オランダ国王から軍艦スンピン号が贈られ、派遣教師の下で勝海舟らが海戦術の伝習を受け始めた。

武力の脅しで開港させられたことは、ほこり高い武士にとって屈辱的なことであった。幕府が通商条約を結んだのは、朝廷の意向を無視して外国に屈服したことになると、庶民の間に幕府批判が高まっていった。

諸藩の批判が高まる中、慶応3年(1867年)10月、江戸幕府第15代将軍徳川憲喜は「政権を朝廷へ返す(大政奉還)」との上書のみを朝廷へ差し出した。薩摩の西郷隆盛と大久保利光、長州の木戸孝允と公家の岩倉具視は、朝廷を背景として実質的な支配を存続させようとする徳川家の意図を見抜き、憲喜の追放と領地の没収を朝廷に働きかけた。

この動きを知った仙台藩と米沢藩は近隣の各藩へ呼びかけて、憲喜の寛大な処分と幕府の政策を支持して官軍に敗れた会津藩と庄内藩の赦免を願いでた。これを拒否した新政府に対し、東北・北越の31藩は奥羽越列藩同盟を結んで官軍を迎え撃った。

明治元年、同盟を結んだ諸藩は戦いに敗れ、仙台藩白石の片倉家一万八千石は白石城と屋敷のすべてを南部藩に明け渡した。幕府の海軍副総裁であった榎本武揚は箱館(現在の函館)の五稜郭を占領して抵抗したが、翌年春に降伏して鳥羽伏見の戦いで始まった内戦は終結をみた。

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仙台藩は例外として一つの藩に伊達家の居城である仙台城と、片倉家が預かる白石城の二つの城を持っていた。直属の家来である白石城主片倉小十郎邦憲の給与は伊達家が負担していたが、片倉家家臣団への生活補償はなかった。片倉家も帯刀を廃して農民になることを勧められ、それができなければ整理がつきしだい伊達領内から出ていくよう命じられた

明治2年、無防備であった蝦夷地をロシアの占領から守るため、新政府は蝦夷地移住開拓計画を発表し、明治3年には日本とロシア両国に属する雑居地であった北蝦夷地を樺太と改称して開拓使を置いた。

新政府が発表した蝦夷地移住開拓計画を知った片倉小十郎邦憲は、先祖代々の墓を捨てて移住するか、地元にとどまり農民として生きるべきかの選択を迫られた。旧家臣と二昼夜に及ぶ議論を尽くし、旧領地へ残る者と移住する者はともに助け合うことで合意し、明治2年8月に改称された北海道への移住を願い出た。(※夏の白石城の写真は、平成18年に白石城管理事務所の承認を得て掲載した写真を複写しました。)

開拓使は自ら開拓した土地を所有できるとした新政府は幌別(現在の登別市幌別)へ自費で移住することを許可し、開拓費用として白石城の解体材売却代金を充てることを指示した。

明治3年6月から明治5年にかけ、家財道具類を手放した85戸227人は、片倉小十郎邦憲と共に名も知らぬ辺境の地「穂別」へと旅立った。

明治維新の時期は、南北戦争でアメリカの外圧が一時後退し、クリミア戦争でロシアの外圧が弱まり、イギリスとフランスは互いに牽制していたため、日本は列強の植民地にされることを免れた。

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2. 度重なる試練

ロシアの不凍湖を求める南下政策に危機感を抱いた新政府は明治3年3月、残存の旧白石藩士600余名に士族の身分を持って北辺を守りながら開拓する北海道移住開拓使貫属(かいたくしかんぞく)を命じ、維新後の混乱した人心をまとめあげた22歳の佐藤孝郷(旧白石城家老)に貫属取締を命じた

穂別へ移住する費用を工面できないなどの理由で残った旧白石藩士600余名は、武士という身分が保証され、移住費用は政府が負担することに安堵した。移住を希望したものは荷物を整理し、家財道具を処分して身支度を整えた。

雪解け水が乾き、耕作の時が過ぎ、種まきの時期が過ぎても音沙汰はなかった。生活の苦しさは深刻化し、43戸156人が餓死寸前に陥るなど、しだいに移住希望者の結束は崩れかけていった。

半年も待たされた9月12日、佐藤孝郷をはじめとする第一弾112世帯401人は成臨丸(かんりんまる。航行は帆走、港内のみ蒸気動力を使用。)に乗船して松島湾寒風沢港を出帆した。5日間の航海で函館に入港すると乗員の休息と風待ちで2日間停泊し、小樽を目指して津軽海峡へ向かったのは20日の午後2時過ぎであった。(※ 咸臨丸の模型は東札幌図書館に展示されています。)

午後6時を過ぎて降りはじめた雨は激しい風を伴い、荒れ狂う暴風雨は海から陸へ吹き付け、咸臨丸は渡島支庁木古内町サラキ岬の岩礁に座礁した。漁師が出した小舟で老人や幼児と婦人を救出し、翌朝までかけて荷物を浜へ揚げる作業が続けられた。重い荷物は海底へ沈み、軽い荷物は波にさらわれ、海水につかって用をなさなくなったものなど8~9割の貨物を失ったが、遭難による犠牲者は1人もださなかった。

