はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第24章 大韓航空機撃墜の真相

1983年9月1日未明、アラスカのアンカレッジからソウルに向かっていた大韓航空007便が、サハリン上空でソ連軍の戦闘機にミサイルで撃墜され、乗客・乗員269名全員が死亡する事件が起きた。なぜ撃墜事件が起きたのか真相を探ってみよう。

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1 当時知られた事実

 1-1 謎だらけの大事件

アンカレッジから極東に向かう旅客機はソ連の上空を避けるため、千島列島の南方沖を通って日本の上空に達するのが正規のルートである。ところが、大韓航空機は予定されていた正規のルートから北に500キロも逸脱してサハリン上空を横切って飛んでいた

民間の巨大なジェット旅客機が撃墜されて多数の人々が犠牲になり、飛行ルートが軍事的に機密度の高い地域の上空だったことから、この事件は全世界にセンセーションを巻き起こした。

当時、ソ連はアメリカとの戦略兵器制限協定に違反する二種類の新型ミサイルを秘かに開発し、シベリア西北部からカムチャッカ半島付近を着弾地とする発射実験を実施する可能性があり、アメリカは神経をとがらせて電子偵察機や人工衛星による監視体制を整えていた。

ソ連は、1960年にアメリカの黒い偵察機U2の侵入を受けたこともあり、アメリカの偵察行動には過敏になっていた。このような緊迫した米ソ対立の状況下で、大韓航空機撃墜事件が発生した。

なぜ、大韓航空機は正規のルートから500キロもはずれて、危険なソ連領空の奥深くを堂々と飛んでいたのか。なぜソ連は民間旅客機を有無を言わさずにミサイルで撃墜したのか

サハリン南方沖で、ソ・米・日それぞれによる捜索活動が繰り広げられたが遺体は一体も回収されなかった。ソ連は、大韓航空機の航路逸脱の謎を解く決定的な証拠となるフライト・レコーダーもボイス・レコーダーも発見されなかったと発表した。

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 1-2 報道陣の憶測合戦

ノンフィクション作家の柳田邦夫氏は「大韓航空機撃墜事件は米ソの冷戦構造の狭間で発生した。牙をむく米ソの対立がなければあり得ない事件だった。しかも、様々な説が考えられたが、どの説も検証された確実な部的証拠に基づいていない」とおっしゃる。

大韓航空機の航路逸脱は、何によって引き起こされたのかその具体的な証拠の提示がなく、推論で書かれた仮説にとどまっている。事件の直後は、真相解明の手掛かりとなる物的証拠はどこにもなかった。

米・英・日の軍事評論家などのなかに、大韓航空機はアメリカのCIAの手先になってソ連軍の極東地域における緊急迎撃態勢などを調べるための、スパイ飛行を担っていたという説を唱える人物が次々登場した。

スパイ飛行説の論者が一致して強調している説は、「大韓航空機が数時間にわたって逸脱飛行を続け、最終的に500キロも北に外れていたのを、パイロットが気づかないはずがない。それは意図的な航路逸脱以外にあり得ない」というものである

いずれもスパイ小説まがいのドラマチックなストーリーになっていたが、真実を検証しての報道よりも付和雷同を好む日本の新聞・雑誌はそれらの説をまことしやかに伝えた。そして、真実が明らかになっても事実は報道されることがなかった

この「気づかないはずがない」という考え方が、様々な事象において事故の本質を知らない「ニセモノの専門家」が決まって口にする言葉である。「まさかこんなことが」と唖然とするような見落としや失敗が重なり合って事故が発生することを知るべきである

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 1-3 インプット・ミス説

INSの操作手順にかかわるインプット・ミス説が仮説の支流を占めた。INSとは、ジャンボ・ジェット旅客機の慣性航法装置のことである。離陸前に乗員が、目的地までのデータをフライトプラン(飛行計画)に従ってあらかじめコンピュータに入力すれば、旅客機は自動的に所定の飛行コースに乗って目的地まで飛行する。

