1 ケネディ大統領暗殺
1 NHKの挑戦
新たなスクープをもとに、ドキュメンタリーと実録ドラマで、未解決事件の真相に迫るNHKスペシャル。File.8はシリーズ初の「海外特別編」! アメリカの大統領、ジョン・F・ケネディが白昼狙撃され、暗殺された世紀の事件を扱った。
NHKはCIAの元調査員や米軍関係者、JFKの甥、映画監督のオリバー・ストーン氏ら66人のチームと共同で、機密文書の一部や非公開ファイルを入手し分析した。その結果「暗殺は元海兵隊員・オズワルド単独によるもので、黒幕はいない」と、アメリカ政府が断定してきた「定説」が根底から揺らぎ始めた。
「私は、はめられた!」と逮捕直後に言い残し、射殺されたオズワルド。彼は操られていたのか?オズワルドの足跡をたどると、戦後の日本で「ある組織」と関わりを持つ人間が接触していた実態や、ケネディが暗殺される前に全く別の「暗殺未遂事件」を起こし、それが「カギ」となった可能性が明らかになってきた。
番組では、日本~旧ソ連~アメリカとオズワルドの足跡をドラマ化。さらに、これまでメディア取材に応じてこなかった元軍人やCIAの元幹部らも初証言。オズワルドを事件へと導く「壮大な策略」も浮かび上がってきた。
オズワルドは、なぜ「I’m just a patsy !(俺は、はめられた)」と叫んだのか?誰かに操られていたというのか?今回、ケネディ暗殺を追い続けてきた66人の専門家と共に新資料を発掘し、証言を集めていくとオズワルドが事件へと導かれる知られざる「原点」が浮かび上がってきた。その現場は、日本。
海兵隊員だったオズワルド。今回の取材で、「ある組織」と深い関わりをもつ謎の人物がオズワルドに接触をはかっていたことが分かってきた。共産主義へのあこがれをみせる一方で、幼少期からスパイ映画を好むなど情報機関の仕事にも興味を抱いていたオズワルド。
旧ソ連に亡命を試みるが、そこにも組織の影が・・・。そして、ちょうどその頃、若きケネディ大統領が就任する。旧ソ連から妻マリーナと娘を伴い、帰国したオズワルドは、明らかにその様子が変わっていた。
マリーナの証言記録から、オズワルドが大統領が暗殺される半年前に、別の「暗殺未遂事件」を起こしていたことが明らかになった。今回CIAの元調査員など専門家たちに取材すると、この事件がJFK暗殺とオズワルドをつなげる重要な「結節点」となっていた可能性が浮かび上がってきた。
2 NHKの取材目的は
1963年11月22日の暗殺当日。オズワルドはダラスにある教科書倉庫ビルにライフルを持ち込んだとされている。そして、政府の公式見解「ウォーレン報告」によると、ビルの6階から3発撃ったと結論づけられている。今回番組では事件の目撃者の供述内容を洗い直し、66人の専門家の分析も加えて暗殺当日を検証する。
ドキュメンタリー ディレクターの高比良健吾氏は、「なぜいまケネディなのか?多くの人に聞かれた質問です。明確な答えを持って始めたわけではないですが、2年半このテーマと向き合い感じるのは、ケネディ暗殺が現代にも通じる様々なテーマが内包された、まだ終わっていない事件だからだと思います。
取材のきっかけは、トランプ大統領がケネディファイルを全公開するとしながら直前で撤回したことでした。「公文書」についてはちょうど日本でも話題になっていた時期で、ケネディ暗殺の真相を追い求める戦いが、アメリカ国民にとって「知る権利」を勝ち取ってきた歴史でもある事に気付かされました。
さらに研究者の話を聞くうちに、いまだに一部の組織が「嘘」や「隠ぺい」を続けていること、世界の研究者たちが1人1人の「民主主義」を本気で守ろうと、その強大な力に挑み続けている事にも気付かされます。
そして、国家と個人とは何か。なぜ「世界の真の平和」という理想を語った若きカリスマが暗殺されなければならなかったのか。ケネディは国家の上層部と決して折り合いが良かったとは言えません。しかし当時の時代を考えると、そうした人々も決して卑劣な人たちではなかった事が良く分かります。
