はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第17章 サッポロビークの構想

サッポロビールは昭和63年3月に理業出身の荒川和夫が社長に就任すると、ビールのシェアで二位の座を奪還することではなくビールを機軸とした複合経営へと舵を切った。企業を世界的にも評価されるエクセレエント・カンパニーになることを目指した。

1 ビール戦争

 1-1 サッポロビールの生い立ち

北海道の風土がビールの原料である米国種の大麦の育成に適していたこと、トーマス・アンチセル技師が岩内地方に野生のホップが茂っているのを発見した事で、北海道開拓使は事業の一つとして管営ビールの醸造を始めることを決断した。

明治9年9月に本場ドイツのビール醸造の修業免状をもつ中川清兵衛の設計で、日本初の本格的ドイツ風ビール工場が完成し、明治10年に開拓使ビールが発売された。サッポロビールの赤い星のマークは開拓使の旗の北極星から取られた。

ビールのブランドで一番早いのは明治10年のサッポロビール、キリンビールは明治21年、アサヒビールは明治25年の発売だった。サッポロビールは官営のため、1瓶16銭と他のビールより大幅に安かったが、当時としてはかなり高価な飲み物だった

明治10年当時には東京・大阪を中心にビール会社が乱立したが、まだ日本人の口に合わなかったためいずれも失敗に終わっている。当時のビールは薬局で売られていたというぐらいで、アルコール飲料というよりも「健康飲料」のイメージが強かった。

明治15年に開拓使の仕事がその使命を終えると、ビール事業は北海道庁の管轄となった。明治19年へ民間へ払い下げられて大倉組に引き継がれ、明治21年に渋沢栄一、大倉喜八郎を始めとする当時の財界人の出資により「札幌麦酒」が設立された

このころ、後の大手となるサッポロビールの前身である「サッポロ麦酒」と恵比須ビールの「日本麦酒醸造」、アサヒビールの前身である「大阪麦酒」、そして、キリンビールの前身である「ジャパン・ブリュワリー」が誕生している。

サッポロ麦酒の最大の特徴は国産志向だった。国産事業の育成に力を入れた開拓使時代の方針を引き継いで、原料の大麦を始め、ホップや酵母など、種は輸入しても国内で育成したものを使おうとしたが、他の三社は輸入品というのが売り物だった

この四社はほぼ互角の資本力と生産力を持っていたため過当競争による共倒れを防ぐため、サッポロ麦酒・日本麦酒・大阪麦酒が合併して大日本麦酒が誕生したが、キリンビールは合併に加わらなかった。戦後は巨大になり過ぎた大日本麦酒の分割が起こった。

分割後にサッポロビールはニッポンという新統一ブランドを出したが、昭和28年にはニッポン33.5%、アサヒ33.3%、キリン33.2%と全く並列状態となり、翌昭和29年にはトップの座から一挙に三位へ転落してしまった。

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 1-2 キリンの独走原因

大日本麦酒の分割で誕生したサッポロビールのシェアは北海道・東北と東京で、アサヒのシェアは西日本と名古屋だった。全国展開を目指しお互いのテリトリーを侵食して骨肉の争いを続けたが、大日本麦酒への合併を断ったキリンビールは全国展開をしていた

キリンは業務用ではサッポロとアサヒにかなわなかったため、家庭用ビールの普及に力を入れてきた。高度経済成長下に家庭でもビールが飲まれるようになっていくと、結果的にキリンに有利に働いたと言われる。

ある業界関係者は「ビールは他の酒に比べてかなり値段の高い飲み物だった。当然いまのようにガブガブ飲めない。1本1本大事に飲むことになり、キリンは苦いので1本飲むとたくさん飲んだ気になる。それで売れたのだろう」と分析していた。

子どもの好きなもののベストスリーが「巨人・大鵬・卵焼き」の時代に、日本人のブランドに対する信仰も変化した。隣のうちがテレビを買えばテレビを買い、車を買えば車が欲しいと、隣近所を見て周りに合わせることが一般的な行動様式となっていった

日本人を語るとき、その顕著な行動様式の特徴として「バスに乗り遅れるな」という言い方がされる。行先はさておきその時代のバスがキリンビールであったことは確かであった。キリンの訳の分からない強さを支えていたのは、この日本人の行動様式だった

