はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第8章 不思議な日本人

自分の生まれた家の不幸を願うのは、親に対してよほどの怨念を持っている人だろう。個人の家でそういう人がいても、迷惑をこうむるのはその家族と親戚縁者ぐらいである。しかし、日本の不幸を願う人々の存在は普通の日本人にとっては迷惑至極である。

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1 戦後体制からの脱却

 1) これでは良くならない

戦後体制からの脱却を掲げて誕生した第一次安倍内閣は戦後の日本が払拭できない諸々の呪縛を解こうと「大文字の政治」を掲げ保守層を中心に多くの支持があった。保守層の期待を担った安倍内閣は、政策では歴代内閣と比べてもはるかに大きな功績を残した。

教育基本法改正や教育三法の成立、防衛庁の省昇格、憲法改正の国民投票法の制定など業績を次々と上げてきた。しかし、閣僚の「政治とカネ」をめぐる不祥事や辞任が相次ぎ持ち主不明の年金記録が約5100万件あることが発覚し社会問題となった。

その後も、農業共済組合の補助金不正受給問題で当時の遠藤武彦農水相が辞任するなどの不祥事が続き、参議院選挙での自民党大敗もあり、安倍首相が突然の辞任を発表したのは2007年9月12日で、翌13日に東京・慶応大学病院に入院した。

24日夕方に院内で記者会見を開き、突然の辞任を謝罪して自身の体調について説明した。「この1か月間体調は悪化し続け、ついに自らの意思を貫いていくための基礎となる体力に限界を感じるに至りました」。

担当医師団は、強度のストレスと疲労による「機能性胃腸症(機能性ディスペプシア)」と診断した。機能性ディスペプシアは「慢性的な腹部症状があるにも関わらず、検査を行っても器質的な異常が見つからない状態」のことを指す。

この病は現代人に急増している疾患であり、症状を引き起こしている発症原因は明確には分かっていないが、精神的ストレスが関与している考えられ、完治することが難しい疾患とも言われる。左翼マスコミの異常なまでの閣僚任命責任追及が影響したのだろう。

敗戦利得者たちが、「消えた年金」「格差社会」「閣僚の不適切発言」「政治とカネ」といった問題を取り上げ、「小文字の政治」を争点にすることで「大文字の政治」の重要性から国民の目を遠ざけてしまい「大文字の政治」は国民に伝わらなかった。

マスコミや野党は「強行採決十七本」と執拗に非難を繰り返していたが、民主主義は審議をしたうえでの多数決を推奨している。審議拒否をしながら強行採決したと報じるのは本末転倒以外の何物でもないだろう。審議を拒否する議員と当選させてはならない。

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 2) 小泉首相の失政

「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉政権は、その構造改革路線によって中小企業を疲弊させ、自民党の支持基盤だった地方組織を衰弱させた。郵政民政化を強行し、国民の貯金で米国国債を大量に購入して米国に戦争資金を提供した。

アメリカ主導のグローバル経済に小泉構造改革路線があまりにも無批判、迎合的だったために「シャッター商店街」が誕生した。なんでも競争原理や市場原理にゆだねると、守るべき日本という国、共同体がもたなくなる。

外国産の農産物が大量に入ってくれば、国内の農業は衰退するしかない。グローバル経済は地域の産業も文化も伝統も壊滅状態になる。国際競争力だけを目安にすれば、日本の農村は荒廃するしかないのである。日本を弑する人々

国内産業の保護・育成は必要なことで、「海外で安く調達できるものは国内で生産する必要はない」という考えは暴論である。経済の繁栄を求めて共同体を維持し、国の永続を図る必要がある。共同企業体の疲弊をもたらすような経済は「藪枯らし」に過ぎない。

小泉首相は「首相の靖国神社参拝に反対する」といった中国の理不尽な要求に屈しない強さを持っていた。しかし、日本の歴史や伝統に対する「知」が劣悪だった。しかし、靖国神社参拝という「勇」はあったが、「知」は足りなかった。

小泉首相の靖国神社参拝は称賛できる。靖国神社に祭られている英霊はすべて日本のために命を投げ出した人たちである。「祖国よ安かれ」と願って斃れた人たちを慰霊し、感謝し検証するための神社だから、参拝するのは平和を祈る気持ちがあって当然である。