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陸路を函館へ戻った一行は、一か月遅れで到着した蒸気船庚牛丸(きねうしまる)の第二陣84世帯194人と合流した。女人禁制伝説が残る積丹半島の神威岬を無事越えたが小樽港には500名を超える多人数を宿泊させる施設がなく、すべての人々は陸路を銭箱経由で石狩浜へ移動するよう命じられた。

石狩の浜では開拓使の役人が出迎え、魚場の空いていた番屋や納屋に分宿を手配し、家具、炊飯道具、農具、食物のほか、夜具として布団二枚などを支給した。咸臨丸の遭難で防寒用具を失った人々には綿入れが支給された

旧暦の10月は現在の11月中旬に当たる。生活するための建物ではない番屋や納屋に、数世帯が詰め込まれての雑居生活が始まった。

ひとつの竈(かまど)で20~30人分という炊飯は混雑を極め、時分どきには竈の前に長蛇の列ができた。乾燥して蓄えられた薪は少なく、暖を取るために立木の枝を折り集めて暖炉へくべた。生木はくすぶって室内には煙が充満し、すすと煙で多くの人々は眼病を患った。

やがて、みぞれ混じりの北風が建物の隙間から吹き込み、床下からつきあげる骨身を刺す寒風は衰弱した老人の命を奪い取った。北方圏の厳しすぎる気候に、一日も早く家族が共に暮らせる家を建てたいと人々は望んだ。

咸臨丸は江戸幕府がオランダから購入した木造軍艦で、1860年に米国使節団の一行(福沢諭吉は従者として参加)を乗せて太平洋横断を成功させた帆船兼蒸気船である。明治2年10月23~24日に離礁を試みて失敗し、航行用の機器が取り外された。翌日荒波にもまれて破船し、修理不能となって放棄された。

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3. 白石村の誕生

明治2年10月28日、開拓使の呼び出しに応じて佐藤孝郷は、札幌の仮庁舎へ出向いた。開拓使である岩村通俊より「私は600余名の白石藩士が貫属になることを聞いていなかったが、開拓使貫属として入植した以上は、全面的に援助を行う。」とし、「山野の積雪は三尺ないし四尺あり、いまは開墾の時期でなく、来春まで石狩で越冬したほうが良い。」と勧められた。

この話を石狩へ持ち帰ると、「むなしく石狩の浜で冬の過ぎるのを待つより、永住する地におもむいて開墾の仕事をしよう。」と、入植を望む声が多かった。

開拓使より100戸分の入植地として現在の中央区山鼻地区を指定されたが、豊平川の河原らしい石原が続き、地味が悪いことを示すカシワの木が多いことから開墾はむずかしいと判断した。

入植に適する地を求め、開拓予定地であった月寒の北外れにある丘(現在の白石中央、白石まちづくりセンターの位置)から周囲を見渡すと、東に月寒川西に望月寒川という二つの川に挟まれた一帯は樹木が繁茂していた。水利用に適し、雑木林のようすから肥えた土地と思われたので望月寒への入植地変更を願い出た

11月15日、女子10名を含む67名の作業隊は、小屋掛け作業のために借り受けた月寒坂下にある人夫用の小屋へ到着し、ここから望月寒の作業場へ通った。開拓使は小屋掛け料として金五両宛と賄米五合、作業に必要な道具類を支給した。

佐藤孝郷らは開拓使が切り開いた幅十間(18m)で延長二千間(3,600m)の入植路両側に、一戸当たり間口四十間(72m)で奥行三百間(540m)の土地を、南北向かい合わせにして各50戸を割り当てた。(※ 樹木のある公園が土地割の起点となった白石村一番。)

だれもが札幌本府に近いほうを望んだが、身分の高かったものへの配慮も加え土地の位置はくじ引きで決定した。

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降り積もった雪をどけ、雑木を切り倒して空き地を開き、開拓使が備蓄していた倉庫から荒縄、六尺板(床用の敷板)、柾目(まさめ、屋根用の薄い小さな板)、萱(カヤ。屋根や外壁用)を運び込んだ。

枝を払った丸木を柱にして縄で結び、柾目をはった屋根を萱で葺き、床には六尺板を敷き詰め、丸木を荒縄で編んだ壁を萱で覆った。

日の入りが早まるにつれて藻岩おろしは体を凍えさせた。氷点下まで落ちた気温の中での作業は手足が思うように動かず、皮膚は荒れて指の先端は裂け、皸(あかぎれ)となって激しい痛みに襲われるようになった。過酷な作業につかれた3名は脱落していったが、1日も早く家族を向えたいとの願いはくじけそうになる身と心を支え続けた。激しい労働の為にコメが足りなくなり、来年秋の収穫物で返すとして米二合五勺の追加を許された。

石狩の浜で待機する人々は作業隊からの知らせを待ちわびた。浜辺に噛みつく波音は眠りを奪い、原野を吹き抜ける突風はシモヤケや凍傷を呼び寄せた。肌を刺す海風と無数の隙間から吹き込む粉雪は、いつしか希望をなえさせ不安と曹操は人々から笑みを奪い去った。