大きなキャバレーでは一晩でビールが100ケースという、年間に換算すれば物凄い量が売れていた。だが、キャバレーに強いサッポロのシェアはそれほど伸びていなかった。サッポロはとうとう町の小さな酒屋さんから紹介を受けたお客の下へ足を運んだ。

お客になぜキリンを飲むか質問すると、苦くてうまいからだと答えた。営業マンは時間をかけてサッポロの良さを説明して和やかになってから、なんでキリンなのですかと聞いた。お客は出されたビールならサッポロも飲むし、キリンでなければということはない。

明日からサッポロにすると答えた。しばらくして酒店からサッポロを届けたらキリンにしてくれと言われたと云う。お客を尋ねた営業マンがなぜサッポロにしてくれないんですかと質問すると、お客は「だって、みんなキリンを飲んでいるじゃないか」と答えた

この行動様式の特徴は、味はともかくビールであっても基本的に自分では選択しない、消費者の大半がみんな飲んでいるから同じものを飲むという考えになる。そして、酒店もビールと言えばキリンビールを届けていれば問題はなかったからと分析されている。

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 1-3 冷静な消費者対応

昭和61年にスーパードライが発売され、テレビのチャンネルをひねればシャワーのようにスーパードライのCMが飛び込んできた。発売後2年以上が過ぎてもCMがシャワーのように感じるのは、ちょっと行き過ぎではないかと思われてきた

アサヒの大量広告に対する影響もあって、サッポロの広告量も増えたが決して多いと言うものではなかった。その原因は資金的な余裕がないと言う以上に、サッポロの昔からの考え方が反映されているからだった。マーケティングの田村宗英本部長はこう説明した。

「あまり莫大な広告料を投入すると、違う方の問題が出てくると思われる。アル中の規制とか、タバコの様な広告規制とか、余計な要素が出るのじゃないか。少なくともメーカーがやるべきことではないという考えで、いまのままの量で十分対抗できると思った。」

夜遅い時間にはサッポロのCMは流れなかった。「サッポロの役員は自分が年寄で夜早く寝るので、遅い時間にCMを流しても自分が見れないから必要ないと、夜のCMは許可しなかったと言うほど広告に熱心ではなかった」という笑い話さえある。

サッポロのそうしたハッタリのなさは、業界の合意が得られないまま率先して行ったワインの原産地表示にも表れていた。反対した某社は「ワインはフランスというイメージが壊れる」としたが、消費者の立場からするとそれは消費者を欺くものであった。

企業姿勢のちがいだが、どちらのとる道が消費者に受け入れられるかは明らかである。コマーシャルとイメージでモノが売れると言う時代ではない。むしろ、正直なイメージこそが必要とされる時代と言える。

昭和61年9月に、サッポロビールの河口工場で生産された生ビールを飲んだ消費者から、次々と「酸っぱい味がする」「濁っている」といった苦情が寄せられた。調査の結果はろ過機の一部が故障して製造過程で空気に触れたため約5百万本に乳酸菌が混入した。

飲んでも問題はないのだが、このときサッポロは直ちに情報を公開して問題のあるビールを回収した。その素早い対応のため、消費者の間にはさしたる混乱は起こらなかった。このときの対応は、いかにもサッポロらしいものであった。

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2 サッポロビールの挑戦

 2-1 味とシェアとの矛盾

ニッポンビールのシェアが三位に転落した昭和29年を機に、社内と販売店からブランド復活を望む声が大きくなった。北海道ではサッポロ、東京ではエビスだったが、時の柴田社長は七福神では感覚が古いとしてサッポロの復活を決意した。

この結果、昭和36年に再びわずかばかりアサヒを抜いて二位に浮上した。「世のためになることを」という口癖の柴田社長は、毎月東京都内の小中学生10人を選んでサッポロの宣伝カーに載せ、都内の施設を見学させてその感想文を少年雑誌に掲載させた。

そして、世界のビールの三大名産地を「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキ」というキャッチフレーズにしたコマーシャルは、今でも引き合いに出されるほど話題になったが首位を行くキリンビールとの差は益々広がるばかりだった。

この厳しい状況の中でビール業界へ寿屋(現在のサントリー)が参入した。競争の激化が予想されてサッポロとアサヒは合併の話し合いを始めたが、交渉が表面化して一ヶ月後に乗り超える問題が大きすぎサッポロビールからの申し出により打ち切りとなった。

