4 波乱万丈の半生
タコ部屋とは北海道に特徴的な監獄部屋と呼ばれた土工部屋を指す。北海道鉄道敷設法施行や拓殖計画により、北海道の土木工事とそれに伴う土工夫の確保は容易ではなく、間に周旋屋が介在して活動した結果、前借金で縛り付ける飯場=タコ部屋が生まれた。
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4-1 朱鞠内の鉄道工事
1931年4月から10月迄玉吉は藤田組で朱鞠内の鉄道工事現場で働いた。4月17日に朱鞠内の作業小屋に着くと60人ほどの土工夫がいた。監理者は川崎金蔵、世話役はアラレの清、幹部はマムシの政ほか6人、夜番は主任幹部の肩書のある獰猛な男。
朱鞠内は雪が電柱の中ほどまであり初めは毎日が除雪作業だった。作業の量は札幌や小樽の自由労働者の5倍以上で雪解けと同時に山の中腹から土運搬である。急傾斜でカーブのきつい往復200mほどの距離を、1トン積みトロッコで40回という小回り作業だ。
あまり仕事がきついので3ヶ月で8キロも痩せ、ただただ死に物狂いの毎日だった。ある夜の事、夜番が「高田、奥で親父さんと姉御がお呼びだ」と起こされ、奥へ行くと川崎夫妻が待っていた。私を見た姉御が「やっぱり、加賀屋の高田の息子だよ」といった。
玉吉の母親が加賀谷という小料理屋で、入船町の長州屋という小料理屋は川崎の母親がやっていた。川崎金蔵は長男で小さいころは一緒に遊んだ仲だった。管理者が昔馴染みであったが、鬼のような指導員と人間扱いしない残酷なやり方になじめなかった。
仕事は進んだがあまり酷使された人夫が暴動を起こし、その影響で多少部屋内外が改革された。幹部はどんどん変わり、雨天休みや月に2回の公休もどうにか取れるようになった。人夫同士もはなしができるようになり、5ヶ月ぶりで人間に戻った感じがした。
10月20日に全線が開通し、機関車の先に日の丸がX型にひらめき万歳の声。部落の人はもちろん、他の町村からも人が集まり黒山の見物だった。そん時に遠くから見ているのが玉吉たち土工夫だった。その夕食にささやかながら祝い酒がふるまわれた。
翌日帳場から上金と解雇手当、小樽迄の旅費と川崎から特別手当の金一封をもらった。振り分け荷物で隣の駅まで約8キロの道。市街地で一軒の茶屋へ入った。45~6歳の話付きの女将さんと焼き立てのアキアジに舌鼓を打っていると酒がはかどってきた。
そんなときに慣れ慣れしく寄ってきたのが水商売の女3人だった。筋向いの小料理屋に土工夫の坂田さんと河野さんが来ているという。先輩にご挨拶をしなければならない。止めるのを振り切り小料理屋へ行くと2人は支払いができずに旭川の周旋屋を待っている。
前金で50円を差し出して夜通し飲み、玉吉も周旋屋を待つはめになった。筋向いの小料理屋に行くなと引き留めてくれた茶屋の女将さんが、くれぐれも体を大事にするんだよと悲しそうな顔をしていた。
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4-2 周旋屋の大場組
坂田と河野の兄ィと一緒に大場組へ行くと、試験もっこを担がされる。2人で40貫だから、ただの力で担げるものではない。一つの型があって、担ぐ時の腰の入れ具合を見れば一人前の土工かすぐわかる。これにパスすると初心者の仲間に入れてもらえる。
旭川の大場組は土建業者だったが、現場で人夫を酷使するのが嫌で周旋屋に鞍替えしたという。何々組の親方、何々土建会社の社長という人でももとは募集人夫で、大場兵太郎の世話になった人は多く、「大場を知らない者は偽者だ」と言われていた。
大葉組の女将は「大場のかあさん」と皆から親しまれ、初めて来た若者を見て素人であればタコ部屋へ行かせなかった。前金は貸さず、信用部屋を斡旋した。病人は治るまで面倒をみ、質の悪いものは相手が部屋の親分でも容赦しないという侠客肌の姉御だった。
