はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第6章 国民に隠された真相

事実を日本人の目から隠すために、連合国軍総司令部がいちばん早い時期に焚書に指定した書籍は、昭和18年に出版された「米英挑戦の真相」だった。国立国会図書館に保存されていたこの本を読むと、日本が戦争に追い込まれた真相を知ることができる

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1 日本非難の元凶

戦勝国が敗戦国の憲法を創る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されない。しかし、相手国の文化を踏みにじる行為を自由と平和を標榜する米国は平然と行っていた。

日本では昭和3年1月1日から昭和20年9月2日まで、約22万タイトルの刊行物が公刊されている。其の中から9,288点の単行本を選出し、審査の結果7,769点に絞り、没収宣伝用刊行物に指定したのが米国による「焚書」行為である。

米軍の政治的意図は「被占領国の歴史を消して隷属化させる」事であった。宣伝刊行物の没収に関する「覚書」は、昭和21年3月から昭和23年4月までに全部で48回通達された。14番と33番の通達以降に没収される本の種目点数が一気に増加した。

特に33番(昭和22年9月)以降は前回の88種から500種と異常に増えていった。これだけの行為をGHQ軍属と日本政府の行政官だけでは為し得ない作業で、その協力の中心になったのが東京大学文学部だった。

覚書では「個別に存在する書物」、つまり民間人や図書館の書物は没収対象としないこと。然し指定した本は、書店出版社は元より全ての公共ルートから徹底的に調査し廃棄することを宣言していた。

国の政治・思想・歴史・文明、そして宗教的な生きる源泉を、他民族から裁かれる理由などない。江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」には米軍の徹底した違法行為が記録されている。

米国から押し付けられた憲法には「思想の自由」「出版の自由」を謳っている。しかし、占領中に大規模にこれらの権利を侵したのは米国自身だった

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戦前のソ連は南下政策を取り各国が標的として狙っていた支那大陸は大混乱していた。フランスはインドシナを押さえ、イギリスはインド、ビルマ、マレー半島に居座り、オランダはインドネシアを、アメリカは太平洋の島々を伝わってフィリピンを完全に属国にしていた。

オーストラリアはアメリカと手を組んでありとあらゆる奸策を弄していた。戦争前は台湾とフィリピンの間が日米の国境であり、日本はひしひしと敵の包囲網に追い込まれていたことだけは事実である。

関東軍が馬賊の侵入やロシアの侵入を防いで、治安維持に意を払っていた満州国の施政15年間はアジア人が自由に移住でき、居住民にとっては安心して暮らせる幸せな時代であった。これを証明できる文献は多々ある。アメリカは白人支配を排除した王国をつくることに反対し、白人中心の国際連盟の力を借りて満州国を承認せず日本を非難した。

塚瀬進氏の「中国近代経済史研究(1993年)」によれば、満州の人口は1898年に約5百万人、1915年には2千万人、1930年には3千万人に急増している。満州事変の十年後には4千3百万人となっている。

当時の満州国は日本帝国主義の支配下で、関東軍による弾圧、虐殺、迫害、追及があったということになっているが、年間百万人もの中国人が押し寄せているのは何を意味するのだろう。人は危険性のある土地から安全なところへ向かうはずである。

日本が大東亜戦争に敗北するとロシアが大軍を侵入させ、満州は地上の天国から一瞬にして地獄となった。国際法に反して日本人60万人を奴隷狩り同様に拉致してシベリアへ連れ去り、過酷な労働を強いてその結果6万人が生命を失った。

占領軍は、国民に対する罪を犯したのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべては「軍国主義者(政治家・軍隊・軍人)」の責任である。大都市への無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であり、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、とした

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さらに、終戦後の日本でコミンテル(共産主義者たち)の残党が戦争責任を追及するという美名で日本人の心を惑わし、国民を不幸にしたのは政治家や軍部と宣伝し、非難することで罪悪感を植え付けていった。日本は力に敗れたが正義に敗れたのではない。

文部省は没収指定図書総目録で焚書の全貌を明らかにした。国立国会図書館に保存されている焚書を免れた書籍は、電気通信大学西尾乾二名誉教授のご努力により株式会社徳間書店から、徳間文庫カレッジ「GHQ焚書図書開封」シリーズで紹介されている。

事実を日本人の目から隠すために、連合国軍総司令部がいちばん早い時期に焚書に指定した書籍は、昭和18年に出版された「米英挑戦の真相」だった。国立国会図書館に保存されていたこの本を読むと、日本が戦争に追い込まれた真相を知ることができる。

当時の知識人や専門家は日本の置かれている時局を虚飾もなく、強がりもせず弱音も吐かずに驚くほど冷静にみていたことが分かる。大東亜戦争調査会がまとめた「米英挑戦の真相」から、日本が当時置かれた状況と苦悩は想像を絶するものであった。

大東亜戦争の実戦が勃発したのは昭和16年12月8日だが、日米国交調節に関するもめごとに決着をつけるために相手方と話し合ったが物別れとなり、同年11月26日に米国ハル国務長官から手渡された通牒により戦争不可避となった。

日本が最後通牒と考えたのは、①日独伊三国同盟の無効化、②仏印および中国からの全面撤兵、③南京政府の汪兆銘政権および満州国の否認、④一切の国家の領土保全および主権の不可侵原則などを骨子としたもので、初めから我が国の受諾が不可能なことが明瞭である諸要求を含んでいたからであった。

1941年11月25日ルーズベルト大統領はホワイトハウスに、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長の5人を招集して対日作戦を協議した。

スチムソン陸軍長官は日記に「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に日本をいかにして誘導して行くべきかということ」であったと会議の内容を記している。

この本を読むと、当時の知識人や専門家は日本の置かれている時局を虚飾もなく、強がりもせず弱音も吐かずに驚くほど冷静にみていたことが分かる。大東亜戦争調査会がまとめた「米英挑戦の真相」を現代文に直して要約し、当時の日本の苦悩を振り返った。

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2 日本の苦悩

このような協議を経て米国は開戦へと日本を導いていったのである。したがって、事実を知られたくない占領軍は真っ先に「米英挑戦の真相」の焚書を実施した。この本の刊行趣旨で、大東亜戦争調査会の有田八郎氏は次のように述べている。

大東亜戦争調査会が設置された趣旨は、事実に基づいて敵米英の戦争責任を糾弾しこの戦争の目的を出来得るだけ具体的に開明することにある。

戦前の文章で書かれた「米英挑戦の真相」には難解な用語が使われている。できるだけ現代文に直して趣旨を変えずに意味が通じるように要約した。これにより、当時の人々の苦悩を推察いただければ幸いである。

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 ① 東洋覇権の野望

この大東亜戦争にはオランダも加わっていたが、日本とアングロサクソン民族との争いであり、極端に言えば日米戦争であると言っても差し支えない。オランダの地位は米英の属国にも等しく、日米会談に際してはすべてを米国に白紙委任したくらいに対米依存の態度をとっていたからである。

大東亜戦争の遠因を見れば、英国の東洋計略の歴史も重要な一因であることはいうまでもないが、米国の太平洋上の覇権確立という根深い野望が最も直接のものとなっている。歴史的に英国の方が先口ではあるが、最近は米国の方が主導的地位をなしている一種の英米の合作、アングロサクソン民族の東洋侵略がそれだとみることができよう。

19世紀以来の世界の動向は、大体において西から東方向へ進む傾向を示し、東洋諸国はあるいは領土を失い、甚だしきはその独立すら喪失し、悉く欧米諸国の領土的帝国主義の犠牲になった

したがって大東亜戦争の世界史的必然性からいえば、不当なる欧米勢力に対する東洋民族の反発ということもできる。開戦当時すでに欧州には第二次大戦が開始されていて、英国その他の欧州諸国は自国が危機存亡の開頭に立ち、多く東洋を顧みる暇はなかった。

大東亜戦争は本質的には日・英米三国の戦争だが、相手方は主として米国が中心あり、大東亜戦争の原因を探る場合はこれまでの米国の東洋政策を調査検討する必要がある。

米国は19世紀の半ば頃に支那との通商貿易を始め、我が国にも1853年に黒船をよこして開国を促している。その頃の米国は、国際的にはまだ大して悪ずれがしていず、清教徒的な理想主義も影を潜めていなかったが、一度び米西戦争の結果フィリピンを領有すと、その東洋政策は著しく帝国主義的傾向を帯びるようになった。

その最も顕著なものは、1899年の支那の領土保全、門戸開放及び機会均等の要求である。大体モンロー主義という縄張りを張って、南北両アメリカ対して排他的な独占主義を採り、東洋に対してのみ門戸開放を要求していること自体が、論理的に見ても矛盾横着も極まれりと言えよう。

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いわんや、これが自由平等を売り物にしている米国の国策というのだから、偽善というより他に言いようがない。ここにこそ、米国人の本性が潜んでおり、その独尊的な独善主義がいかんなく暴露されているのである。だから、この東洋政策が確立された時に、すでに今日の日米戦争の種がまかれたとみて差し支えないのである。

