1 証券会社の不正取引
1991年に多数の証券会社の大口顧客等への損失補てんが明らかとなって社会的に大きな問題となるとともに、証券会社及び証券市場に対する検査・監視体制のあり方について種々の議論が行われ、これを契機に証券取引等監視委員会が設立された。
証券取引等監視委員会は旧大蔵省に設置された監視機関で、証券取引の更正を確保するための監視機関で総務検査課と特別調査課があった。総務検査課は証券会社に対する任意の定期検査を担当し、特別調査課は刑事事件に発展する可能性のある事件を担当した。
このような不公正な取引が繰り返されることのないよう、損失補てんを罰則を付して禁止することとして証取法の改正がなされた。その後、95年度に犯則事件の調査の結果、10数名の顧客に損失を補てんしていた証券会社に対し告発を行った。
今回の野村証券をはじめとした大手証券会社に係る犯則事件の調査結果で、証券会社及びその役職員による取引の公正を害する悪質な損失補てん行為が依然繰り返されていたことが明らかになった。
損失補てん事件の発見は、委員会の日常的な市場監視活動(取引審査)の中で得られたものである。95年末に日々の市場の膨大な取引の中から、野村証券が関与するやや不自然ではないかと思われる取引を把握したことから一連の事実解明が始まった。
委員会は、直ちに関係先より資料を徴取するなどの情報収集に着手したところ、これらの情報収集等を通じて不公正な取引が行われていた疑いが次第に強まってきたことから、96年半ばに関係者に事情を聴取すること等を含めた深度ある調査を実施した。
この調査により、野村証券がいわゆる総会屋との間で取引一任勘定取引の契約を締結した上で、数年にわたり取引の受託と執行を行い、これらの取引の中で生じた損失を補てんしたり利益を追加するため、多額の財産上の利益を提供していた事実を解明した。
野村証券に係る調査を進める過程で、他の大手証券会社である山一証券、日興証券、大和証券にも同一の総会屋との間で、不自然と思われる取引のある口座が存在することを把握した。
野村証券に係る調査に一応の目処が立った段階で、これらの証券会社についても本格的な調査を実施した結果、山一証券はいわゆる総会屋ばかりでなく法人顧客にも損失補てんを行っており、日興証券は他の個人顧客にも利益追加を行っていた。
大手証券会社が各顧客に財産上の利益を提供した手法は、証券会社が自己勘定で行った株式等の買付けを、当該顧客から委託を受けて行った取引であるかのように仮装し付け替えて、当該顧客の取引勘定に帰属させるというものであった。
このような取引には、株式、ワラント、海外市場での株価指数先物取引といった有価証券等が用いられ、現物取引だけでなく信用取引を用いたものもあった。なお、このような取引はいずれも取引一任勘定取引の中で行われていた。
また、今回の調査の結果で、代表取締役社長をはじめとする各社の多数の役員、社内で法令や諸規則の遵守を徹底させるべき立場の内部管理統括責任者自身が違法行為に関与していたほか、社内のチェック体制が実質的に機能していなかったことが明らかになった。
自己勘定で行った取引を事後的に顧客から委託を受けて行った取引であるかのように仮装し付け替える行為の中で、自己勘定に係る注文と顧客の委託に係る注文の峻別が厳正になされていないものがあり、社内コンピューターを不適正に運用するものも見られた。
野村証券、日興証券、大和証券に係る大蔵大臣への勧告において、法令違反行為が行われた背景として内部管理体制に重大な不備があったことを具体的に指摘し、法令違反の事実と行政処分及びその他の適切な措置を講ずるよう求めることとした。
1 発端は野村証券
事の始まりは、野村証券の内部監査を担当していた若手職員が、自己売却部門で稼いだ利益を小池のダミー会社「小甚ビルディング」に付け替えている不正に気付き、96年に東京地検特捜部と証券取引等監視委員会に内部告発した。
不正のきっかけを作ったのは89年2月に総会屋の小池に約32億円の無担保融資を行った第一勧業銀行で、小池はそれを元手に、野村・大和・日興・山一という四大証券の30万株取得し、株主提案権を盾に株主総会で各社に揺さぶりをかけていた。
小池の狙いは大株主になって証券会社の株主提案権を握り、証券会社から利益を得ることだった。野村証券の酒巻社長は、大株主である小池に総会で嫌がらせをされて立ち往生することで信用を失うのを恐れ、小池の要求を呑んで利益を供与した。
95年末に野村証券が関与するやや不自然ではないかと思われる取引を把握して検察当局と協力して調査を進め、96年5月に犯則嫌疑法人野村証券及び犯則嫌疑者である同社元常務取締役A、同社元常務取締役Bほか1名を東京地方検 察庁検察官に告発した。