インプット・ミス説はパイロットが飛行データを入れ間違えたか、あるいは正確にデータを入力したが、コンピュータがデータを記憶し終わらないうちに飛行機を動かし、プッシュバックさせたためにおかしなことになったのではないか、とする説に代表される。

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航空機に搭載されている三台のINSは飛行データを自動的に照合し合う仕組みになっているので、仮にINSのコンピュータの一台が間違ったデータを記憶したとしても、計器に間違いが表示されパイロットに警告が与えられる。

 1-4 スパイ飛行説

しかも自機がコースを逸脱したとしても、パイロットは地上の無線航法支援施設や航空機に装備されている気象レーダー等の計器を駆使して、いまどこを飛んでいるかを絶えずチェックするはずだからすぐに異常に気付くはずである。

パイロットが異常に気付けば、引き返すか進路を適正に修正するはずである。従って、INSへの飛行データのインプット・ミスというよりも、パイロットが意図的にサハリンへ機首を向けて飛行したと考える以外に説明がつかない。

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 1-5 米ソ戦闘機の交戦犠牲説

諜報説はそうした点を拠りどころに、アメリカが対立しているソビエト軍の対応を試し相手がどう出るかなどの軍事情報を得るために、民間航空機を「おとり」として使いソビエト領空に侵入させたとするものだった。

007便はアメリカ空軍機の支援を受けてソビエトの「スパイ・おとり飛行作戦」に加わり、カムチャッカの領空侵犯に成功した。その後、サハリン上空を横断中にソビエト戦闘機の迎撃に遭って米ソ戦闘機の交戦に巻き込まれた。

007便は北海道奥尻島沖の上空に逃れたところで、証拠隠滅のためアメリカ軍戦闘機によって撃墜されたという説を唱える者もいた。これはもはや空想小説と言えるものだった。

飛行機はパイロットの指示通りに飛ぶので「スパイ飛行説」とくに「おとり説」には説得力があった。レーガン大統領が仕組んだアメリカの犯罪と信じ、日本では「おとり説」を主張する本まで出版されている

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 1-6 ソ連軍の発表

1983年9月9日、ソ連軍参謀総長のオガルコフ元帥が、内外の報道陣を集めて前例のないテレビ生中継を認め、「ソ連側によってなされた入念な調査結果を考慮に入れて記者会見を行う」と物々しい前置きをして大々的に発表を行った。

カムチャッカ付近からサハリンにかけての大韓航空機の航跡やベーリング海上空で大韓航空機と連携していたとされる電子偵察機RC135の航跡を描いた巨大な地図を掲げ、「これは周到に計画されたスパイ作戦であった」と断定した。

そして、大韓航空機が発信する暗号信号を補足したこと、ソ連の迎撃機が国際緊急周波数で交信を求めたり、曳光弾で警告したが、大韓航空機は高度や速度を変えて逃げようとしたので、ミサイルで逃げるのを阻止したと強調した

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2 大韓航空機の針路

 2-1 国際民間航空機関の報告書

アラスカの民間空港機の飛行を監視している航空管制レーダーが捕らえた大韓航空機の航跡記録は、アンカレッジ空港を離陸して針路を西へとるとすぐに正規のルートから少しずつ北にそれ始め、そのそれ方は一定の方角に向かって直線的に飛行していった。

国連から調査を委託された国際民間航空機関が事故から三ヶ月後に発表した報告書で、ソ連の主張するスパイ飛行説は実際の飛行経過に照らし合わせてみた無理があるして否定し、航法ミス説を採用していた。

航法ミス説の一つは当時のボーイング747型機が使用していた自動航法装置に、出発地アンカレッジ空港の位置のうち経度の数字を誤ってインプットしたため、出発後の経路が大きくずれていったというもの。航法装置へのデータのインプット・ミス説である。

もう一つは、どのような航法で飛んでいくかを決めるナビゲーション・モード・スイッチを、INS(慣性飛行装置)に切り替えるのを忘れたために、飛行コースがどんどんずれていったというものだった。