昭和41年に日本消費者協会が実施したビールの消費者テストは、商品テスト委員会が無作為で選んだ消費者を対象に当時あった五社のビールについ銘柄を隠して行った。それぞれのビールを飲んで「うまい・ふつう・まずい」のどれかに〇をつけるものだった。

昭和41年の財団法人日本消費者協会のビールの味覚調査は下表の結果だった。

1位2位3位4位5位
うまいサッポロ(28)アサヒ(20)キリン(16)サントリー(15)タカラ(15)
ふつうタカラ(23)キリン(18)アサヒ(18)サントリー(17)サッポロ(14)
まずいサントリー(18)キリン(16)アサヒ(12)タカラ(10)サッポロ(8)


 昭和42年にも財団法人日本消費者協会はビールの味覚調査を行ったが、このときもサッポロがうまさで首位を占めた。

しかし、昭和41年から46年までの目隠しテストや消費者調査でサッポロのうまさが客観的に証明され、その事実をPRしたがシェアアップにはほとんど役に立たなかった。サッポロは味とシェアの矛盾というジレンマに悩まされた時代であった。

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 2-2 スーパードライと他社反応

アメリカのあるビール会社の幹部が書いたものに「ビール事業で失敗する12の法則」という本がある。その中には「味を変えると失敗する」とか「面白いコマーシャルは賞はとるけど、商品は売れない」といった興味深いことが書かれている。

アサヒの新ビールへの完全なる転嫁ができたのは、10%のシェアを切るところまで追い詰められて「業界の常識」に挑戦したものだった。アサヒはキリンとのビール戦争で完全に負けたことを自ら認め、そこを出発点にした。

基本的にはビールの味はどこも同じようなもので、ほとんど区別はつかない。ビールが好きな人はどこのビールでも美味しいと言うのが本音で、スポーツの後の一杯や湯上りの一杯にまずいビールなどがないことも確かである

本来ビールをつくるうえでコクとキレは矛盾する概念であった。ヒット商品の周りにはいくつものモノマネ商品が誕生するのが常だが、スーパードライが登場した昭和62年に他の三社はドライビールを発売しなかった。

サッポロビルの社内でスーパードライの評価は低かった。酎ハイブーム直後に流行ったジュースで色を付けた炭酸に焼酎をちょっと入れたみたいな、飲みやすさを最優先した品質設計がなされているとビール会社の人々には思えたのである

キリンビールの社内でも、辛口というキャッチフレーズが受けているが、商品の性質上いささか軽くて、かつ水っぽいといううらみがある。キリンの苦みに慣らされたものにはこんなのはビールではないと言いたくなるようなビールだった

本場ドイツのビールをお手本としてそれを日本人の味覚に合うように努力してきたサッポロビールとしては、スーパードライは自分たちが考える理想のビールからは味の面でもつくり方でもかなりかけ離れていると思えた。

キリンにはラガービールのこだわりがあり、サッポロにはビールそのものに対するこだわりがあった。アサヒはビール戦争に負けたという現実を冷静に見て、消費者の声を聞くと言う形でそのこだわりを捨てることができた。

ビール製造会社のある人は、アサヒビールを冗談めかして「住友ビール」と呼んでいたが、本来はビールに無縁のトップが続いたことによってスーパードライが登場し、ビール会社の発想から抜け出ることができたともいえよう。

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 2-3 アメリカでのサッポロビール

ビールの世界マーケットは、本場ドイツの2倍半というアメリカ市場で、世界のビール生産量の22%を以上を消費している。昭和30年代にアメリカ市場へ進出したのはキリンで輸出実績を築き、昭和58年にキリンUSAを設立して他社をリードしていた。

サッポロは昭和47年からアメリカに進出して昭和59年に現地法人サッポロUSAを設立した。翌年サッポロはキリンを追い抜き、アメリカ市場で日本のビール四社のトップに立った。その後も、アメリカや海外市場では国内メーカーのトップに立っている

キリンは英語に堪能なスタッフをそろえて自力で販売網を整備した。しかし、日本人の場合はどうしても日系の問屋へ行ってしまう。日本では圧倒的に強いキリンは商品を出せば売れたが、その環境に慣れてしまった社員は流通経路の構築にやや手抜きがあった。