95年1月から6月までに、野村証券がその自己勘定で行った株式買付取引を当該顧客から委託を受けて行った株式買付取引であるかのように仮装し付け替えて、当該顧客の取引勘定に帰属させる方法で合計約4,750万円相当の財産上の利益を提供した。
95年3月、野村証券がその自己勘定で保有していたワラントの価格が上昇基調であったことから、ワラントを顧客が上昇前の価格で買い付けたかのように仮装した後、直ちに顧客から同社の自己勘定で買い戻す方法で約220万円相当の財産上の利益を提供した。
また、95年3月に3億2千00万円の現金を供与することにより同額の財産上の利益を提供した。法令違反行為の実行に当たり、複数の部署の役職員が委託注文伝票を操作するなどの不適正な行為に関与していた。
取関係各部門の管理責任者及び営業責任者による実態の把握及び願客管理に関する適切な指導と監督が行われていなかった。また,法令や諸規則の遵守状況を管理すべき業務管理本部においても適切な措置が講じられていなかった。
委員会への対応で、本来自ら事実関係の解明に当たるべき売買管理部門の担当者等が、委員会の調査に対する対策を講じるため複数部門の役職員の参加する会議を開き口裏を合わせるなど、組織的に法令違反行為の実態の解明を困難にするような工作を行っていた。
2 山一証券の廃業
山一証券は、1897年に、山梨県出身の創業者小池国三が東京株式取引所仲買人の免許を受けて兜町に小池国三商店を創業した。1907年に小池合資会社に改組し、国債下引受や江之島電気鉄道社債元引受など債券引受業務に証券会社として初めて進出した。
17年に小池合資会社を解散し、跡を引き継いだ杉野喜精が二代目社長に就任して山一合資会社が設立された。26年に山一證券株式会社となり、種々の大波の狭間で100年間兜町の雄であった。
家庭的な雰囲気を残し、身分の上下に関係なく社長以外は互いに「さん」付で呼び合っていた。旧富士銀行(現在のみずほ銀行)を中心とする芙蓉グループの系列で、名門企業の幹事証券会社を次々と引き受けて永遠に残る会社の一つに数えられていた。
80年代末からた政府はバブル経済の抑制を目的とした「金融引き締め策」で公定歩合の引き上げ、総量規制など異常に膨れ上がったバブル経済を抑止するため、旧大蔵省(現財務省)や日本銀行によってさまざまな金融政策が実施された。
山一證券はこれらの金融政策により通称「ニギリ」と呼ばれる「営業特金」に手を染めた。法人から資産運用を丸投げしてもらい一定の利益を保証するという方策で、この方法は莫大な金額が動くため証券会社にとっては高い手数料が期待できた。
当時、野村證券、大和証券、日興証券(現在のSMBC日興証券)とともに四大証券の一つであった山一證券は、相当な額の営業特金を抱えていたといわれ1987~1990年は毎年1,000億円を超える経常利益を上げていた。
この優遇された法人向けの営業特金が社会的にも問題になり、90年に営業特金自体が大蔵省により禁止された。山一證券はこれらの金融政策により、法人向けの営業特金の資産運用方法で多大な損失を生み出した。
いわゆる総会屋への損失補てん等においては、シンガポール国際金融取引所の日経平均株価指数先物取引が用いられていたが、山一証券の当該取引を調査する中でその他の口座にも、同様の方法で財産上の利益を提供したのではないかと考えられる取引を把握した。
97年3月25日に東京日本橋にあった野村證券本社が東京地検特捜部や証券取引等監視委員会特別調査課の捜査を受け、次に捜査を受けたのは業界三位の日興証券で、山一に特別調査課が入る前日の事だった。
97年4月11日午前8時15分、山一證券の中央区新川にある21階建ての本社と江東区塩浜1丁目の8階建て塩浜ビルを訪れた証券取引等監視委員会の特別調査課と名乗った男たちは無表情のまま捜査令状を示した。容疑は総会屋との取引関係だった。
その結果、商法違反と証券取引法違反の容疑であっけなく酒巻社長は東京地検に逮捕されてしまった。山一の場合も、小池の脅しの窓口は本社総務部であり、社長や副社長の承認のもと総務部と株式部、首都圏営業部が一体となって小池を儲けさせていた。
山一証券の首都圏営業部に開設された小甚ビルディングの口座に1億7百万円以上の利益が出ていた。小甚ビルディングの1億円は1994年12月から翌年1月にかけて、わずか二ヶ月間での荒稼ぎだった。
お客を儲けさせる手口は、値上がりが確実な証券類を提供する方法と儲けが確定した証券会社の売買益を提供する方法である。前者はお客が最終的に売買する時点で値下がりすることもあるが、後者は確実に儲けさせることでよりうまみがあった。
