はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第13章 現実を直視しよう

拓殖大学日本文化研究所客員教授の惠龍之介教授は沖縄コザ出身で「沖縄・尖閣を守る実行委員会」代表である。山城幸松は、沖縄県那覇市生まれで琉球島嶼文化協会代表を務められている。お二人の著作と即時性のあるDHCニュースで沖縄の現状を直視したい。

1 琉球王尚家の支配

 1-1 奴隷のような生活

琉球王国は中国の間接支配を受けた原始共産主義国家であった。琉球人は王府の恐怖政治の下で情け容赦もなく税金や年貢を厳しく取り立てられていた。寛永6(1853)年に沖縄へ寄港したペリー提督が余りの事に驚いたそうである。

ペリー総督は「メキシコの労働者を省けば、これほどまでに不幸な生活をしている人民は世界に見たことがない」との言葉を残した。他府県では旧藩主を検証したり、誇りにしている地域が多いが、沖縄では琉球王の尚家を称える民はいないそうである。

江戸時代の本土は農民にかなりの自由が認められ、識字率も男子50%、女子25%という世界最高の文化を誇っていた。当時の英国でさえ、識字率は男子25%、女子12%であったが、琉球の農民は一切文字が読めず自らの名前も書けなかった。

琉球王国は廃藩置県に至る400年間「地割制」を施行していた。ソビエトで行われたコルホーズ(集団農耕システム)と同様で、琉球王朝は集落単位で課税した。耕作地は2~3年、離島地域では10年毎に交代させた。

地割とは、毛沢東やポル・ポトが試みた原始共産主義そのものである。そこには通貨もなく、集団生活で衣服以外はすべて共有だった。地割制実施時以外は各集落間の往来を禁じられ、各集落には密偵が配置されて謀反を起こす恐れのある者を徹底的に摘発した

琉球王朝は農民に自生する蘇鉄の実を主食として食べさせ、朝貢農作物としてサトウキビを生産させた。薩摩藩を介し、大阪市場で独占販売してその利益で本土の文物を購入して中国皇帝へ朝貢し、十倍近い返礼で王族一門は奢侈な生活を営んでいた。

明治維新前の琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、薩摩への貢献と同時に清国へも朝貢を続けていた。つまり、薩摩藩と清への両属という体制をとりながら独立国家の体裁を保っていた。寛永21年に明が滅び清が成立したとき、漢民族が久米島に移住してきた。

豊臣秀吉は文禄の役の前年である天正19(1591)年に薩摩藩を介して琉球に出兵を促してきた。薩摩藩は琉球兵の戦闘力を疑問視し、王府に対し「7千人分10ヶ月分の兵糧を送られたい。名護屋城築城に向けては金銀米穀で助成されたい」と伝えた。

驚いた王府は清国にこの情報を通報した。明王は1606年に尚寧王に冊封を授け、王の序列を引き上げた。尚寧王はこれに慢心して薩摩の使節を侮辱した。しかも、琉球は3千5百人分の兵糧を納めて薩摩との国交を断絶した

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 1-2 琉球王国の解体

その後、琉球船が難破して奥州(東北地方)に漂着したため、幕府は薩摩に銘じて琉球に送還させたが王府は何の返礼もしなかった。薩摩藩は外様だったので琉球の朝貢貿易に着目し、薩摩軍は慶長5(1600)年に約3千人の舞台をもって琉球に侵攻した

琉球士族は家禄をもらって首里城下に住み、公家の様な奢侈な家禄生活を送り尚武の気質は微塵も残っていなかった。薩摩軍は一気呵成に首里城を落として琉球から奄美五島の支配権を奪取し、最後まで抵抗した中国移民子孫を薩摩に連行して斬殺した

島津家久は尚寧王以下百余名を江戸や駿府に帯同して、徳川家康と将軍秀忠に拝謁させた。薩摩藩は南西諸島方面の黒糖を大阪で独占販売し、北海道から昆布などを調達して中国とも交易した。

琉球王府は首里城の北殿を日本式に、南殿を中国式に建築してそれぞれの使節を歓待していた。薩摩武士の子を宿した地元の女性は、平民であれば直ちに士族へ引き上げた。また、薩摩藩を「お国元」と呼称し幕府への取次ぎをすべて頼った。

明治4(1871)年沖縄に廃藩置県と四民平等の太政官例がもたらされ、鹿児島県の管轄となった。那覇に内務省の沖縄出張所が開設されて明治以降は「沖縄」の呼称となった。しかし、明皇帝が命名した「琉球」は王国体制をそのまま存続し続けようとした。

明治政府は1872年に一部の琉球士族の抵抗を押さえるために琉球藩を設置して琉球王尚泰を琉球藩王に封じたあと、1879年に「沖縄県」として完全に琉球王国を解体した。琉球士族はこれに抗して清国に救援を求めた

この外交交渉を担ったのが、清に対して強い帰属意識をもっていた琉球王国の官僚である幸地朝常という人物であった。幸地からの要請を受けて清も明治政府の一方的な処分に抗議するなど、王国存続派は日本の国内事情を外交問題にすり替えることに成功した。

幸地の読み通りに清がアメリカの前大統領グラントに調停を依頼するなど問題は長期化の様相を呈し、交渉の過程で清から「琉球王国分割案」が出された。必ずしも存続派の望むようには進まず事態は混迷したが、朝鮮の宋主権を巡って日清間に戦端が開かれた

清国陸軍133万人、日本陸軍36万人、清国海軍8万5千トン、対する日本海軍は5万トン、しかも戦艦は1隻もなかった。9月17日の黄海海戦で、清国海軍戦艦4隻を含む18隻に、日本は海防艦4隻を含む12隻で戦いを挑み5隻を撃沈破した

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 1-3 統治権を認めた清国

1894年に日清戦争で日本が勝利した。琉球王国内の体制存続派も沈静化し、琉球の王政は廃止されたものの不平士族を懐柔するためのアメ政策として、彼らの封建的な経済基盤をそのまま認めた。当時の特権階級は農民に厳しい「人頭税」を課していた。

当時の中国帰化人「志那党」はことごとく反対し、尚順の回顧によると琉球王も彼等から「絶対に日本につくな」と恫喝されていたという。しかし、当時の琉球民は国際情勢を知らず、清国がまだ世界最強の国家と思っていたため志那党を牽制できなかった

志那党勢力は「黄色い軍艦がまもなく沖縄に救援に来る」と民衆にうそぶき、琉球王朝は明治7年11月に独断で北京に朝貢使を派遣した。柳原前光駐清国公司から沖縄士族による中国朝貢使権の情報を得た日本政府は慌てた。

廃藩置県当時、琉球王国の民の生活は凄惨を極めていた。人民の90%を占める農民は原始共産主義体制下で土地私有は一切認められず、八公二民の重税に苦しみ農奴と化していた。この当時、本土の農民の税負担は五公五民や六公四民であった

明治4年11月27日、69名を乗せて宮古島から琉球王朝への年貢運搬船の一隻が強風に流されて台湾にたどり着いた。蛮族に54名が殺害されたため、日本政府は清国に沖縄の統治権を主張して沖縄住民への賠償を要求した。

清国は沖縄への日本統治権をあっさり認めながらも、「中国は台湾の領有権を有していない」と拒絶した。このため、明治7年4月に3600名の陸軍部隊を台湾へ派遣して蛮族を攻撃した。慌てた清国政府はようやく台湾への領土権を認めて要求をすべて呑んだ。

廃藩置県以降は日本政府の指導により土地私有性が開始されたが、各村には琉球王朝時代の掟が存在し青年団が隣村住民との交流や結婚を厳しく監視した。この結果、近親結婚が慣例化し、精神疾患や奇形などの遺伝子異常による疾患が頻発している