日露戦争後、満州中立の提議、満鉄平行線の計画など、我が国の当然の戦果を、トンビが魚をさらうように奪取を試みたのであり、さらに、第一次欧州戦争の結果、我が国の国威が益々揚がるに及んでは、まずパリ講和会議において山東問題を種に、近代国家となった日本への論難抑制の音頭を取ったのは時の大統領ウィルソンであった。

1921年には英国を誘ってワシントン会議を開き、米・英・日の三国海軍勢力を5・5・3の比率にして、我が国に劣勢海軍力を押し付けた首謀者も米国である。このワシントン会議において、20年来の日英同盟を放棄せしめたのも米国であり、九ヶ国条約を強要して我が国のアジア大陸における政治的活動を抑制せしめんとした元凶も米国である

米国内でのサンフランシスコ学童問題に端を発し、その後カルフォルニヤ土地法問題となり、我が国が大震災に遭っているときに全米排日移民法へと発展させ、排日運動を強化していった。

それと共に英国も日本がこつこつと努力してきた商工立国政策に恐れをなし、安価なる日本商品の世界的氾濫と称していかにも我が国が悪徳行為でもしているかのごとき口ぶりで、我が国の平和政策を抑制する策に出た。その頂点をなすものはオッタワ会議である。

それまで英米のために尽くしこそすれ、微塵も武力的脅威もしくは圧迫を加えたことのない日本に対して、米英はかくのごとき理不尽なる防圧手段を加えてきたのである。しかも日本はそれを忍んだ。隠忍自重の永い月日が流れたのである。

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 ② 米国の疑心暗鬼

米国は伝統的な東亜政策の遂行が、日本の東亜新秩序の建設によって困難になることを懸念した。直接的背景は、在支米人の生命、財産、自由、その他米国権益が日本の軍事行動によって直接間接の脅威を受け、米国官民間に対日感情が極度に悪化するに至ったことだろう。

米国人の通商に対する均等取扱いが保証されることを最大関心事として、九ヶ国条約によって保障された原則堅持を主張し、米国の対日態度は東亜新秩序が排他的であろうと疑心暗鬼であった。

いずれを問わず日本の東亜における特殊地位が米国の支那における権益とは本質的に相違している歴史的事実と、実際に支那の広範な地域で未曽有の大規模な軍事行動が行われていたという歴史的事実とを認識しない限り、到底我が国の容認しがたいことであった

米国は明らかな事実にはわざと目を覆い、徒に条約の表面にのみ拘泥していたのは米国の東亜政策が半植民地にのみ適用される門戸開放、機会均等の主義を支那において主張して割り込みを策し、第一次欧州大戦以降に強大となった資本力を持って、是が非でも東亜制覇の野望を建設することを暴露していた

支那事変が発生して以来この当時迄に、米国側から我が国に対して申し入れてきた案件で懸案となっているのは大小二百件にも上っていた。それを米国新聞界では日米懸案六百件と鬼の首でも採った如く宣伝していた。

大規模な軍事行動が継続されている以上、米国人財産に対する爆撃や米人に対する侮蔑事件などが偶発的に発生することが時としては避けがたいのは当然で、しかもわが軍を妨害しようと故意に戦闘区域に立ち入った事実がある以上なおさらである。

また、米人の商業に関する制限も一時的かつ例外的な現象で平時ではない。あくまでも平時と同様に振る舞い進んで重慶政権の抗戦力を援助することは、米国権益の擁護とか通商の機会均等とか世界の法秩序の維持とかの理論をもって到底割り切れるものではない。

我が国が支那から全面的に撤退して事変勃発以前の状態に引き戻す以外、到底米国政府の満足するところではなかったことは、昭和16年11月26日の米国政府の我が国に対する最後通牒を待たずしても日米通商条約破棄で明白だった。

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 ③ 満州での露骨な暴圧

ワシントン会議以後約十年の久しきにわたる日本の忠実な条約尊重の精神を、日本の米英に対する弱腰の証拠なりと蒋介石は推測妄断してここに日支衝突の要因をかもしたのである。その後、蒋介石は常に米英両国の支援を期待して排日侮日に専念し、遂に日本が強敵ロシアを追い、東洋平和のために樹立した満州の特殊権益まで奪回を企てるようになった。

『※ 満州の特殊権益とは、日露戦争の戦勝と対華二十一カ条の要求によりポーツマス条約で認められた、満州(中国東北部)・内蒙古(内モンゴル)における、鉄道・鉱山・商租権などを内容とする日本の権益で、ロシアは日露条約、清国は満州条約で承認した。条約締結から3年後に成立した中華民国の蒋介石はこれを認めず日本と対立した。』

このため我が国は幣原外交の名に於いて知られた永年の対支協調政策を清算せざるを得ない立場に置かれ、これが満州事変の勃発であった。この満州事変を契機として米国の対日嫌がらせは一層露骨になり、時の国務長官(現陸軍長官)スチムソンは、閣議において対日宣戦布告論を主張していた。

日本が、満州における特殊権益を守ろうとする行動にでたことは条約上当然の行為である。しかし、遠く太平洋を隔てた米国が戦争に訴えてでもこれを抑圧しようとするのは、まことに理由なき干渉政策と言わざるを得ない。

この空気を見て蒋介石は、虎の威を借る狐のように対日抗争政策を継続した。そして、東洋の不祥事である支那事変がついに起こった。これはことごとく蒋介石の対米英依存政策に由来するものである

米国でその時の大統領に当選したルーズベルトは、親支疎日の政策を明らかにした。ルーズベルトが大統領に当選した1932年は、満州問題が世界注視の的になっていたから、就任に当たってもこの問題に対する態度決定が重要案件の一つであった

この時のルーズベルトの心境を、彼のブレイン・トラストの一人であったレイモンド・モーレーが後にすっぱ抜いている。その密議に際してモーレーは、スチムソン・ドクトリンの修正の必要を説いたところ、ルーズベルトの回答は極めて簡単であった。

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ルーズベルトは、「私の父親は支那貿易で財を成したのであるから、私は当然支那を援助する」と答えた。このような金権政治家の私情によって大国の重要政策が決定されるところに、米国の救いがたき禍根が存在する。このような事情の下で、英国の対支援助政策をも加えて支那事変はもつれにもつれてきた。

支那事変の最中に欧州戦争が起こり、英国がそれに没頭していたので米国が蒋介石援助政策の第一線に立って日本の消耗を策したのである。この援蒋政策は蒋介石に対する友好からでは勿論ない。

東亜の平和かく乱を図って、日支相争う間に漁夫の利を占めようとした極めて狡猾なアングロサクソン帝国主義の政策である。ここにも米英相手の大東亜戦争起こるべき必然的な理由は十分にあった。

仮に百歩譲ってこの援蒋政策は、重慶を中間に介しての日英米三国の間接的問題であると大目に見るにしても、その後に起こった、あらゆる日本の正統なる国際的行動を阻止しようとした全面的な対日経済封鎖や、いわゆるABCDの軍事的対日包囲政策というような対日封鎖の手は、いかに大国的節度を誇る東洋の君子国日本とも黙止はできないものであった。

相手は、白人優越主義をもって世界制覇を企む傲慢不遜のアングロサクソンである。それが日本国をして全面失速させようとする非道の手段をもてあそんでいたのである。日本が敢然として立たざるを得なかったのは、理の当然のことというべきであろう。

この日米直接衝突の起こり始めた1938~9年頃には、米国では日本が数ヶ年にわたる支那事変で疲労困憊し、経済的に大戦争などには絶え得ざるものと推測していた。そこでまず輸出禁止政策で日本を威嚇しついで全面的経済嫌迫の前提として、日米通商条約の破棄を一方的に行ったのである。

更に、この容易ならざる国際政局の推移に鑑み、日本が日独伊三国同盟の締結をもってこれに備えるや、米国では直ちにくず鉄の禁輸をもってこれに報いた。日本が佛印と共同防備を協定するや、米国は直ちに資産凍結を断行し石油の禁輸という暴挙にも及んだのである。

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 ④ 戦争への誘導

これらは単なる経済嫌がらせというより、戦争開始にも比すべき最大級の暴挙である。現にルーズヴェルト自信も禁輸前に石油問題に関連し、「対日石油の禁輸は日本の南洋進出を不可能ならしめるものであり、その結果は西南太平洋の戦争となり米国の必要とする南洋物資の輸入を困難ならしめるがゆえに今だ石油の禁輸を行わず」と説明して、いかに石油問題の重大なるかを語っていた。この問題一つだけでも十分の戦争理由になり得ることを、ルーズヴェルト自ら説明していたのである。

さらに資産凍結問題についても、その断行の数日前の演説において「この種の経済いやがらせは当然対日戦争を誘発するものであるから、これを敢てしなかったのである」と説明して、あらかじめ言外に将来行われるべき対日経済封鎖が、直ちに戦争を意味することを予感させていたのである