土地の割り当てが終わってから20日余りで47戸が完成し、村づくりの進み具合は開拓使のある札幌本府にも伝わった。明治4年11月25日、岩倉判官は望月寒の状況を視察にみえられた。その開拓ぶりに感嘆して激賞し、開拓者の手本となるとして「地名の望月寒を改め、郷里の名をとり白石」と命名した。12月7日、作業隊は月寒坂下の仮住居を引き払い、自らの手で完成させた白石村の住居へ引っ越した

小屋完成の知らせが届いた。12月14日に125名、翌15日は70名、108名は1月下旬の出発と決まった。他の者は、三木勉が率いて発寒村(後の手稲村)へ繰り入れられることとなった。

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東には暑寒別の白い連峰、西には手稲の山並みが雪に包まれていた。幹と枝だけの雑木林に伸びる雪と落ち葉に埋もれかけた細い道をたどり、ある者は子どもを、ある者は老人を背負い、お互いを励まし合いながら原野を超えて石狩川を渡った。当時の道路は、花畔(ばんなぐろ)から茨戸(ばらと)を経て創成川畔へと続く現在の石狩街道である。

札幌本府へ入ると碁盤の目に区画された道、町中のあちこちに響く槌音、見たこともない幅広い防火線(現在の大通公園)に驚嘆しながら、人々は豊平川を渡り原始林の中に拓かれた白石村へ向かった。背負えるだけの荷物を背負い、持てるだけの荷物を持った1日がかりの旅であった。

なかには、月の光を頼りに雪道に残る足跡をたどり、心細さに耐えながら痛む足を引きずり、深夜になって札幌本陣(官営の旅館)へたどり着いた者たちもいた。63歳と53歳の女性、15歳を筆頭に14歳、8歳と6歳、1歳に満たない子どもである。貫属取締の佐藤孝郷は宿泊料の支払いを開拓使に願い出た。

明治5年1月、旧白石藩士259名は白石村で初めての元旦を迎えた。この地へ根を下ろすには、鎮守としての神社を建立し、子弟の学問所を造り、子孫の繁栄を見守りながら安心して眠る墓地が必要とされた。はるかにかすむ大雪山連邦から登り始めた陽光に人々はふるさとを得た感謝と新しいふるさとづくりを誓っていた

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4. 新しいふるさと

生活が困難な中でも子どもたちへの教育を重要視した人々は、右28番地(佐藤孝郷)と29番地(小関新次)の間に学問所を設け、4月に入って「善俗堂」と命名した。萱葺き18坪(60平方メートル)の小屋だったが、翌年村人の寄付を受けて新築された

善俗堂の児童生徒は18名で授業料は10銭と15銭の二種類、開拓使から36円の補助金を受けて2名の教師が教育にあたった。明治7年に児童生徒は31名となり、手狭になって12番地(白石中央2条3丁目)に100坪の校地を求め、村事務所を併置した校舎を建てて「村学舎」とした。当時は、午前8時登校、読書、10時算学、11時運筆、午後2時下校であった。

村の集会などは村の中心地であった善俗堂で行い、札幌本府へは7番地あたりから豊平橋付近への「山道(現在の道道東札幌停車場線、菊水旭山公園通)を利用していたが、村はずれの50番地を訪れる者はいなかった。

明治5年3月、佐藤孝郷たちは白石村鎮守のために神社の建立を願い出て、開拓使本庁(北6条東1丁目)付近から円山公園へ遷座した札幌神社の旧社殿を譲り受けて50番地の村はずれに移設した。開拓使の岩村通俊がお守りとして身に着けていた神武天皇の陵墓である畝傍山陵の砂をいただき、白石村守護産土紙(うぶすながみ、守護神)として祀った。

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明治5年の夏、平地から急に小高い丘となり畑をつくれそうもなかった24番地と25番地の奥の空き地は、子孫が繁栄する様子を一望できる墓地としての利用許可が下りて白石中央墓地が完成した。その後、昭和41年に区画整理のため一部を平岸霊園へ移し、昭和47年に残りすべては里塚霊園へ移転された。

白石中央墓地は西寄りのため、89番地にも墓地をと願い出たが一村一ヶ所との決まりで却下された。許可のないまま開設して、明治35年に認可されたのが「白石本通墓地」である。この墓地には大正初期に瓦職人の野田荒吉がつくった「土管型をした焼き物の墓標」があり、茶色のうわぐすりはいまなお鮮やかな色艶を保っている。

日本は明治3年に樺太開拓使を設置したが、樺太は日本とロシア両国に属する雑居地であった。在住の日本人とロシア人の間で何度か紛争が起こり、アメリカとイギリスはロシアと戦争をすれば樺太はおろか北海道も奪われると警告をした。

明治政府はロシアとの戦争を避けるため、明治8年(1875年)に樺太・千島交換条約をロシアと結んだ。日本は樺太全土をロシアにゆずり、カムチャッカ半島ロパトカ岬と千島列島最北の占守島の間を両国の境界とし、ロシアの了解を得て千島列島を日本領とした