2005年4月にジャカルタで腹かれたAA首脳会議で、日本は国連安全保障常任理事国入りに向けて、アジア・アフリカ諸国に戦後日本の存在感を示すシナリオでいたが、小泉首相の演説は常任理事国入りを不可能にしてしまった。

社会党の「村山談話」を踏襲する違和感と矛盾。「謝罪は事実を見貯めた証拠」というのが国際社会の常識だから、そんな不名誉な国に常任理事国の席を与えようとする空気が生まれるはずがない。これは、歴史を知らないが故の売国行為である。

先の大戦の目的を、「植民地拡張と侵略のための戦争だった」と短絡的に決めつけ、それを容認する姿勢は全く歴史の無知である。小泉氏は、まさに「勇」の前に「知」が足りなすぎたと言わざるを得ないだろう。

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 3) 戦後体制からの脱却

安倍氏には閣僚の不祥事や官邸の機能不全にみられるように、適切な助言をする優れた経営者の感覚を持つ指南役がいなかった。ジャーナリストの桜井よし子氏は「戦後体制からの脱却なくして日本の繁栄なし」正論平成19年11月号でつぎのように語っている。

「戦後体制がもたらしたいまの日本に横行する不条理と不合理。気概と品格の欠如。誤った歴史認識に絡め取られたままの国際社会に対して胸を張れないという悪しき檻を打ち払い、日本再生の戦いをやり抜くことが安倍晋三という政治家に課せられた歴史的使命だったのではないか」

平成18年では雪崩を打って安倍首相のもとに集まり、ほぼ総主流体制を形作った自民党は、安倍氏が参議院選挙で敗北した途端、政治信条や歴史認外交政策などで最も安倍氏と距離のある福田康夫を担ぐことを恬として恥じなかった。

平成19年12月に訪中し、胡錦涛閣下に拝謁を願うという印象を与えた。福田首相は「南京大虐殺記念館」再開にくぎを刺さず、迎合するかのように靖国神社参拝を公言し北京大学では「過去を反省する勇気と英知」を語って学生たちの拍手を浴びた。

東シナ海のガス田をめぐる問題も明らかに安倍内閣時代から後退している。日本のガス田上空を中国の爆撃機が飛び回った際にも、日中間交渉の場でも「日本が試掘に踏み切れば「軍艦を出す」と中国側が威嚇しても福田首相は抗議すらしなかった。

福田首相の訪中に先立って中国を訪れた小沢一郎民主党代表も、中国の計算され尽くした微笑外交に篭絡されたようで、胡錦涛国家主席との会談で「南京」も「慰安婦」も「靖国」も「東シナ海のガス田」も何も話題として出さなかった。

中国の温家宝首相が平成19年4月に来日し、国会演説で微笑を振り向きながら遠慮なしに歴史カードを日本人に認識させようとした。公式の場でそうふるまった温首相と比べて、小沢氏に日本国の名誉と国益を守る使命感があるのかと問いたい。

胡錦涛も当然のように、日本の巨額援助に対する謝意の表明をしなかった。日本の二大政党の党首がこんな有様では、政府全体、閣僚も、経済界も「朝貢」を「有効」と錯覚しても仕方がないだろう。

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2 日本たたきの実態

 1) 事実を無視した行為

2007年7月、アメリカの下院で慰安婦問題をめぐり対日非難決議が採択された。その後、オランダ下院、カナダ下院、欧州連語の欧州議会、フィリピン下院の外交委員と波及していった。なぜこうした不当な非難決議の連鎖を阻止できなかったのだろうか。

訪米した安倍首相はブッシュ大統領との会談で、「慰安婦の方々に人間として、首相として心から道場しているし、そういう状況に置けれたことに対して申し訳ない思いだ」「二十世紀は人権があらゆる地域で侵害された時代でもあった」

「二十一世紀を人権侵害の無い、より良い世紀になるよう日本としても大きな貢献をしたい」と語った。それに対してブッシュ大統領は「首相の謝罪を受け入れる。大変思いやりのある率直な声明だ。過去からの教訓を得て国を裁くのが我々の仕事だ」と応じた。

しかし、ブッシュ大統領は慰安婦問題に関する歴史的事実を知り、それについて理解を示したのではなく、安倍首相の「謝罪」を受け入れただけだった。当時の国の法体系を無視した非難は、明らかに不当なものと言わなければならない。