米国の取った対日政策はこの危険な経済嫌がらせだけではない。もし、この方法で日本が屈服しなければ次は武力をもって抑えようと、太平洋上の軍事基地には兵力増強を計りシンガポール軍港の英米共同使用案まで論議され、北はアリューシャン列島から西は重慶に至るいわゆる蹄型に連結されたABCD対日包囲網を結成したる

このような暴虐なる対日封鎖に対しても、日本は歯を食いしばって太平洋上の平和維持に真剣なる考慮を払った。まず野村駐米大使を通して折衝せしめたばかりでなく、時の首相近衛公爵とルーズベルトの巨頭会談によって国交調停案をすら提唱している。

最後の土壇場において、衝突もはや避くべからずとみられるに至ってもなお来栖大使を米国に派遣することによって、最後の瞬間まで危機を救わんとの努力を惜しまなかったのである。

切磋琢磨しながらもこの至れり尽くせりの局面打開の誠意に対し、報いられたところは忍ぶべからざるハル通牒であった。日米交渉前後十ヶ月、米国は何ら互助精神を示さず東亜の現状を無視した独善的抽象論に終始したのである

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このように露骨な米国の挑戦に対して日本がもし何もしないでいたならジリ貧となり、いたずらに敵の術中にはまり自滅を招来するしかないだろう。戦争の不可避なることはだれの目にも明らかであった

戦争を仕向けていたルーズベルトは開戦直後、ハワイ真珠湾の攻撃を日本の「だまし討ち」と罵倒した。この宣伝で米国世論の統一を図ったのである。これは敗戦弁明の一助ともなり、ハワイの奇襲攻撃作戦に対する世論への抑さえとして一応は成功のごとくに見えた。

しかしながらその直後に発表されたロバート報告は、米国の対日戦争決意の確定を暴露しており、いかにルーズベルトが得意の堅白異同のたとえを持ってしても、彼の戦争挑発の責任は隠しきれるものではないい

その後も執拗なる彼は、本年に入ると六万語に渡る白書を発行し十年間の外交交渉を発表して戦争責任を免れようと努めているが、これも自分の都合のいいように強引に理屈をこじつける説は随所に馬脚を現している

本書は、右に述べたような数々の米国積年の対日挑戦行為のうち、特に対日直接嫌がらせと圧迫のみを摘出して世界に示そうとするものである。(中略)本書の著者は、各自その部門における専門家であるばかりでなく、身をもって彼等の嫌がらせと圧迫の鞭の下に苦渋をなめてきた当時責任の地位にあった受難者ばかりである。

首を絞められてまさに窒息させられようとした当時の苦しい体験が、場合によっては赤裸々に文面に現れ、時には行間に滲みでているであろう。彼らの悪辣陰険なる戦争準備はここに遺憾なく網羅されているものといって差し支えあるまい。

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3 日米通商条約の破棄

 ① 条約破棄の通告

日米通商条約は明治44年2月ワシントンにおいて調印され、以来30年の長きに渡って両国の友好親善の関係を保持してきたものだったが、それが何ら正常なる理由なく米国政府によって突如として破棄され、両国間の友好関係は一朝にして消滅したのである。

昭和14年7月26日の米国政府破棄通告文によれば、現行日米通商条約には新たなる考慮を必要とする条項あり、かかる考慮への途を拓き、かつ新事態の要求に即応して米国の利益を一層養護増進するため6ヶ月の予告をもって本条約を破棄するというのであった

右に関し、当時の我が駐米堀内大使とハル国務長官との間に次のような談話が交換されたが、これを見ても、米国がいかに我が国に対して不遜であり、非友好的であり、その間に寸毛の道義性をも発見しえないのみか、公然日米間の友好的雰囲気を否認し、早くも国交断絶の危険を感ぜさせしむるものであった事が分かる。

堀内大使が、前記通告文中、米国政府は現行条約に対し新たなる考慮の途を拓くため廃棄手続きを執るといっているのは、新条約締結の意向あることを示唆しているのかと質問したのに対し、ハル長官は、右は今後の発展如何により、ただ今は何も言うことはできない。米国政府はただ監視しているのみだ。万事は公文により了解を願うほかないと答え、更に、しからば米国政府はこの際、新交渉開始の意思なしと了解して差し支えないかとの質問に対し、何ら確言できないと突っぱねた。

破棄の決定は新事態の要求に応じ、米国の利益を一層保護増進するためだといっているが、現行条約で右目的の達成が不十分であるとの理由を承知したしと尋ねたところ、米国の意図するところは従来しばしば日本側に対し、公文の交換や懇談で知らせており、今回の措置についても日本政府はすでに十分諒察しているはずだと述べた

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現行条約中には新たなる考慮を必要とする条項ありとあるが、右はいかなる条項を指すのかとの質問に対しては、今後日米簡易一層友好的空気の現れた時にはお話しできるが、ただいまは何も申し上げられぬと答えた

確たる筋の情報によれば、日本に対する嫌迫については、米国海軍省、財務省、南務省方面が特に強硬で、ハル長官も行政部内の空気に超然たるを得ず、ついに廃棄の措置を主張するに至田のだといわれているが、7月29日のヘラルド・トリビューン紙所載ワシントン通信のごときは、

「今般の条約破棄通告は、前フィリピン高等弁務官マクナットとのワシントン帰着と時を同じうしている。マクナットはフィリピンにおける経験に基づき、日本は独伊と同じく鉄拳をもって脅される時にのみ理性の声に従うとの信念のもとに、大統領および国務省幹部に対し、日本は目下支那と交戦し、ソ連に対しても監視の目を怠らず、西欧列強と関わりある暇なき状態にあるから、主たる軍需品供給国である米国の禁輸には屈服するに違いない。だから一大強弁政策により日本を制すべしと発言した」。

と報じている。とにかく米国政府は我が国の戦時経済力を過小評価すると共に、それまで米国依存度の著しく高かったことの弱点を狙って、我が国にを威嚇することによってあわよくば我が対支政策の修正を期待したものであることは疑いがない。そして、その裏面には米国大工業家デュポンが過去十数年に渡り六千万ドルの研究費を投じて完成したナイロンをもって、日本の生糸にとって代わろうと企画し、対日全面的禁輸により最も影響を被るべき石油業者に対しても、ナイロン普及による利益をもって保証しても良いと進言したという事実さえあるのである

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 ② 条約破棄への経緯

大体、昭和14年の米国第76議会では、中立法改正問題が議論の焦点になっていた。1937年の中立法では、戦争の場合、交戦国に対する兵器、弾薬、軍用機材の直接及び関節の輸出は禁止され、その他の物品または材料の輸出については、いわゆる現金条項とか米国船以外の船舶によるべきことなど種々の制限が適用され、彼らのいわゆる民主主義国家を援助する上に不都合な点が多いというので、ルーズヴェルトは同議会の冒頭臭いて、現行中立法はかえって侵略国に援助を与えることになるとして修正を求めた。

ところが元来米国は中立を標榜しながら英仏側に都合よく独伊側に都合悪いように、そして自国の通商上の利益は十分慎重を計ろうという、はなはだ矛盾した利己本位の目的を一つの法律に組み込もうとしたのであるから、甲論乙論、その帰着を決することはできなかったのは当然である。そこで政府の意に礼したブルーム修正案が下院に提出されたけれども、外交委員会及び本会議、同案に対し再び武器禁輸の条項を挿入し、ほとんど骨抜きにしてしまった

おまけに上院に回付されても、政府側の執拗な運動にもかかわらず、上院外交委員会は7月11日遂に案の審議を中止し、これを来議会まで延期することを決定してしまった。ルーズベルトの面目丸つぶれで、何とかして新局面を打開する必要に迫られた。

ここにおいて、突如上院に提出されたのが、上院外交委員長民主党議員ビットマンの政府の意向に迎合した7月11日の九ヶ国条約侵犯国に対する兵器、弾薬、戦争用具及び材料の禁輸法案と共和党議員ヴァンデンバーグの7月18日の日米通商条約廃案勧告決議案であった。

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ビットマの禁輸案は日本を目して九ヶ国条約の違犯国となし、日本に対して禁輸を行はんとする趣旨のものであったが、日本通商条約違反問題を提起する恐れがあった。ヴァンデンバーグ決議案は、そうした法律論に関する国務省側の意向を寸借して提出されたものであるが、ヴァンデンバーグは政府反対の立場にある共和党の議員であり、次期大統領の有力な候補者とも目されていたので、同案の運命は特に注意を惹かれたのであった。

この条約違反問題につきビットマンの発した照会に対し、7月21日国務長官ハルは、この種外国に関係ある決議案は、来会期に至り、議会が十分審議を尽くし得る時期に当たって提出する方が目的に沿う所以であり、またヴァンデンバーグ決議案に対しては、議会がこれを可決した場合、大統領において十分かつ慎重なる考慮を加うるであろうと、回答したと言われている。

このハルの回答には少なからず政略的意味が含まれていたのである。果然それより5日を経た7月26日に至り、国務次官補セイヤーは、わが須磨駐米大使参事官を国務省に招致し、突如として条約破棄の通告文を突き付けてきたのである