琉球王朝の歴史を調べると中国王朝や韓国王朝との類似性に驚く。民から搾り取れるだけ絞り取り、民の生活や命を軽んじていることである。支配者を取り巻く貴族たちは栄耀栄華を尽くし、最も卑劣な両班(ヤンバン=韓国李王朝の貴族)と同様であった

明治34年8月19日に最後の琉球王尚泰公爵が死去した。当時の奈良原沖縄県知事は「喪に服するよう」県民に指示したが、本当北部の金武村(きんそん)では祝いの綱引き大会を連続して二晩にわたり行われていた。

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2 沖縄民の気質

 2-1 本音と建前の支配者

沖縄が演じる本音と建前をその都度状況に応じて使い分ける現実主義も、琉球時代からの特性である。薩摩の侵攻を受けた後も琉球は独立国家であり日本の一部になったわけではないとして、新しい琉球王が誕生するたびに清へ使者を送り中国皇帝に承認を求めた。

中国皇帝に貢物を送ることで冊封国の立場を守る一方、日本に対しても琉球国王や徳川将軍の代替わりのたびに挨拶の使節(江戸のぼり)を送っている。このような2つの大国に挟まれるなかで、琉球は絶妙なバランスと面従腹背の精神で生き残ってきた。

大東亜戦争の敗戦で沖縄が米国の統治下に入ると、高等弁務官の自由裁量で市町村に資金を投入できることを知った市町村長は琉米親善委員会を組織した。地方視察にきた高等弁務官に万歳三唱をする者もあり、与えてくれる者に媚びる気質は脈々と受け継がれた

沖縄学の大家である伊波普猷は自著古琉球で「沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易いということである」「ご都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深く潜在意識に潜んでいる」「彼等は自分らの利益のためには友を売る、師も売る、場合によっては国も売る

「沖縄人は市民としても人類としても極々つまらない者である」と沖縄人を強く批判している。沖縄で英雄視されている政治家の瀬長亀次郎は、乞食根性と言い換えて「与える者は主人として崇めるが、与えない者からは去っている」と沖縄的な気質を表現している

沖縄を象徴する観光施設である首里城の守礼門にも、沖縄県民の負の心的傾向を見るとことができる。守礼門に掲げられている扁額の文字「守禮之邦」とは、「中華皇帝に対して臣従の礼を守っている国」と云う意味で、沖縄の事大主義を具現化した言葉である

中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げ、それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げていた。これは、沖縄のしたたかさをよく表している事象である。また、沖縄における意思決定で重要性を持っているのが血縁である。

沖縄には門中と呼ぶ始祖を同じくする父方の血縁集団がある。門中の一族は門中墓と呼ばれる同じ血縁の共同墓に入る。そこに宗教の違いは問わない。一門の本家筋の指示は強い影響を持ち、物事の意思決定が行われる時にはこの門中の意思が尊重される

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 2-2 屈折した感情

戦前の沖縄にも差別の歴史がある。1903年4月11日の琉球新報の記事は「台湾の生畜、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生畜アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱…」という記事を掲載した。

琉球新報は台湾人やアイヌ人らを差別する一方、自分たちは日本人と同質であるとする姿勢は沖縄が内包している屈折した感情の表れである。国頭村などの北部出身者をヤンバラ、奄美大島出身者をオオシマーと侮蔑の意味を込めて呼ぶなど、差別が歴然と存在している

ハンセン病(癩病)の患者発生率は沖縄が全国ワーストワンで、特に本島北部名護や宮古石垣島に集中していた。沖縄におけるハンセン病患者は全国の20倍以上、当時59万の人口に対し、癩患者は3千名以上とされていた

沖縄におけるハンセン病療養施設建設の試みは明治42年から開始されたが、県議会や建設予定地域住民の猛反発を受けて断念した。県は建設を断念し、患者を鹿児島の療養施設に船で移送したが、癩患者は拡大の一途をたどっていった。

名護の海岸でハンセン病に罹患した年頃の娘を持つ母親が、娘の将来を悲観して自殺を計り、泣き叫びながら胸に石を何度も打ち付けて死亡するという惨状も発生した。罹患した婦女子が通行すると投石されたり、児童から侮蔑の言葉や唾を浴びせられた

宣教師の青木が地元民名義で秘かに購入して屋我地島に私設療養所を建てた。政府はこれを吸収合併して昭和12年11月に総工費17万8千円で療養施設の国頭愛楽園を起工し、昭和21年1月には収容人員913名に達し定員を2倍以上もオーバーした

ハンセン病が怖れられ患者が差別されたのは病気の進行にともない、手・足・鼻・目・耳たぶなどの一見してわかるところに変形や機能障害が起こるからである。しかも、同一の家族内で患者が発見されることが多かったために遺伝病と考えられていた。

感染を防止するために、患者は家族から引き離されて強制的に療養所に入所させられたことから、「強い感染力をもった恐ろしい病気」であるといった誤ったイメージが定着してしまったことが大きな原因である

患者は愛楽園に貨物自動車で運ばれてきたので処刑されると怯えていた。愛楽園に収容された患者に敷布団が支給され、食事は米飯だった。ゴザに寝起きしていた患者は驚嘆して、家族に「屋我地島は天国です」という手紙を書いている

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 2-3 日本最大の格差社会

第二次大戦後アメリカ政府が、占領地における疾病や飢餓などによる社会不安を防止して、占領行政の円滑化を図るためにガリオア資金を投じて援助した。本土復帰前の米軍統治下で、基地に依存しない自立経済の確立への挑戦が行われたこともあった。

1955年に「経済振興第一次5ヶ年計画」を策定し「沖縄経済は特異、ガリオア資金による援助と建設工事を含めた基地収入によるものであって琉球の産業から生まれたものではない」として生産業の進行により基地経済から自主自立経済への転換が計画された。

基地建設で多量の資金が流れ込むことでインフレ防止と建設資材を本土から安く調達するためとも言われているが、もともと生活物資を本土からの調達に頼っていた沖縄は、安価な生活物資の調達と引き換えに産業が空洞化していった。

復帰後、政府は沖縄経済の水準を本土並みに引き上げることを目標にし、沖縄振興開発10年計画を4次も実施し、その振興策を継続させるために2012年は「改正沖縄振興特別措置法」が成立したことで、沖縄は国内で最も国民の税金が投入される県となった。

それだけの支援を受けていながら沖縄の貧困が無くならないのは、振興予算の分配に偏りがあるためである。年間1兆円を超える税金が投じられても県民の平均所得は全国最下位で、申告所得1千万円以上の所得者の割合は全国でも上位に位置している。

沖縄に職員数が約900人という内閣府沖縄総合事務所が存在し、地方公務員としての県庁職員は平成21年4月のデータで23,565人。県の歳出に占める人件費は26%で1千9百億円。一般行政職の平均給与は平均年齢40.8歳で358,168円ある。

県民所得が全国一低い県の職員が超高額の給与を得ている。沖縄の民間企業の2倍という水準である。沖縄県知事の月収は124万円で、2012年のデータで全国でも10位に位置し、県議会議員の月収は75万円。沖縄は日本における公務員天国の頂点である。

不均等な振興予算の配分は、公共事業の元締めへの配分と軍用地主への分配と公務員への分配が大きな原因である。基地反対運動参加者の多くが官公労の組合員とその退職者であり、基地反対が振興予算の増加につながり、公務員の昇給原資になるからであろう。

観光の中心はその地域の文化である。沖縄文化にこだわった都市計画がなく、無機質なコンクリートの箱物とアスファルトの道路、国道沿いに開発途中で遺棄されたホテルの残骸が散見され、歴史を感じさせる街並みは見当たらず観光は終焉を迎えようとしている。