彼らは、慰安婦問題における基本的な歴史的事実の確認をするという誠実さを持ち併せていない。「歴史家たちは女性20万人もが拘束され、日本軍将兵がその拘束に参加したと述べている」というワイントンポストのフェイク記事を丸呑みにしている。

このような粗雑な記事で、半世紀以上も前の勝者の裁きに立って日本断罪を断罪するなどおごり以外の何物でもない。対日非難決議案は「若い女性を日本帝国の軍隊が強制的に性的奴隷にした」と明記している。

日本軍が組織的に女性を強制連行したと決めつけ、日本政府がその歴史的責任を公式に認めて謝罪すべきと求めているが、「日本帝国の軍隊が強制的に性的奴隷にした」事実はない。

『あの戦争 太平洋戦争全記録(下)』(産経新聞社)によれば、『週刊新潮』が昭和43年から連載した「マッカーサーの日本」の中で、取材班が当時の米軍が押収し、ワシントンに保管されている内務省保護局・特高警察の文書を発見したことが記されている。

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 2) 米兵の性暴力

終戦から半月後の昭和20年8月30日、横須賀で米海兵による婦女暴行事件が発生、お手伝いさんと1人と主婦その長女あわせて3人が被害に遭っている。9月1日には2件の婦女暴行事件が発生し、1件は主婦を3人で乱暴するという悪質のなものだった。

横浜ではお手伝いさん1人を米軍宿舎へ連れ込み、27人で次々に乱暴して仮死状態になった女性を翌日を送り返してきた。日本政府は米軍の要請を受けて、一般の婦女子を米兵の性暴力を守るために、やむなく性の防波堤をつくることにした。

特殊慰安施設協会により慰安所がつくられ、「夜の基地」(神崎清著、河出書房)によるとその混雑ぶりはすざましいものだったらしく、「女1人につき、1日最低15人から最高60人までのアメリカ兵を相手にした」とある。

日ソ中立条約を一方的に破って終戦間際に侵攻してきたソ連兵が、樺太や満州でどれほど日本の婦女子にひどいことをしたか、ベルリンに攻め入ったソ連軍がどれほど多くの女性に暴行を加えたか、あまりの悲惨さにドイツ人は口を閉ざしている。

1946年にアメリカ大統領夫人エレノア・ルーズベルトの反対で特殊慰安施設は廃止された。特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均40件だったが、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均330件にのぼった。

戦争にまつわる国家や軍隊の整理という問題はどの国にもあったことで、自らの過去を顧みず事実関係の議論を一切無視して一方的に今日的問題にすり替えて日本を追及する資格がアメリカにあるというのだろうか。

日本は占領国の女性ではなく、自分たちの国の希望した女性に集まってもらっていた。そして兵隊が強姦事件を起こさないように、性病に罹らないように配慮していた。この当時、売春は禁止されていたのではなく合法だった。

日本軍が陣を敷いた戦地に慰安所があった。日本軍と戦地を転々として、気の毒な目に遭った慰安婦もいた。日本兵と共に玉砕したのは日本人の慰安婦がほとんどで、一緒に玉砕したコリア人はいなかった。

コリア人慰安婦は、ビルマ戦線でイギリス軍に引き取られいろいろ聞き取りされているが、そのなかにも「強制的にさらわれてきた」という証言はなかったのである。事実を無視して謝罪を繰り返すだけでは、誤りを正すことはできない。

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 3) 甘ったるい外務省

2007年6月14日付ワシントン・ポストに、作曲家のすぎやまこういちさんをはじめとする有志が中心となって意見広告を出した。慰安婦問題でアメリカ社会の誤解を解くために歴史的事実を明示したものであった。

ところが、首相側近や外務省関係者から「そんなことをしたら、アメリカの世論を刺激して国益に反する」と言われたそうだ。国会議員達は官邸の意向に逆らいたくないと脱落したが、民間人が資材を投じて国の名誉を守ろうとしているのに飽きれた行為である。

栗山尚一元駐米大使は「先の大戦に対する歴史評価は定まっていないのではないか」との質問に次のように答えている。「外務省条約局長時代、私は国会で『国際社会ではあれは侵略戦争だ』というのが評価です」といった。