サッポロは英語に自信がないため社員を少なくし、販売パワーとしてアメリカ人ブローカーを使った。ブローカーは1カテゴリーについて1ブランドしか扱えず、たとえばサッポロビールを扱ったら他のビールは扱えない。

ブローカーは自分で扱ってくれる問屋を探して、ときにはハッパをかけ、販売計画とか在庫量とかすべてをアレンジしてくれる。サッポロはこれに対してコミッションを支払うが、キリンはこれをやらなかった。現在はキリンもこれを採用している。

サッポロがヒットしたのは誤配からだった。アメリカ人の多い日本レストランから20箱の注文があり、問屋が間違えて大びんを配達してしまった。ちょっと見にこいと呼ばれていくと、アメリカ人が大びんをもってビッグボトルといってワイワイやっている。

アメリカはみんな小びんなので大びんが珍しいかった。それまで小びんが中心で一部大びんを扱っていただけだったが、大びんを出したら売り上げはグーンと伸びた。さらに、昭和59年に販売したカップ生は、シルバー・サッポロと呼ばれる人気商品となった。

昭和60年からカリフォルニア・エンゼルスのホームグラウンドであるアナハイム球場で、サッポロびん生の大びんが売られるようになった。うまくて珍しい大びんだと何回も買いにいかなくてもよい。アメリカ人は陽気で珍しいものに殺到とする

日本レストランのお客の8割はアメリカ人とみられるため、サッポロビールは消費者サイドから見た場合、その95%がアメリカ人に飲まれている。アメリカ市場でのさっぽろ製品の人気は、西海岸ではサッポロびん生、次がカップ生、ドライという順である。

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 2-3 サッポロの目指すもの

ビールを始めて飲んだときにあの舌に残る特有の苦みはだれしも記憶にあるだろう。大人はなんで、あんなに苦いお酒をおいしそうに飲むのだろうという疑問を持ったはずである。いわば苦さを克服してビールファンは生まれ育ってきた。

昭和63年にサッポロは「エクストラドライ」を開発し、消費者に飲んでもらうと評価は良かった。年開け早々の1月5日に系列問屋へパンフレットを配り、ドライの発売を写真入りで知らせた。キリンもサントリーもそれぞれのドライを完成した。

アサヒビールは、サッポロの特約店向けパンフレットから、アルコール度数が0.5%高くなり、辛口を前面に出し、スーパードライと同じ銀ラベルであるとして、追随しないようにと内容証明付きの抗議文をキリンとサッポロに送った。

サッポロは「サッポロ★ドライ」を商標登録してあったが、争いを避けるために当初予定していた「エクストラドライ」を引っ込めた。ビール業界はなんでも話し合いで解決してきたがサントリーが参入し、アサヒの住友銀行色が強くなって以来殺伐としてきた

昭和60年に北海道限定醸造ビールの先駆けとなった、ドイツ古来の醸造法のひとつである高温短時間仕込による「ホッホクルツ製法」を採用した「サッポロクラシック」が大ヒットし、平成元年には冬季限定ビール商品の「さっぽろ冬物語」が大ヒットした。

サッポロ生ビールは同社のビールの60%を占める基幹消費だが、ドラフトにリニューアルした。中身の設計はほとんど変わっていないが麦汁の絞り方を贅沢にしたハイグレードな品質になり、味が若い人も飲めるようにやや爽やかなものになっている。

サッポロビールが、平成2年に完成させたのは恵比須再開発と札幌再開発の青写真だった。サッポロが恵比須再開発を発表すると、マスコミは「サッポロビ-ルついにビルになる」と書き立て、全くと言っていいほど理解されずその真意は報道もされなかった

創立40周年を迎えたサッポロビールは複合経営の途を目指した。狙いは21世紀をにらんで様々な事業を推進していくうえで、共通の基盤となる新しい企業理念をつくろうというものである。そして、その最終目標は世界に飛躍するトップ企業への挑戦である

サッポロの複合経営は、すべての中心であるビール事業と、その関連部門ともいえる総合食品事業、そしてビール産業を発展させた形のバイオ・薬品事業、さらに所有不動産の再開発によるディベロッパー事業と言った4つのヴィジョンによって成り立つ。

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3 21世紀への挑戦

 3-1 消費者重視の姿勢

サッポロの基本的な考え方は「何事によらず嘘はいつかバレる。だからこそ、愚直なまでに正直な対応をしていく。そうしていけばいつかは分かってくれるし、評価される時代が来る」と信じての行動が、素直に消費者の間にも受け入れられたのである