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 2-4 蔵元が駄目にした泡盛

残念なのは、沖縄観光連盟が実施した「大学生の泡盛に関する意識調査」で、泡盛をほとんど飲まない学生の割合は65%にも上っていることである。泡盛は琉球王府の厳重な管理のもとで、焼酎とは比較にならない厳格な製造工程で造られていた。

素焼きのカメに泡盛の原酒を入れ、風通しの良い場所で長期間熟成されて造られる。熟成された古酒(クース)は、味も香りも口当たりも抜群のうまさを提供する。泡盛の新酒と古酒の味の違いは極めてはっきりし、泡盛の新酒は売ってはいけない類の酒である

泡盛が美味しくないと学生に嫌われた理由は、古酒となる熟成期間を持たずに目先の利益確保のため、減免された酒税も利益に取り込み、若い泡盛を販売してしまう蔵元の姿勢にある。生産者と消費者がともに得をするのが正しい商いであることを忘れた結果だ

さつまいもを中国から最初に持ち帰り栽培した野国総官。サトウキビを持ち帰り、沖縄の製糖産業の礎を築き上げた儀間真常。牡蠣の養殖法の開発に貢献して東北地方を牡蠣の一大産地に育てた大宜味村の宮城新昌は、沖縄でも尊敬される方々である。

沖縄の経済構造がもたらす貧困、その貧困が大きな要因となって沖縄に蔓延してる問題として離婚率や子どもの学力低下が指摘されているが、芸能人やスポーツ選手を多く輩出するなど、補助金の恩恵を受けない分野での活躍は著しいものがある。

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3 忘恩の島「沖縄」

 3-1 戦争の終結

第二次世界大戦勃発迄沖縄に軍事基地は存在せず、県の経済は農業、零細なサトウキビ生産による黒糖製造業に従事していた。ところが、台風と干ばつが交互に繰り返す自然環境で生産は限界に達し、いまのフィリピンのように出稼ぎに旅立っていた。

昭和6年8月から帝国海軍は小禄飛行場(現在の那覇空港)の建設に着手した。荷馬車しか通れない道路が拡張され、地代は坪当たり80銭、農作物の補償費に13銭が支払われ、農家の荷馬車は借り上げられ「飛行場モウキ(儲け)」という合言葉が生まれた

昭和17年になると帝国陸軍が飛行場建設に乗り出し、宮古、八重山、伊江島を含む14ヶ所に、17年からほぼ同時に着工した。1日の基地建設労働人員は2万人を越え、賃金は平均30%以上も上昇して農民は「飛行場モウキ(儲け)」に殺到した

昭和19年8月から大本営及び内務省と沖縄第32軍司令部は、県民の租界計画を実施した。対象は住民29万人の3分の1に当たる60歳以上15歳未満の合計10万人で、租界先は九州と台湾である。述べ187隻の船舶で約8万人が県外へ脱出した。

5万人が山岳地帯へ軍車両や徒歩で租界し、最終的には13~16万人が戦火から免れることになった。米軍は県民と日本軍を離反させるため、県出身の工作員を潜水艦で秘かに送り込んだが、この工作に引っかかったのは本島中部の1村だけであった。

昭和20年4月1日、米第51機動部隊艦艇及び輸送船約1千5百隻が沖縄本島を包囲し、サイモン・B・バクナー陸軍中将指揮の米陸軍第24軍団約18万人が沖縄に上陸した。米軍は沖縄を占領して航空基地を使用することをすでに決定していた

6月10日、バクナー中将は第32軍司令官牛島陸軍中将宛に降伏を勧告するが、8日後にバクナー中将は日本兵の狙撃を受けて戦死。最後の抵抗を試みた日本軍も6月23日牛島司令官と長勇参謀長が沖縄本島南端の喜屋武岬で自決して組織的戦闘は終了した。

沖縄戦における戦死者は日本軍8万3千792名、米軍1万2千510名、住民約8万5千人が犠牲となった。米軍は予想の2倍を超える戦死者に加え、2万6千111人の発狂者が発生し、軍と官民が一体となり死をも恐れない敢闘精神に震え上がった

米陸軍長官は最高戦争指導部会議で沖縄線と硫黄島の戦闘を引用し、「日本本土決戦に際して米軍将兵死傷者百万以上、必要兵力5百万人以上」と発言した。この結果、米国は本土上陸戦を断念して、有条件降伏の受託を勧告する形式に変更した

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 3-2 米軍の貢献

戦前の人口ピークは59万7千9余人で60万人を突破することはなく、沖縄の島がこれ以上の人口を養えなかった。戦後は米軍基地が沖縄に建設された結果、基地交付金を主とする種々の補助金、米軍基地からの土地借地料、基地従業員としての雇用が発生した。

昭和20年に那覇港埠頭に中央倉庫軍が完成し、各地へ配付された援助物資送料は5トン半トラックで1千台、ズック・被覆・毛布・バケツ・洗面し・寝具等に至る生活必需品であった。県民ははだし生活だったためにズックは住民を欣喜させていた

昭和22年6月までの米軍は、帰還者仮設住宅1万7千戸、ピラミッド型テント1万戸以上を建設して提供した。また、戦闘中に県外各地に四散していた医師、捕虜となった軍医を探し出して住民の治療に当たらせた。

結核による死亡者は、人口10人当り本土の190人に対し沖縄は234人と最悪の状態だった。米軍は患者への栄養補給、抗生物質の投与、隔離病棟の設置、公衆衛生看護婦による衛生看護婦による自宅療養支援が奏功した。

昭和25年に琉球列島米国民政府が発足し、昭和32年に強力殺虫剤を空中と陸上から全島一斉に噴霧し、発生源の水溜りや池にも薬品を投入した。5年後に沖縄列島からマラリヤは完全撲滅され、この結果沖縄返還以来平成11年まで長寿の島となった

昭和30年から沖縄は米海兵隊移駐に伴う第二次基地建設ブームが起こる。昭和32年8月に在日米軍司令部は日本本土からの米地上軍の撤退を開始した。この結果、第3海兵師団の移転でさらに約4万エーカーの土地が必要となった。

昭和35年11月に滝沢正両医学博士の調査結果に基づき、高等弁務官はハンセン病感染症の菌を保有している160人に新薬プロプミンを投与と同時に、1日3千カロリーの栄養補給補給を行い徹底的に治療したことでハンセン病を撲滅した

沖縄ばかりではなく、日本の各地でも誤った情報によりハンセン病患者は塗炭の苦しみを味わった。2020年に世界的に流行したコロナウイルスの感染者も、命がけで治療に専念している医療従事者やその家族も、心無い一部の者から誹謗中傷を受けていた

誹謗中傷を繰り返している人々は、万一自分がコロナウイルスに感染した時はどうするのだろう。命がけで救うために奮闘して下さる方に助けを求めることはできず、自宅に閉じこもってひたすら死が訪れるのを待つつもりだろうか。愚かとしか言いようがない

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 3-3 人口は増加した

沖縄は戦前から性道徳が乱れ、徴兵のたびに罹患者の多さが指摘されていた。米軍は性病治療に抗生物質を無制限に供与して、男女で5497人いた性病患者は2371人まで減少した。市街を通行する性病罹患者を病院へ拘禁し完治するまで徹底治療した。

沖縄振興のネックであった亜熱帯特有の感染症も米軍によって撲滅され、沖縄は有史以来最高の経済繁栄を見ている。人口は爆発的に増加し、現在は戦前ピーク時の2.4倍の1,423,000人を記録している