日本人にはその評価に異論があるかもしれないが、国際社会の判断はすでに下されている。米国に日本の首相が「あの戦争は自衛のための戦争だった」といったら、日米関係はもたない。人類の歴史は、残念ながら常に戦争を繰り返してきた。

その歴史は、ほとんど戦争に勝った側が書いている。負けた人から『公平ではない』と思えるかもないが、勝者が書いた歴史が歴史として受け入れられている。そのことを日本人は受け入れないといけない」と答えている。

岡本行雄夫外務省OBは、「そもそも、私にも『軍命令による集団自決』は教科書にわざわざ書くほどの事象だったのかという疑念がある。すでに書かれていた教科書の記述を論争のあるときに修正することは『軍の関与がなかった』とする史観を新たに採択した意味を持つ。

否定できない犠牲の歴史が沖縄にある時、修正しなければならないほど重大な過誤が従来の記述にあったのか。歴史とは事実の羅列ではない。それを通じて生まれてくる主観である」と述べられていた。

さらに南京事件の実態については、犠牲者を数万人とみる素氏の著作が最も客観性があるように思われるが、それとて、もはや数字の問題ではなくなってきている。日本人からの反論は当然あるが、歴史をどのような主観をもって語っていると他人に取られるか、これが問題に革新であることに留意しなければならない」

国の名誉と国益を守るために最大限の努力をして戦うのが外交官の使命だが、岡本氏や栗山氏は東京裁判史観を受け入れ、何もしない自己を正当化しようとしている。日本の名誉と国益に奉仕することを求められる外務省職員がこれでは税金泥棒である。

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3 勇気ある決断

 1) トルコ政府とトルコ国民

2007年1月末に米議会下院が1915年から数年間にわたって起こったとされる「アルメニア人虐殺」を非難し、その非難をアメリカのトルコ外交に反映させるという趣旨の非拘束決議案が民主党の議員らによって提出された。

アルメニア人虐殺というのは、オスマントルコ帝国時代のトルコによって、帝国領内の少数民族のアルメニア人150万人が虐殺された事件で、欧米の歴史学者のあいだでは「トルコによる集団殺戮」として認識されているそうだ。

歴代のトルコ政府も国民の大多数も「集団虐殺」とは認めていない。決議案が提出された2月に外相は訪米し、決議案採択はイラク駐留米軍が補給物資の7割強を依存するトルコ領内のインジルリク基地の使用を「制限」もしくは「差し止める」と警告した。

米軍にとってイラクでの軍事作戦や核開発を進めているイラクに圧力をかけるため、トルコの基地使用を含む軍事協力が不可欠だった。共和党勢力が決議案に反対したが、下院で多数を占める民主党の賛成で法案は採択されてしまった。

トルコ政府は翌11日に「対応の協議」を理由に米国駐在大使を一時本国へ召還した。米国安全保障会議の報道官は「強固な関係維持のため早期の任務復帰を望む」とする一方「米国の安全権益を激しく損なう結果を招く」と批判し、決議案撤回を求めた。

大統領が「謝罪を受け入れる」といっただけの日本への対応とは相当な違いである。日本もまた、アメリカに対して戦後一貫して様々な支援を行ってきた国である。日本国憲法の制約下で様々な支援を行っててきた。

ブッシュ大統領はなぜ日本への非難を看過したのか。また、日本政府も対米安保関係を変更して迄国を挙げて反対の意思表示をしているトルコを見てどう考えているのか。日本はアメリカにとって大切な同盟国であるはずだ。

「アメリカにとってトルコは大切な同盟国ではないのか」というトルコ政府の毅然とした主張・外交圧力は、これまでのところ米下院本会議での採択を押し止めることに成功している。

アルメニア人虐殺の審議をめぐって論争が続く「歴史」と当事者としてのトルコ政府とトルコ国民のゆるぎない姿勢が、第三者であるアメリナの今日的人権観によって一方的に審判を下されるのにノーを突きつけた。日本は大違いである。

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 2) 恥ずかしいNHK

2007年8月にインドを訪問した安倍首相は、東京裁判でインド代表として判事を務めたパール判事の長男プロシャトン・パール氏と面会した。戦勝国が事後法により敗戦国を裁くことに重大な疑義を呈して、日本人被告全員は無罪と主張した。