12月の大吹雪に奥士別の溜池工事現場で、前の晩寝る前に枕代わりにしていた1枚しかないメリヤスシャツが見つからない。盗られたことがばれると始末が悪いからとヤキが入る。盗ったものが見つかれば両方とも徹底的にヤキが入る。半袖1枚は玉吉だけ。
玉吉の持ち場は山の中腹でもっこ担ぎ。吹雪はだんだんひどくなり、昼食の時は寒さで震え上がる。幹部は見て見ぬふりをし、寒さと疲れで誰も口をきくものはない。仕事に気合を入れて寒さを防ぎ、目は四方へ配ってシャツを探した。
私にハッピを投げてよこした人がいた。小山田の小天狗という人で、この人の事は今でも忘れないという。吹雪の中での仕事が終わり臥寝のときに大幹部に呼ばれ、「お前の奮闘が親父さんの目に留まった。模範的な仕事ぶり特にメリヤスシャツ上下をくだされた。
これからもみんなの模範になるように頑張れよ」。新しいメリヤスシャツを戴いてくすぐったかった。もらったメリヤスシャツを翌朝着たが、体がほてって着ていられない。現場は組の都合で期限前に解雇になり、解雇手当2円50銭をもらって旭川にでた。
玉吉は大場組で知り合った前本と市中の屋根の雪下ろしの御用聞きを始めた。石炭会社から大角スコップを二丁失敬して大場組からロープともっこを借り、屋根に雪が積もっている家を見つけ、一軒一軒訪問して雪下ろしの御用を聞いて回った。
昼食時には食事を出してくれる家もあり、たいていは一軒2円50銭の手間賃で大きな旅館や屋敷だった。おかげで安い宿を見つけ、ほかほかの暖かい飯にもありつけた。大場の姉御も「お前たちは感心だ。中士幌の開削工事が始まるまで辛抱すれよ」と励ました。
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4-3 十勝中士幌の道路開削工事
中士幌原野の奥地は1m以上の雪で、寒波が強く零下20℃前後まで気温が下がり、あたりに人家は見当たらない。募集人夫30人ほどの小さな部屋で、山小屋のような飯場という感じだった。ストーブはなく、焚火でほとんどの人夫は目をやられた。
大山を切り崩して2人1組でトロッコに積み込み、200mほどある捨て場まで急傾斜を運ぶ作業である。土砂積み込み作業が手早い組を先頭にして、幹部から気合をかけられながら10数台のトロッコが死に物狂いの作業である。
ある日の夕食後、朝日親方が「この仕事もどうやら先が見えてきた。それで一日も早く完成させるために稼働時間を伸ばす。朝夕1時間ずつガンバッテもらう。目途がつき次第雇用期間もある者もない者も即座に解雇する」。
それから10日ほど過ぎた朝に九名の名前が呼ばれて即日解雇されたが、札苗駅で大場帳場から「札内の現場が遅れているので応援に行くのだ」といわれて驚いた。タコは売られる前に行き先の現場は決められており、その現場だけの雇用契約である。
証書には現場名と期間が書かれ、組の勝手で別の現場へ転売されることはない。町の駐在所の立ち合いで解雇の手続きをしたが、札内行は分からないという。汽車に乗った玉吉は「俺は帯広の警察へ行き土工専務巡査に話を聞いてもらう」は大声をあげた。
帯広の警察署の大きな部屋の中に20名の警官がいた。玉吉が机の前に立つと土工専務からいきなりびんたが飛んできた。「貴様か、昼日中に団体を組んで逃走したのわ。証書には中士幌及びその他となっているではないか。それでも何か言うことがあるか」。
玉吉は「あるから来たのです」と大声で答えて、いきさつを説明した。「解雇されて中士幌駅へ来てから札内行きと言われ、騙されたと分ったが駐在所ではラチが明かないので本署までやってきた。解雇手当と5円ほどの上金はもらっています」。
「それは本当だな」「他の8人にも聞いてください」「よしわかった。朝日と大塚を呼んで調べる。ところで札内の現場も急いでいるのだ応援してやれないか」「相談はしますが私は絶対いきません」「よし、お前だけは別でいい」。まるで部屋の用心棒だ。
みんなのところへ戻って「どうせ帯広まで来たんだ、仲で一晩遊んで札内へ行くか」。話しがまとまると3~4人の組員が来た。「寒かったろう、さっそく旅館へ行こう」ということで旅館について町の銭湯へ行き、久しぶりで人間並みの気分になった。