戦前の普天間基地周辺は寒村で松並木と岩苔が繁茂し、真昼でも通行量は極めて少なく不気味なほどに閑散としていた。昭和17年に大本営は全島17ヶ所に軍飛行場をほぼ同時に竣工した。日本海軍が普天間飛行場を建設すべく買収したのが起源である

完成を見ずに沖縄線を迎え、昭和20年5月に米軍に接収された後、昭和37年7月に航空基地として本格的に拡張就航した。基地は危険とよく喧伝されているが、人口動態を見れば基地が存在する市町村の人口伸び率は他の市町村を上回っている。

宜野湾市の人口増加率は急激で昭和25年に15,930人だったのが、昭和45年には39,390人、平成12年には86,744人となり、平成21年には92,565人を記録している。昭和25年に比べて5,8倍の伸び率である

産業もない宜野湾市の収入源は3,874人の地権者に防衛省から毎年支払われている71億7600万円である。軍用地は資産デフレが続く中でも着実に増額するためは投棄の対象となり、県内金融機関もそれを担保に合計600億円の融資を行っている。

本来、普天間飛行場は帝国海軍が買収しているのでほとんどが国有地であるはずだ。沖縄戦と続く米軍統治で土地登記簿が焼失したうえ、戦後米国政府が土地所有分を自主申告制にしたため、にわか地主が多数発生したことによる

日本は昭和27年に独立を回復した。昭和28年7月、朝鮮戦争は休戦して灯火管制も終了し沖縄住民にも安堵の色が見えた。米海兵隊の沖縄移駐に関し当時の地元紙はこれを歓迎する好意的な記事を掲載し、住民の間でも「米琉親善」が盛んに唱えられていた

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 3-4 基地の恩恵

米軍は土地の強制収用に乗り出した。米国は昭和30年1月に、南ベトナム、カンボジヤ、ラオスなど旧仏領印度支那三ヶ国に軍事援助を開始し、もはや基地施設の停滞は許されなかった。3月に海兵隊用地として本当中部の伊佐浜地区の強制接収を始めた。

地代は戦前の沖縄の農業生産高をベースに収益還元法で算出、土地評価価格の6%に地料を設定した。米軍提示の地料は、那覇地区で坪1千5百62円、中部地区では坪173円とされた。

戦前の那覇の市街地でさえも坪1銭で買い手がつかなかった土地が、戦後の地価は米軍による振興策の効果と人口増加により空前の地価上昇を招いていた。那覇地区商業地域の時価は坪2万円、その他の地区でも6千円から1万円をつけていた。

当然住民とその借地料と支払方法を巡って係争が起こったが、従来の定説では「島ぐるみ闘争」といわれる基地建設反対闘争が生起し、住民一丸となって反対したかのように表現されているが事実は全く異なっていた。知ろうとすればむずかしいことではない。

中国共産党は、昭和28年発行の教科書「現代中国史」に沖縄と台湾を自国領と明記している。昭和32年のソ連国防省機関紙「クラスヤ・ズベズタ」は「沖縄は米国の原爆基地」と論評して、沖縄米軍基地は中ソに対し大きな抑止力になっていた。

昭和31年に当時の久志村議会議員が満場一致でキャンプを誘致し、米軍は電力と水道設備を供給し経済的な種々の便宜を提供している。第一次イラク戦争終了の際は、地元民が総出で区の公民館で帰還海兵隊将兵の凱旋祝賀会を催した。

平成9年3月に、キャンプ・シュワブ初代中隊長を務めたワイリー・テイラー元大尉がこの地を訪れると旧村民総出で歓迎されている。琉球新報は「子供たちや学校に机、腰かけ、ピアノ、服なども寄贈、地元住民からテイラー隊長と親しまれていた」と報じた。

平成25年11月フィリピン・レイテ島を巨大台風が襲い多数の住民が被災した。沖縄海兵隊はオスプレイを同方面に急遽派遣して、普天間基地から無休油で3時間で飛行し垂直離発着機の利点を活かして被災住民1200名を救助し救援物資20トンを運搬した。

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 3-5 普天間基地の県内移設

平成8年4月に日米両政府は沖縄特別行動委員会において、普天間基地の返還を県内移設を条件に合意した。これは当時の橋本龍三郎首相が米国政府に懇願して実現したものであり、米軍部は猛反対したがクリントン大統領の説得の結果実現したものである

我が国の法令上では自衛隊、米軍の飛行場は空き地とされ航空法が適用されない。基地フェンスに隣接するところに、住宅や大学等の建設も放任されてクリアゾーンの設定が未整備の結果、あたかも住宅地に基地が建設された様相を呈していたのである。

平成9年2月の駐留軍用地特措に基づく裁決申請に関する第一回公開審理に、韓国民主主義民族統一全国連合米軍基地対策委員会など、韓国内で反米反基地運動に携わる活動家43名が傍聴していた。国会審議や保守系雑誌を通じて国民の間に理性が存在していた

平成9年11月返還合意から1年8ヶ月目、県内移転を実施するため政府は名越辺野古のキャンプ・シュワブ沖合への海上施設建設案を決定し、橋本総理は「将来は撤去可能」として沖縄県の説得に努めた。当時の太田昌秀県知事はこの案を拒絶した。

平成9年12月26日に受け入れ先の比嘉鉄也名護市長は、総理官邸で受け入れ表明を正式に行った。キャンプ・シュワブと住民の交流は家族のように親密であり、名護市の4行政区の区長のみが反対し9行政区の区長は賛成していた

名越市に見張り小屋を作って反対している活動家はほとんどが県外、または域外からきた極左勢力と云われる。彼等の活動資金は、左翼勢力、自治労、沖縄教職員組合、普天間地に土地を有する地主から供給され、活動資金の合計は1億円を下らないと言われる

政府は稲嶺恵一を対抗馬に立てて太田知事の再選を阻止し、稲嶺知事誕生後に知事と県建設業界の意見を尊重して名護市辺野古海岸から1.5キロ離れた環礁部分への埋め立て移設案を閣議決定した。これは、稲嶺が県建設業界の強い要望と主張したことによる

平成14年7月に政府と県はより具体的な建設計画をまとめた。長さ2500メートル幅735メート規模の滑走路を辺野古沖合に建設することに合意した。この結果面積は当初の計画の約3倍に拡大し、費用も1兆円以上と目された。

選挙期間の平成10年9月21日に稲嶺知事が基本政策として発表した「県民の財産となる新空港を陸上に建設し、一定期間に限定して軍民共用とする」と発言した内容に沿ったものだった。

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 3-6 税金の無駄遣い

ところが知事は翌平成11年10月28日、瓦防衛庁長官に対し移転条件として「米軍の使用期限を15年」と突然発言し、それ以降は民間空港として県に返還すべきだと表明し、以降態度を硬化させていった

一方米国は「具体的に数字を決めることは、1996年の日米安保共同宣言に反する」として同意しなかった。したがって、知事の15年使用期限発言の結果計画はとん挫し、その後7年も放置されることになった。

使用期限を15年とする根拠はない。政府が代替施設で民間空港となる部分は第三種空港として県が主体となり、かつ管理するよう要請している。このような甘えの体質は、基地問題を担保にして国勢に発言力を持ち、振興策を引き出そうとする政治手法である

この間、政府は沖縄特別行動委員会関連推進対策費及び島田懇事業の一環で、2500億円以上の血税を「振興費」としてすでに沖縄に透過してきた。日本式の「誠意を尽くせば相手は分かってくれる」は沖縄県に通用しなかった

施設を受け入れる前提で、平成12年度から北部市町村に「北部振興策」として750億円が支払われている。ところが、比嘉市町の後を継いだ岸本建夫市長は建設位置を巡って意見を二転三転させて、移設実行の姿勢は全く見せなかった。