パール判事が日印友好に果たした業績について「パール判事は多くの日本人から今も変わらぬ尊敬を集めている」と語りかけた。これはA級戦犯についても国会答弁で「国内法的に戦争犯罪人ではない」と明言してきたように安倍首相の歴史観を伝えるものだった。

フランスのAFP通信は、安倍氏との会談についてプロシャトン氏は「非常に喜ばしいこと。父の公正な判断が人々の記憶にとどまってくれていることを誇りに思う。戦争の片方の当事者のみを戦争犯罪で裁くことが可能だとは思わない」と報じている。

安倍首相は同じ日に「チャンドラ・ボース記念館」を訪れて遺族に会い、「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意思に、多くの日本人が深く感動している」と語った。ボースの姪にあたるクリシュナさんは次のように答えた。

「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるなら、私たちインド人もボースが英国の植民地支配に抵抗するためにインド国民軍を組織したことを支援したのが、日本だったことを思い出すべきだ」。この記事は日本の報道機関ではなくAFP通信によるものだ。

インドの各家庭で日本の神棚みたいなところに飾られ敬愛の対象にされている写真は、ガンジやネェールよりも圧倒的にチャンドラ・ボースだそうだ。長い間のイギリス支配を打ち破るべく放棄し、インパールまで進撃したボースをインド人は評価している。

マスコミが首相の靖国神社参拝問題を「日本は謙虚にアジアの声を聞け」などと中国や韓国の顔色を気にしているが、実際のアジア諸国は日本批判一色ではない。戦前の日本がいかなる国であったか、先の大戦は人類史上いかなる意味があったのか問えなくなる。

東京裁判は事後法で裁くという近代文明の法理を全く無視したもので、戦勝国側には法に照らして公正を期す気は最初からなかった。白人に歯向かった日本人を徹底的に懲罰してやろうとする人種的理由が奥深く横たわっていたことを忘れてはならない。

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 3) 誤報で処刑された軍人

日本の独立回復後日本を訪れたパール判事に、日本に対する好意的な判決を書いてくれと感謝した日本人に、判事は「私は日本に対する行為であの判決を書いたのではない。私は国際法に忠実であることを心掛けただけである」と答えた。

昭和12年11月から12月にかけて南京攻略戦で進軍中の日本軍に関し「東京日日新聞(現:毎日新聞)」の浅海一男記者らが現地から4回にわたって送った記事で「日本軍の少尉2人が、どちらが先に日本刀で中国軍兵士百人を殺せるかという競争をして、実際にそれぞれ百6人と百5人を殺した」。

戦後の中国側の南京軍事裁判で、この記事がほぼ唯一つ根拠として向井敏明少尉と野田毅少尉は処刑された。昭和46年に朝日新聞の本多勝一記者が「中国の旅」で現代に蒸し返し、これが原因で遺族を苦しめ南京大虐殺記念館のメイン展示となっている。

「東京日日新聞」の記事では南京近くの句容から紫禁城までのあいだで百人切りを実行したことになっている。百人切りの対象は中国側の将兵だったが、のちの本多記者の「中国の旅」では、いつのまにか一般住民にまで広げられている。

東京裁判で浅海一男記者らは「実際に中国人を殺すところは見たことがない」と証言して2人は釈放されている。当時の日本軍将校の持つ日本刀は主に指揮用で、敵を殺すことは一般的でなかった。それほど頑丈ではなかったから百人切りはなし得なかった。

野田少尉が獄中で書き残した手記に「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」などと戦意高揚記事を持ち掛けた様子が記録されている。浅海一男記者は「あの記事は戦意高揚を企画した私の創作です」と事実を証言せず、「東京日日新聞」も訂正させなかった。

1898年3月に毎日新聞社が発行した「昭和史年鑑」で「百人切りの記事は前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された」「ところがこの記事の百人切りは事実無根だった」と否定の記事が続いている。

向井敏明少尉と野田毅少尉のご遺族が毎日新聞社と朝日新聞、本多勝一記者らを被告として、名誉棄損にもとづく訂正と謝罪広告を求めた訴訟で、東京地裁は新聞記者の創作と認めるのは困難とし、二審では虚偽であることを認めることはできないとした。

毎日新聞社が発行した「昭和史年鑑」を証拠資料としなかったのは、現実問題として日中韓関係がこの裁判に影響を与えていたと考えられる。事実を明らかにして中国側を刺激したくないという判断が、裁判官の胸奥にまったくなかったとは言い切れないだろう。