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4-4 タコが上がっているので
藤原組へ顔を出すと、「仲へでも行ってゆっくりくつろいでくれ。多少の足は組で見るから」と言われ、旅館から2台の車で登沢町の女郎屋へ向かった。佐藤ら5人は大正楼、玉吉ら4人は衣江楼に分かれ、二階に上がってそれぞれの相方の女郎さんと落ち着いた。
酒を二升持ち込んで肉とネギを買い込み、女郎たちにも食べてもらおうと大鍋を持ってきてもらい家庭料理が出来上がった。女たちは砂糖などの調味料は一通り用意している。明日の事など考える気もなく、男踊りも飛びだして天国の晩餐会が始まった。
酔いが回ると「俺たちは札苗の現場に行くのは嫌だ。大塚と朝日の親方にだまされたと思うと腹が立つ。何とかしてくれ」「他の5人に悪いが、俺たちは俺たちだ。組から呼び出しがあってもて店から出るなよ」。玉吉は自分だけが自由になるのは卑怯だと思った。
それぞれが自分の部屋へ引き取って1時間後に部屋を見回ると異常はない。玉吉の部屋は一番広く調度品もある。玉吉の相方は米八というこの店の御職女郎だった。階下の方で11時頃にお客が2~3人上ったようで、相方の女郎が降りて行き挨拶をしている。
その言葉の中に「お兄さんすみませんが、今、タコが上がっているので下の部屋で我慢して」という言葉がはっきり聞こえた。酒に弱い女のようで、酔っていたのでつい土工をタコと言ったのだろうが、素知らぬふりをして手を叩き女を呼び戻した。
側へきた女にいきなり往復ビンタをくらわした。「土工は土工だ、タコとはなんだ」。突然暴れ出した客に女は仰天して転がるように逃げ足を滑らして階段から転げ落ちていった。「番頭を呼べッ」。声に寝ていた3人も飛び出してきた。番頭が駆けあがってきた。
「いくらお客さんだからといっても、相手は女子ですよ。階段から突き落とすなぞとんでもない。怪我でもさせたらどうなるか、わかっているんでしょう。藤原組に連絡して話をつけてもらいます」。30前後の番頭はがたがた震えながらくってかかった。
「番ちゃんよ、お前さん一人で勝手なことをしゃべっているが、事の成り行きを調べてきたのか。男が女郎屋へ来るのは当たり前だ。そのお客に差別があるのか。商人は商人、大工は大工、みんな同じだろう。土工は土工だ。その土工をタコとは何んだ。
タコが二階に上がっているからどうのこうのとあの女はしゃべっていたな。それでビンタを2つ3つとったのだ。部屋の壊れ物やその辺に散らかっている物は、自分がつまずいて倒したんだよ。階段から落ちたのも自分で足を滑らせて落ちたのさ」。
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4-5 組の若い者になんか
話をしているうちに他の3人が部屋の中を片付けてくれた。番頭もどうやら事情が分かりすっかり態度が変わった。「そうでしたか面目もありません。どうか許してやってください」。下へ降りて女を連れてきた。女は玉吉の前に座らされて手をついて謝った。
番頭だと思っていた人はこの店の若旦那だった。「お客さん、この子は田舎での百姓の娘で世間の事は何も知らない子なんです。どうか勘弁してやってください。お詫びにみなさんで飲みなおしてください」。女郎は涙を浮かべてじっと下を向いている。
「その話はよそう。皆が土方を見るとタコというので、土方をタコと呼ぶのが当たり前と思っていたのだろう。無理もない。わかった。俺も別なことを考えていて気が立っていたのだ。つい乱暴してすまなかった」。女は玉吉のそばを離れずいつまでも座っている。
「一人で飲んで寝るから、下の客のところへ行けよ。明日は早いから行ってお前の務めを済ませてこい」と云ってもじっとして動かない。よくみると女郎の左手首がはれているようだ。「どうだ、痛むか。水で冷やせよ、大したことはない、すぐ直るよ」。