平成14年に策定された沖合埋め立て案には、実現不可能な致命的な欠陥がある。防波堤部分を含むリーフ部分から沖合に展開する計画は、海底地形が急傾斜しており専門家から「現在の科学技術では、毎年来襲する台風に耐えられない」との意見が呈されている。

稲嶺も仲井眞知事と似ていて、選挙戦の際に自らの出自が中国帰化人「毛家」の子孫であることを誇っており、中国への配慮を示していた。沖縄で開催されたG8サミットでは中国に気兼ねして日本政府に中国をオブザーバーとして招聘する要請している。

自ら招致した中国西北航空上海那覇直行便の赤字補填のため、一般会計予算から観光誘致対策事業費1億38百万円を支出し、県民には軍用地借料合計850億円と観光産業関連売り上げ合計3500億円を比較して観光産業が基地収入を上回っていると喧伝した

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4 虚構を容認した罪

 4-1 メディアの改竄

平成24年8月3日の琉球新報は一面トップに「オスプレイA級事故で海兵隊評価基準かさ上げ100万ドルから200万ドルに(事故)発生率低く調整か」と見出しをつけたワシントン紙の記事を掲載した

平成23年10月の米紙「WIRED」に掲載されたオスプレイ事故率の低さに疑問を呈した記事を情報源にしたと明記し「次期主力輸送機と位置付ける海兵隊が安全記録を良好に見せかけるために事故の評価基準を臆せずに変更する実態が浮き彫りになった」と。

さらに、松永勝利社会部長も同紙朝刊の特別評論で「事故の低さにはからくりがある。海兵隊は2009年に暮らすAの損害額をこれまでの百万ドルから2百万ドル以上に引き上げた。事故率を低くする巧妙な数字の操作が行われていたのだ」と指摘した。

琉球新報の2012年8月25日付社説でも「海兵隊はクラスAの分類を当初は損害1百万ドル以上としていたが、09年以降は2百万ドル以上に変更し、事故率を低く見積もるよう工作していた。数合わせのようなことをして『安全だ』と言われても誰が信用するだろうか。県民を愚弄するにもほどがある」と批判している

しかし、いづれも改竄だった。同紙が引用した「WIRED」の記事には「2009年10月、国防総省高官はインフレのためランクAを『2百万ドルまたは死者』に基準を引き上げた」と書かれている。損害規準変更の事実関係を正確に報じていた

WIREDの記事は、「Then,in October 2009,the Pentagon brass revised the threshold upwards to $2 million or a fatality,owing to inflation.」 が原文で、事故の評価基準を変更した主語は「米海兵隊」ではなく「米軍」であった

実際は、導入後当初10万飛行時間以内におけるランクA事故はCH46が8件、MV22は3件である。海兵隊回転翼機中で最も事故率が低いことも判明している。メディアがいかに誤報を流しているかこれで理解できるだろう

オスプレイ配備前夜の平成24年9月29日、左翼団体が普天間基地の4ゲート前に私有車を乗り付け、同時に座り込みを行って基地の通行を遮断した。仲井知事はこの情報を聞きながら県警にデモ隊排除の要請を行わず、在米軍司令部の要請で国が排除した。

普天間基地は国連指定基地である。主に朝鮮半島38度線を目標にし、戦争再発の際は日本政府と事前協議することなく攻撃兵器を持ち込める第一基地でもある。左翼がこの基地を約18時間閉鎖するのは「平和への罪」に該当するのだ

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 4-2 メディアの偏向報道

平成7年9月4日、金武町で米海兵隊兵士による沖縄小学校児童暴行事件が発生した。「米兵による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会」に約5万人が参加したが、県民による婦女暴行事件を一切掲載せず海兵隊兵士による少女暴行事件にのみに焦点を当てた

平成10年4月、地元高校教師が教え子2人を強姦する事件を起こしたが、地元紙の「沖縄タイムス」と「琉球新報」も高教組の要望に従い、犯人教師の氏名を公表せず消極的な報道に終始していた

平成8年に梶山清六官房長官兼沖縄担当大臣が私的諮問機関として設けた「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」の島田春雄座長は「沖縄米軍基地に関する提言」を発表し岡田博隆総理補佐官は「沖縄に製造業がほとんど育たなかった」と発言した。

二人の分析は琉球王尚家の支配していた沖縄には当てはまらない。しかし、自治省は9年度予算から、基地所在市町村及び沖縄県に資金使途地自由な基地交付金75億円を新設した。この資金は労働運動の活動資金として流用され、辺野古地域での座り込みや基地闘争の際にでも参加者に日当として支払われている

平成8年橋本首相は大田知事との会談で、沖縄振興特別調整費50億円を補正予算で念出した。厚生労働省の持ち分である15億円は全額、琉球新報社に「雇用創出」の名目で無利子で融資され、極左勢力が牛耳る琉球新報社は新社屋を建設した

平成13年1月9日午後7時30分頃、金武町で地元の女子高校生が下着をあらわに花壇に座っていた。通りかかった私服の海兵隊兵士が写真を撮ると、たむろしていた不良少年たちがこの海兵隊兵士を取り押さえた。「沖縄タイムス」と「琉球新報」は翌日の一面で、競うかのように「強制ワイセツ」と兵士の氏名入りで報道した

新聞を見た付近住民が名は防衛施設局に「米兵を取り押さえた高校生連中は不良で、付近住民も大変迷惑している」と電話や投書で訴えた。結局この事件は条例違反として5万円の過料で済んだが、地元紙は謝罪記事も掲載しなかった

一部全国紙は在米軍の継続使用に反対地主は3085人と頻繁に掲載した。継続使用を望む地主の実態は29,000人以上で、反対地主の所有する土地面積は全体の0.2%、しかも0.2ヘクタールの土地に2968人の登記が集中しているという異常さである

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 4-3 現実を直視すると

普天間基地は「世界で一番危険な米軍施設」と称されている。アメリカンのラムズフェルド国防長官が2003年に沖縄を訪れ、「沖縄国際大学のヘリ墜落事故」直後の普天間基地を視察した際の発言である。最も米軍基地の被害を被っているのは神奈川県である。

実は、日本で最も米軍基地の被害を被っているのは、米海軍と海上自衛隊が強要する厚着海軍飛行場を抱えている神奈川県である。厚木基地は、首都圏の人口密集地に広大な飛行場として存在し、米海軍は空母ロナルド・レーがの艦載機の第5航空母艦の本拠地として使用されている。

沖縄県の資料によると普天間飛行場の事故は復帰から2002年12月末までの間で、固定翼機8件ヘリコプター60件の事故が発生し、復帰後の県内米軍航空機事故217件の約25.5%を占めるとされている。重大な墜落事故は14件だが死者は出ていない。

世界一危険な基地である普天間飛行場が位置する宜野湾市の人口は、2017年1月現在まで実に3倍に増えている。米海兵隊が普天間基地に移転してきたのは1960年である。にもかかわらず、危険な基地の周辺人口は増え続けている。

一方、神奈川区内における米軍機の事故は、1952年から2007年まで214件という多さである。その内訳は、墜落事故62件、不時着54件、落下物68件、オーバーランや燃料放出など30件で、民間人も13名が巻き込まれて死亡している。

さらに、厚木飛行場は騒音被害深刻である。騒音については、神奈川県厚木基地周辺市に毎年4千から76百件も苦情が寄せられており、宜野湾市とは一桁異なることをまず知ってもらいたい。

元在沖縄総領事であったケビン・メア米国務省日本部長の発言として、「沖縄の人はごまかしとゆすりの名人」と報道されたのが20011年、この発言は「沖縄の政治家らが大規模な基地負担軽減につながる米軍再編計画に反対するのは補助金制度があるからだ」との趣旨であったとされるが、結果的にメディアは歪曲して配信している。