皆、その時代を必死に生き、彼らなりの「愛国心」を持って国家を守ろうとした。その自国を守ろうと必死になるが故に道筋が異なり争いが泥沼化していくことも、時代は変われど今も変わらないことなのだろうと感じます。
どこに進んでも底なし沼が広がっているような同じ事象も見方によって見解が異なり、何が事実で何が嘘かも徐々に分からなくなる、そんな感覚がケネディワールドにはあります。その奥深さの一端を少しでも追体験頂き、今を考えるきっかけになれば嬉しいです」
ドキュメンタリー ディレクターの石井 貴は次のように語っている。「いま世界各地で強い主導力を持つリーダーが多く誕生し、「国家の安全」という大義のもとで公文書の隠蔽や改ざん、法律の解釈変更が行われるなど民主主議の危機が叫ばれています。
3 暗殺事件関連の文書
「なぜ地位や名誉を汚すリスクを負い権力に立ち向かうのか?」今回取材した専門家たちに聞くと口を揃えて「民主主議を守るためだ、沈黙すれば民主主議は終わる」と答えました。
ケネディ大統領が就任演説で語った「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えよう」という言葉はまさに民主主議の担い手、主役はあなたたち一人一人だというメッセージでした。この番組がそのことを再考するきっかけに少しでもなれると幸いです」と述べている。
ここまでの説明は、NHKが作成してネットに出している番組宣伝用文書である。実際の文書は句点が多すぎるので、編集せざるを得なかった。残念なことに、私はこの番組を見ていなかったので、ネットで番組関連の多くの情報を検索した。それによると、
1963年11月22日、・ジョン・F・ケネディが何者かに狙撃され、暗殺された。その2日後、狙撃犯とされるリー・ハーベイ・オズワルドは大統領の暗殺容疑ではなく、事件の45分後にダラス市警のJ・D・ティピット巡査を射殺した疑いで逮捕された。
オズワルドはどちらも殺していないと主張し、2日後の護送中に同市内でナイトクラブを経営するジャック・ルビーに撃たれて死亡した。後任のジョンソン大統領が設置したウォーレン委員会の報告書は、リー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行であり、陰謀はなかったと結論付けた。
暗殺事件関連の文書は計約500万ページに上り、同法に沿ってこれまでに88%以上の文書が全面的に、11%は一部黒塗りで機密を解除され、ワシントン郊外の国立公文書館で公開されている。
残りの3200点の文書も2017年10月に解禁が予定され、トランプ大統領は「ケネデイファイルの全面公開は明日だ。非常に興味深い」とツイートしていた。ところが解禁されたのは2890点で、残る約300点の公開が突然延期された。
1992年の法律は、「国家安全保障上の理由で大統領は公表を見送ることができる」としており、CIAや連邦捜査局(FBI)が大統領に一部文書の公開延期を要請したためとみられてきた。
4 はめられたと叫んだ謎
NHKはオズワルドが逮捕直後、「I'm just a patsy(俺は、はめられた!)」と叫んだ謎を追い、暗殺事件の黒幕はCIAのジェイク・エスターライン西半球局長とウォルトン・ムーア・ダラス局長の2人のケースオフィサーだと分析した。
2人はピッグス湾事件の責任者で、ケネディが最終段階で攻撃を停止してCIA幹部を更迭した。CIAの解体も検討していたことに恨みを持っていたという事情にも触れている。暗殺を実行できるのはCIAしかないとNHKは考えた。
NHKは、容疑者として逮捕されその直後に射殺されたリー・ハーヴェイ・オズワルドの人生を追うことによって真実を解きほぐしていく。今回の調査は全米のジャーナリストや医師、CIA(中央情報局)関係者ら様々な分野の人々66人の協力を仰いでいる。