明治5年1月に73戸、2月に80戸の小屋が完成した。石狩の浜で待機していた人々を迎えた明治5年3月の白石村は戸数105戸、男子207人女子173人の計380人となり、旧白石藩士のふるさとを求める旅は終わった

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第二 東札幌の誕生

1. 東札幌の自然

白石村は東に月寒川、西に望月寒川(もつきさむがわ)という二つの川に挟まれた望月寒一帯に誕生した

月寒川は、豊平区南部の低い丘陵に源を発し、西岡水源地を経由して住宅地へ入り、ラウネナイ川を合流して白石区を縫い、函館本線を超えて豊平川にそそいでいる。

月寒川の下流部は低湿地と泥炭層で、石狩川が増水すると豊平川も増水し、しばしば水が支流の月寒川に入り込んで逆流したことから逆川(さかさがわ)と呼ばれていた。

望月寒川は月寒川の支流で、「も」はアイヌ語で小さいという意味である。豊平区西岡の低い丘陵地に源を発し、月寒公園の池を経由して東札幌2条6丁目から白石区を南北に縫い、東米里で月寒川に合流する。月寒川と同様1960年代に改修工事が行われるまでしばしば氾濫を繰り返していた。(※ 平成27年の現在も氾濫を起こす要注意河川です。)

二つの川は災害ばかりではなく、貴重なタンパク源も提供してくれた。ウグイ、ドジョウ、ニジマス、アメマスなどが生息し、昭和の末期頃までは望月寒川上流でウグイが釣れてていた。

東札幌の開拓当時は、望月寒川の両岸に原始林や湿地が広がっていた。エゾシカの群れやエゾオオカミ、ヒグマなどが生息する中を人一人通れる程度の道が拓かれた農地を結んでいた。

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原始林が切り開かれて畑作が始まると、農作物をエサにしたエゾシカは開拓者に駆逐されて数を減らし、明治12年の大雪で埋もれた笹を食べることができなくなり大量に餓死した。

エゾオオカミは主にエゾシカを獲物としていた。獲物がなくなると農耕馬を襲い、たまりかねた開拓者は猛毒のストリキニーネを仕込んだ生肉を撒いた。カラス、キタキツネ、野犬も毒入りの生肉を食べて死んだが、当時はやむを得ないこととされた。エゾオオカミは明治22年頃までに絶滅した。

明治12年8月頃、横町通り付近(現在の白石中央1条3丁目3番9号)で発見されたエゾオオカミのオスが火縄銃で仕留められ、豊平では雌が仕留められた。世界に二つとないエゾオオカミ雌雄の剥製が、北海道大学付属植物園内の博物館に展示されている。

人々がもっとも恐れたのはヒグマである。体型が大きく雑食で、農作物や家畜に及ぼす被害は大きく人を襲う凶暴性もあった。北海道大学付属植物園内の博物館に展示されている剥製のヒグマは、明治11年12月5日夜、白石村を通過して丘珠村の炭焼き小屋を襲い、主人と赤ちゃん、下男を食い殺して妻に重傷を負わせた人食い熊である。

望月寒川の月寒の発音は元々「つきさっぷ」であったが、第二次世界大戦中に陸軍の要請で「つきさむ」に改められた。札幌千歳間に国道36号線が建築された時期に、月寒中央通11丁目を流れる月寒川に「望月寒橋」、美園4条8丁目を流れる望月寒川に「月寒橋」と命名する間違いが、改められることなく現在に至っている。

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2. 横町通の誕生

札幌本府への道路は、豊平川に架かる唯一つの橋「豊平橋」へと続く月寒街道(現在の国道36号線)であった。白石村から月寒街道へ出るには、望月寒川沿いの細道を通るか札幌本府に近い7番地あたりから豊平橋付近への「山道」と呼ばれる踏み固められた程度の小道しかなかった。

白石村の形態が整い始めた明治5年2月、札幌本府への交通路が望まれるようになり、貫属取締兼戸長であった佐藤孝郷は開拓使へ道路建設を願い出ていた。

寒さが緩んだ3月、厳寒期には湿地であることを知る由もなかった南北1番から7番までの14戸は雪解け水に浸かった。22世帯は札幌本府通沿いの「札幌市道2号用水線」予定地の両側に、新しい土地を割り当てられて移転した。

当時、白石村の中央を走る道路を「本通(現在の国道12号線)」としていたため、札幌市道2合用水線は横の道、「横町通(現在の米里行啓通)」と呼ばれるようになった。4月に入ると札幌本府への交通路は「横町通」を経由して月寒街道へ延長され、札幌と白石村を結ぶ連絡道路となった。この横町通が東札幌の出発点である。

開拓使は明治8年から、梨、リンゴ、桃、杏、梅、ブドウなどの苗木を配付し、東札幌地域でも果樹の栽培が試みられた。明治20年前後から、カイガラムシやワタムシなどが発生して損害を与えた。昭和8年には東札幌、白石中央、本通、南郷、大谷地、厚別のリンゴ農家が白石果樹組合を編成して対策を練り昭和23年頃撮影の米軍航空写真に広大なリンゴ園が写っている。

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昭和25年に白石村は札幌市と合併し、急速な宅地化の波はリンゴ園を飲み込み、白石果樹組合は昭和35年に解散した