県内の市町村において、とりわけ基地関係収入への依存度が高い自治体は、恩納村・金武村・嘉手納町で33.5%・27.6%・23.7%である。基地収入が税収の2倍を超えており、基地収入がないと予算が組めない構造的問題を抱えている。

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 4-4 狂っている政治家達

平成11年10月15日の沖縄県議会議事禄に翁長武志議員が議員を先導して、内閣総理大臣以下7閣僚および沖縄県知事に行った「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」で次のように記録されている。

「普天間飛行場の県内移設による返還を初め、多くの事案が日米両政府で合意されたことは沖縄県民の基地負担の軽減に対する日米両国政府の強い決意の表れと評価するものである」と前置きしていた。

知事は当時自民党沖縄県連幹事長として辺野古移設推進派のまとめ役を担っていたが、米海兵隊新鋭機MV22オスプレイ配備を阻止して普天間基地封鎖を行い、米海兵隊を沖縄から撤退させようとする左翼運動に便乗して自らの地位を固めようとしたものである。

小泉首相が政権を取ると沖縄を統制不能にさせた。尾身幸次沖縄担当大臣が、那覇市のかりゆしアーバン・リゾート那覇でタウンミーティングを開催した。その際に、登壇者や質問者を県庁と事前に打ち合わせて指名し、尾身はこう云った。「沖縄は基地があるから何でも言ってください。いくらでも予算が取れます」

そして、大学院大学建設構想を打ち上げ運営費として年間百億円の予算が立てられた。運営委員に年間百万円が支給され、委員会に出席すれば50万円、電話のみの参加も出席とみなした。第一回会議はサンフランシスコで開かれ、委員の移動は全員ファーストクラス、宿泊ホテルの費用負担は1日6万円、委員会開催費用は1回1万8千円だった。

この施設をつくるために、建設業界の主な采配も尾身の事務所が行い、業者選定も指名入札で、大型工事の部分はすべてが尾身に政治献金をした建設会社で占められていた。衆議院予算委員会でこの大学院大学構想に関して予算削減処置が提案されると地元マスコミが騒いだ。

知事や県選出代議士、地元財界人が徒党を組んで上京し予算削減に反対して開学を実現させた。小中学校の全国学力テストで常に全国最下位、青少年の非行化も全国ワースト・ワンを記録している島にである。

平成27年5月27日に翁長武志知事は「米国が県民の基地移設反対意思を無視できない」ことを伝えると息まいて米国に出発した。米国政府高官と面談を希望したが相手にされず、外務省に懇願してようやく実現した。

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 4-5 誰も信じない鳩山発言

6月5日に那覇空港へ戻った知事は30名前後の支持者や記者に取り囲まれ、「米国に沖縄県民の気持ちが伝わったと固く信じている」と自画自賛した。知事が希望した訪問先には「辺野古が唯一の選択肢」と明言した外務省のメモが回っていた。

しかし、ワシントンで予定されていた沖縄出身者による歓迎晩餐会は、翁長武志知事の過激な発言が嫌悪されて直前に中止された。メディアのしたたかな工作により国民にこのような実態を知らしめないため、知事はいかにも悲劇のヒーローに映るのである

平成24年7月1日に森本敏防衛大臣が県庁を訪問してオスプレイの沖縄配備を伝達したところ、仲井眞知事は記者団に対し「配備を強行したら、沖縄全米軍基地閉鎖という動きを行わざるを得ない」と発言して日本政府を慌てさせた。

ところが、翌平成25年12月の閣議で沖縄振興予算が希望額を超える決定がされるとこれまでの主張を翻して辺野古沖の埋め立てに同意した。地元メディアは「県民に対する背信行為」と批判を集中させた。この結果、翁長武志那覇市長が知事戦に驀進した。

中国国家主席に就任した習近平は福建省省兆(県知事)時代に沖縄を数回訪れ、地元財界関係者と親交を深めている。過去に福建から民衆が東シナ海を渡って沖縄に移住し、平成17年1月13日に翁長知事は那覇市長とし福州市より栄誉市民の称号を授与された。

平成18年に日米両国政府は、普天間基地県内移動の促進を確認し、滑走路を沿岸部より一部が海に突き出す形でV字形に16百mの滑走路を建設することで合意したが、日本政府は沖縄県意推進を丸投げして選挙などがあるから手荒なことはできないと時間稼ぎをしていた。

平成21年に民主党が総選挙で圧勝し、鳩山由紀夫を首班とする内閣ができた。鳩山は沖縄県を遊説して「普天間基地の移転は最低でも県外」と主張し、鳩山は総理就任後、オバマ大統領に「私を信じて」と日米合意の遂行を誓うかのように発言していた

米国から実行を迫られた鳩山は「5月末までに決着を目指す」と発言していたが、追い込まれて一ヶ月後の6月8日に辞任した。鳩山発言は沖縄問題を統制不能にし、翌年の名護市選挙で天皇の名代で訪問された皇太子ご夫妻の車列に牛乳瓶を投げ込んだ犯人の川野純治が市議に当選した

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 4-6 環境アセスメントの実態

平成9年から平成20年までの、北部振興費と沖縄に関する特別行動委員会関連補助金等の総額は368億5千万円である。しかし、平成20年4月時点で、完全失業率12.5%、生活保護世帯429件、空き店舗率17.1%といずれも悪化して、増えたのはパチンコ屋だけというありさまである

沖縄教組は「在日米軍基地の73.6%が集中し、沖縄に基地負担を強いている」という。正確には22.6%である。共有の在日米軍基地を含めず、米軍専用施設だけを指している。「沖縄は国内唯一の地上戦が行われた」というのも事実に反する。

北方領土でもかなりの戦闘が行われた。ソ連兵による略奪と邦人女性への暴行等は米軍の比ではない。なによりも、いまだに北方領土へは旧島民が帰還できず、北方領土の墓参すら自由にできないのである。

県民が戦後行ってきた埋め立て面積は合計2,590ヘクタール以上で、各市町村は環境アセスメントを行うことなく漫然と土砂を海に投入している。マスコミや反基地勢力はキャンプ・シュワブ沿岸の埋め立てに関してのみ、完璧な環境アセスメントを主張している

反基地勢力は「ジュゴンを守れ」と主張しているが、辺野古で30年以上漁師をしている住民は実物を見たという人は皆無。名護市の名物、哺乳類のイルカの「ヒィート料理」を食べながらジュゴンを守れと叫んでいる

「琉球王国は日本に滅ぼされた」と主張しているが、沖縄本島の中部に明治38年に建てられた植樟之碑がある。当時大干ばつに見舞われて農民は飢餓状態に陥っていた。明治天皇は北条氏恭侍従を現地へ遣わされて救恤金を農民に賜り、涵養林としてのクスノキを植林して農民は感激した。顕彰碑は農民の建議より建てられたものである。

昭和21年10月2日、在京の沖縄県出身者が沖縄返還を求めてマッカーサー連合国最高司令官に提出した嘆願書がある。「欧米の一部には日本国民は沖縄人民を貧乏な従兄弟と軽視し、冷遇したと論じる者もおりますが、これは謬創で、日本政府および日本人が沖縄人を差別待遇した事実はありません」とも述べている。

さらに、「日本本土同胞と血の繋がりがありますので、戦前同様、日本政府行政課に帰りたい一念に燃えております。地は水よりも濃しと言われるごとく、沖縄住民は日本民族たる自覚強烈、いかなる境遇に陥るとも本土同胞と運命を共にしたいとの念願が支配的であります」と述べている。