ビール業界の巨人は、アメリカのアンハイザー・ブッシュ社で、日本のビール総消費量の1.6倍を生産し、前米市場の41%のシェアを占め、日本人にも知られているバドワイザーを醸造している会社である。

この会社の経営哲学である社訓には次のように書かれている。
  この会社は、我々の企業である。
  この会社は、チーム・マネジメントの企業である。
  この会社は、創意と工夫の企業である。
  この会社は、科学的経営を実践する。
  この会社は、常識と勤勉化人間の集団である。
 オーガスト・A・ブッシュ会長はこう語っている。

「国によっても産業界の中でも、企業の在り方はそれぞれに異なっている。しかし共通しているのは成功を収める要因だ。これは極めて簡単なことで、品質や製造過程、あるいは製品の隅々までにどれほど細心の注意を払う事ができるかに尽き

自動車、エレクトロニクスに始まり、すべての日本製品がアメリカで成功を収めた理由は製品の細部にわたって神経を使ったところにある。時として経営者は消費者が品質を識別できるという事実を忘れてしまう。だが、消費者は常に品質に対して敏感に反応する。

だからアメリカの消費者は日本製品を喜んで受け入れたのであり、まったく同じ理由で私たちの会社はアメリカの消費者に受け入れられた(「№1の条件」安田弘道著)」。多くの成長企業に共通する考えでサッポロが常に心掛けていることであった。

アンハイザー・ブッシュ社はビールを機軸に多角化を図っている。ビール関連以外でもパンを中心とした食品分野ではキャンベル・タガート社、イーグル・スナック社のほか遊園地ブッシュ・ガーデン。プロ球団セントルイス・カージナルスの経営まで多彩である。

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 3-2 エクセレント・カンパニー

サッポロビールの荒川和夫を社長は「アンハイザー・ブッシュ社の経営理念は立派なものです。我々もそれを見習おうとしたのですが」と語った。ビールに対するこだわりの部分では一緒だが、サッポロとの大きな違いは日本とアメリカとの不動産に対する価値の違いということになる

サッポロビールの経営資源の中には昔郊外に造った工場が都市化の波に洗われ、いまは都市化で都市の中核部になった土地が多数ある。工場を移転すれば活用の仕方によっては極めて高い経営資源になる。土地がいくらあっても二束三文のアメリカとは事情が違う。

いまの日本で新しく土地を手に入れて発展させていことはとてもできないが、当面は工場がそういう状況にあるので、不動産業や不動産関連事業、都市の総合開発の一部をなすような事業がサッポロには最適な事業となってきた

アサヒは将来像として「ビッグ・カンパニーよりもグッド・カンパニ-」を目指している。サッポロは「健康にして文化的な国民生活に貢献する」という企業理念を持ち、すべての事業をそうした明瞭なモットーのもとに事業を展開している。

今後、サッポロが目標とすべき会社については「何が何でも大きさだけを狙うよりも、企業を世界的に評価されるエクセレント・カンパニー」を目指すとし、「内容的に強い企業にしたい」と荒川社長は抱負を述べている

言葉には表現していないけれど、それができる会社こそがサッポロにとっての「良い会社」であり「エクセレント・カンパニー」なのである。サッポロがサッポロらしいのは、そうしたモットーが掛け声だけではなく真面目に行動に移されているところである。

サッポロの社長人事に関する不文律通りに営業部出身の河合滉二社長の後任として、昭和59年3月に経理畑の高桑義高が社長に就任にした。高桑社長時代に作成された「わが社はこうありたい」という一文から、いまも変わらない主要部分を紹介する。

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 3-3 サッポロビールの未来

未来戦略の策定に辺り、当社は国際化・高齢化・成熟化・技術革新等を21世紀へ至る経済社会の環境与件と考えている。将来を確かな目で見通してニーズを予見し先手を取ってシーズを積極的に育て上げ、適応に誤り無きを期するのが肝要である。長期的な観点を定めて遅滞なく実際行動を起こすこと、これが経営戦略のエッセンスである。

当社はビールを通して市民生活の向上に努めてきたが、生活ニーズの多様化や国際化の進展に対応してより広い貢献の場を求めて事業の分野の多角化を推進している。新しい事業分野を選択する場合「ビールと生活」との関係をソフトに解釈し、「当社存続の意義」いいかえれば「サッポロらしさ」が発揮できるかどうかを判断の基準にしている。