通常、機首が航空路の方角に自動的に向かうように機首方位表示計器の数字を航空路の方角に合わせておく。機首が航空路に乗る方角に向いて安定したらナビゲーション・モード・スイッチを慣性飛行装置に切り替えるとあとは到着地まで自動的に飛んでいく。

おそらく機長は、ナビゲーション・モード・スイッチを慣性飛行装置に切り替えるのを忘れてそのままにしていたため、最初に機首方位表示計器にインプットしておいた機首方位246度のまま飛び続けた可能性が高いという、ヘッデイング・モード説だった。

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 2-2 真実は公開されていた

1984年2月にソ連のアンドロポフの死去に伴い、跡を継いだチェルネンコもわずか1年余りの短期政権で終わり、代わって登場した新世代ゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカの方針のもとに政治と行政の大改革に乗り出し、1986年に情報公開を行った。

情報公開政策の波に乗ってイズベスチア紙のアンドレイ・イーレッシュ記者を中心とした取材班が大韓航空機撃墜事件に取り組み、同紙に取材レポートを発表した。決定的に重要だったのは、大韓航空機を撃墜した戦闘機のパイロットの証言を得たことだった。

① 大韓航空機を民間機とは夢にも思わず、軍用機又は偵察機と誤認して撃墜してし
  まったこと。(民間機の機体の形については全く知らなかった。)

② 国際緊急周波数による無線交信の呼びかけも、曳光弾による警告射撃もしないで無
  我夢中でミサイルを発射したこと。(曳光弾は積んでいなかった)

③ ばらばらになったかなりの部分の遺体や木っ端みじんに砕けた機体の多量の残骸や
  多量の遺品が収容されたが、ごく一部の残骸と遺品が日本に引き渡されただけで、大
  部分はサハリンに埋められた

さらに重要なことは、オガルコフ参謀総長がインタビューで述べたスパイ飛行説の根拠は「推測するだけ」と語った。記者会見での入念な調査の結果というのは嘘で、具体的な証拠に基づくものではなく、ソ連側の勝手な推測によるスパイ飛行説に過ぎなかった。

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アメリカのジャーナリスト、セイモア・ハーシュ氏、アメリ側のCIAよりも機密性が高いとされるNASA(国家安全保障局)がどの程度の情報を得てどのように対応していたのかを取材で明らかにした。

① ソ連側が大韓航空機と連携していたと主張していた偵察機RC135は、事件とは
  全く無関係な飛行をしていた。

② NASAは、パイロットの交信傍受記録や地上通信傍受記録などの分析結果から、
  ソ連の戦闘機は大韓航空機を偵察機と誤認して撃墜してしまった可能性が高い判断し
  ていた。

③ ソ連戦闘機は大韓航空機を民間機と知りながら撃墜したと主張したレーガン大統領
  の声明は、SIAやDIAの事実誤認によるミスリードであった

二つのリポートにより米ソ両国はそれぞれが表面的には確固たる証拠を手のうちに持っているような風情で相手を非難し合っていても、内実はドタバタ劇を演じていたことをさらけ出してくれた

日本のマスコミはCIAスパイ説をまことしやかに伝えていたが、ブラックボックスのデータによって大韓航空機が意図的に正規のルートから離れてスパイ行為をしていたという数々の説は完全に否定された。日本のマスコミの報道を頭から信じるのは危険である

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 2-3 公開された極秘文書

事件から9年目の1992年、ロシア政府が大韓航空機事件にかかわる10通の内部極秘文書を国際民間航空機関に提出した。当時のウスチーノフ国防相とチェブリコフKGB議長からアンドロポフ書記長へあてた文書である。その中の1通には次のようにあった

カムチャッカ、サハリン島地域でソビエト連邦の領空を侵犯し、本年(1983年)9月1日に撃墜された大韓航空機の日本海墜落後、太平洋艦隊によって本件航空機の電子機器の捜索が組織された。右機器は、我々にとって当該機のソビエト領空侵入の目的を正確に確定するうえで必要であった。