田中角栄氏は受託収賄の証拠がなくても米国政権に気を使って有罪とされ、地方裁判所でも殺人事件が無罪となって判決理由は開示されない事例が増えている。弁護士に弱みを握られた裁判官が脅されたとも勘ぐれるが、裁判所すら信用できないのが現代である。

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 4) 多すぎる誇張

1959年1月に上映された松竹映画の「人間の条件」は仲代達也主演であった。当時は一度に二部ずつ上映され、六部まで見るのに3日かった。総集編として6部作品を一挙上映された日は、弁当持参で9時間半という上映時間に耐えた。

原作小説は五味川順平の同名小説の映画化作品だが、小説であって事実を描いたノンフィクションではない。満州戦線に従軍して過酷な戦争体験をした五味川順平の創作に、小林正樹監督がいかに軍隊を過酷に描くかに徹した物語である。

映画を見て、北満の老虎嶺鉱山で過酷な労働にあえぐ現地の人々、特殊工人と呼ばれる中国人捕虜600人が電気の流れる鉄条網の中での労働を強いられるという、非人間的な光景を描くことにより反戦思想を訴えていたと感じた。

どこまでが事実に基づくかは分からないが、あんなことをしていて戦争をできるだろうかと疑問を持った。本当にリンチの毎日だったのだろうか、朝晩二等兵を殴ったり蹴ったりする余裕があったのだろうか。本当に貴重な戦力を痛めつけるだろうか。

過酷な筋肉労働だとしても、敵の銃弾が飛んでくる前線ではなく工場や農村だったのだろう。日本軍が満身総意で壊滅寸前の状態に陥ってきたころの様子をもって、日本軍のすべてを語ることはできない。

反戦映画の手法は、日本軍人を鬼畜のごとく描くことで嫌悪感を抱かせることにある。軍人の中にはひどい人もいただろうが、多くの日本軍人の品行方正さは世界中に知られているところである。悪辣さにかけては中国人にかなわない。

毛沢東が亡くなる直前に唐山大地震が発生し、死者は数十万人と推定される。しかし、地震による被害以上の事態が起きていた。近辺の農民が被害者歴史から消された日本人の美徳の家々を家族連れで襲ったのだ。まだ息のある人々から、家財から腕時計まで奪うという有様だった。

被害地には人民解放軍が出動していたが、解放軍がいくら銃撃しても農民たちは屍を乗り越えて襲ってきたという。世界的によくあることかもしれないが中国人には、人の弱みに付け込んで襲いかけかるという伝統的な民風がある。

阪神大震災の時に、中国文壇の柏楊氏はテレビで神戸市民の状態を見て、秩序ある救援活動と略奪行為が起きていなかったことに感動を覚えたそうだ。「日本人はすごい、中国は日本に勝てない」と、日本人の優しい心と秩序ある順法精神に舌を巻いたそうだ。

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4 勇気ある決断

 1) 受諾したのは判決

東京裁判は日本兵の捕虜虐殺について証言者がないまま判決をくだし、連合国側が投降してくる日本兵を射殺し、時には逃がしてやると野原を走らせて銃の標的にし、沈没した船から海へ投げ出された日本兵を次々と射殺していったことは不問に付していた。

日本は敗戦国として戦勝国が下した「判決」には従わなければならないが、東京裁判の「内容」を受諾する必要はない。裁判の「内容」を受諾するか「判決」を受諾するかは、絶対に混同してはならない。

古典的に有名な例として「ソクラテスの弁明」がある。ソクラテスは「裁判」の内容に同意したわけではない。しかし、法に従う市民として「判決」には従い、毒を仰いで死んだ。「裁判(論告)」と「判決」の違いはすでに古代ギリシャから明らかである。

サンフランシスコ講和条約第11条の「戦争裁判の受諾」という部分は accepts the judgments となっている。この judgment を「裁判」と訳したのは誤訳といってよい。厳密にいえば「判決」でもなく、複数になっているから「諸判決」とすべきである。

諸判決とは、絞首刑・東条英機他6名、終身禁固刑・賀屋興宣他15名、禁固7年・重光葵などといった極めて具体的な個々のもので、日本が受諾したのはこの諸判決であり、さらに11条にはおおむね次の内容が付け加えられている。