酔いがまわってきたので眠ってしまった。6時頃に目覚めると女はそばでて寝ていた。気配に気づいて起き上がると手首を水で冷やしている。「まだ痛むか」と聞くと「私は田舎者で何もわからない女ですが、初めて男の人の気持ちがわかったようです。
小父さんもずいぶん苦労された人ですね。男なんてみんないやらしいケダモノばかりと思っていました」といいながら泣いているようだった。4人の朝食を頼み、大正楼からの電話に「もし遅れたら先に行ってくれ」と返事をして切った。
衣江楼の前にタクシーが1台止まっている。決して車に乗るなよと云ったが、うまくまるめられたようで気が付くといつのまにか2人の姿が見えない。中村は「ちきしょう、やりやがったな」といきり立っている。玉吉も煮えくり返るほど腹が立ってきた。
「中村、二階から下りるなよ。用心棒が何人来ようとこうなったら意地だ、見ておれ」。女郎の米八は青い顔をしてぶるぶる震えながら、「お客さん、屋根伝いに梯子があるからそこから逃げてください」と、二人を必死で逃がそうとした。
組の者が4人きて「高田を出せ」と怒鳴っている。「藤原のデクノボウ達、我と思う奴がいたら二階へ上がってこい。てめえたちも命を張っているんだろう、俺もどうでもいいんだ。束になって上がってこい」。米八は「早く逃げてください」と繰り返している。
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4-6 御職女郎の米八
「馬鹿野郎、俺の気持ちが女・子どもに分かるか。巻き添えを食ったらとんだことになるから、別な部屋へ行ってろ」としかりつけ、階段の上で浴衣一枚になり、幡随院長兵衛のようにふんばった。一歩でも階段に足をかけたら滅多打ちにしてやろう。
銚子を5~6本懐に入れて立ち向かう姿勢でいた。中村もきかない男で「腰抜けども、町のチンピラに何ができる」と大タンカを切ってる。そのうち人の気配がなくなり、米八に飯を頼むと「遊郭ではまだ早いから私が隠れて町まで行って買ってきます」。
半里もある町まで、足が速いから30分くらいで戻り、酒も買ってくるという。「俺たちにそんな金は持っていない。もう引き上げるから」と云っても米八はそれに答えず、モンペを履いてタオルで頬かむりをしてそそくさと出て行った。
中村の女郎さんも何かと世話を焼いてくれたが、若旦那はよほど答えたと見えて一度も二階へ上がっては来ない。それで助かった。女郎が勝手に外を出歩くなどできない規則である。40分後に肩で息をしながら戻ると、酒一升に魚と麺類などを買ってきた。
このころ朝食ができて取りに来るようんとお婆ちゃんが知らせに来た。米八のはなしでは、近所に組員の姿等は見えなかったそうで、彼等もあきらめて引き上げたようだ。女郎屋も商売で、騒ぎが治まれ金の当てのない男二人をいつまでも置くわけにはいかない。
米八は私たちが持つから今晩の心配はしなくてもいい。募集人夫だけはやめてくれ、信用部屋もあることだからと心配してくれるが、酒が入ると気が大きくなる。「お前さんたちに負担をかけてのほほんとしていられるか。今夜はゆっくり遊ばせてもらうよ。」
中村と酒宴になりて飲んでいるうちに酔いつぶれてしまった。暗くなって目が覚めると米八が電気を付けてお茶を入れてくれた。帯広の「花の屋」にあたってみると仕事があるという。話が決まって藤原組へつれていかれた加藤と小林も合流した。
米八は22~3歳のおとなしい女だった。家を支えるために女郎になったそうで、毎月少しずつ送金しているのだと中村の相方が話していた。朝になると、米八は先に起きて酒の燗をつけていた。出かける時間になると、米八はそっと小さな包みを玉吉に渡した。
包みの中にタオルと石鹸などの日用品が入っている。花の屋からの金は宿代や飲み代でチョンチョンになり、米八にだけ3円50銭の小遣いをやれた。花の屋から発つ時に「体を大切にしてまた来てください」と米八から電話があったが二度と会うことはなかった。
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4-7 帯広の千代田堰堤工事
