1 あかりを求めて
1-1 あかりの歴史
縄文時代に使われていた灯火具はたき火やたいまつだった。弥生時代や大和時代を経て奈良時代にはロウソクや燭台やかがり火が現れた。平安時代にはいると灯籠が立てられ、鎌倉時代や室町時代そして安土桃山時代には室内で燭台が使われていた。
江戸時代にはちょうちん・がん灯・あんどんが使われ、明治時代に入るとカンテラ・石油ランプ・ガス灯・アセチレン灯が使われるようになった。大正時代に白熱電球が現れ、昭和時代は蛍光灯、平成時代にはLEDが現れ太陽光発電システムが導入され始めた。
あかりの歴史を見ると、各国にガス灯が設置されはじめた1810年代以来、約60年ごとに大きな進歩が起きている。1879年には白熱灯が、1938年には蛍光灯が、そして1996年には現在のLED照明の原型となる白色LEDが誕生している。
1960年代に暗めの赤色と黄緑色のLEDが開発されて以来、早い段階から表示用途で実用化されてきた。その後、発展の契機となる1993年の青色LEDの開発、またそれを応用した1996年の白色LEDの開発を経て現在に至っている。
白色LEDは、わずか十数年で蛍光灯の効率に追いつくレベルにまで達した。地球温暖化問題でエネルギー使用量の削減は非常に大きなテーマ―の一つとなり、LED照明は第4世代のあかりとしてこれからの可能性に期待できる。
1-2 たき火とたいまつ
人間が火を使うようになったころの灯りはたき火だった。細い枝を燃やすことから少々太い枝を燃やすようになると、火のついた枝を持ち歩くことで洞窟内を照らし出すことを覚えた。灯りとしてのたいまつの誕生である。
日本史用語大辞典や語源辞典名詞編などによると、日本語の「たいまつ」の語源は「焚き松」や「手火松」など諸説あり、明かりとして使うために手で持てるようにした火のついた松の木切れなどである。
たいまつは松明とも呼ばれ、燃えやすい松脂が付いている松の木を利用していたものと推定される。その後、長い棒や竿(さお)などの突端に、枯れ草や松脂など燃えやすいものに浸した布切れを巻きつけたものが使われるようになった。
1-3 ロウソクや燭台
747年の伽藍縁起並流記資材帳には「蝋燭」という記述があるので、日本のろうそくは中国から仏教の伝来と共に伝わったと推定され、この当時のろうそくは蜜蝋でできたものだった。894年に遣唐使が廃止されてろうそくは入手できなくなった。
このため国産ロウソクの製造が研究され、最初は松脂を使ったものが生産されていたようだ。その後「和ろうそく」と呼ばれるはぜの蝋やうるしの蝋を使って作られたものが生産されたが、宮廷や貴族、一部の寺院でしか使用されない貴重品だった。
江戸時代に入ると木蝋の原料であるハゼノキが琉球から伝わったことで、和ろうそくの生産量が大幅に増加した。明治時代には西洋ロウソクのステアリンロウソクやパラフィンロウソクなど、大量生産品の比較的安価なろうそくが全国に広く普及した。
燭台はロウソクが倒れないように立るための台である。基本的な形状は、針(ピン)状の狭義のろうそく立てと蝋を受ける皿、細い脚(竿)、台部からなり脚(竿)がないものもある。手に持って用いるものは手燭という。
1-4 灯籠・行燈・提灯・がん灯
灯籠は灯りのカゴという意味の今でいう街灯を指し、ロウソクの火が風で消えないように周囲を囲った道具である。素材は木や金属など様々だが、お寺によく設置されている石で作られたものはとくに石灯籠と呼ばれる。
江戸時代に谷山川を行き来する高瀬舟などの交通運輸の船着き場に設けられた燈籠が、養父市から出石市内に入る大橋の袂の左側に見られる。高さも2メートル近くある。
街灯だった灯籠に対し、主に室内で使用されていたのが行燈である。ロウソクや油に浸した布に火をつけて利用した。室内で利用するので軽い木製のものが多く、さらに火の回りは風よけの紙で覆われていた。
提灯は、紙で覆われ持ち運びできるよう進化したものである。軽い素材で作られ持ち手がつき、使わないときは折りたたんでおくことができる。現在は日本風の酒場「居酒屋」の入口にぶら下げられ、灯を覆う紙が赤いものが多いので「赤提灯」と呼ばれている。
がん灯(どう)は、現在使われている懐中電灯と同じ役目をしていた。正面のみを照らして持ち主を照らさないため強盗が家に押し入る際に使ったとか、目明かしが強盗の捜索に使ったとも言われ、「強盗提灯(がんどうちょうちん)」とも呼ばれた。
1-5 カンテラ・石油ランプなど
カンテラは、懐中電灯が普及するまで労働現場などで一般的に用いられていた携行用のランプである。灯油ランプやカーバイト・アセチレンランプが用いられ、夜間や地下などの視界が明瞭でないときにの合図灯として使用されたものを「カンテラ」と呼んでいた。