「日本はこの禁固刑に処せられたものを勝手に赦免、減刑、仮出獄させてはならない。ただし、この判決に関係ある1または2以上の国の決定及び日本の勧告があればよい」。日本が独立を回復したころの日本政府や国会は、この条文を正しく解釈していた。

したがって、A級戦犯と言われた人々も、正当な国際的、国内的手続きを経て釈放された。終身刑を宣告された賀屋興宣氏は第三次池田内閣の法相になり、禁固7年を宣告された重光葵は出所後は改進党総裁、鳩山内閣では副総裁兼外相となっている。

サンフランシスコ講和条約第11条の諸判決を受けた人たちは国際舞台にすら復帰し、日本を裁いた国から諸判決を受けた人たちへの釈放や活躍に一切異論は出されなかった。日本と戦った蒋介石政権も同様の解釈をしていた。

外務省OBのように「この11条に粗雑な理解のままもはや日本の名誉回復はできないし、むしろ国際社会に対する背信行為になるからそれは望むべきではない」と思い込んでいる人たちが不思議なことに少なくないのである。

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 2) 戦争犯罪ではない

サンフランシスコ講和条約による主権回復後の昭和27年5月、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」、戦犯逮捕者は「拘留または逮捕されたもの」として取り扱われるという内容の法務省総裁通達が出された。

日本人の多くは東京裁判の不当性に気づき、民間においても戦犯釈放運動が拡がりをみせた。旧連合国に対する赦免勧告を行うよう政府への要請が繰り返して行われ、戦犯赦免を求める4千万人の署名も全国で集まった。

こうした国民の熱意に押されて政府は旧連合国に対して赦免・減刑勧告を行い、国会でも戦犯赦免委に関する決議案が社会党を含めた賛成を得て何度も可決された。

昭和28年の国会において全会一致でA級戦犯を含めた全戦犯刑死者を「公務死」と選定し、昭和30年7月19日の衆議院本会議において、党派を超えて「戦犯問題の全面的解決」を求める決議をしている。

「戦争裁判に対するわが国民感情は、もはやこれ以上の拘禁継続を到底容認しえない限度に達し、(中略)政府はこれら戦争受刑者並びに留守家族の悲願と国民の期待に応えるべく、ただちに関係諸国に対し全員の即時釈放を強く要請し、来る8月15日を期して戦犯問題を全面的に解決するため、誠意をもって速やかに具体的措置を断行せられんことを要望する」というものだった。

これにより、昭和33年5月末までにすべての戦犯が釈放された。そのとき戦犯の名誉回復に務めた社会党の後継政党たる社民党も、いまの自民党や立憲民主党を問わず保守政党の後継者たちも、すっかりこれを忘れている。

昭和61年に自民党の小沢一郎氏が自治大臣だった当時、「お国のために一生懸命戦って亡くなられた戦没者に参拝することによって誠の気持ちを示す」「A級であろうがB級であろうがC級であろうが、そういう問題ではない」と発言していた。

平成13年に自由党党首となった小沢一郎氏は「国のために純粋に前線へ出て倒れていった人達に対し、感謝の気持ちをもつことは当たり前」「素直にとればよい」と小泉首相の靖国参拝を支持していた。

平成18年6月9日に「小泉首相が本当に政治家だというなら、中国や韓国が反発堂々と終戦記念日の8月15日に参拝すべきだ」とも発言していた。小沢一郎氏の発言はまことに正論であると思った。

ところが、民主党代表になると小沢一郎は首相の靖国神社参拝に反対して「自分たちが政権をとれば、A級戦犯を霊爾簿から抹消する」と暴論を展開していた。これほどまでに朱に交われば赤くなった政治家がいたであろうか。政治家は信じられないと驚く。

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 3) 平和主義が正しい

日本の名誉が不当に既存されることに抗議し、歴史の誤解を正そうとする行為は、未来の日本人のために不可欠である。それを短絡的に「過度なナショナリズム」として排斥する人たちは、自らの父祖を見捨てていまの安寧をむさぼっているだけに等しい。

東京裁判は国際法とは全く関係なく、マッカーサー司令部の決めた憲章に基づいてポツダム宣言受諾の条件を無視して行われた占領政策でしかなかった。しかも、のちにアメリカ上院の軍事外交委員会という公式の場でマッカーサーはつぎのような証言をしている。