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 4-7 米兵の犯罪は多いか

沖縄メディアや翁長が主張しているように、「基地があるから」「地位協定が不平等だから」が、アメリカ兵が犯罪を行うわけではない。犯罪はあくまでも個人の脂質である。2016年の「沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料)」によると犯罪数は減少しているのである。

県内での米軍構成員(軍人・軍属・家族)などによる殺人や婦女暴行などの凶悪犯は、1977年の69件をピークに減少し2003年の12人と、2008年を13人を除き0~6人で推移している。

元在沖縄海兵隊幹部のロバート・D・エルドリッジ氏は、著書「オキナワ論、在沖縄海兵隊元幹部の告白」のなかで、「米軍の犯罪発生率は高いという印象の背景には、日本弁護士連合会が2000年夏に発表した報告書があります。

この報告書は沖縄におけるアメリカ人の犯罪統計が地元市民の10倍に上ると指摘し、地元メディアに大きく取り上げられ既成事実化しました。後になって、この報告書のデータには重大な謝りがあることが判明しました」としている。

実際に県内の米軍関係者数が公表されていた2011年で比較すると、米軍関係者数は4マン73百人中42人が摘発され割合は約0.1%である。一般尾摘発者数は推計人口約140万人に対して3,800人、約0.27%で、県民が犯す犯罪率の方が高い。

2005年7月27日の「第9回人事関係施策等フォローアップ会議・第10回人事関係施策等検討会費合同会議」の議事録によると、交通事故を含めた過去5年の自衛官の検挙者は12百名前後となっており、25万人の自衛官で割ると0.1%となる、

数字を見る限り米軍や字絵逢いたいによるはんざいが県民委夜犯罪に比べて突出しているというのは、マスコミによる印象操作によって造られた幻想と言わざるを得ない。しかし、ひとたび米軍が問題を起こせば、すべての問題を基地の存在にこじつけて激しく断罪する。

マスコミとそこで語る知識人が贖罪意識を前面に出して、日本全体で「沖縄ナショナリズム」の効用をあおる状況を作り出している。「6・23沖縄の慰霊の日」には、日本中から左派も右派も集まって沖縄線の犠牲者に詫びている。

しかし、その左派も靖国に参じることは絶対にない。こうした左派の何なのか。二重スタンダードは戦争を過去に押し付ける「美しい虚構」の使い分けは、沖縄を含む日本人の思想構造の特徴でもある。

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5 放置できない現状

 5-1 中国の覇権主義

1997年中国は「海軍発展戦略」を打ちだし、第一列島線および第二列島線の概念を強調した。第一列島線は達成予定を2015年とし、九州、琉球列島、台湾、フィリピン、ボルネオに至るラインで、中国沿岸と同ラインを囲む海域を実効支配するというものである

第二列島線の達成目標は2020年で、小笠原諸島、グアム、サイパン、テニアン、パプアニューギニアに至るラインである。中国はこのために空母六隻を建造している。さらに、中国は2040年二は西太平洋からインド洋、アフリカ東海岸に至るラインを支配下に置こうとしている。

中国はとりわけ、第一列島線に含まれる部分を「核心的利益地域」と規定し、接近拒否の主対象を米海軍空母戦闘群においている。東シナ海における革新的利益のターゲットは台湾と沖縄にあり、確実に射程圏内に入れつつある

沖縄県には161の島があり、有人島は61ヶ所である。残りの百ヶ所近くは警察官もいない。そこへ中国軍が進駐しようものなら。我が国は独力では防衛することは不可能である。

中国の東シナ海から沖縄近海への進出は巧妙かつ着実に進行している。尖閣諸島近海には絶えず中国抗戦が遊弋しており、あたかも同諸島が彼らの包囲下にあるような様相を呈している。我が国の漁船は従来行っていた尖閣諸島方面への漁を取りやめている。

小笠原近海に中国珊瑚漁船団が不法操業して物議をかもし、沖縄周辺でも傍若無人にふるまう彼らに地元漁民は漁場を締め出され、ハマダイ、アオダイ、オオヒメなどの好漁場として県民が守ってきた領域もすべて破壊されたが、国も県もこれを放置している。

鄧小平の発案で設立された中国国際友好連絡会(友連会)は、離島における中国軍夫工作も担当し、平成15年頃に宮古島近隣にあった遊休化して下地島空港(3千メートル滑走路)の賃貸を宮古島財界に打診していた。

2011年には、翁長知事は福州で開催された福州友好都市締結30周年記念式式典に航空機をチャーターして、那覇市議会議員をはじめ県内政財界合計294人を帯同している。中国は翁長知事の利用価値を見出して、盛んにラブコールを贈っている

2012年11月25日、沖縄本島西方約130kmに中国政府は一方的に中国防空識別圏を設定した。子の中央部には日中中間線中国側に12基のプラットホームが敷設されているが、メディアは全く報道していない

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 5-2 力づくの中華民族

フィリピンは1991年にスービック海軍基地から米海軍を撤退させた。その直後から中国はフィリピンが領有する島礁に侵入し、1995年にミスチーフ島を奪って軍事基地を建設した。さらにイロキス岩礁に施設建設を開始した

2010年、第一列島線を超える射程を持つ対艦弾道ミサイル「東風21D」を開発しステルス戦闘機J20の試験飛行を実施した。東風は準中距離弾道ミサイルで、射程距離1500~2000キロ、大気圏外からマッハ10の速度で落下する。これは迎撃不可能である

中国海軍が最も注目しているのが機雷戦である。費用対効果は絶大なものがあり、米海軍が苦手とする兵器である。近年、日米力国の掃海艇が石垣、宮古で行動するのもこれに備えての事である。

2011年6月に、中国海軍は潜水艦と水上艦艇による統合運用訓練を実施した。中国海軍艦艇11隻は、沖縄・宮古間の海峡を通過して「沖ノ鳥島」周辺海域で射撃訓練と関西ヘリの夜間離発着訓練等を行った明らかに我が国に対する威嚇である。これらの艦隊の水面下には、中国海軍の原子力潜水艦が複数行動していた

2008年4月26日、長野オリンピックの聖火リレーの際には中国人6千人が集まり長野県警でさえ制圧できないほど暴徒化した。中国で2010年2月26日に制定された「国防動員法」は、北京の命令一下、海外の居住する中国民間人は民兵として即、蜂起することが義務化されている

20107年には、中国小山東による沖縄属領工作文章「琉球復国運動毛亮」が発行され、九条からなる琉球国臨時憲法さえすでに準備されているのである。

我が国は戦後70年にわたって奇跡的に平和を享受してきた。平成22年3月にオタワで開催されたG8会議を紛糾させた岡田克也外務大臣の発言に、先進国は「米国の核の傘に守られながら核廃絶を主張する日本外交は異常である」とされた

平和ボケで社会党と共産党は米国の核戦略を批判しながら中国の核武装を支持し、戦争の概念を「悪」と解釈させて戦後世代に「軍隊を持たないほうが平和を維持できる」と錯覚させている

国際法では依然として戦争も外交の一手段である。だからこそ、戦時国際法が厳然と存在するのだ。国防を他国に一方的に依存し神学的平和論に終始するようでは、必然的に政治家も国民も劣化をきたすことになり国威の衰退をきたす。

中国は潜水艦を使って尖閣諸島の付近に原油が埋蔵していることを探知し、中国の領土に組み入れようと周辺領海内に船舶を碇泊させて実効支配を顕在化させようとしている。沖縄漁民は漁場であった尖閣諸島周辺から締め出されても沖縄の政治家は苦情を発しない

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 5-3 平和ボケで良いのか

いまこそ我国は、真の独立国家を建設するに足る国防力を持つ時代が到来している。軍事知識に乏しい国民は、沖縄の戦略的価値を理解できずにやたらに同情論を展開しているが、東アジアの安定に極めて大きいダメージをあたえることになるのだ。