大正7年に苗穂駅発東札幌駅経由で定山渓へ向かう定山渓鉄道が開業した。定山渓温泉への観光客の輸送、木材の輸送、鉱石と石材の輸送を主な目的としていたが、複線化による運転間隔の短縮ができないまま道路事情が好転し、バスやマイカーに乗客を奪われて昭和44年11月に鉄道部門を廃止してバスに転換した。

旧千歳線は大正9年に北海道鑛業鉄道が建設した。大正15年8月には苗穂駅から札幌市の東部を迂回して東札幌の南部を通過し、北広島、千歳を経て沼ノ端までの路線となった。昭和18年、太平洋戦争での陸上交通の整備で買収され千歳線と呼ばれる国鉄の一路線となった。

輸送の条件が整うと、鉄道沿線の豊平から菊水、東札幌にかけて産業が発展した。白石には北都ゴム工業所、三共ゴム工業所、東札幌1条2丁目で豊平製鋼所、3丁目で白熊ゴムが創業していた。また、東札幌には木材工場6ヶ所、乳製品加工場、白石機械製作所などのほか、昭和27年には北日本毛織会社が九州まで事業を展開し650余名の従業員が働いていた。

旧千歳線は、昭和48年に白石駅から新さっぽろ駅経由に路線が変更され、東札幌から鉄路は消え去った

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3. 東札幌の誕生

東札幌となる一帯は白石村横町と呼ばれ、昭和初期まで豊かな水田と畑の中に散在する50~60戸の純農村であった

昭和7年の一級町村制度施行で、白石村は一級村に昇格し、村長、助役、収入役は村会(現在の村議会)の選挙で選出できるようになった。昭和10年頃に誕生した住民組織の「横町親睦会」は、昭和15年の大政翼賛会設立に伴い「横町部落会」と改称し、戦後はGHQの命令で解散させられた。

大正時代に各地に誕生したのは学校卒業後35歳まで入団できる青年団である。横町特別青年団は横町親睦会からの寄付金とお祭りの余興残金などを基金とし、昭和11年に古電柱を使い東札幌2条4丁目に「横町特別青年会館」を建て、その後「横町倶楽部」と改称した。農事組合や白石神社の祭典打ち合わせや、婦人部や青年団の会合に利用され、昭和46年の南郷通り拡張工事で解体されるまで地域のコミニティセンターの役割を果たしていた。

千歳線の国鉄移管と終戦を契機に千歳線周辺と豊平町美園地区に人口が増加し始めた。新しい住民の多くは勤め人で、横町北部地区の生活環境を守るため町内会の結成が始まった。これらの地域は札幌市と白石村が合併した昭和25年7月より昭和36年の東札幌出張所開設まで菊水出張所の所管地域となり、昭和29年に第一と第五町内会、翌年は第三と第四町内会が発足し、昭和31年に発足した第二町内会がまとまって「北町内連合会」を結成した。

昭和31年に農事組合や青年団が代行していた親睦業務を引き継いで「横町振興会」が発足すると、「横町振興会」に対して「北町内連合会」を「北町振興会」と呼んでいたと思われる記録もある。

横町振興会は「白石(神社)祭」、北町内連合会は「札幌(神社)祭」の祭典区となり、互いに競い合い何かともめごとが絶えなかった。北日本毛織会社(現在は東札幌3条2丁目で営業)の社長はこの状態を憂いて地名の変更を提唱し、両町内会も合併を模索して話し合いをはじめようと、住民の意見をアンケートで求めた。

「東札幌派出所と東札幌出張所誘致、町名改正と条丁目の制定、日章中学校建設、両町内会合同大運動会開催」等の要望がまとまり、町内会合併へ向けた機運が熟成し始めた。

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昭和34年11月6日付の「北海タイムス」は、「東札幌町に落ち着く?白石横町町名変更市議会でよりより協議」と題した記事で次のように報じている。

いろんな名まえがあって難航していた札幌市白石横町の町名変更は「東札幌町」に決まりそうだ。同町の新横町町内会と横町振興会は同町一帯が住宅地として密集化するにつれて地番がゴチャゴチャになったので新しい町名をつけ、条丁目制にしてほしいと市議会へ陳情、それぞれの町内会で発展的にふさわしい名まえを考えていた。

新横町があげた名まえは「東札幌町」と「青葉町」、横町は「泉町」「双葉町」「青葉町」。地元同士で話し合ったがまとまらず、この中から選んでほしいと市議会に決定をまかせた。

このため市議会では5日に菊水、白石、豊平の地元五議員が集まって話し合った結果、千歳線の東札幌駅が近くにあり、区域の郵便局も東札幌郵便局なので「東札幌町」に決めた。本決まりになれば「札幌市東札幌何条何丁目」となるわけ。

また、白石、南郷、本郷、中央のオール白石連合会側が、“白石”をなくすることに強く反対しているので削除することを避け、同じ都市計画区域である白石中央には新町名を及ぼさぬことにした。