「日本が戦争に突入した目的は主として自衛(セキュリティー)のためであった」。ところが、このマッカーサー証言が報告されても喜ばない日本人、また無視し続ける日本人有識者が多いのはなぜなのだろうか。

日本を不当に断罪した東京裁判史観に沿った思考しかできないのはなぜだろう。単に歴史に興味がなく、日本という国に愛情がないのだろうか。後に疑問を呈したパール判事が「平和憲法を守る」といった講演の要旨は二種類ある。疑問を抱く要旨を紹介すると、

「日本は武器を持って無類に勇敢だったが、平和憲法を守ることでも無類の勇気を世界に示して頂きたい。伝統的に無抵抗主義を守ってきたインドと勇気をもって平和憲法を守る日本と手を握るなら平和の大きく高い壁を世界の中に打ち立てることができると信じる」

平和憲法という言葉が入っている要旨は、北海道大学公共政策大学院中島岳志准教授の著書の文章である。もう一つはA級戦犯として処刑された、松井石根大将の秘書という履歴を持っている田中正明氏の記録である。

「かって日本は武器を取って無類に勇敢だったが、その勇敢さを平和主義に誇示していただきたい。インドは再び武器を取る日本とは手を握れないが、平和主義に戦う日本となら永久に握手することができる」

パール判事は日本人が東京裁判批判を行わないことに憤慨し、その理由を「アメリカの巧妙な占領政策と戦時宣伝にわざわいされて、過去の一切が誤りであったという罪悪感のとりことなったため、背骨を抜かれた」ためだと言っている。

中島准教授もパ-ルの発言を著書で紹介しているが、前段を削除して「敗戦の衝撃で背骨を抜かれ」と改竄している。中島准教授の資料の扱いはこの調子であるところから、平和主義を自説に都合が良いように平和憲法に置きかえたものと推測できる。

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 4) 日本の若者に期待する

明治維新のときの日本人は、大急ぎで西洋の文物を取り入れなければ列強の防圧に抗して独立をまっとうすることはできないと考えた。特に軍事力についてはそうだった。対外戦争の仕方も、砲艦外交も、当時の列強から学んだものだった。

それは、生存のために罪ではないことは適者生存の時代には自明の理だった。しかし、日本人は「日本人であり続ける」たまに「和魂洋才」であることを譲りはしなかった。日本人がどこかの国のまねてどうするのか。

それで生き残っていけるのか、という真っ当な問いかけの結果だった。日本はアマリカとことさら退治する洗濯をせず、アメリカの真似をしていれば良いわけではない。良いものは取り入れ、そうでないものは拒絶すればよい。

日本人として自らの国を反映させていくことが大事であり、日本は自ら創り上げてきた文明を信じ、美しく洗練する方向に向けて努力を傾けるべきである。

1863年ののゲティスバーグの演説で、「我々は名誉ある戦死者が最後まで奉仕した偉大な大義のために、彼らの衣鉢を継ぎ、彼ら以上に奉仕すべきであり、彼らの死を無駄にしない子っとを固く決意すべきである」。

そして、あの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」というセリフに繋がっていく。リンカーンは正義の戦争だから「名誉」が与えられるというのではない。国家の命令によって国家の存続のために戦い、不幸にも亡くなられた方々すべてを指している。

戦没者の慰霊はその戦争がどのような性格を持とうが、国家が国家として存続するための不可欠で普遍的な行為である。自分たちの国を存続させるために自らを犠牲にしてくれた同胞に感謝しよう。そのおかげで新しい時代が始まる。

日本列島の原住民は日本人である。日本をインデアンの国やインカ帝国にしてはならない。妙な友好幻想を各国に抱いてしまってはならない。したがって、自国の都合以上に他国に譲歩や妥協をする必要はない。

現代の若者に「パール判事の判決書」を読まれるようお願いする。判決書は法の考え方歴史のとらえ方を教えてくれる。また、アメリカ上院の軍事外交委員会でのマッカーサー証言も一読されたい。そこには歴史の真実が語られている。

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参考文献:日本を弑する人々(渡部昇一・稲田朋美・八木秀治、PHP研究所)、歴史から消された日本人の美徳(黄文雄、青春出版社)。