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 ③ 条約破棄の国際的影響

日米通商条約破棄の国際的影響の第一は何といっても対英関係である。日米通商条約の破棄を急速に決行した第二の重要な動機は、天津租界問題に関する7月21日の東京会議において英国が一大譲歩をして、「現に大規模な戦闘行為の支那において進行中の現実の事態を完全に承認するとともに、日本軍の必要とする目的達成に対して妨害となる何らかの行為又は措置を是認しない」旨を約束して、反日援蒋の政策を放棄したことである。

当時英国は欧州においてソ連囲い込み工作を図り、ドイツ側との関係をすこぶる急進化し、到底東亜の事態を顧みる暇がなかったのみならず、当時世上に盛んに宣伝されていた日独間の提携を極度に怖れていたのである。

そのため英国は東亜問題につき米国を引き込み、協調して日本に当たるべくしきりに米国に働きかけていたが、米国の態度は必ずしも英国の希望とは異なり、かえって支那における反英的風潮に巻き込まれそうな傾向が見えていた。

東京会議での英国の譲歩は米国の非共同的態度の結果で米国に責任があるとしたが、米国としては英国の譲歩によって出し抜かれた形となった。英国がいかなる譲歩をしても米国にとっては別個の問題で、その権益擁護のためには必要な独自の手段をとるとし、英国が対日強硬策をとるときには米国は放置しないと精神的に激励した。

実際に、7月22日頃からホワイトハウスへハル国務長官を始めウェールズ国務次官、セイヤー次官補等がしきりに出入りし、極秘裏に協議を重ねて日米通商条約破棄を国内対策と睨み合わせて急遽決定するに至ったとみるのが妥当だろう。

当時の独伊では、日米通商条約破棄は米英の合作行為と評論を掲げたものもあり、6月23日に英米バーター協定が日米通商条約破棄と何らかの関係があるに違いないと推測していた。

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英米バーター協定は、約1150万バーレルの米国綿花の中、200万バーレルを英国において処分して過剰綿花対策とし、その代償として英国側から20万トンのゴムと2万5千トンの鈴とを輸入して、不足軍需資材を補給しようとした。

米国にとってはまことに都合がよいものであったが、英国政府としては米国との協定することによって生じる政治的利益のために、犠牲を甘受する方針で臨んだのであろうと見られていた。

米国が日米通商条約破棄の結果として生じる日本側の米綿不買を懸念して、過剰綿花の処分を検討していたことはあり得るべきことで、米国を結局共同作戦に導いた英国外交の成功でもあった。

いずれにしても米国の暴挙を契機として英国の対米感情は改善され、従来の米英併行政策が協同政策に転換する機会を与え、せっかく順調に進みつつあった日英間の東京会議まで暗礁に乗り上げ決裂のやむなきに至った。当然米英も予想したごとく、彼らの対支協同政策から必然的に我が国の世論は独伊枢軸に接近させる傾向を採らしめた。

米国著名の評論家ポーク・カーターは、8月2日のサンフランシスコで政府の政策を攻撃して日米両国間の感情のすれ違いは結局米国の三大顧客たる日本をして米国の好まざる独伊側に押しやる結果となるであろう。英仏両国の喜びは勿論だが、同時に独伊両国も意外の収穫を予想しているに違いないと論じたくらいであった。

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4 経済的嫌がらせ

  ① 事実上の輸出禁止

日支事変が勃発して以後の現地における米国の対日態度が、軍事上経済上きわめて非友好的であったことは我々の銘記して忘れ得ざるところであるが、米本国においてもこの方針を援護するために反日世論の結成指導を選ばなかった。

その最も著しい点は、日本軍飛行機の爆撃を志那非戦闘員の殺傷と結び付けて宣伝したことで、宣伝効果を上げるために多数の捏造写真を新聞雑誌に掲げたり、ハリウッド製の映画を実写のように見せかけたりして、民衆の反日感情をあおった

我が国の兵士が支那民衆に与える損害を慮って軍事施設に対する的確なる爆撃を考え、そのために自分の危険すら顧みなかった涙ぐましい事実のごときには目を覆っていたのである。

この結果、米国内に日本品の不買同盟、日本への物質積出中止運動、労働団体の日本向け荷役不参加等々の反日運動を誘引したのである。米国政府はこの民間の動きを巧みに利用し、昭和13年7月1日モーラル・エンバゴーと称する事実上の輸出禁止という狡猾な対日経済圧迫の第一手をまず航空機及び同部分品に行ったのである。

法令をもって公然と対日輸出禁止ができないため、日本へは飛行機を売らないとの自発的協力を設け、これに従わない製造家はその名を新聞に掲載し、陸海軍の注文を割り当てないと威嚇し、ほとんど強制的に政府の意に従わしめた

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  ② 日米通商条約の破棄

日米間に通商条約が存在する限り日本のみを差別することはできない。そこで日米通商条約破棄を通告して、米国の日本品、日本繊維、日本商社銀行などに対する経済的嫌がらせを公然と行い始めた。

米国財務省が特別の指令を出して、日本商社より甚だしい所得税を請求したり、日本人勝者の輸入する日本品に対して不当な関税支払いを強要したり、徴税官は日本人辱めのためにやるのだと公言してはばからず、貿易業務の遂行は甚だ困難な状態となった。

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  ③ 輸出許可制の採用

昭和15年7月2日に米国議会は国防資材輸出取締法を可決して、7月5日以降の米国陸軍省指定物資、航空機関係品、工作機械の油種許可制を適用すると発表した。日本の買いそうな物資は虱潰しに要許可品目中に加え、昭和16年4月まで毎月平均2回づつの追加発表が行われた

輸出許可性の適用は第三国産品までも適用し、米国港からの積替えられるものには適用し、米国が支配できない中南米諸国の日本向け積出品に対しても外交交渉によりその積み出しを阻止せんと謀った

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  ④ パナマ運河通航差し止め

昭和16年7月18日、米国政府は突如として日本船緒パナマ運河通過を差し止めた。このため当時大西洋岸委あった多数の日本船は、遂に南米を第迂回して帰国しなければならなくなった。世界の高度と認められていたパナマ運河を、南アらの警告もなく日本船に限り通航を禁止したことを常識では判断できない。

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  ⑤ 全面的資産凍結令

昭和16年7月268日、日仏印共同防衛決定直後、日本に対して行った全面的資産凍結令は単に経済圧迫の手段として用いられた。米国にある銀行の資金は、米国外への移動は勿論米港内での使用も禁じ、完全にその活動を封じてしまった。

日本を経済的に麻痺窒息させようとの意図をから考案されたもので、通商条約は破棄されて日米関係は無条約状態に入ったとはいえ、外交交渉は引き続き継続されていたのである。その最中に、かくも悪辣極まる嫌がらせを実行した米国の非礼と残虐性は天人共に許される行為ではない。

しかも、日本としてこの嫌がらせを甘受することは日本の戦力、経済力が日一日と低下することを意味するものであり、日本は否応なしに屈辱か、蜂起かの最後の決断を強要されたのである。

当時の米国国内体制は昔の民主主義国にあらずルーズヴェルト大統領の独裁に帰しており、彼の対日嫌迫法案には寸分妥協の余地さえなかったことである。対日経済嫌迫がいかに徹底され、外交交渉による打開がいかに不可能と言ってよい状態であった。

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5 悪辣な対日石油禁輸

  ① 事前に練られた準備

米国を主役とした米英蘭の対日石油嫌がらせと圧迫は、人類の歴史にかってみられないほど辛辣な、しかも水も漏らさぬ用意周到なものであった。しかも時々刻々の情勢に対して極めて敏感に、これでもかこれでもかと首を締めておいて心臓の弱っていくのを冷静に計算しつつ、到底我慢しきれないで立ち上がりはしまいかと絶えず顔色を窺っていた

対日石油嫌がらせと圧迫は、意地悪い執拗な屈服策戦であった。日本はそれ故に危うく窒息せんとしたほど、強大かつ深刻な効果を持った経済戦術であった。石油が近代国家に不可欠な重要性を保つために、石油の入手困難は一国の国防力、戦闘力を徹底的に骨抜きにしてしまうのみか、一国の存在そのものをも脅かすものであることは今日もはや説明する必要はないだろう。

米国があえて対日石油対日石油嫌がらせと圧迫を企画してそれにより日本の屈服を予期した事、日本もそれに対して生か死かの一大戦争に、国家としての生きる道を見出さざるを得なかったことを我々はぜひ知らなければならない。そこで前提知識として極めて簡単に説明しておこう。

大東亜戦争の勃発前の状態においては、第二次欧州大戦勃発後といえども石油は世界的にみて著しく生産過剰であった。産油国は産油を制限するために大きな犠牲を払っていたばかりか、将来の生産力においても著しく過剰を示していた。