これから市側に議会側の決定を伝えて話し合う。市側の一部には「厚別のほうがもっと札幌の東部になるのだから、青葉町あたりがいいのじゃないか」という意見もあるが、議会側では「東札幌町」落ち着くであろうとみている。新町名は道庁の承認を得たうえで12月の定例市議会で正式に決まる。

昭和34年12月の札幌市議会は、町名を「東札幌」と議決し、昭和35年3月31日付で横町地域の町名を改正して条丁目と新番地を告示した。これを受け、5月に東札幌町名快晴記念祝賀会が開催された。

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○ 町民のみなさまへ 東札幌町名快晴記念祝賀会行事執行委員会

わたしたちの町は、札幌市の近郊として、最近急速に発展の一途をたどっています。しかし、よりよい市民生活を営むためには、不便、かつ、不備な点が非常に多く、一日も早くこれを是正して、みんなが楽しい生活をできるようにしなければならないと思います。

そのために横町と新横町の二つの町内会が昨34年より、仲よく協議のうえ、市に対して強く運動した結果、これまで80年も歴史をもつ「白石横町」という地名を「東札幌」と改め、さらに「条丁目」を設け、「番地」も順序良く新たに統一して、日常生活を便利にするようにしていただきました。

このたびこれを記念して祝賀会を行い、さらに、これを契機として、東札幌に乏しい住民利便のための諸施設や、機関を誘致する出発点にしたいと思うのであります。

どうかこうした住民本位の町づくりを促進するための祝賀会行事を、全住民の手によって行うことができますように、みなさまの深いご理解と絶大なご協力を心からお願いいたします。

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告示と共に相次いで町内会が設立され、翌昭和36年2月12日に「東札幌町内連合会(加盟10町内会、以下「町連」という。)」が結成された。

昭和37年4月に東札幌郵便局が開局し、8月に東札幌会館が竣工して東札幌出張所が移転入居した。昭和41年、美薗消防署開設、望月寒川改修工事着工。昭和41年から47年にかけて東札幌全域に下水道管が架設された。

昭和37年10月1日、豊園小学校通学区域変更により、東園小学校の児童120名転入。昭和40年1月に東札幌小学校開校、豊園小学校より380名転入。

昭和41年3月、北海道アサヒビール工場開業。昭和44年、定山渓鉄道(東札幌~定山渓区間)が廃止となりバスに転換。昭和48年9月、千歳線切換えで東札幌から鉄路が消える。

昭和48年に地下鉄「南北線」が開通し、第11回冬季オリンピック札幌大会(2月3日)が開催された。昭和51年6月10日に地下鉄「東西線」が白石駅まで開通し、昭和57年3月31日に白石から新さっぽろまで延長開通した。

昭和47年4月1日、札幌市の政令都市移行に伴い区政が施行されて「白石区東札幌」となる。昭和48年10月2日、白石区の「木」を「ポプラ」、「花」を「バラ」と決定される。昭和52年7月16日、白石区のシンボルマークが決定する。昭和61年4月、白石区の「木」に「ななかまど」が加えられる。

平成13年2月にエレベーター付き二階建ての新しい東札幌会館が竣工し、この年札幌ドームが開館した。

平成17年度、町連は加盟15町内会5,365世帯となり、政策によるまちづくり協議会の構成団体となった。

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第三 東札幌のまちづくり

1. あかならの記念植樹

昭和51年6月10日、地下鉄東西線の東札幌~琴似間が開通し、東札幌駅と当分の間の終点となる地下鉄白石駅の二駅が完成した。東札幌駅北側にダイエースーパーが進出して小売店はやむなく他の地へ移転し、一部の市営バス路線が廃止された。

翌年5月、市緑化推進部にお世話いただき、町連役員が東札幌を東西に貫く南郷通の中央分離帯となった地下鉄路覆土部に、カナダ赤楢(あかなら)80本を2メートル間隔で記念植樹した。現在は見事な景観を呈している。

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2. ふれあいの並木道

新千歳線は、昭和48年に上野駅より新札幌駅を経由して白石駅で函館本線に接続された。東札幌地区を経由した旧千歳線の廃止に伴い、札幌市は上野幌分岐点より水源地通りまでの跡地を買収し、サイクリングロードとして再生した

月寒駅から東札幌駅を経由して苗穂駅までは貨物専用線として利用されていたが、廃線後は管理されないまま雑草がはびこり荒れ放題となった。心無い市民によるゴミ捨て場となり、中には業者による廃品集積所と化し、周辺住民の住環境は環境衛生上からも悪化の一途をたどった。

当時の国鉄は廃線跡地の環境整備については全く関知せず、札幌市は所管外であることを理由に門戸を閉ざしていた。周辺住民は春と秋の清掃週間に合わせて環境整備に当たったが、住人の参加を強制することはできなかった。

住環境の悪化を懸念した町連は「東札幌地区旧千歳線の跡地対策委員会」を設置して対策案を練り上げ、答申案にまとめて札幌市長へ陳情した。これにより昭和54年、札幌市は旧千歳線月寒駅より東札幌1条1丁目までを買収し、側溝、フェンス、砂利道を暫定整備して一部には植樹を行った

