1 当時知られた事実
1-1 謎だらけの大事件
アンカレッジから極東に向かう旅客機はソ連の上空を避けるため、千島列島の南方沖を通って日本の上空に達するのが正規のルートである。ところが、大韓航空機は予定されていた正規のルートから北に500キロも逸脱してサハリン上空を横切って飛んでいた。
民間の巨大なジェット旅客機が撃墜されて多数の人々が犠牲になり、飛行ルートが軍事的に機密度の高い地域の上空だったことから、この事件は全世界にセンセーションを巻き起こした。
当時、ソ連はアメリカとの戦略兵器制限協定に違反する二種類の新型ミサイルを秘かに開発し、シベリア西北部からカムチャッカ半島付近を着弾地とする発射実験を実施する可能性があり、アメリカは神経をとがらせて電子偵察機や人工衛星による監視体制を整えていた。
ソ連は、1960年にアメリカの黒い偵察機U2の侵入を受けたこともあり、アメリカの偵察行動には過敏になっていた。このような緊迫した米ソ対立の状況下で、大韓航空機撃墜事件が発生した。
なぜ、大韓航空機は正規のルートから500キロもはずれて、危険なソ連領空の奥深くを堂々と飛んでいたのか。なぜソ連は民間旅客機を有無を言わさずにミサイルで撃墜したのか。
サハリン南方沖で、ソ・米・日それぞれによる捜索活動が繰り広げられたが遺体は一体も回収されなかった。ソ連は、大韓航空機の航路逸脱の謎を解く決定的な証拠となるフライト・レコーダーもボイス・レコーダーも発見されなかったと発表した。
1-2 報道陣の憶測合戦
ノンフィクション作家の柳田邦夫氏は「大韓航空機撃墜事件は米ソの冷戦構造の狭間で発生した。牙をむく米ソの対立がなければあり得ない事件だった。しかも、様々な説が考えられたが、どの説も検証された確実な部的証拠に基づいていない」とおっしゃる。
大韓航空機の航路逸脱は、何によって引き起こされたのかその具体的な証拠の提示がなく、推論で書かれた仮説にとどまっている。事件の直後は、真相解明の手掛かりとなる物的証拠はどこにもなかった。
米・英・日の軍事評論家などのなかに、大韓航空機はアメリカのCIAの手先になってソ連軍の極東地域における緊急迎撃態勢などを調べるための、スパイ飛行を担っていたという説を唱える人物が次々登場した。
スパイ飛行説の論者が一致して強調している説は、「大韓航空機が数時間にわたって逸脱飛行を続け、最終的に500キロも北に外れていたのを、パイロットが気づかないはずがない。それは意図的な航路逸脱以外にあり得ない」というものである。
いずれもスパイ小説まがいのドラマチックなストーリーになっていたが、真実を検証しての報道よりも付和雷同を好む日本の新聞・雑誌はそれらの説をまことしやかに伝えた。そして、真実が明らかになっても事実は報道されることがなかった。
この「気づかないはずがない」という考え方が、様々な事象において事故の本質を知らない「ニセモノの専門家」が決まって口にする言葉である。「まさかこんなことが」と唖然とするような見落としや失敗が重なり合って事故が発生することを知るべきである。
1-3 インプット・ミス説
INSの操作手順にかかわるインプット・ミス説が仮説の支流を占めた。INSとは、ジャンボ・ジェット旅客機の慣性航法装置のことである。離陸前に乗員が、目的地までのデータをフライトプラン(飛行計画)に従ってあらかじめコンピュータに入力すれば、旅客機は自動的に所定の飛行コースに乗って目的地まで飛行する。
インプット・ミス説はパイロットが飛行データを入れ間違えたか、あるいは正確にデータを入力したが、コンピュータがデータを記憶し終わらないうちに飛行機を動かし、プッシュバックさせたためにおかしなことになったのではないか、とする説に代表される。
航空機に搭載されている三台のINSは飛行データを自動的に照合し合う仕組みになっているので、仮にINSのコンピュータの一台が間違ったデータを記憶したとしても、計器に間違いが表示されパイロットに警告が与えられる。
1-4 スパイ飛行説
しかも自機がコースを逸脱したとしても、パイロットは地上の無線航法支援施設や航空機に装備されている気象レーダー等の計器を駆使して、いまどこを飛んでいるかを絶えずチェックするはずだからすぐに異常に気付くはずである。
パイロットが異常に気付けば、引き返すか進路を適正に修正するはずである。従って、INSへの飛行データのインプット・ミスというよりも、パイロットが意図的にサハリンへ機首を向けて飛行したと考える以外に説明がつかない。
1-5 米ソ戦闘機の交戦犠牲説
諜報説はそうした点を拠りどころに、アメリカが対立しているソビエト軍の対応を試し相手がどう出るかなどの軍事情報を得るために、民間航空機を「おとり」として使いソビエト領空に侵入させたとするものだった。
007便はアメリカ空軍機の支援を受けてソビエトの「スパイ・おとり飛行作戦」に加わり、カムチャッカの領空侵犯に成功した。その後、サハリン上空を横断中にソビエト戦闘機の迎撃に遭って米ソ戦闘機の交戦に巻き込まれた。
007便は北海道奥尻島沖の上空に逃れたところで、証拠隠滅のためアメリカ軍戦闘機によって撃墜されたという説を唱える者もいた。これはもはや空想小説と言えるものだった。
飛行機はパイロットの指示通りに飛ぶので「スパイ飛行説」とくに「おとり説」には説得力があった。レーガン大統領が仕組んだアメリカの犯罪と信じ、日本では「おとり説」を主張する本まで出版されている。
1-6 ソ連軍の発表
1983年9月9日、ソ連軍参謀総長のオガルコフ元帥が、内外の報道陣を集めて前例のないテレビ生中継を認め、「ソ連側によってなされた入念な調査結果を考慮に入れて記者会見を行う」と物々しい前置きをして大々的に発表を行った。
カムチャッカ付近からサハリンにかけての大韓航空機の航跡やベーリング海上空で大韓航空機と連携していたとされる電子偵察機RC135の航跡を描いた巨大な地図を掲げ、「これは周到に計画されたスパイ作戦であった」と断定した。
そして、大韓航空機が発信する暗号信号を補足したこと、ソ連の迎撃機が国際緊急周波数で交信を求めたり、曳光弾で警告したが、大韓航空機は高度や速度を変えて逃げようとしたので、ミサイルで逃げるのを阻止したと強調した。