しかも最も皮肉な現象として米ソ両国を除いては比較的文化の程度が低く石油をあまり消費せず、一朝有事の際にもあまり石油を使用しないような国々に多く産出し、石油消費国だある世界の強国にはあまり恵まれていなかった。

例えば昭和15年の供給に基いて計算すると、世界第三の産油国であるヴェネヅェラはその産額の95%に達する輸出能力を持ち、イランは85%、蘭領東印度は71%、ルーマニヤ68%、メキシコ53%、コロンビアは84%という輸出能力を持っていた。

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これに対して、世界の強国はその石油消費の大部分を輸入、あるいは代用燃料、人造石油、その他に依存しなければならない。しかもその依存率は、同年度においてイギリス本土がほとんど全部、ドイツが87%、フランスが98%、イタリヤが84%に達し、程度の差こそあれ日本もしかりであった。

米英は、世界各国において石油業を自ら営むことにより資源的的生産的に世界の石油を掌握し、油槽船、輸槽車、送油管線、石油運搬車、船油所を七つの海と五大陸に配置することにより石油の通商と配給をも支配し、また技術的にも世界を支配していた

米英は石油なき国あるいは石油を持ちながら自国の石油業を持たぬ国、ヴェネヅェラ、イラン、蘭印、ルーマニヤ、メキシコ、コロンビア、その他に対して高価に石油を売りつけ、優良品を豊富に供給して米英に対する依存性を完全にする方策に出ていた。

米英はもと日本を石油の利益市場とみていたが、日本には貧弱ながらも国内石油業が存在し、これを壊滅させることは日本が許しそうもなかった。日本はその国力の伸展に従い石油の自給自足、石油における国家の自立性を確立する決意を表明していることを知ると一転して骨抜き作戦にでた。

優秀石油製品を安価に供給し、競争相手の日本の石油会社に対して世界でも稀にみる良質原油を低価で供給し、装置、機械、特許を譲渡し、要求があれば技師及び職工すらも派遣し、一切の資材を持参して装置の建設にもあたってくれた。

その結果、石油のあらゆる分野において自らの技術を持つ必要がなくなった。ただ外国の本を読み、外国へ注文し、あるいは見に行って買って帰った技術や機械を運転し、真似するだけの技師だけとなり、輸出港にいる品質証明書の証明が正しいかどうかを検査する試験所があれば足りた。

このような状態は、必然的に石油における国家の自立権を喪失させる結果を招来するので、昭和9年7月から我が国の統制法規の先駆をなす石油業法が実施されたが、時すでに遅しであった。

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米国が対日石油嫌がらせと圧迫を行うにあたって調査したのは、日本に対する包囲が完全であるか、抜け道を通る石油が日本を救いはしましか、ということであった。これには二つあった。

第一は、日本が平和的に第三国を利用するのではないかということある。これに対して日本の陣営にある国が石油を供給しようとすると、その国の絶対的必要量を考慮して石油の供給を停止し、対日石油通過貿易を不可能にする措置を講じた

第二は、日本が非常手段に訴えて第三国の石油在庫占領に備え、日本が急襲する恐れのある第三国の石油在庫を刻々最低限に止め、国際情勢が緊迫するや供給そのものを停止した

このようにあらゆる点から考慮し、石油入手不可により日本を軍事的産業的に半身不随に陥らせて屈服させ、万一決然と立つに至っても時すでに遅く、国力弱体化してたちまち降伏さざるを得ないようになし得るとの確信をもって、日本の首を締めにかかったのである。

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  ② 巧妙辛辣な術策

昭和12年7月に支那事変が勃発すると米国の感情的世論は極度に興奮し、政府に対して全面的対日石油禁輸を迫る声が大きくなってきた。これは、イタリアのエチオピア遠征当時の米国民の興奮と同じようなもので、時を経るにつれて鎮静化し全面的対日石油禁輸が何を意味し、いかなる事態を招くことになるか検討し始め、新聞雑誌はこれに関する専門家及び研究家の意見を掲げた。

日本に石油を全面敵禁輸するならば、日本は支那事変を即座にやめなければならない。長期にわたって全面的禁輸を持続するならば、日本はその存在も危うくするであろう。したがって、日本は生存上どうしても南方の石油を奪取するだろう。そこで似て米国との戦争は不可避となる。

その場合、ソヴェトは敵か味方か分からない。米国は将来を問わず現在は絶対に戦う単位ではないというものであった。この当時遺憾なのは、日本の貿易業者やアメリカ通と言われる人々が、もっともらしいその実きわめて愚劣で認識不足な理由を述べて、米国の対日石油禁輸不可能論を唱え、日本の世論を支配して各方面に悪影響を与えたことである。

ルーズベルト大統領は、「現在米国は軍事的に無力である。しかし、いまに米国の再軍備は進捗し戦いには必ず勝つ。その時には対日石油禁輸を強行して日本を屈従させる。だからそれまでは、そんな素振りを少しも見せずに油断させておかなければならない」と演説している。

このような狡猾な態度に出て、これがまた日本のアメリカ通及び貿易業者に一層の自惚れを与えたのだった。(その間の消息及び米国の作戦の成功については、後日、米国自らが暴露し自慢したものであった。)

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  ③  輸出許可性

7月15日にビットマン上院外交委員長が議会へ提出した提案は、九ヶ国条約に違反して米国民の生命を危うくし、あるいは米国区民の権益を侵害した国に対し、武器弾薬は勿論のこと、石油やくず鉄を売ることを禁止せよと言うのが趣旨だった。

だが、日米通商条約的には、条約国の一方は他の諸国に対して一律にある物資を輸出禁止にするのでない限り差別的に相手方へ輸出禁止をしてはならないと規定しているので、ビットマン案は明らかにそれに抵触する。

ハル国務長官及びルーズヴェルトは、法律専門家にも諮問すると彼らの回答も当然抵触するというものであったから、その真偽を一時中止して六か月の猶予をもって条約の破棄を通告してきたのであった。

これは米英心酔者や米国通にとって、米国は決して対日石油う禁輸に出ないと主張していた一部の貿易業者にとってはまさに青天の霹靂だった。と同時に、戦争の危機切迫と相まって航空揮発油の対策をどうするかということであった。

昭和14年12月20日、当時フインランドの一般市民に対する空爆でソヴィエトに対し、米国は航空揮発油の製造装置、技術特許権、技術情報に対する彼らの「道義的禁輸」を実行した。

その後、昭和15年1月26日にいよいよ無条約状態に入ると、米国は日本の周囲から遠まわしに首を絞めることに主力を注いだ。5月28日、ルーズヴェルトは第二次大戦の経緯に鑑み、急速に国防を充実するとして国防諮問委員会をつくり、財界有力者7名を委員とした。

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大統領が同委員会へ諮問した結果、議会に提出した国防強化促進法は圧倒的な世論の支持を得た。7月3日、許可制に入るべき品目が発表され5日かが実行された。

この当時、英国が一切の中立国油槽船を引き寄せてしまい、日本が石油の在庫を増やすために輸入しようとすれば、パナマ国籍の油槽船を使用するのが最も有効な方策の一つであった。

6月27日にルーズヴェルトは、アメリカ領海におけるすべての船舶の運航及び碇泊を統制するため、日本向けの石油運搬に米国油槽船の使用を禁じ、パナマ国籍の油槽船にまでも及んだ。

6月25日に許可制品目に簡単な行政命令で、石油及び石油製品と屑鉄及び屑部金属が追加された。新聞が禁輸と報道したことに後日説明を発表するとる約束したが、7月23日に大統領が発表した布告及び規則に、問題にされた行政命令には何ら言及していなかった。

関税調査官への通達では、上等な航空揮発油、同原料油、航空揮発油の性能を向上せしめる添加物並びに上等な航空潤滑油も輸出許可制下に置くとされていた。さらに、輸出許可申請書には第三国を経由して日本へ輸出されるのを防止する事ができるようになっていた

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  ④  禁輸の手段と経路

昭和15年8月1日に、米国は航空揮発油の西半球以外への輸出を禁止し、その日から対日石油禁輸は日を追うにつれて徹底的となった。それは日を追うごとに段階別に実施された。

第一段階  日本に最優秀な航空揮発油を輸出しない。

第二段階  日本に最優秀な航空揮発油及び潤滑油を輸出せず、最優秀航空揮発油の原
      料油と航空揮発油の性能を向上させる添加剤も輸出しない。

第三段階  石油製品の精製技術及び装置が米国の水準に近づくのを妨げる。

第四段階  日本には少量の国内産油があるので、それが増大しないように妨げる。

第五段階  日本の石油貯蔵を増大させず、かえってそれを減少させるように巧妙な内
      面的策略を設ける

これにより、英国石油会社のライジング・サン社は、突如として平和的なもっともらしい理由により販売用石油の補給が不可能となったとを告げて供給を止め、米社スタンダードヴァキウム社も、突如として他の理由から販売量を短期間辞退するとした

米国国務省管理局の発行する輸出許可証は同局が警告なしに無効とでき、1年以内に輸出港をでる期間は15日に短縮された。許可を受けたとの電報を受け取ってから横浜港を出ても間に合わないため、途中まで出向いていなければならない。

