1 日本最古の賃貸マンション
1-1 軍艦島(端島)の賃貸住居
1810年頃に端島で石炭が発見され、1870年頃には佐賀藩が小規模の採炭を行っていた。1890年に三菱の経営となり本格的に石炭の採掘が開始され、海面下約千m以下の地点にまで及んだ海底炭鉱から採掘される石炭はとても良質だった。
端島は、長崎県長崎港から南西約18kmの海上にあった大きな瀬で、1897(明治30)年から1931(昭和6)年にかけて6回の埋め立てを行い、南北約480m、東西約169m、周囲約1,200m、面積6.5haという大きさの島になった。
1890年から1974年の閉山まで約1,570万トンの石炭を供給し、隣接する高島炭坑とともに燃料や製鉄用原料炭として造船や製鉄・製鋼の分野の面で日本の近代化に大きく貢献した。(写真はながさき旅ネットより転載)
1960年頃の軍艦島の人口はおよそ5千人に及び、島民は炭鉱夫だけでなくその家族や子供がいたので、病院、浄化水槽、小学校や保育園などの施設も整えられた。幼稚園は軍艦島で一番大きな建物の屋上にあり、公共浴場や映画館・遊郭などもあった。
公共浴場は無料で開放され、炭鉱夫は仕事終わりから家に帰る前にそこで汗や汚れを洗い落とすことができた。公娼との売春が認められていた時代で、吉原のように塀で囲われているわけではないが七か所の「遊郭」もあり、朝鮮人専用の遊郭もあった。
島の周囲がコンクリートの岸壁で覆われ、高層鉄筋アパートが建ち並ぶその外観が軍艦に似ていることから「軍艦島」とも呼ばれている。その「廃墟の島」が現在でも人々の好奇心を掻き立てるのは、「島全体が繁栄当時のまま残っている」ことである。
廃墟でありつつも、テレビを始めとする家電や生活の名残がそのまま放置され、昭和の生活を実感することができる。当時のままの姿で無人島になった端島は2001(平成13)年、元三菱鉱業から正式に高島町へ譲渡され長崎市の所有となった。
2009(平成21)年4月より、島への上陸が許可され観光・見学が可能になった。2015(平成27)年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された。
国のエネルギー政策転換に伴い、主要エネルギーが石油へと移行して1974(昭和49)年1月に端島炭坑は閉山、すべての居住者が島を去り無人島となった。30年以上もの時を経て見学施設が整備され、2009(平成21)年に上陸見学が可能となった。
軍艦島上陸クルーズは3時間10分のツアーで、乗船料は大人3,600円、小人1,800円。別途、見学施設使用料大人310円小人150円が必要となる。上陸ツアーで見学できるのは、整備された歩道と船上からの景観のみで建物に近付くことはできない。
見どころは30号棟。これこそ1916(大正5)年に完成した日本で最初のRC造集合住宅である。階数は地下1階、地上7階。東京、大阪よりも早く九州の離島にいきなりこのような建物が出現したこと自体が、軍艦島の重要性を物語っている。
日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパート30号棟は、ロの字型で内部に吹き抜けの空間があり空間の周辺を回るように階段が設置されている。また、ロースハウスは徹底的に装飾が排除された外観から「眉のないビル」と呼ばれ批判を受けた。
65号棟は、地下1階、地上9階一部10階建て、戸数388戸という島内最大の建物で、全体的にはコの字型をしている。建設時期はコの字の3辺ごとに33期に分かれ第1期部分の完成は資材不足の戦争末期1945(昭和20)年だった。
居住棟に囲まれた中庭には公園が、10階と屋上には保育園が設けられ、規模・質ともに当時としては高い建物だった。残念ながら65号棟も船上からコの字の形はあまり見えない。なお、棟番号は現役時代に三菱が付けたもので、建設順とは無関係である。
日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパート「30号棟」は、完全に無装飾の集合住宅として実現したことも建築史上特筆すべき出来事である。竣工より105年、無人化して47年が経過した姿に畏敬の念を覚える。(ながさき旅ネットより転載)
日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパート「30号棟」は、竣工より105年、無人化して建物管理の手が入らない状態で47年が経過した。台風や荒波に襲われながらも現存している姿に、きちんと管理すれば100年以上の寿命があることを物語っている。
2 同潤会上野下アパート
1923年(大正12)年の関東大震災で、東京・横浜の下町では木造住宅が密集していたことから大きな被害を受けた。震災前から不燃造の集合住宅の必要性が認識され、東京などで鉄筋ブロック造の集合住宅を造り始めていたが計画的な供給が課題になった。
内務省は国内外から寄せられた義捐金の中から1千万円の支出を決定し、震災の翌年5月に財団法人同潤会が震災被害の救済機関として設立され、東京や横浜など16ヵ所に災害復興住宅を建設した。
同潤会はスラム対策の住宅建設も行いながら、都市中間層向けの良質な住宅供給を行った。耐火耐震の鉄筋コンクリート造りで、各戸に水道・ガス・電気・水洗便所・流し台・調理台・ダストシュートがあり、浴場、娯楽室、食堂、遊園地も併設した。
同潤会最初の鉄筋コンクリート造集合住宅の中之郷アパート建設は1925年に始まった。代官山アパートは全36棟337室である。同潤会アパートに住む給与生活者は、かなりエリートであったが申し込みが殺到して常時満室だった。