こうした人々の証言と、再現ドラマから番組は構成されている。事件の2日後、オズワルドがナイトクラブ経営者のジャック・ルビーにダラス警察署で射殺されたこと、車列が無防備でパレードのルートが前夜変更されたことを考えると、陰謀があったのは確実だ。
貧困のなかで、幼少年時代を過ごした、オズワルドは母親が幾度も再婚したために、転居を繰り返した。15歳で出会ったのがマルクスであり、「共産党宣言」も読んでいた。17歳だった1957年から2年間にわたって、日本の厚木基地で海兵隊に勤務した。任務は、当時の最新鋭の偵察機U2のレーダー担当だった。
オズワルドに偶然を装って接触してきたのが、ロバート・ノーランを名乗る男だった。ノーランはCIAと契約しその工作にかかわっていた。ノーランとオズワルドが二人でよく訪れたのが、東京・銀座の「クインビー」だった。
このナイトクラブは米軍の将校向けの高級クラブで、ホステスたちはソ連の諜報機関に属しKGBの手先であることは米側の周知の事実だった。オズワルドは、ホステスの横浜のMidorii(みどり)と愛人関係になる。
オズワルドの役割はU2のレーダー係という重要な任務から、偽の情報をホステスに与えてKGBに流すことにあったのではないかと推定している。オズワルドは海兵隊を除隊してソ連への亡命を企てる。1959年10月31日に在モスクワ米大使館にかけこんだ。
5 オズワルドの人生
番組は後半に至って、元CIAの高官がケネデイ暗殺の研究者たちのシンポジウムに登場して、CIAの一部の人間の暴発によって、オズワルドを利用しながら暗殺が敢行されたという新たな説が表明された。
ケネデイ暗殺を実行できる力があるのはCIAしかない、と核心を語っていく。それは、計画能力と情報収集能力である。「さらに、CIAで働いてみるとクレイジーな人間が多かった」という。
ラーセンによると、暗殺の計画を練り工作員を動かせるのは上級の役職者のみである。暗殺事件当時、世界で百数十人がいた。そのなかで、オズワルドに関わる国内局と西半球局のなかから、動機と人間関係から2人に絞り込んだとラーセンは自信をのぞかせる。
西半球局長だったジェイク・エスターラインと、暗殺事件の現場だったダラス支局長のウォルトン・ムーアだという。ふたりは、第二次世界大戦中に日本軍と戦った同じ部隊に所属していた。
エスターラインは失敗に終わったキューバ侵攻の「ピックス湾工作」の責任者だった。ケネデイの了解を取らずに始めた作戦は、最終段階で大統領による空爆が認められなかったばかりか、ケネデイはCIAの長官と副長官を更迭しさらにCIAの解体も検討していたという。
CIAの情報を当時大統領に上奏する重要な役割を担っていたレイ・マクガバンは、ある職員が次のように言っていたと証言する。「ケネデイは共産主義に近い。米国人1000万人の犠牲がでても、やらなければならないと歪んだ正義感です」。
暗殺の黒幕については、CIAや軍産複合体、マフィア、旧ソ連、ジョンソン大統領から宿命のライバルだったニクソン大統領に至るまで多くの臆測を呼んだが、近年の情報公開や新研究で注目されているのが「キューバ・コネクション」だ。
元CIA高官のラーセンは、暗殺事件の最後の仕上げは工作でよくやる「ひとりの仕業にみせかける」ことであるという。貧困のなかで育って社会に対する敵愾心があり、共産主義に傾倒しソ連に亡命までしたオズワルドはそのひとりにぴったりだったのである。
6 国家は真実を隠した
今回の調査の過程で、オズワルドが暗殺事件の数カ月前にあるスピーチの中で語った言葉が明らかになった。聖書のヨハネの福音書の一節である。「あなたがたは真実を知り、真実が、あなたがたを自由にする」
1961年のケネディ政権発足後、CIAが亡命キューバ人部隊によるカストロ政権打倒を試みた「ピッグス湾侵攻作戦」、旧ソ連が弾道ミサイルをキューバに配備した「キューバ危機」など、キューバが米国の安全保障の重大な脅威となった。そのためCIAはカストロ首相の暗殺工作を進めたが、逆に大統領がキューバによって暗殺されたというシナリオである。