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しかし、いつ許可証が発行されるか分からずに米国へ走り、米国へ着いたころに不許可になれば、油槽船は再び自らの燃料を消費して引き返さざるを得ないことになった。

第六段階  日本が入手できる量は米英を合算して数字を抑え、その石油の品質を低下
      させた

第七段階  最後に一滴も石油を日本の手に入らないようにした

米国の対日石油嫌がらせと圧迫はこのような順序で、いかに思慮遠慮でありいかに巧妙な計画的で一歩一歩日本の首を絞めていったものであり、これが戦争に突入した原因であることは感得されるであろう。

かくして、支那事変の勃発当時、米国世論が無責任にも高唱した対日石油全面禁輸、すなわち一滴の石油も日本に渡さないという声は、昭和16年7月26日の日本資産凍結令の公布実施によって実現された。

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  ⑤  ルーズヴェルトの石油演説

在米日本資産凍結令は石油にのみ関するものではないが、石油が最大の原因であったことはルーズヴェルト大統領の有名な石油演説によっても明らかである。すなわち昭和16年7月末、日本と佛印との共同防衛交渉が進捗する気勢を見て、米国の新聞および世論は極度に悪化したが、ルーズヴェルトはこの世論を抑えることなく、しかもかえって対日石油嫌がらせと圧迫を極度に徹底させて、それによって戦争が南太平洋により米国もなお戦果を交えるも辞さない態度を明らかにした。

これを最も露骨に物語ったものは昭和16年7月24日、国防参加有志委員会の会員に対して、ルーズヴェルトが行った演説である。この演説で大統領は「対日妥協施策を打ち切る」と題して掲載した米国新聞もあったくらいで、石油に託した宣戦布告であったと共に最後の恫喝でもあったのだが、その恫喝も声なきを見るやたちまちにして在米日本資産凍結令を公布実施したのである。その石油演説で彼はこう言っている。

「(前略)ここすなわち大西洋岸において諸君は、内務卿イックスが石油管理官として東海岸において十分な石油がないという問題に直面していること。彼が何人に対しても各人の揮発油消費量を削除すべきことを熱心に要求していることを新聞で読まれたであろう。

さて、私はニューヨークのハイド・パークに住んでいるが、『数千トンの揮発油が西海岸のロサンジェルスから日本に向けた出されており、我々は侵略行為のように思えることを、日本のために助けているわけだと新聞で読んでいる。その同じ時に、何故揮発油を節約することを要求されるのであろうか』といい得ないだろうか。然り、答えは非常に簡単である。世界戦争は現在行われており約二ヶ年も行われてきた。

戦争のごく当初からのわれわれの努力の一つは、戦争が勃発していない地域に世界戦争が波及するのを防止しようということであった。そして、これらの場所の一つは太平洋と言われる地域、地球上の最大地域の一つである。

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その南太平洋には、蘭印、海峡植民地及び印度支那のごとき、ゴム、錫、その他いろいろの物をわれわれがそこから得なければならない場所が存在するのである。更に、オーストラリヤの肉、小麦及び穀物の余剰をイギリスの手に入るように助けなければならない。

だから、南太平洋に戦争が勃発するのを防止することは、我々の利己的な国防見地から見て非常に緊要であった。(中略)ところが、ここに日本と呼ぶ国がある。彼らがその帝国を南方に拡大する侵略的意図を持っていたかどうかはともかくとして、彼らは北にあって彼ら自身の石油をもっていなかった。

そこでもしわれわれが石油を切断してしまったら、彼らは今から一年前にたぶん石油を求めて蘭印へ行ったであろうし、そうすれば諸君は戦争に入っていたであろう。そこで『ある希望をもって、石油を日本に行かせている手段』と諸君が呼んでもいい手段が、われわれ自身の利益のためにイギリスの防衛および海洋の自由の利益のために、南太平洋を今まで二ヶ年間も戦争の域外に保たせるように働いてきたのである。」

以上をもって米国の対日石油石油嫌がらせと圧迫蛾がいかに徹底的であったかは容易に了解されると思うが、石油を輸出許可制中に編入するに際しても、いかに包括的石油、石油と名がつき石油に関係すればどんなものをも、一つの手抜かりもなく網羅しているかのが昭和16年8月2日に実施された全石油の輸出規格表である。

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  ⑥  日蘭会商の悪辣な逆用

対日石油嫌がらせと圧迫作戦として、あくまでも現実主義者であると共に、残忍極まりない彼等はさらに尽くし得るすべての手を打ち、機会のすべて手を利用することを忘れなかった。それには、

① 日本が平和的にあるいは武力的に入手するかもしれない第三国に於ける石油在庫を
  極度に低下させておくこと。

② 日本周辺国の石油による操縦

③ 石油関係者の日満支におけるスパイ行為

④ 英ソ蒋に対する積極的な石油援助(但しソヴェトに対して微妙なる米ソ関係に伴っ
  て、あるいは嫌がらせあるいは圧迫を緩和し、あるいは積極的に援助した。)

その最も悪質な態度をものがたる一例は日蘭会商の逆用だ。日蘭会商の内容は今なお秘密とされており、我々はこれを知る由もないが、昭和16年12月13日の日刊紙は「英米に踊らされ石油協定も破棄、日蘭経済交渉の経緯」と題して次の一文を掲げた。

「第二次欧州大戦を機会として、久しき間世界経済の基底となっていた自由通商主義は根底から葬られ、列国、特に世界新秩序を目指す枢軸国家は、自給自足経済主義を強く提唱し、我が国も大東亜共栄圏理論を力強く展開するに至った。

昭和15年9月日本はこの大東亜共栄圏なる広域自給自足経済圏確立の意図に基づき、蘭領東印度政庁といわゆる日蘭経済会商を開催することに意見一致し、同月12日木林昇降大臣は現職のまま蘭印に乗り込み、同月16日には蘭印首都バタヴィヤにおいて日蘭会商第一次基礎会議が開催され、本邦側は戦時重要資源たる買油交渉を開始した。

その後の日独伊三国同盟の締結ののち、日蘭両国関係は外交的にも経済的にも極めてデリケートな関係に立った中にあって、小林特使は年130万トン(このほか15年には約70万トンの買油契約あり)の買油交渉に成功し、10月17日には日蘭会商進捗状況に関する共同コミュニケの発表をなし得る段取りまでこぎつけたわけである。

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しかし、この買油交渉内容は当初われの蘭印に提出した要求額に比較すれば、実にその半分にしか充たないものであった。これによってみても、蘭印側はわが東亜共栄圏の理念を解せず、もっぱら米英依存政策にでたことは明らかである。特に買油交渉も蘭印政庁は材蘭印米英系石油会社との交渉の斡旋的役割を示したにすぎず、交渉は全部米英政府の指示に基づき行われたものであることは特に注意すべきであろう。

こんなわけで、その後の蘭印政庁の日本に対する経済的政策は、米英の悪辣なる手段よって封鎖的色彩を農くし、11月9日には満支その他ゴム、錫の輸出を制限するの挙に出た。しかし、我が国はあくまで両蘭印の経済的定型を緊密化する意図のもと、同年11月30日には芳澤特使を蘭印に特使し、日蘭経済交渉に当たらしめることになり、同氏は同年末蘭印に到着した。

その後、小林特使が当時すでに下準備の成立した日蘭印銀行間の金融協定の調印が12月24日に行われたが、芳澤特使が乗り込んで以来蘭印政庁の日本に対する敵意は次第に表明に現れるようになり、15年2月1日遂に蘭印政庁は調印の東洋新秩序編入に反対の旨を日本政府に申し入れ、5月5日には為替管理法を強化するなど、日蘭交渉はもはや前途打開の道なき事態に立ち至ったので、政府は日蘭会商を6月17日に打ち切り両国の通商関係不変を声明した。

その後日蘭関係は外交的にも経済的にも最早友好国としての関係は薄くなっていたところ、7月26日米英両国の対日資産凍結令の発動と呼応して、同月28日在蘭印試算を凍結すると同時に、日蘭石油協定および経済金融協定を停止するとの挙にでた。

米英両国は総合的見地から「日本を怒らせないでおくために供給しなければならない石油の絶対量」を決定しておき、その一部を蘭印からの供給量へ回した 。しかも間極めて悪質な術策を弄して、実質的に日本をして失うところのみで得るところのないように仕向けたのである

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すなわち、合衆国政府は対日石油嫌がらせと圧迫を行うにあたって最大関心事は、日本が蘭印の石油を奪取しはしまいかということであった。かれらはまず合衆国からの石油供給の停止が近いのをにおわせながらも、日本がその準備対策として合衆国からの購入石油の一部を蘭印に振り返ることを黙視するばかりかかえって大いに歓迎した。

この場合も狡猾な彼らは、蘭印石油中上質なものは日本に供給させないようにすることを忘れなかった。更に距離の接近により運搬費の軽減分だけを蘭印石油の売値に付加し、アメリカ石油を蘭印石油に乗り換えても日本は何ら益するところがないようにさせた