捜索は数ヶ所で水深150~300メートルで行われた。右捜索実施のため、40隻にのぼる海軍及び連邦ガス工業省、漁業省の支援船舶や軍艦が動員された。捜索は困難な状況下で行われた。というのも、当該地域では、アメリカおよび日本の20隻以上の艦船、船舶及び多数の航空機が同様の作業を行うと共に、わが国の艦船を追跡していたからである。

本年10月20日、北緯46度東経141度19分(ソ連領海外8キロメートルの国際水域)において、水深180メートルの地点で大韓航空機の胴体部分及びキャビンが我々により発見された

本年10月下旬、我々が関心を有していた電子機器(フライト・レコーダーとボイス・レコーダー)は船上に引き上げられ、解析と翻訳のため飛行機でモスクワの空軍科学研究所へ運ばれた

当該機器にかかわる作業は、国防省及びKGBが協同で、必要な機密度を順守して行われている。当該機器の回収とモスクワへの搬送につき、アメリカおよび日本の特務機関が承知しているとのデータは、現時点ではない。

アメリカ人及び日本人に偽情報を与えるべく、日本海におけるわがほう艦船による捜索活動は、現在も「つづける」ふりがなされている。捜索活動は特別に立案された計画に基づき終了されることとする。

大韓航空機の乗員の会話及び飛行パラメーターの解析結果、その分析、評価、並びに活用方法については、作業終了後に報告する。

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 2-4 ボイスレコーダの記録

大韓航空機は撃墜される直前に東京航空管制室(東京ラジオ)連絡を取り合っていた。

「コリーアン、エア、ゼロ、ゼロ、ゼロ、セブン。セルコール」。野太くゆっくりと落ち着いた男性の声は大韓航空機孫東輝(ソンドンフイ)副操縦士である。「コーリアン、エア、クリアランス、トウキョウATC」と東京航空管制室が答えている。

大韓航空機は高度3万5千フィートへの上昇許可を求め、東京航空管制室は「大韓航空007便、承認です。東京ラジオは大韓航空007便の上昇と、高度3万5千フィートを許可します。」「あー、了解」。

そして「東京ラジオ、こちら大韓航空007便、高度3万5千フィートに到着」「大韓航空007便、東京了解」。その後、東京航空管制室は他の航空機との交信を終えた日本時間午前3時26分02秒、ズシーンという鈍い音が録音されている

衝撃から4秒後、007便の操縦席は騒然となった。「なにが起きたんだ」「なんだ」「減速、スロットル」「エンジンは正常」「トウキョウラジオ!コリアンエア、ゼロ、ゼロ、ゼロ、セブン!」。東京航空管制室を呼ぶ乗員の絶叫が聞こえる。客席から表現しずらい叫び声が上がった

緊急事態を自動的に感知するようにセットされている非常装置が作動して、機内に、英語、韓国語、日本語で「たばこを消してください。ただいま、緊急降下中」とアナウンスが流れている。客席からまたもや叫び声が上がった。

衝撃音から1分8秒後に東京航空管制室が応答した。「東京ラジオ、大韓航空007便」「了解、コリアン、エア、あ~…我々は…急速な減圧、1万フィートに降下」雑音がひどく、途切れ途切れの断片的な言葉が東京ラジオへの最後の交信となった

操縦席では誰がしゃべっているんか分からない状態となった。「スピード」「スタンバイ、スタンバイ、スタンバイ、セット」。「酸素マスクを鼻と口に当て、調整…」英語の機内アナウンスを最後になった。1983年9月1日午前3時27分46秒である

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3 恐ろしい思い込み

 3-1 日航の領空侵犯事件

それは1985年10月31日、成田空港発モスクワ経由パリ行き日本航空のジャンボジェット機ボーイング747型機441便で起こった。乗客は110名で乗員は機長ほか22人であった。

成田を出発した441便は新潟上空を通過して日本海上空の定期航路R11に達し、北海道方向に進路を取った。高度9300メートルで最初のウエイ・ポインにさしかかると行く手に高積雲があり、そのまま進めば雲から発生する乱気流に突入する可能性が高い