石油ランプは、石油を金属製またはガラス製の油壺に入れ、口には口金(くちがね)をつけて灯芯を差し込んで点火し、燃焼部を「火屋(ほや=ガラス製の筒)」で囲って風で吹き消されるのを防いだ。灯芯はねじで上下し、すすで汚れた火屋の清掃は手の小さな子供の仕事であった。
アセチレン灯は、炭化カルシウム(カルシウムカーバイド)と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させる単純な構造のランプである。機構が単純なため、小型化して手提げ式や、ヘルメットに装着する小型軽量のものを製作でき、かつて鉱山などで用いられていた。
アセチレン灯はカーバイトランプとも呼ばれタンクからポタポタと落ちた水がカーバイト(アセチレン)に触れるとガスが発生し、このガスがランプ本体の火口から吹き出すので点火すると裸火が噴き出す。不完全燃焼のため煤(スス)がで、独特の臭いも漂う。
燃料の炭化カルシウムは水と反応して石灰化するが、しばらくはガスが発生しているので水につけて完全に石灰化してから処分する。
1-6 横浜のガス灯
日本最初のガス灯は安政4年(1857年)、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の命で鹿児島・仙巌園(せんがんえん)に石灯籠にガスの管をつなぐという簡単なものだったが、翌年、島津斉彬の急逝で普及につながることはなかった。
明治2(1869)年頃、太田町の人々がガス灯の建設を神奈川県に出願したが県が受け入れず、翌年の明治3(1870)にドイツ領事であるシュルツが経営するシュルツ・ライス商会が再度ガス灯の建設を出願した。
同年、高島嘉右衛門は県庁からガス灯の建設協力を頼まれ「日本社中」を結成した。高島嘉右衛門は上海でガス灯建設を行っていたフランス人技師アンリ・プレグランを招き、横浜でのガス事業計画を進めてガス事業を出願した。
外国の会社と日本の会社の間でガス灯の建設をめぐり競争が起こり、困惑した県は居留外人の投票という方法で権利を決定した。日本社中の工場は、伊勢山下石炭蔵前に建設することとなり明治5(1872)年9月に完成した。
同月26日に神奈川県庁付近、および大江橋から馬車道・本町通りまでの間にガス灯十数基が点灯した。当時のガス灯は、石炭から発生させたガスを燃やすことで光を放ち、直接火口から火を点灯し、赤っぽい炎を直接明かりとして利用していた。
高島嘉右衛門のガス工場は、明治8(1875)年に町内会に譲渡されて「横浜市瓦斯局」となり現在は「東京ガス」になっている。現在の本町小学校の校門入口に、文化財として1本のガス灯が残されそばには「日本最初のガス会社跡」の記念碑がある。
近代日本の夜道をいち早く明るく照らしたのが横浜の馬車道の「ガス灯」である。明治の終わりごろに一旦姿を消したが、ガス灯の歴史を大切に当時のような街並みを保存してお客さんを迎える、横浜の馬車道通りに81基ある街灯はすべて本物のガス灯である。
1-7 白熱灯と蛍光灯
白熱電球は、ガラス球内のフィラメント(抵抗体)のジュール熱による輻射を利用した電球で、フィラメント電球ともいう。ジョゼフ・スワンが発明して実用化したが、本格的な商用化はトーマス・エジソンによるものが最初である。
電源は直流、交流のどちらでも使用可能で、瞬間的に電流が途切れてもフィラメントの赤熱は持続するため、交流電源の場合でもチラツキはない。日常用いられる100Wガス入り白熱電球では、可視光の放射に使用される電力は10%程度である。
1921年、東京電気(東芝)の三浦順一技師がタングステン電球のコイルを二重にした二重コイル電球を開発し、熱損失の減少と電球の効率向上につなげた。1950年には松下電器がフィラメントを二重コイル化した電球を発売し二割明るいお徳用と宣伝した。
蛍光灯は、放電で発生する紫外線を蛍光体に当てて可視光線に変換する光源である。熱陰極管方式と冷陰極管方式があり、一般照明用に使用される蛍光灯は一部の例外を除いてほとんどが熱陰極管方式である。
ガラス管内には、放電しやすくするためにアルゴンあるいは混合希ガスと少量の水銀の気体が封じ込まれている。発光時の内部温度は1万度に達するが、気圧が非常に低い為にガラス管が溶けるような事はない。
白熱灯と比べると同じ明るさでも消費電力を低く抑えられる。消費したエネルギーの変換比率は、可視放射25%、赤外放射30%、紫外放射0.5%で残りは熱損失となる。白熱灯と違い点灯には安定器が必要なため直接電圧を掛けただけでは使用できない。