昭和55年5月、町連の14町内会約700人が参加して、暫定整備された砂利道に沿うように桜の苗木200本を植樹した。各町内子ども会は区域を分担し、桜の根がつくまでの給水や冬囲い、ごみ拾いなどを実施した。

砂利道の愛称は公募で「ふれあいの並木道」と命名された。その後、アスファルト敷設工事が行われ、道道札幌環状線より東札幌1条3丁目までの整備が完了して街路灯が点灯し、平成元年12月に道道札幌環状線をわたる「環状夢の橋」が竣工した。橋の名は、東札幌小学校・豊園小学校・登園小学校・白石小学校の4校児童への公募により命名された。

サイクリングロードの正式名称は「札幌恵庭自転車道路」といい、現在の利用可能区間は19.7キロメートル、全線が完成すると31.9キロメートルの予定である。南郷通と接する東札幌2条1丁目から環状夢の橋までの1.9キロメートル区間を「ふれあいの並木道」と呼んでいる。

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3. 教育荒廃への対応

昭和40年代は大学紛争から高校での暴力沙汰へ発展し、昭和50年に入ると低年齢化して中学校でも問題行動が発生しはじめた。

昭和55年頃から白石区の中学校に非行、暴力、授業妨害、中抜け、さぼりなどの事象があらわれ、生徒が上級生のいじめにあっても教師側からの適切な対応はなく、教師の見て見ぬふりや問題行動の放任が荒廃を助長させていった

昭和56年、日章中学校は校舎改築の為にプレハブ校舎を仮設した。旧校舎の解体が始まるころ、プレハブ校舎の廊下壁に穴があけられ、修理と破壊が繰り返されるようになった。授業中の中抜けや授業妨害がエスカレートし、教師の目を逃れて空き教室などにタムロする生徒が現れた。修学旅行終了は、備品類や窓ガラスの破壊、カンパと称した金銭の強要、シンナーの吸引やトイレでの喫煙、頭髪の染色も散見され、新校舎で落書きも発見された

学校側は職員会議やPTA役員会で対応を検討し、喫煙調査や所持品検査を実施した。毎時間授業のない教師4名がトイレや空き教室を巡回し、タムロしている生徒を発見次第教室に戻すと、戻された生徒は騒ぎまわって授業を妨害した。このような問題行動生徒は20~30人で、うち10人ほどは父母との連絡が取れたが保護者は自由を主張して関心を示さなかった。

昭和58年1月、夜間侵入した者が木造校舎の壁やガラス窓を破壊し、職員とPTA役員は夜間の校舎巡視を開始した。札幌市教育委員会は(以下、「市教委」という。)は生徒指導員を派遣し、PTAによる校内清掃奉仕活動が始まった。

黙認している教師と、学校への信頼感を喪失したPTA役員だけでは収拾がつかないとことに気づいた校長は、町連に助力を要請して世話人会が組織された。地域住民へ日章中学校荒廃の現状が初めて公表され、非常事態に諸団体は協力することになった。しかし、生徒が荒れている真相の解明が不十分過ぎると、一部の役員から管理職交代の意見もでてきた

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教育長、学校教育部長、指導室長の視察後に特別補導員8名が配置され、日章中学校区青少年育成会が設立された。町連会長、日章中学校PTA会長、近隣小中学校PTA会長、町連加盟町内会長、東札幌社会福祉協議会会長、東札幌民生委員協議会会長、東札幌体育振興会会長、東札幌青少年育成委員会会長、東札幌商店振興会会長、近隣小中学校教員などで組織され、民生委員、青少年育成委員、各町内会青少年部長とPTA役員の2百名以上が生徒指導に当たることとなった。

相次ぐ教師への暴言。一年生の教室へ暴れこみ、寄声を上げて走り回る授業妨害。上級生の真似を始めた二年生の授業中抜け。爆竹に火をつけて騒ぐ生徒や、爆弾を仕掛けたとの電話による避難。便所での男女の戯れや、タムロしての喫煙によるボヤ騒動。プレハブ教室のベニヤ壁は破壊され、タバコのにおいが充満したトイレの隔壁には穴が開き、施錠を壊して図書室へ侵入しての落書き。給食室へ侵入して器物を散乱させるなど、毎日のように校舎の破壊が続いていた

土足、パーマ、頭髪の染色、変形ズボンの着用者が増え、非行生徒をまねる下級生が現れてきた。未就職卒業生が玄関前にタムロして騒ぎ、三階までの階段をオートバイで上がる者もあらわれた

健全育成会は転入した意欲溢れる教師や気を取り直したPTA役員と一丸となり、荒廃した教育現場の正常化へ向けて取り組んだ。登校時の喫煙用具などの所持品検査に当番で参加し、保護者の父母と共に校内を巡視し汚染箇所を清掃し、授業参観には積極的に参加し、校外巡視と補導に活動の力点を置いた。問題行動生徒の保護者との連携は困難を極めたが、説得活動は粘り強く続けられた。