やや具体的にいえばビールのように「心身の活力を高め」、「暮らしに潤いを添える」事業に関心を寄せている。この事業系列を商品とサービスに分けてみると、前者からは総合酒類・飲料・食品メーカーという企業イメージが浮かび上がり、後者の事業は外食・スポーツ・文化というふうな広がりを見せていく。

サッポロの経営環境を音楽に例えてみると、複合経営という主題のシンフォニーを会社を挙げて見事に演奏することだと言える。全曲を通してビール事業の拡大強化が繰り返して強調される。街づくり、都市再開発事業がビール工場を種地として生み出され、演奏会場に強く響き渡る。

街はサッポロ文化の拠点、生活情報の受発信基地となり、経営サービス化・ソフト化という新しい音色が付加されてくる。清涼飲料水が人々の渇きを癒し、ワインやブランデーの芳醇な香りが聴衆にはっきりと伝わる。

ビールの競争に勝って、ビールの生産量を挙げていくことも必要だが、やはり複合化によって、きわめてスケールが大きく、高能率で、しかも高生産性で、高収益を挙げられる、そして社会性も高い企業にしていかなければならないと思う

バイオテクノロジーの成果が共感を呼び起こす。経営に終章はないが、国際的な視野で生活文化の向上へ貢献するという不動の回転軸に照らして、譜面を見直し演奏技術を磨き続ける、サッポロはこういう会社でありたいと念願している。

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4 超優良企業への道

 4-1 サッポログループの誕生

1876年のサッポロビール創業時から、サッポログループは「おいしさ・品質へのこだわり」「フロンティアスピリット」が基本だった。それを核に生まれたグループ各社が事業を通じて社会に対する責任を果たすことが「潤いを創造し・豊かさに貢献する」という経営理念の実現につながると考えた

サッポログループは、サッポロビール株式会社を始めとして、サッポロインターナショナル株式会社、札幌フード&ビバレッジ株式会社、株式会社サッポロライオン、サッポロ不動産開発株式会社の五社で構成される。

サッポログループの企業の社会的責任(CSR)は「経営理念、経営方針の具現化を通じて社会に対する責任を果たし、企業などの組織が活動を行うことで影響を受ける利害関係者(ステークホルダー)の信頼を高め、企業の価値を向上させること」とされている。

サッポログループの経営理念は「潤いを創造し・豊かさに貢献する」で、それを実現するための経営の基本方針に「サッポログループは、ステークホルダーの信頼を高める誠実な企業活動を実践し、持続的な企業価値の向上を目指します」と定めている。

サッポログループは、「潤いを創造し・豊かさに貢献する」という経営理念のもと、お客様に喜んでいただける誠実なグループであり続けることによって、企業としての発展を目指すとともに持続可能な社会づくりに貢献してまいりますと謳っている

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 4-2 全天候型複合商業施設

サッポロビール工場は、恵庭市に工場を移転するまで100年以上にわたり札幌市中央区北2条東4丁目でビールの製造事業を展開してきた。1993年にこの工場跡地に「北の・あたらしい・くらし」をコンセプトに「サッポロファクトリー」を誕生させた。

施設名称の「サッポロファクトリー」はビール製造工場が由来で、開拓使時代の歴史をたどることができる見学施設をはじめ、約160ものショップや開放感あふれる施設が集まり、観光スポットとしてまた地域の方々の憩いの場としての利用を目指している。

高さ39m、幅334m、全長84mある全天候型のアトリウムを中心にショッピングモール、アミューズメント施設、レストラン、フィットネスクラブ、ホテルなどの施設があり、それぞれの建物は連絡通路で接続している。

アトリウム東側には企業神社の「構内札幌神社」がある。屋内外にイベントスペースを設けており、様々なイベントを開催している。11月上旬から12月下旬までアトリウムに十勝の広尾町から運んできた巨大なクリスマスツリーを飾っている。

また、冬の長い北国での巨大空間施設として省エネルギー対策を導入した建築で、天然ガスを利用したコジェネレーションによって館内で使用する電気を発電し、その際に発生する排熱を冷暖房や給湯、ロードヒーティングに有効利用している