近年の情報公開で、オズワルドは暗殺の2か月前にメキシコ市を旅行し、ソ連とキューバ大使館を訪れていたことが判明した。オズワルドはキューバ大使館で、ケネディ暗殺に言及していたこともFBIの報告書に書かれていた。
CIAの内部メモでは、カストロ首相は暗殺事件の2か月前、ハバナでAP通信記者と非公式に話し、「米国の指導者が私を消そうとすれば、彼も安全ではなくなる」と警告していた。カストロは自身の暗殺計画を察知し、報復を示唆したともとれる。
元上院情報特別委のスタッフだった作家のジェームズ・ジョンストンは、2019年秋に出版した『殺人株式会社ケネディ政権下のCIA』という著書で、ケネディ暗殺はピッグス湾侵攻作戦の報復としてキューバが計画したとしている。
ジルベルト・ロペスという米国在住キューバ人が犯人で、オズワルドはおとりだったと指摘した。ロペスは事件当時23歳で、暗殺当日ダラスにおり同日深夜テキサスからメキシコに入国。4日後にメキシコ市からキューバに航空機で移動した。乗客はロペスただ一人だった。
暗殺の4日前、ケネディがフロリダ州タンパを訪れた時も、ロペスはタンパに滞在していたという。ただし、ロペスの人物像や、暗殺当日ダラスで何をしていたかなど核心の部分は書かれていない。FBIはオズワルド同様、ロペスを不審な人物として事件前から調査しており、近年の情報公開で顔写真や関連文書が公表されている。
だが、ジョンソン大統領やウォーレン委員会は、キューバ関与説が高まれば、国民がデマで扇動され、ソ連を刺激して新たな核戦争の危機を招きかねないことを憂慮し、オズワルド単独犯行説をとったとされる。
7 真相を求める声
海兵隊で射撃成績が悪かったオズワルドが、1発撃つたびに手元のレバーを引くイタリア製旧式ライフル銃で6秒間に3発発射し、動く標的に命中させたとは思えない。
ベラルーシのジャーナリスト、ラリサ・サエンコ氏は、オズワルドと一緒に働いたパーヴェル・ゴロヴァチョフさんに取材を行った時のことを語っている。オズワルドがケネディ氏を殺害したということを信じていなかった。オズワルドは工場の射撃大会で悲惨な結果を出すほどのヘタな射撃手だったという。
20年前にテキサス州ダラスのデーリー広場を訪ねた人が現場を見ると、オズワルド単独犯行説が虚構であることがすぐに分かったそうだ。オズワルドが撃ったとされる教科書ビル6階から現場の道路まで80メートル以上あり、街路樹が邪魔をしていた。
オープンカーの右前方、グラシーノールと呼ばれる垣根からはざっと30メートルで十分狙える距離だ。現場にいた90人のうち、警官を含め60人以上がグラシーノールから発砲があったと証言した。
写真家のザプルーダーが撮影した8ミリフィルムでも、致命傷となった銃撃で大統領は後方に反り返っており、前方から銃撃があったことが分かる。大統領の飛んだだ肉片を拾おうとした、ジャックリーヌ夫人の行動がそれを裏付けている。
失敗に終わったピッグス湾事件でケネディに恨みを持ったCIAの反ケネディ派がオズワルドを利用して暗殺を敢行したとの見方もある。米国では1963年のケネディ氏暗殺事件までにリンカーン、ガーフィールド、マッキンリーの3大統領が暗殺されていた。
夫のオズワルドがジャック・ルビーに射殺され、マリーナ・オズワルドは22歳で未亡人となった。彼女の望みは、ただひとつ彼の墓のそばで暮らすことだった。マリーナはオズワルドの死から2年後、彼女はケネス・ジェス・ポーターと再婚し、息子を儲けている。
1970年代半ば、彼女はロックウォール (テキサス州)へ転居し、1989年にはアメリカ合衆国の市民権を取得した。当初こそ夫の有罪を確信していたものの、マリーナは次第にケネディ暗殺に関してオズワルドは無罪だと考えるようになったという。