4人は札苗へ行かず帯広の周旋屋「花の屋」の世話で、十勝川の堰堤工事は帯広土木現業所の直轄工事、前金15円ではなしがまとまった。仲で一晩遊んでから花の屋へ向かう途中で、中村が市場へ飛び込んであっと言う間に姿を消した。
花の屋の親父は仕方がないと言ったが、あいつの前借金分は俺たち3人が被ることにした。3人が現場に着くともっこに切り込み砂利を約40貫詰め、それを担いで20mほどを20往復する試験もっこに合格した。
千代田堰堤締め切りの仮設工事は進み、両側に土俵を重ねて丸太を3段に8番線で締め付けて縦に矢板を打ち込んだ。水が外に漏れないよう、土俵がぐらつかないようにする。だめな仕事をしようものならどやされる。
締め切りが終わるといよいよ通水式だ。本流の水が、恐ろしい勢いで土俵内に呑み込まれてくる。土俵が不気味な音を立てて引き締まっていく。1~2時間で次第に治まっていつもと同じ流れになり、人工河川ができた。
翌日から掘削工事が始まり、大工と鉄筋屋の舞台となった。大工の型枠据え付けが終わり次第、コンクリートミキサー車の活動始まる。片側の堰堤が完成すると、同じように反対側を締め切っていく。7月末に三脚にする丸太を伐り出す作業に出た。
相棒の神田と丸太伐りをしていると他の人たちと相当離れてしまった。神田が逃亡すると言い出しとめても無駄だった。玉吉が逃がした思われるのでしかたがない。2人は帯広へ向かって歩き始めた。玉吉の行き先は旭川、神田の行き先は釧路である。
帯広から線路伝いに旭川まで3日間、足に任せて無銭旅行だった。新得を過ぎると後ろから来たトラックに載せてもらい東鹿越で降り、歩いていると日が暮れて農家に泊めてもらった。翌朝秋まで働かないかと誘われ断ると朝食抜きで追い出された。
上富良野まで歩いて保線区の無人小屋に泊り、翌朝魚釣りをしていると高田という人にあれこれ尋ねられ家へ誘われ朝食をご馳走になった。そのうえ、握り飯を9個にそぼろとつけものをどっさりくれて、タバコの朝日5箱とお金を5円も添えてくれた。
玉吉はお礼を申し上げながらありがたくて涙がこぼれれ、その風呂敷は肌身離さずお守りにしていた。12年ぶりに武田さんとさんと下川駅の待合室で再開した。まったくの偶然だったが、武田さんは玉吉の顔を覚えてはいなかった。
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4-8 玉吉の仕事歴
その後も玉吉は、様々な周旋屋から工事現場へタコとして売られ続けた。実録土工・玉吉タコ部屋半生記より、玉吉が重視した工事現場などを表にした。
期間 | 工事現場 | 現場管理 | 周旋屋 | 行動 |
自1930.10 | 茨戸の川底掘り下げ | 河合組 | 佐藤組 | 逃亡 |
自1930.11 | 美唄炭鉱道路工事 | 藤原組 | 西野組 | 逃亡 |
自1930.12 至1930.12 | 苗穂の無料宿泊所 | 生田・石塚 | 石崎作市 | ルンペン暮らし |
自1930.12 至1930.01 | (山鼻のとや呉服店) | 土蔵改装 | のとや呉服店 | 善行社運営 |
自1930.01 至1931.01 | 苗穂の無料宿泊所 | 生田・石塚 | 石崎作市 | ルンペン暮らし |
自1931.02 至1931.10 | 材木積取船作業員 | 稲穂町宮下 | 生田 | 一等級木場人夫 |
自1931.12 至1931.12 | 奥士別溜池工事 | 寺尾組 | 大場組 | |
自1931.04 至1931.10 | 朱鞠内鉄道工事 | 寺尾組 | 大場組 | |
自1932.04 至1932.07 | 十勝千代田堰堤工事 | 土木現業所 | 花の屋 | 付き合い逃亡 |
自1932.01 至1932.04 | 十勝中士幌道路開削 | 吉林組 | 花の屋 | |
自1932.07 至1933.09 | 旭川プール根掘作業 | 鶴間組 | 上居 | |