震災の教訓から「壊れにくい、燃えにくい住宅」として鉄筋コンクリート造が採用され娯楽室や食堂、水洗トイレ、ダストシュート、自家水道施設、児童公園、公衆浴場等が完備されていた当時の最先端住宅だった。
表参道ヒルズにあった「青山アパートメント」や東日暮里にあった「三ノ輪アパートメント」、新宿区にあった「江戸川アパートメント」など16のアパートが建設されたが、上野下アパート以外は老朽化のためこれまでに全て取り壊されている。
日本最古のマンション「同潤会上野下アパート」は、ついに2013(平成25)年6月17日から解体作業が開始された。下の写真は、東京都台東区に存在した同潤会上野下アパートの遺影である。(2013年1月17日に撮影された時事通信社JIJI.COMより転載)
同潤会上野下アパートは、東京メトロ銀座線稲荷町駅徒歩1分、JR上野駅まで歩いても8分。容積率は600%の地域だが、200%しか使っていなかった。大規模修繕で生まれ変わるか、建物を解体して建て替えるか、土地を処分するか選択は三つである。
新しいスタートに際して理事長が組合員らと「全てを公開して透明性を堅持し公正に事を進める」基本方針を確認した。先輩格の同潤会関係者や、学識者、建築家などに相談、コンサルタントは公募とし、プランを提出した8社の中からUG都市建築を選んだ。
複雑だった登記問題については測量し直し、現状の土地評価額などを反映させながら不動産鑑定士や弁護士などに判定してもらい、新たな評価基準として慎重に住民に提案していった。公正な第三者の判定を得たことで事態が好転した。
老朽化に伴う建物の劣化の著しさと、耐震性などの建物機能の問題で住人にも建て替え希望者が多かった。立地条件が良い場所が多く、高層化することにより個人負担なしで建て替えによるメリットが大きいと考えられた。
事業協力者は三菱地所レジデンスに決まり、戸別訪問せずとも全員が集会室に集まり、3か月程度かかるヒアリングの予定が1か月半で済んだ。制震構造、防災設備など、安心できる設備で、ハイスペックなマンションへの建て替えが決定した。
2015年夏に鉄筋コンクリート造、建築面積約900平方m、建蔽率78.4%、容積率約599,8%、地上14階、地下1階、EV2基、バルコニー面積は4,90平方メートル、店舗区画4を含む総戸数132戸、「ザ・パークハウス上野」が誕生した。
販売価格は4,790万円~7,690万円である。管理費19,910円、修繕積立金11,510円、駐車場26台、駐車料月額:27,000~30,000円である。同潤会育ちの幼なじみからも、新マンションに戻りたいと連絡が入っているそうだ。
同潤会上野下アパートは立地条件が良く容積率は600%で200%使用で、市街地再開発事業として助成金制度を利用できたこともあり、高層化することにより個人負担なしで建て替えることができた。このような好条件を備えているマンションは少ない。
3 札幌の建て替えマンション
1972(昭和47)年冬季札幌オリンピックは、2月3日から13日までアジアで初めて開催された。スキージャンプ70m級で笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、日本人が冬季オリンピックで初めて表彰台を独占した。
フィギュアスケートの氷上で、尻もちをつきながらも銅メダルをとったアメリカのジャネット・リンが「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ、日本中で人気になった。大会のテーマ曲となったのは、トワ・エ・モワほかが歌った「虹と雪のバラード」だった。
選手・役員などの宿泊施設は日本住宅公団が建設する800戸。プレスハウスも800戸(外国人向け450戸、日本人向け350戸)で、外国人向けが日本住宅公団、日本人向けは道か市のいずれかが建設する公営住宅を充てた。
選手などの宿舎となる住宅は日本住宅公団が建設主体となった。警察学校跡に建てるオリンピック村の男子選手宿舎を5つの工区に分割し、住棟番号横にはオリンピックのロゴマーク「雪の結晶」がデザインされて表示された。
冬季オリンピック閉幕後に、「表彰台を独占した日の丸飛行隊や銀盤の妖精と呼ばれたフィギュアスケートのジャネット・リンなど、数々のスター選手が生活していたお部屋・団地に住めるチャンスです!」と、オリンピック村の選手宿舎が売り出された。
札幌市営地下鉄南北線の真駒内駅から徒歩7分にある旧オリンピック選手村の地上4階建てで総戸数40戸の「泉町マンションC・D棟」は、突貫工事で雑な造りのせいもあり築後40年で建物全般にわたり著しく老朽化が進行して建て替えることが決定した。
2005年4月に三井不動産レジデンシャルを事業協力者に選定し、区分所有者全員の合意のもとで11月に解体工事に着手、2007年3月建設工事に着手した。同社グループにとって札幌市内における5物件目のマンション建て替え事業である。
2008年3月に竣工した「パークホームズ真駒内泉町」は、新耐震基準で鉄筋コンクリート造11階建ての総戸数70戸である。2LDK72.32平方メートル~4LDK119.41平方メートル(平均90平方メートル)の全37タイプで、納戸やウォークインクローゼットなど収納スペースも充実。宅配ボックスもある。
IHクッキングヒーターや床暖房などのオール電化仕様で、オートロック、モニターと録画機能付きインターフォン、24時間セキュリティ、テンプルキー、防犯カメラ。駐車場は自走式平面。管理費は1㎡当り112円、修繕積立金1㎡当り99円である。