昭和59年3月、異常とも思える頭髪や服装で参加する生徒もいたが、保護者のほかに健全育成会と町連役員多数が見守る中で卒業証書授与式は終了した。

昭和61年度の卒業式を迎えることから57~58年度へかけての騒動が平静を取り戻し、日章中学校区青少年健全育成会の努力は教育荒廃を乗り越えた

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4. ふれあいの鐘

札幌市が提唱した規則正しい生活環境づくりのひとつである「愛の鐘」を、東札幌地区にも設置すべきと町内会や青少年育成委員から寄付が寄せられていた。東札幌青少年育成会はこれまで備蓄してきた15万円を基金として、昭和61年の年次総会で東札幌地区の青少年健全育成のため仮称「愛の鐘」の設置を提案した。

仮称「愛の鐘」の設置呼びかけ

東札幌地区の青少年育成会は、地域の方々の暖かいご理解とご協力をいただきながら、子どもたちの健やかな成長を願って、各種の活動を行ってまいりました。

その効果が徐々に現れていますが、さらに、都市化の進んだ当地区に生活するすべての子どもたちの幸せを願い、一日の始まりと帰宅時刻を知らせ、規則正しい生活環境づくりを家庭、学校を含めた地域づくりで進めるため「愛の鐘」を設置するものです。

各町内会へ趣旨が回覧され、基金箱を四ヶ所に設けるとともに設置場所の選定準備が勧められた。各町内会と各種団体の賛同が得られ、特別に協賛された方々と市からの助成を得て、日章中学校の放送設備に機器が組み込まれた。

愛の鐘の「愛称」が公募され、東札幌小学校六年生の今井加奈さん、日章中学校二年生の富樫美和さんと池田明菜さん、同校三年生の赤枝幸子さん、柏原真弓ん、吉田優子さんにより「ふれあいの鐘」と命名された。

青少年の問題行動には原因があり、「だれがそうなるまで放置したか」を抜きに考えることはできない。個人と家庭の責任はもちろんあるが、身勝手な大人がその環境を造成したことは紛れもない事実である。同じ過ちを繰り返してはならない・・・と、ふれあいの鐘は今日も街中に呼びかけている

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5. 児童会館のオープン

青少年の健全育成は白石村誕生からの悲願であったが、日章中学校の荒廃に東札幌の住民は大きな衝撃を受けた。町連は問題行動の低年齢化をくい止めるには、小学生のうちから豊かな情操と非行に走らない素地を培わなければと、「児童会館」の開設を要望した。町連役員と同婦人部役員、東札幌青少年育成委員会は合議のうえ、顧問の山田市議を交えて白石区長に設置の要望を行った。

当時の札幌市は一区四館構想で、厚別区と分区する前の白石区には児童会館4館が建設済みという不利な条件下で会ったが、教育荒廃を乗り越えた地域の熱望により59年度予算に計上されることとなった。公共用地は皆無であったが、現在地所有の両山平家のご理解が得られ、昭和59年3月27日に東札幌児童会館がオープンした。

東札幌中央地区の東札幌会館と南西部地区の緑営会館は地域住民のコミニュケーションの場となっていたが、東部と北部地域には集会場がなかった。東札幌児童会館は市の了承を得て夜間も解放され、東部と北部地域町内会の会合にも利用できることとなった。

町連は、感謝の意を表すため単位町内会と関係諸団体に応分の負担を求め、寄せられた56万余円で陶芸用の窯を寄贈した。

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6. ふるさとまつり

昭和51年発足以来14回を重ねた「白石区ふるさとまつり」は、平成元年の厚別区分区より新たな発想の下での継続が検討された。白石区ふるさと会、白石区町内連合連絡協議会と白石区役所の三者は、当時の六町連(平成3年に入り東白石が白石東町連の二つに分かれ、現在は七町連)が毎年輪番で担当し、区民の創意工夫による「白石区ふるさとまつり」を実行することで合意し、平成2年度の第15回「白石区ふるさとまつり」の主催を創立30周年記念行事を計画中の町連に求めた。

初めての試みのため決断までには慎重を期したが、5月23日の町内会長会議で町連創立30周年記念事業の一環として引き受けることが合意された。期日は8月21日(土曜日)、東札幌にれ公園を会場として予算350万円が計上された。

平成2年8月21日、台風くずれの低気圧は予報よりも東方に逸れたが、夜来の雨は降り続いていた。午前6時に集合した三役は、小雨交じりの中で「第15回白石区ふるさとまつり」の決行を決断した。準備が進むにつれて低気圧は日高海岸沖のはるか東方へ去り小雨が止むと生暖かい南風が引き込んで正午過ぎには太陽が顔を出した。

沿道で見学する区民の歓迎を受けてパレードが会場へ到着すると300余名の婦人による「白石音頭」を先頭に子供御輿、白石消防団の担ぐふるさとまつり神輿をはじめ、数団体の神輿が続き、開会のフアンファーレが響くころはかなり広い「にれ公園」も人の波で埋まった。

会場には模擬店や特産物コーナー、ノミの市、福祉施設の売店コーナーも出そろい、切れ目のないステージや広場での催し物が続く中で、午後8時閉会セレモニーが行われた。

次期開催担当の北白石連合会へ「ふるさと旗」が伝達され、厚別区文分区で再出発した「第15回白石区ふるさとまつり」は幕を閉じた。(※ 上の写真は平成22年の白石まつりです。)

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