証券業界に「あんこ」と呼ばれる隠語があり、証券会社のもうけをそのまま顧客の口座に移すことである。美味しいところだけを食べさせるから「あんこ」と呼んでいた。山一の捜査容疑は、1億7百万円に登る利益をあんこで小池隆一に提供したことである。
シンガポール国際金融取引所の先物取引で、本社と商品投資顧問業者などの専門家が複数の投資家から集めた資金を運用して山一が挙げた自社の売買益を、収益を還元する運用母体の操作で小池の小甚ビルディングに付け替えてやっていた。
営業特金を含めて山一證券は約2,600億円の債務隠しが発覚した。この損失を補填するため、山一證券は「飛ばし(※含み損が生じた資産を市場価格よりも高値で第三者に転売することによって損失を隠すこと)」などでしのいでいた。
97年8月に総会屋問題を起こし、直後に顧客の有価証券の含み損を隠す「飛ばし」による約2600億円の簿外債務が表面化して11月に自主廃業を決めた。日本銀行が行った特別融資のうち1,100億円超が焦げ付き、事実上の国民負担となった。
飛ばしは含み損を抱えた有価証券を一時的に第三者へ転売することです。飛ばしをすることで会計上に含み損が発生しないので決算対策になります。山一はペーパーカンパニーをつくり、顧客企業の有価証券を山一証券が回収してそこへ有価証券を移し替えます。
ペーパーカンパニーは税金対策や債務隠しのための架空会社で、山一には複数存在しそれぞれ異なる決算日を設定していた。A社の決算日が近づくと有価証券をB社へ、B社の決算日になるとC社へいった具合に有価証券を移し替え、損失をごまかし続けた。
ついには虚偽の財務諸表を作成する「粉飾決算」という違法行為に手を染めて行われた記者会見で、当時就任3ヶ月目の野澤正平社長が立ち上がり「私ら(経営陣)が悪いんです。社員は悪くありません!」と号泣した姿が大々的に報道され大きな話題を呼んだ。
こののち、日本銀行からは顧客保護という名目で無担保の「日銀特融」という特別融資が行われ、以降自主廃業への道を進んでいったがそれも途中で断念し、結局は自己破産した。事後処理は2005年までの長い期間に及んだ。
バブル経済がはじけて株価が暴落した後の93年に、山一の本店や全国の支店に顧客からの不満や苦情が殺到した。しかし、改正証券取引法で損失補填は明確に禁止され、損失の穴埋めはできなくなっていた。
苦情はこじれることが多くなり、声高な抗議やトラブルに発展し、客の苦情やトラブル処理は顧客相談室長が対応した。顧客相談室長樽谷絋一郎さんは、通勤の便を考えて大森2丁目近辺に単身で暮らしていた。
樽谷さんは8月14日午後8時20分ごろ、東京都大田区大森2丁目の京阪急行ガード下の駐車場で襲われて胸や腹部を刺され、40メートル離れた飲食店まで自力で歩いて助けを求めた。119番通報で樽谷さんは病院に運ばれたが午後9時過ぎに死亡された。
捜査の過程で1978年から1億円を越える資金を投資していて株運用で損したことを理由に山一証券に苦情を申し入れていた元顧客であった無職の男(当時63歳)が重要参考人として浮上したが、犯人だとする決定的な証拠がなかった。
97年10月10日18時頃、東京都小金井市にある山一證券の代理人弁護士岡村勲さんの自宅の庭先で、奥様が胸や腹など5ヶ所を刺されて死亡する事件が発生した。逮捕され犯人は、取引で大損をさせられた男で山一證券に恨みを抱いていた。
岡村さんは、妻を殺した男性への死刑を希望することを法廷で証言された。検察は死刑を求刑していたが、裁判所は加害者の権利を守りこそすれ、被害者の味方ではなかったと述べている。
判決では「被害者が1人であること」「被告人が防災マスクを考案し特許申請を行なっていたこと」「別れた妻子に送金を続けていること」「反省している」といった情状酌量が認められてて犯人は2001年5月29日に無期懲役判決が確定した。
元警察官僚の弁護士である後藤啓二氏は被告人が法廷で「夫人が被告人に飛びかかってきて吹っ飛ばされたのでとっさに刺した」という、被害者を侮辱するような発言をしていることから、被告人が反省していると認定することは常識に反していると述べている。
被害者の夫である岡村さんはこの事件を機に犯罪被害者がいかに司法で軽視され、不公正に扱われている存在であるかを痛感し、以後は犯罪被害者の権利拡大に取り組むようになられ、犯罪被害者の権利を司法に反映されることに尽力するようになられた。
法人顧客にも損失補てん等を行っていた事実が認められて、山一証券元代表取締役社長G、元代表取締役副社長H、元専務取締役I、元専務取締役A、元首都圏営業部長B、元株式部長C及び元株式部付部長Dの7名が東京地方検察庁検察官に告発された。