そして、日本が得るところはアメリカ石油から蘭印石油へと品質低下による損失のみとさせた。このように悪辣無動な最多の術策に禍されて、日蘭会商そのものは予定の成功を収めることができなかったが、

① 蘭印には蘭印の石油業はなく、あるものは米英の石油業のみであること。

② 蘭印政府は米英石油業者に対して全然無力であること。

③ 蘭印にある米英石油会社は世界を独占する二大石油トラストの一部であり、米英の
  国家と石油会社は一体であること。

④ 蘭印緒石油問題を決定する権限は、ロンドンでありワシントンであること。

等々動かすことのできない明確な形において、日本人の覚醒と覚悟を促した。

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  ⑦  彼等の期待した窒息

このようにして昭和17年7月26日以後、日本には一滴の石油も入ってこず、第三国を通して輸入することもできなくなった。このような状態のときに、米国のノックス海軍長官は次のように言明した。

「日本は大戦において1年や1年半位徹底的な戦時消費をやっても困らぬだけの石油、ガソリンの予備貯蔵を持っているという印象を受ける。」

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6 対日包囲陣の分析

 ① 対日包囲陣の戦略的観察

いま試みに開戦前における太平洋周辺を現した地図、ことに米英の軍事基地を記した地図を見てみよう。

① アリューシャン群島にはアッツ、キスカ、ダッチハーバーの三拠点がある。

② 太平洋の真ん中には我が南洋群島島に接してグァム、ウェーキの二拠点がある、そ
  の東方にミッドウエーがあり、更にその東にはハワイの真珠湾の軍港を中心とする大
  小の拠点がある。

③ ハワイと豪州との間の東南太平洋上を見ると、無数の小島が銀河のごとく連なり、
  その最も顕著なものにサモアの拠点があり、次いでニュージーランド及び豪州に結び
  付けられている。

④ 西と南を見ると、重慶、香港、マニラ、シンガポール、その他東印度諸島の要地が
  ある。

以上の拠点はいずれもみないわゆる戦略基地である。そして、右のような開戦前の敵方の態勢を戦略眼を持ってみると、次のような陣形であることがわかる。

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① 北から東を経て南に至る正面の第一線はアッツ、キスカ、ウェーキ及びサモアを連
  ねる線であり、その前進拠点はグァムである。同時にまたグァムやウェーキやミッド
  ウェーはその包囲網を東西に連結するための飛び石である。

② 同正面の第二線はダッチハーバー、ハワイ及びその周辺の拠点及び東南太平洋にお
  ける諸島にある拠点である。

③ 同正面の第三戦は北米大陸の西海岸の各要衝である。

④ 西南正面緒包囲線の第一線の拠点は、重慶、香港、マニラ、ビスマーク諸島、及び
  ソロモン諸島でこれを連結してサモアに結び付け、第二線はビルマの用地からシンガ
  ポールその他マライの要地、東印度諸島の要地を経て豪州、コクタン緒ポート・ダー
  ウィン及びニューギニヤの東端ポートモレスビーに連結する。

以上の各線は、見方や考え方によっては包囲陣の前線及び後縁ともいうべきもので、この包囲陣の結び目は西南ではシンガポール、東ではハワイであり、マニラと香港とはあたかも包囲帯の帯締めの干物結び目のような役割である。

この包囲陣中、南西正面の両翼の後ろには二大拠点があり、即ち印度と豪州である。さらにこの二大拠点の後ろにあるのはアフリカおよび西南アジア、独伊に対する反撃拠点たると共に対日包囲陣の役割をも務めている。

このように考察するならばこの包囲陣は敵ながら雄大な戦略態勢であり、また兵学上から体制を見、開戦前において彼らの戦備を見れば、結局日本という一大要塞を包囲するのとその戦略思想を一つにしている。艦船、航空機、通信機材などが驚異的に発達し、陸上軍隊が益々機械化すると、地球も科学の前にははなはだ狭小となる。

仮に世界地図を開きこれを十万分の一か五万分の一の地形図と仮定し、また日本を一大要塞と仮定してみた場合、この対日包囲陣というものは決して単なる包囲陣ではなく、全く至厳なる要塞攻略と同様の戦略であり、要塞攻略の戦理を時間的空間的に非常に拡大したものであることが分かるだろう

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 ② 米英の補給線計画

彼らはこの包囲陣を完成し攻略線を構成すると同時に、包囲陣に対する本国その他後方の大戦略基地からの補給連絡策をも決しておろそかにしていない。この補給連絡策は遠き以前から施されていたのである。

米国は太平洋制覇を企画して以来、北米大陸という東亜大陸との間に架橋工事的な連絡路工作を始めた。すなわちハワイの占領は北米大陸という東の橋詰からの第一の橋脚設置であり、フィリピンの占領は東亜大陸という彼らから見れば西の橋詰からの第一橋脚の設置であった。

その後、築設したグァム、ウェーキ、ミッドウエーなどはその二大橋脚の中間橋脚で、これで太平洋の中央架橋の基礎工事ができた。次いで彼らはアラスカからアリューシャンを経て東亜大陸の北方に向かう北部連絡路を敷設した。

中央および北部の連絡路はイザという場合、日本軍から素早く遮断できるところが大である。そこで彼らはハワイより更に西南に向かい、豪州及び蘭印に達する連絡線を設置した。

それは東南太平洋中に存在する無数の銀河的小島を、不沈不動の航空母艦や潜水艦基地などに編成することによって目的を達した。こうして大体三本の太平洋上の補給連絡線を完成したのである。この補給連絡はまさに前述の包囲陣の攻略線と一致している。ここが米英の老獪なる所以である

遠き依然の平時から交通線のごとく、また全く守勢線のごとく偽装したこの線は直ちにもって攻勢包囲線、この攻略線と補給連絡線との関係は万里の長城や支那の大市街の城壁の上が守兵の連絡路となったり、あるいは要塞攻略の塹壕の一部にするためである。

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あるいは敵の要塞を攻略する場合において、要点や要所に防塁を築きこれを交通濠などで連絡するやり方と全く同じ思想である。敵ながら抜け目のない偉大な攻略線と評し得よう

だが、彼に一つの大ぬかりがあった。それは何かと言えば、第一次世界大戦後の講和会議において、今の我が南洋諸島を日本の委任統治としたことだった。これは老獪米英の一矢であった。否、狸らしいぬかり方だった。

ワシントン会議その他において、米国がいかに必死になってこれを取り戻そうと苦心したか。米国が今日太平洋の作戦に苦しんでいるのを見ると、悪行には必ず天罰が下るという心理を覚えずにはいられない。

米英は更にまた大西洋を越えての対日包囲陣への補給をも考えた。それは南米ブラジルよりアフリカに出て、これを横断してインドに達し重慶に赴く陸、海、空の補給連絡線である。

これも対日包囲陣の結成にそって着手したが、今日では主として対独伊連絡線となっているようにみえる。しかし、現にこの補給線を経由した飛行機が重慶に赴き、少量とはいえ重慶への物資補給もやっているようであるから、対日包囲陣への補給線としての役目も十分務めているようだ。同時に支那大陸に空軍基地を造り、日本急襲を策しこの強化に躍起となっている。

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 ③ 包囲網の兵力外観

大東亜戦争開戦直前、彼らがいかに包囲陣内に配置していたかについては責任ある文献の公表はないようであるが、新聞雑誌等に発表された記事をつなぎ合わせていくと、大体において次のような観察ができる。

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 ① 英国

① ビルマ方面の陸軍約6万人、内海軍三万五千人、空軍不明。

② マライ(シンガポールを中心として)陸軍約七万五千人、空軍約300機、海軍主
  力艦二隻、その他補給艦艇約30隻。

※ ビルマとマライとの間に50~70ヶ所の飛行場を設けてあった。

③ 香港に陸軍約二万人弱、空軍と海軍は共に大なるものでなかった。

④ ボルネオの陸軍は有力なものは配置されていず、空軍と潜水艦基地などは沿岸各地
  にあった。

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 ② 米国

① フィリピンには米兵とフィリピ兵約25~5万人、空軍約五百機、巡洋艦その他の
  補助艦艇30隻。

② ハワイ島には陸軍約1師団、戦艦九隻、及び航空母艦巡洋艦以下補助艦艇50隻余
  り、通軍戦力不明。

③ その他米領には、ウェーキ・グァム・ミッドウエー・アッツ・キスカ・ダッチハー
  バー・アラスカ島には、空軍・潜水艦その他の艦艇の基地があり、それぞれ相当の兵
  力が配置されていた。

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 ③ 蘭印

東インド諸島には陸軍15万人、空軍約1千機、海軍巡洋艦以下37隻。

以上に列挙したもの、その他包囲網陣内の敵兵力を計算すると、陸軍約53万人、海軍主力艦13隻、巡洋艦30余隻、駆逐艦約60隻、潜水艦約90隻、空軍約2千5百機と判断される。