自1932.10 至1934.04 | 永山橋脚復旧工事 | 鶴間組 | 鶴間 | |
自1932.05 至1933.06 | 狩勝土砂崩れ復旧工事 | 鶴間組 | 鶴間 | |
自1933.07 至1933.12 | 十勝上士幌鉄道工事 | 鶴間組 | 鶴間 | |
自1933.12 至1934.05 | 十勝中士幌土地改良現場 | 寺尾組 | 子持ち酌婦 | |
自1934.05 至1934.06 | 帯広高嶋水門工事 | 宮坂組 | 梅の屋の女郎 | |
自1934.06 至1935.01 | 十勝大樹村日方川橋梁工事 | 益子組 | 村 | |
自1935.01 至1935.05 | 札苗バラス採取 | 菊屋組 | 花の屋 | |
自1935.05 至1936.02 | 士別生製糖会社鉄道引込線 | 鶴間組 | 花の屋 | |
自1936.03 至1937.09 | 上士別鉄道工事 | 丹野組 | 上居 | |
自1936.10 至1937.03 | 赤平鉄道工事 | 中村組 | 花の屋 | |
自1937.03 至1937.08 | 東神楽の河川工事 | 鶴間組 | 大場組 | 逃亡 |
自1937.08 至1937.01 | 中佐呂間 | 塚田組 | 政屋 | |
自1937.12 至1937.06 | 美幌飛行場 | 地崎組 | | |
自1939.12 至1940.04 | 新歌志内炭鉱郊外作業 | 成島組 | 大場組 | 逃亡 |
自1940.04 至1940.10 | 鴻舞金山のダム工事 | 地崎組 | 大場組 | |
自1941.06 至1941.12 | 雨竜発電所ダム建設 | 酒井組 | 大場組 | |
自1941.12 至1942.06 | 築別炭鉱 | 山口組 | 大場組 | |
自1942.07 至1942.06 | 小樽・帯広 | | 渡辺組 | 居候 |
自1942.07 至1942.12 | 計根別飛行場建設工事 | 中井組 | 吉村組 | |
自1942.12 至1943.01 | 上川江卸水力発電所工事 | 荒井組 | 吉村組 | |
自1943.01 至1944.02 | 大沢野松前線鉄道 | 荒井組 | 吉村組 | |
自1944.03 至1944.06 | 落部鉄道工事 | 荒井組 | 吉村組 | |
自1970
| 背腰の負傷で奥さんの看護を受けながら闘病生活を送っている。 |
戦争経済下の北海道第二期拓殖事業を支えた土台は、2万人を数えたタコ人夫たちだったと言っても過言ではない。1946年に札幌市真駒内の進駐軍土木工事現場でタコ部屋が見つかったのを機に解散させられたタコ部屋は289、土工夫13,663人という。
全道一斉手入れによってタコ部屋制度は終わった。「行く先我が家で女郎が妻」玉吉がタコ部屋について語りながら、よく口にする言葉である。リックひとつが財産の「行く先我が家」家業から足を洗った玉吉は、まもなく結婚した。
土木下請けや役所の工手などをしたあと、札幌にできた建設工事現場で働いたが、鳶が誤って落とした足場丸太をを背中に受けて骨折したり、車の誘導員として排気ガスを吸い込んだりの無理がたたり健康を害して入院した。
入院中に頼みの綱の組から解雇され、健康保険資格も取り上げられてしまい生活保護を受けながらの入院生活が続いた。1972年当時、妻ユキの看護をうけながら闘病生活を続けている。
「実録 土工・玉吉 タコ部屋半生記」は1974年3月に第一刷が発行された。その後も再販され、書店をはじめ古書店やインターネットで購入可能である。ぜひ入手され、高田玉吉の波乱万丈の生涯を味わっていただきた。
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謝辞:文中に掲載しました写真は「実録 土工・玉吉 タコ部屋半生記」より転載しました。ありがとうございます。
参考文献:実録 土工・玉吉 タコ部屋半生記(高田玉吉、古川善盛編、太平出版社)ほか。