個人顧客に対し94年12月から95年1月までの間32回にわたり合計約1億700万円相当の財産上の利益を提供した。また法人顧客に対し、94年11月から95年3月までの間76回にわたり合計約3億1,690万円相当の財産上の利益を提供していた。
97年11月22日の日本経済新聞は、朝刊第一面の大半を使って「山一証券自主廃業へ負債3兆円戦後最大」と報道した。20052月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。
3 日興証券の再出発
94年3月から6月までに日興証券が保有していたワラントの価格が上昇基調であったので、当該ワラントを当該顧客が上昇前の価格で買い付けたかのように仮装した後、直ちに当該顧客から買い戻す方法で合計約 1,450万円相当の財産上の利益を提供した。
代表取締役副社長を含む2名の役員の関与で、有価証券の売買で生じた顧客の利益に追加するため、既に利益が確定している株式取引を当該顧客から委託を受けて行った売買であるかのように仮装し付け替えて、合計約680万円相当の財産上の利益を提供した。
日興証券がその自己勘定で行ったワラント買付取引を、顧客から委託を受けて行ったワラン卜買付取引であるかのように仮装し付け替えて、当該顧客の取引勘定に帰属させる方法で約90万円相当の財産上の利益を提供した。
95年1月から同年12月までの間11回にわたり、自己勘定で行った株式買付取引を顧客から委託を受けて行った株式買付取引であるかのように仮装し付け替えて、顧客の取引勘定に帰属させる方法で合計約1,410万円相当の財産上の利益を提供した。
顧客の有価証券の売買取引の受託につき、取引一任勘定取引の契約を締結した上で、2口座でそれぞれ92年9月から95年10月まで、また、95年8月から96年7月までの間、取引を受託して執行した。
いわゆる総会屋への損失補てんに係る調査を行う中で、他の個人顧客の口座において同日中に買付け及び売付けをともに行う、いわゆる日計り売買等の不自然な取引が行われていることを把握した。
95年10月から96年6月までの間6回にわたり、自己勘定で売買を行い既に利益が確定している株式取引を顧客から委託を受けて行った売買であるかのように仮装し、当該顧客の取引勘定に帰属させる方法で合計約680万円相当の財産上の利益を提供した。
95年11月から96年6月までの間19回にわたり、自己勘定で行った株式買付取引を顧客から委託を受けて行った株式買付取引であるかのように仮装し、当該顧客の取引勘定に帰属させる方法で合計約2,230万円相当の財産上の利益を提供した。
2001年3月に日興證券分割準備株式会社設立し、11年のSMBC日興証券株式会社に社名変更して16年に株式会社三井住友フィナンシャルグループの直接出資子会社となった。
4 大和証券の再出発
代表取締役副社長を含む7名の関与で、92年11月から95年12月までの間107回にわたり自己勘定で行った株式買付取引を、顧客から委託を受けて行った株式買付取引であるかのように仮装して合計約3億1,820万円相当の財産上の利益を提供した。
95年1月から12月までの間12回にわたり、売買を行い既に利益が確定している株式取引を該顧客から委託を受けて行った売買であるかのように仮装し付け替え、該顧客の取引勘定に帰属させる方法で合計約3,660万円相当の財産上の利益を提供した。
法令違反行為に関与した大和証券の役職員には法令や諸規則の遵守意識が著しく欠知していると認められるとともに、法令違反行為が行われた背景として大和証券の内部管理体制には以下のような重大な不備があったと認められた。
内部管理統括責任者(代表取締役副社長、当時)自身が、法令違反行為に当初より深く関与していた。また、種々の不自然な状況を内部管理部門が把握していたにもかかわらず、厳正な対処がなされなかった。
発注後速やかに行うべき注文内容の社内コンピューターへの入力を意図的に留保し、市場取引の終了後に株式の自己取引から委託取引への付け替えを行うという不適正な処理がなされていた。
委員会の調査に対して、内部管理統括責任者が自ら指揮して口裏合わせをするなど、組織的に真実を明らかにすることを拒む姿勢をとり実態の解明を困難にするような工作を行っていた。
99年4月に(初代)旧・大和證券株式会社からリテール証券業務を営業譲受し、2代目の大和証券株式会社が営業を開始した。2017年には証券取引等監視委員会の前任委員の天下り問題が問題視されている。