機長は雲を避けるため、航法選択スイッチをINSからHDGに切り替えた。自動操縦で予定したコースに沿って飛ぶINSから、機首方位を一定角度にして微調整をしながら飛行するヘッデイング・モード方式に切り替えたのは、乱気流を避けるための手順としてごく普通のことだった

機長は左に旋回して雲をかわしたあと、航法選択スイッチをHDGからもとのINSに戻すタイミンウをはかっていた。というのは、雲を回避したあとすぐスイッチを切り替えると旋回の角度が深くなるので、機体をゆるやかに定期航空路に戻そうとしていたのだ

一連の捜査をしているうちに、機長はなぜかスイッチをすでにINSに切り替えていると思い込んでしまった。スイッチがINSに切り替えていれば、それを示す緑のランプが点滅する。しかし、INSの表示ランプが消えていることに誰も気づかなかった。

午後1時23分、441便は運輸省札幌航空交通管制部を呼び出して、札幌とハバロフスク管制部が管制業務を交代する接点に達したことを連絡した。札幌の管制部はハバロフスク管制に日航の交代接点通過を連絡した。

ところが441便が通過した接点は東に50キロもずれていた。札幌管制は方位チェックしかしていなかった。INS航法では強い偏西風に出会うと航路のずれを自動的に修正するが、441便は強い偏西風で押し流されていることに気づかなかった

午後1時30分、北海道の航空自衛隊のレーダーが次第にずれていく機体を捉え、稚内レーダーサイトは日本の防空識別圏を越えた直後、サハリン上空にスクランブルに舞い上がった四機のソビエト戦闘機の機体を捉えた

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441便はハバロフスク管制と連絡を取ろうとしたが、交信範囲を超えていため交信は困難になっていた。交信に神経を集中していたため、誰かが国際緊急周波数ラジオのボリュームを絞った

航空自衛隊は稚内レーダーサイトを通じて441便に国際緊急周波数で警告した。「日航441便、こちらは航空自衛隊。貴機はコースを大きく外れている。進路を変えよ」。警告は何度も繰り返されたが441便からの応答はなかった。

日航機はますますコースからはずれ、すでにサハリン沖に入っていた。そのまま進めば6分後にはサハリン上空に達し、ソビエト戦闘機の迎撃を受けることは免れない。日航機のずれは正規の航空路から東へ110キロにも達していた

午後1時47分に自衛隊から札幌管制へ、国際国際緊急周波数呼びかけたが連絡はとれないと2度目の連絡があった。札幌管制も連絡が取れず、はソビエト戦闘機の迎撃は免れない。なぜか、札幌管制はハバロフスク管制へ日航のコース逸脱を伝えていなかった。

次のチェックポイントに到達する2分前になって、サハリン沖の上空で441便の位置確認通報予告警報ランプが点滅し、「チェックポイント迄あと2分」ではなく「まだ7分かかる]と表示され、機長は航法選択スイッチがHDSであることに初めて気付いた

機長が雲を回避するために航法選択の切替スイッチを切り替えてから55分が経過していた。午後2時1分、第二チェックポイント上空を通過した441便はやっと所定のコースへ戻り、4機のソビエト戦闘機はそれぞれのい基地へ帰投した

信じられぬミスは「雲を避けるよ」といった機長の言葉に、他の乗員はスイッチを確認していなかった。機長のうっかりミスは他の乗員にも伝染して、3人が3人ともINSで運行していると思い込んでしまい1時間近くも気づかなかった

ジャンボジェット機の操縦とモスクワルートへの慣れ過ぎが油断を招いた。結果的に、乗客110名と乗員は機長ほか22人の命は守られたが、機長は副操縦士への降格という厳しい処分を受けた。うっかりミスはいつでも起きりうることを忘れてはいけない

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4 明らかになった真実

 4-1 記録の追求

1991年12月、ソ連が崩壊して74年間にわたる社会主義国家の歴史に幕が引かれ新生ロシアのエリツィン大統領は旧ソ連が大韓航空機のブラックボックスを回収して解析していたことを明らかにし、ブラックボックスのデータを韓国と米国に引き渡した

