1 ビール戦争
1-1 サッポロビールの生い立ち
北海道の風土がビールの原料である米国種の大麦の育成に適していたこと、トーマス・アンチセル技師が岩内地方に野生のホップが茂っているのを発見した事で、北海道開拓使は事業の一つとして管営ビールの醸造を始めることを決断した。
明治9年9月に本場ドイツのビール醸造の修業免状をもつ中川清兵衛の設計で、日本初の本格的ドイツ風ビール工場が完成し、明治10年に開拓使ビールが発売された。サッポロビールの赤い星のマークは開拓使の旗の北極星から取られた。
ビールのブランドで一番早いのは明治10年のサッポロビール、キリンビールは明治21年、アサヒビールは明治25年の発売だった。サッポロビールは官営のため、1瓶16銭と他のビールより大幅に安かったが、当時としてはかなり高価な飲み物だった。
明治10年当時には東京・大阪を中心にビール会社が乱立したが、まだ日本人の口に合わなかったためいずれも失敗に終わっている。当時のビールは薬局で売られていたというぐらいで、アルコール飲料というよりも「健康飲料」のイメージが強かった。
明治15年に開拓使の仕事がその使命を終えると、ビール事業は北海道庁の管轄となった。明治19年へ民間へ払い下げられて大倉組に引き継がれ、明治21年に渋沢栄一、大倉喜八郎を始めとする当時の財界人の出資により「札幌麦酒」が設立された。
このころ、後の大手となるサッポロビールの前身である「サッポロ麦酒」と恵比須ビールの「日本麦酒醸造」、アサヒビールの前身である「大阪麦酒」、そして、キリンビールの前身である「ジャパン・ブリュワリー」が誕生している。
サッポロ麦酒の最大の特徴は国産志向だった。国産事業の育成に力を入れた開拓使時代の方針を引き継いで、原料の大麦を始め、ホップや酵母など、種は輸入しても国内で育成したものを使おうとしたが、他の三社は輸入品というのが売り物だった。
この四社はほぼ互角の資本力と生産力を持っていたため過当競争による共倒れを防ぐため、サッポロ麦酒・日本麦酒・大阪麦酒が合併して大日本麦酒が誕生したが、キリンビールは合併に加わらなかった。戦後は巨大になり過ぎた大日本麦酒の分割が起こった。
分割後にサッポロビールはニッポンという新統一ブランドを出したが、昭和28年にはニッポン33.5%、アサヒ33.3%、キリン33.2%と全く並列状態となり、翌昭和29年にはトップの座から一挙に三位へ転落してしまった。
1-2 キリンの独走原因
大日本麦酒の分割で誕生したサッポロビールのシェアは北海道・東北と東京で、アサヒのシェアは西日本と名古屋だった。全国展開を目指しお互いのテリトリーを侵食して骨肉の争いを続けたが、大日本麦酒への合併を断ったキリンビールは全国展開をしていた。
キリンは業務用ではサッポロとアサヒにかなわなかったため、家庭用ビールの普及に力を入れてきた。高度経済成長下に家庭でもビールが飲まれるようになっていくと、結果的にキリンに有利に働いたと言われる。
ある業界関係者は「ビールは他の酒に比べてかなり値段の高い飲み物だった。当然いまのようにガブガブ飲めない。1本1本大事に飲むことになり、キリンは苦いので1本飲むとたくさん飲んだ気になる。それで売れたのだろう」と分析していた。
子どもの好きなもののベストスリーが「巨人・大鵬・卵焼き」の時代に、日本人のブランドに対する信仰も変化した。隣のうちがテレビを買えばテレビを買い、車を買えば車が欲しいと、隣近所を見て周りに合わせることが一般的な行動様式となっていった。
日本人を語るとき、その顕著な行動様式の特徴として「バスに乗り遅れるな」という言い方がされる。行先はさておきその時代のバスがキリンビールであったことは確かであった。キリンの訳の分からない強さを支えていたのは、この日本人の行動様式だった。
大きなキャバレーでは一晩でビールが100ケースという、年間に換算すれば物凄い量が売れていた。だが、キャバレーに強いサッポロのシェアはそれほど伸びていなかった。サッポロはとうとう町の小さな酒屋さんから紹介を受けたお客の下へ足を運んだ。
お客になぜキリンを飲むか質問すると、苦くてうまいからだと答えた。営業マンは時間をかけてサッポロの良さを説明して和やかになってから、なんでキリンなのですかと聞いた。お客は出されたビールならサッポロも飲むし、キリンでなければということはない。
明日からサッポロにすると答えた。しばらくして酒店からサッポロを届けたらキリンにしてくれと言われたと云う。お客を尋ねた営業マンがなぜサッポロにしてくれないんですかと質問すると、お客は「だって、みんなキリンを飲んでいるじゃないか」と答えた。
この行動様式の特徴は、味はともかくビールであっても基本的に自分では選択しない、消費者の大半がみんな飲んでいるから同じものを飲むという考えになる。そして、酒店もビールと言えばキリンビールを届けていれば問題はなかったからと分析されている。
1-3 冷静な消費者対応
昭和61年にスーパードライが発売され、テレビのチャンネルをひねればシャワーのようにスーパードライのCMが飛び込んできた。発売後2年以上が過ぎてもCMがシャワーのように感じるのは、ちょっと行き過ぎではないかと思われてきた。
アサヒの大量広告に対する影響もあって、サッポロの広告量も増えたが決して多いと言うものではなかった。その原因は資金的な余裕がないと言う以上に、サッポロの昔からの考え方が反映されているからだった。マーケティングの田村宗英本部長はこう説明した。
「あまり莫大な広告料を投入すると、違う方の問題が出てくると思われる。アル中の規制とか、タバコの様な広告規制とか、余計な要素が出るのじゃないか。少なくともメーカーがやるべきことではないという考えで、いまのままの量で十分対抗できると思った。」
夜遅い時間にはサッポロのCMは流れなかった。「サッポロの役員は自分が年寄で夜早く寝るので、遅い時間にCMを流しても自分が見れないから必要ないと、夜のCMは許可しなかったと言うほど広告に熱心ではなかった」という笑い話さえある。
サッポロのそうしたハッタリのなさは、業界の合意が得られないまま率先して行ったワインの原産地表示にも表れていた。反対した某社は「ワインはフランスというイメージが壊れる」としたが、消費者の立場からするとそれは消費者を欺くものであった。
企業姿勢のちがいだが、どちらのとる道が消費者に受け入れられるかは明らかである。コマーシャルとイメージでモノが売れると言う時代ではない。むしろ、正直なイメージこそが必要とされる時代と言える。
昭和61年9月に、サッポロビールの河口工場で生産された生ビールを飲んだ消費者から、次々と「酸っぱい味がする」「濁っている」といった苦情が寄せられた。調査の結果はろ過機の一部が故障して製造過程で空気に触れたため約5百万本に乳酸菌が混入した。
飲んでも問題はないのだが、このときサッポロは直ちに情報を公開して問題のあるビールを回収した。その素早い対応のため、消費者の間にはさしたる混乱は起こらなかった。このときの対応は、いかにもサッポロらしいものであった。