サッポロファクトリーは「第6回札幌市都市景観賞」、サッポロファクトリーアトリウムが「第6回省エネルギー建築賞」、サッポロフロンティアタウンズ/サッポロファクトリー&ポプラ館は「第35回BCS(優秀な建築作品)賞」を受賞している。

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 4-3 恵比須ガーデンプレイス

サッポロホールディングスの前身である日本麦酒醸造会社は、目黒区三田にビール醸造所を建設して「恵比寿ビール」を発売すると業界トップの売上を記録した。しかし、周辺の都市化によって工場の増設余地が少なくなり、1986年に千葉工場へ移転した。

ビール醸造所はサッポロビールに引き継がれ、東京都渋谷区および目黒区に跨るサッポロビール工場跡地の再開発事業として超高層オフィスビルや商業・飲食施設などが集まる複合施設としての「恵比寿ガーデンプレイス」が開業し

超高層オフィスビル、マンション、ホテル、商業・飲食施設、美術館、多目的ホールなどがある複合施設は「豊かな時間」「豊かな空間」をテーマに全体をヨーロピアンテイストで統一し、庭園都市と商業都市が融合した街として高い評価を得た。

施設内の厨房等で発生する排水の再生利用、廃熱を有効利用するコジェネレーションシステムの導入など、環境を意識した街づくりとなっている。また、都心の複合都市として多彩な機能を果たしつつ、敷地の約6割が緑の多いオープンスペースとなっている

恵比寿ガーデンプレイスタワーは高さ167メートルの高層オフィスビルであり、最も大規模な建物となっている。また、環境へ配慮した街づくりで年間を通じた様々なイベントが行われるなど、恵比寿エリアの発展に大きく貢献している。

複合施設の恵比寿ガーデンプレイス入口正面に位置するビルで、サッポロホールディングスやサッポロビール本社、ポッカサッポロフード&ビバレッジ東京本社などが入っている。また、このビルには「恵比寿麦酒記念館」が併設されている。

名物となったクリスマスイルミネーション、夏の野外シネマイベントなど、多彩な催しが年間を通して行われ、恵比寿エリアの活性化に貢献しています。

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5 飲兵衛の戒め

親は子どもに「お前も一杯飲んでみるか?」と言っちゃいけません。20歳未満の飲酒のきっかけは「お祝いだから」「一杯くらいいならいいだろう」など、親など大人の勧めがきっかけでお酒を飲んだ20歳未満が多いそうです。

宴席を盛り上げようと「イッキ飲みをしろ!」と云うのは「お前は死ね!」と云ったのと同じです。北海道ではイッキ飲みをして大学生が何人も死んでいます。お酒の飲み方が分からないなら、飲むのを止めましょう。

妊娠中や授乳期のママが「結構我慢したし、ちょっとだけなら…」なんて思わないでください。胎児や赤ちゃんの体内にアルコールが入ると、知能障害や発育障害がでる危険性があります。子どもの将来はめちゃめちゃで、あなたはその子をおいて先に死ぬのです

薬飲んだけど…ま、いっか!は、場合によって生命にかかわることもあります。お酒と薬が胃の中で一緒になると、薬の種類により体への影響が強くあらわれたり、場合によっては生命にかかわる事態になることも

ちょっとしか飲んでないから気を付けて運転すれば、明日も車が必要だし、なんて自分に都合のよい理屈をつけて運転しないでください。どんなに少ない量でも脳には確実に影響が及んでいるため非常に危険です。人を殺し被害者とあなたの家族を泣かせたいの

「車で来たんだから一杯だけだね」や「自分は運転していないから」は通用しません。運転者だけでなく、お酒を提供した人や、お酒を勧めた人も道路交通法の罰則の対象になります

酒酔い運転はアルコール濃度の検知値とは厳密な関係はなく、アルコールの影響によって正常な運転ができないおそれがある状態で運転することです

飲酒運転とは飲酒後にアルコールの影響のある状態で運転をすることで、事故を起こしたか否かにかかわらず、道路交通法で禁じられています。

酒気帯び運転は、政令で定める基準(呼気1Lに0.15mgあるいは血液1Lに0.3mg)以上に体内にアルコールを保有する状態で運転することです。

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参考文献:サッポロビールホームページ、サッポロホールディングスホームページ、サッポロ不動産開発株式会社ホームページ、サッポロビールの挑戦(早川和廣、kkロングセラーズ)など。