国際民間航空機関は、フライト・レコーダーとボイス・レコーダーのデータを解析し、その解析結果にそって大韓航空機の正確な航跡を描くと共に航路逸脱の理由を検討した。1983年の最初の報告書からほぼ10年が経過していた。

国際民間航空機関はフライト・レコーダーに記録された大韓航空機の位置や飛行方位、速度や高度、エンジン推力などのデータを地図上に映して解析した。更に、ボイス・レコーダーで操縦室内の会話や音を、飛行経過に重ね合わせることで機長が何をしていたのかを再現していた

大韓航空機事件の発生時にNHK稚内通信部勤務されていたNHK記者の小山巌氏は、稚内にある自衛隊の無線傍受基地の取材やサハリン沖でのソ・米・日の捜査活動の取材をし、異動後も事件の真相を求めて個人的に追跡取材を続けていた。

大韓航空機は旧ソ連の時代の事件だったので報道関係者は興味を失い、国際民間航空機関の新たな報告書の内容を伝えなかった。小山氏は準備取材を行い勤務のやりくりをして休暇を取り、私費でモントリオールにある国際民間航空機関本部まで取材に出かけた

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 4-2 航路逸脱の原因

小山氏は国際民間航空機関本部でブラックボックスの内容を把握し、その当時何が起きていたかを把握した

① 大韓航空機はアンカレッジ空港を離陸してから3分後に、機首を磁方位245度に
  向けて飛び続け最後まで変えなかった。これは、慣性航法装置による航法ではなかっ
  た。

② 機首方位が一定方向のままだったのは、航法選択スイッチをヘッディングモードの
  位置のままにして、慣性航法装置の位置に切り替えるのを忘れていた。または、離陸
  直後に航法選択スイッチを慣性航法装置に切り替えたが、その時の機の位置が所定の
  航路から7.5マイル(約14キロ)以上離れていたため、慣性航法装置が有効に作
  動せずそのままで飛び続けた。

③ 機長らはミサイルを被弾するまでのんきな雑談を交わしたり、あくびをしたりして
  いた。その雰囲気は、スパイ飛行の任務を担って意図的に領空侵犯をしていたとは思
  えないもので、航路逸脱にも気づいていなかったことを示すものだった。

④ 機長らが5時間以上にわたって航路逸脱に気づかなかったのは、飛行状況について
  乗員相互のチェックを怠っていたと推定される。

⑤ 機長らはソ連軍機の存在を攻撃される前も攻撃されてからも気づいていなかった。

⑥ 機長らは機体が操縦不能に陥り、機内の突然の減圧が生じた時、なぜそういう事態
  になったのかを把握することができずにパニックに陥っていた

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 4-3 過重労働の果てに

ボイスレコーダから読み取れたのは、乗員はコース逸脱に気づいていなかったことである。韓国の時間とニューヨークの現地時間との間には13時間の時差があり、時差が肉体的なリズムを崩壊させ、乗員の健康状態に影響を与えていた可能性がある。

大韓航空機のフライト・スケジュールは、典型的な時差の大きい東西の長大路線で、相当に密度が濃い勤務時間になっていた。これにより乗員の肉体リズムが継続的に崩れていき、疲弊する可能性が高かったと思われる

乗員は飛行位置を確認するのを忘れた。飛行位置を確認する方法は幾らでもあったが、乗員は不注意にもそれをしなかった。気付くチャンスは何度となくあったが、一度も進路を修正した形跡はなかった。こうして大韓航空会社は269名を地獄へ落とした。

小山巌氏の「ボイスレコーダー撃墜の証言」を読んだ時、こんな恐ろしいことが起きていたんだと全身が震えた。そして、日本のマスコミは信頼できないことも知らされた。真実とは何かを確認するために一読をお勧めしたい

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参考文献:ボイスレコーダー撃墜の証言(著者:小山巌・発行:株式会社 講談社)、撃墜(著者:柳田邦夫・発行:講談社)。