中国が日本を破壊しても、日本の報復力が中国の主要部を破壊せることが予想されるならば、中国は決して日本を攻撃することはしないだろう。このバランスを保つ限り、中国に対する日本の発言力も弱体化することはないのである

1962年5月に、元海軍中将の福留繁が「核武装時代と日本の防衛」と題して、我が国防衛政策のあり方について現在を予知する論考を発表している。この時代に先進国をはじめ中国は、生存をかけて熾烈な核兵器開発競争を展開していた。福留はこう考察した。

「日本は核兵器攻撃に対し防衛力ゼロであり、安保条約によって米国に依存する以外に方法はないのであるから、中国が核保有国となったための脅威の対抗策として、米国の報復依存度を強化し確保するのは当然の理である。核以上に強力なものはない以上、核には核報復力をもって抑制する以外になくこれが直ちに抑制力となっていることは説明するまでもない。

であるから、仮に中国が核保有国となった場合に日本は量的に小さな軍備であろうとも質的に非常に強力な核報復力をもっていることになれば、例えば原潜5隻も持てば中国の主要部を完全に破壊せしめる威力を持つことになるわけであるから、防衛的に見て中国とのバランスとすることができるのである。

すなわち、中国が日本を破壊しても、日本の報復力が中国の主要部を破壊することが予想されるならば、中国は決して日本を攻撃することはしないだろう。また、このバランスを保つ限り、中国に対する日本の発言力も弱体化することはない理である」。

日本国民のいわゆる平和ボケは留まるところを知らず、社会党や共産党は米国の核戦略を批判しながら中国の核武装を黙認してきた。左翼勢力が金科玉条のごとく引用する日本国憲法は、JHQの草案に基づいて制定されて米国の核独占体制でしか通用しない

米海軍艦艇と海上自衛隊艦艇が共同行動中、仮に第三国から米海軍艦艇が攻撃を受けても、海上自衛隊艦艇は応戦できず現場から即刻退却するしかない。自分さえよければとお互いに助け合うことを禁じている法律があるなら、傍観していること事態が怠惰だろう。

北朝鮮や中国から太平洋へ向けてミサイルを発射した際、日本を攻撃すると断定できないかぎり迎撃できない。他力本願ではなく自力本願に切り替えて、相手国の主要部を完全に破壊せしめる非常に強力な報復力を持たなければ日本は国土も国民も守ることはできない

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 5-4 罪深い野党

1993年に中国公船による海賊行為がエスカレートして、那覇の西北西200キロまで迫ってきた。この時、中国人は日本籍の船舶乗務員には手出しをしなかったが、フィりピンやバングラデシュ船舶の乗員は射殺され海に投げ込まれたりもした。

沖縄県議会は慌てて「東シナ海における船舶への威嚇射撃などに対する意見書」を全会一致で採択、防衛庁を含む六省に取締りを歎願している。我が国は対応に苦慮したが、黙認しなかったのはロシアである

この中国公船の一部がロシアのタンカーを射撃したため、ロシア艦隊が出撃して「無差別攻撃する」と声明を発した。中国公船は蜘蛛の子を散らすように霧散して、出没しなくなったのである

大阪都構想を掲げた大阪市長だった橋本徹氏は、著書「沖縄問題解決策これだ!」で次のように語っている。「問題の解決にとって重要なものは、その解決案の『中身』というよりも解決案の『実効策』です。実行できなければクソの役にも立ちません。

どう実行するか、ここがすべてです。政治家やインテリたちが、これまでの解決案の実行プロセスについて考えてこなかったので、沖縄問題がいままで解決できなかったと言っても過言ではないでしょう。そして、実行するには政治の力によるしかありません。

朝日新聞や毎日新聞的なインテリたちは、話し合えさえしていればすべては解決するものだ、ケンカや対立は幼稚な政治だという思考のようですが、そのように安易に考えること自体が幼稚な思考でしょう。」

「世の中には話し合いで解決できないことがごまんとあります。話し合いで解決しない場合、どうのような政治手腕をとっていくべきか、ここにこそ政治家としての知恵と腕が試されるところです。」

「沖縄の基地負担を本気で軽減しようとするなら、ごく当たり前のことを国民全体に強く認識してもらう必要があります。これを普通のやり方で説明しても国民全体の間にうねりは起きません。衝撃的な発信が必要なのです。」

基地反対運動が盛んだった昭和27年に「沖縄米軍基地の継続使用のための改正駐留軍用地特別措置法」を政府は制定した。マスコミは「沖縄県の地方自治を蹂躙する」と反対意見を連載し、地元選出の保守系国会議員も全員が同様に反対していた。

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 5-5 独立国は自衛すべき

ところが、基地反対運動の実態は単なる地域住民による平和活動ではなく、外国の反日反米勢力と連携した基地妨害活動であることが判明して国民世論は一変した。このときマスコミは国民をミスリードしようとしたのである

橋本徹氏は錯覚されているようだが、正確に沖縄の基地は22.6%である。一部全国紙は在米軍の継続使用に反対地主は3085人と頻繁に掲載した。継続使用を望む地主の実態は29,000人以上で、反対地主の所有する土地面積は全体の0.2%、0.2ヘクタールの土地に2968人の登記が集中しているという異常さである

軍備は敵対国の装備や戦略を斟酌しながら、国家が対抗軍備や基地展開を検討実施していくのが常識である。沖縄返還の前提は、日本政府による「米軍基地の安全運用」が基本条件だった。沖縄基地政策に関し政府は毅然たる措置を取ったことがある

国内では過去最大規模の日米共同訓練に参加する米軍輸送機オスプレイ2機が2020年2月4日、補給拠点になっている北海道千歳市の航空自衛隊千歳基地に到着した。海兵隊隊員が「オスプレは棺桶だ」と云ったといううわさが流れたが事故はなかった。海兵隊回転翼機中で最も事故率が低いことも判明している。

沖縄軍普天間基地の米海兵隊第36海兵航空群に所属するオスプレイ2機は、別海町などの矢臼別演習場などで訓練が行われている。我が国の防衛費は2010年度4兆7千億円で中国の防衛費は6兆2千億円という多さである。

しかも、中国は日本を照準にした核弾頭を130基あると推定される。日本列島を完全に海の底へ消し去ることができる戦力である。そして、歴史教育や靖国参拝に反対するなどの内政干渉を行っている。中国政府報道官の言動は支配者のごとく過激である。

これほどにまでされても対抗しない日本国民は独立を放棄したとも受け取れかねない。米国は自国の安全を危険にさらしてまで、救いの手を差し伸べるだろうか。アメリカ大統領が不公平という理由は当然である。

特別措置法を制定して、辺野古沿岸の埋め立て権限を県知事の掌中から総理に移転することだ。同時に、反対派勢力による妨害活動を辺野古周辺かに適用される日米安保条約地位協定をもって、警察力で排除し、または逮捕することである。

税金の無駄遣いだった沖縄への補助金をすべて廃止して報復力の準備をすべきである。そのうえで憲法を改正し、交戦権と集団的自衛権の行使を銘記して国連指定基地である普天間基地を移転し効率的に運用すべきである

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参考文献:沖縄を蝕む「補助金中毒」の真実(山城幸松、宝島新書)、沖縄よ甘えるな!(惠龍之介、図書出版株式会社)、琉球王国の歴史(佐久間田繁・編、月刊沖縄社)、沖縄問題解決策はこれだ!これで沖縄は再生する(橋本徹、朝日出版社)、DHC虎ノ門ニュース沖縄まとめ、ほか。