そして包囲陣内の基地中シンガポールは、10年の歳月と約10億円の経費をもって構築された難攻不落の大要塞であり、香港も事態の迫る以前よりその要塞をますます補強していた。マニラ湾口のコレヒドール要塞は、これまた米国の東洋大拠点として金城湯池とほこったもので、その他の包囲陣内の抗戦拠点の強化のために、包囲陣完成の前後により絶大なる努力を払っていたことは言うまでもない。

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このほか、包囲網の西南正面の大拠点というべき豪州とインドに配置された兵力は、

① 豪州の陸軍約40万人、海軍の巡洋艦以下数隻、空軍約200機。

② 印度の英米兵・豪州兵・インド正規軍を合わせて計約45万人、他に州兵などを加
  えると約100万人に達すると言われ、空軍は約350機。

以上に列挙したもの、その他と言われ総計約30万人であった。以上の兵力をもって彼らはどのようにして日本を包囲しようとしたかは分からないが、そのための協調はしばしば行われたようである。

日本の決起と彼らの包囲要領を推定すると、まず米軍の海軍を中心としこれに英国及び蘭印の海上並びに空中勢力を総合して、日本海空両軍を撃滅した後にしだいに日本を威圧して行こうとすると考えたと思われる。

日本の西南方包囲網に対する突破に当たって、まず、香港、フィルピン、北ボルネオ、マライの各要地を連ねる包囲網において、日本の南進軍を開錠で撃滅することを策し同時に蒋介石軍をして日本軍の香港、マニラ、ビルマへの侵攻を阻止または抑制し、かつ必要な飛行基地または潜水艦基地を提供させると言う作戦ではなかったかと想像される。

彼らの胸算用ではシンガポールやコレヒドールの要塞は、少なくも半年ぐらいはもつと考え、かつ米国の海軍を主体とする連合艦隊で、西南太平洋の制海権も十分獲得できると考えていたらしい。

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8 戦争へ追い込んだ米英

米国が日露戦争直後より今次開戦直前に至るまで、あるいは排斥、あるいは圧迫、果ては弾圧など、我が国に加えた侮辱と非礼とは世界四千年の国交史に稀なるものであり、また英国が明治維新前後より日清戦争までそしてワシントン会議より今次開戦直前までわが国に対してとった態度もまた米国と同様で、ただ米国のような下劣な態度でなかったと言うに止まる。

過去幾多の米英の対日外交振りを見れば、その内容もその態度も傲慢、その言動や横柄、なすところは悪辣非道筆舌をもって形容しがたきものがあり、よくもわれわれの先輩はこれを堪忍してきたものだとその自重の裏に潜む万斛の血涙をそぞろに偲ばざるを得ないほどである。

彼らが我が国を軍事的に包囲するに先立って、我が国をまず外交的に孤立無援にしてしまおうと企画したこと。この外交包囲にも満足せず更に我が国の窮乏衰微を策して我が国に対する卑劣な経済圧迫をつづけ、我が国をして経済的孤立に導かんとしたことは、前に帰したとおりである

彼らは日本民族の移民を完全に排斥し、我が国製品の輸入や彼らの日本への輸出品を彼らの本国と属領から制限したのみならず、他民族の国からまでも日本排斥を策し謀略をもってこれを実行せしめた。

即ち我が国を完全にのけものにして貧乏人にしてしまうという策で、この排日侮日はついに悪辣なる経済包囲、経済封鎖という目的のために手段を択ばざる結果を招来した。彼らの企画したところは我が国を丸裸にして、丸腰にしたうえで軍事包囲をして我が国を袋叩きにししようとしたのである

我が国への油道の切断こそ悪辣性の最たるものであった。油道を切断して我が国の艦船、飛行機、機械化部隊が動かなくなれば我が国は刃に血ぬらずして武装解除し、少なくも我が国の軍備をして、日本国産の油で維持し得る程度まで制限したのと同様である。

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こうしておいて、我が国を袋叩きにして打ちのめそうとしたのである。例えをもっていうならば、ギャングの親玉がその配下を語らって、善良なる一人の少年を取り巻いて袋叩きの気勢を示しつつ、侮辱、罵詈し、難題を吹きかけ、聴かねば打ちのめすぞという構えの姿勢、それがこの対日包囲陣であったのだ。

開戦前の包囲陣は包囲陣にあらずして攻囲陣であったことは前述のとおりである。およそいずれの国においても自国防衛のために必要なる防備をなすのは当然のことであり、もちろん仮想敵国との交戦の場合を十分に考慮のうちに入れるのも当然ことであるが、それは内容においても外観的にも、守勢的であるべきはずである。

袋叩き的構えの攻勢包囲陣を造って相手を起ざるを得ざらしめ、起てばこれを袋叩きにして打ちのめそうと言うような戦略は、世界史未だ見ざる悪辣なる戦略だと断言することができる

かかる悪辣性の包囲陣である。起たざれば我が国は自滅するか、袋叩きにされて落命するかであったのだ。決然、我が国がその自立自衛のために立ったのはいわば当然の帰結であったのだ。

我が国史を見ても世界史を見ても、戦端を開いたのち敵の城砦を包囲し、糧道水道を断ち切って攻め立てることは戦闘の常同であり別に不思議でないが、開戦前から敵を包囲しその糧道水道と同様である油道その他の軍需資源の途を断ち切り、袋叩きの攻撃的構えをなし、これをもって傲慢無礼極まりのない外交折衝の道具とした例は、古来ただ大東亜戦争開戦前の米英中心の対日軍事包囲陣あるのみである

かかる悪辣性の包囲陣で、言わば挑戦そのものであったのだ。ただ座れば我が国は自滅するか、袋叩きにされて落命するかであった。完全と我が国がその自立自衛のためにたったのはいわば当然の帰結であった。

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9 目を覚ませ日本人

連合軍に都合の悪い考え方や批判を一切禁止し、極東国際軍事裁判で事実の隠蔽や罪人を捏造することで、戦争についての誤った罪悪感を日本人の心に植えつけた。力による勝者に媚び、いまだに真実を隠して勝者にへつらっているのがNHKをはじめとするマスコミである。

勝てもしない無謀な戦争を行った、政治家や軍部が日本国民を不幸にした、東南アジアの国々に多大な迷惑をかけた、中国を侵略し韓国を植民地にしたと非難ばかりである。日本人は新聞やテレビの報道を正義と思い込み信じやすいことを利用している

昭和17年12月に日本は支那に対する新政策を打ち立てた。昭和18年1月9日、日本は支那における特殊権利として持っていた一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関する日華協定を締結し実行した。これにより、日本が押さえていた米国と英国の財産のすべてを、中華民国南京国民政府に引き渡した。

さらに、日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権も放棄し、日支事変終了後に日本の軍隊には駐兵権もなしに全面撤兵することを約束している。これにより、対等な関係における主権および領土の尊重も約束した。

これに対して中華民国南京国民政府行政院長汪兆銘は、「本年1月以来日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、ことに最近に至り日支同盟条約をもて日支基本条約に代え同時に各種付属文書を一切破棄されたのであります。

国府孫先生が提唱された大東亜主義は、ここに光を発見したのであります。孫文が日本に対して切望した中国を助け不平等条約を廃棄するということも実現されたのです。」と公式の会議で述べている。

日本は、昭和18年8月1日にマレー地方の一部を編入してビルマの独立を承認した。昭和18年10月14日にフィリピンは独立し、ラウレル大統領の希望に応じて日本軍を常設しないこと、戦争には参加しないことを同意した。これは、日本が領土的野心を何も持っていなかった証拠である。

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昭和18年8月20日に、日本はマレーにおけるイギリス占領地域の中から、元来はタイの領土であったベルリス、ケダー、ケランタン、トレンガの四州およびシャンの二州のケントン、モンパンをタイ領土に編入することを約束した。

タイのワンワイタヤコーン殿下は、次のように述べている。「日本政府は非常に心が広く、よくタイの失地回復と民力結集の国民的要望に同情され、領土をタイに編入してくれました。これは実に日本国がタイの独立および主権を尊重するのみならず、タイの一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものです。タイの官民は日本国民に対して深甚なる感謝の意を表するものです。」

マレーシアの元外務大臣ガザリー・シャフィウー氏は次のように述べている。「日本はどんな悪いことをしたというのか。大東亜戦争でマレー半島を南下したときの日本軍はすごかった。わずか三ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は破れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。」

シンガポールで結成された「インド国民軍」の元大佐ハビブル・ラーマン氏は次のように述べている。「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本が育んだ自由への炎によるものだったことを特に記さなければならない。」

インド国民軍全国在郷軍人会代表のS・S・ヤダバ氏は「われわれ印度国民軍将兵は、インドを開放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して最も深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命を捧げた日本将兵に対する恩義を末代に至るまで決して忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。」と述べている。

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インド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言葉を残している。「太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。」

インドネシアの元首相モハメッド・ナチール氏は次のように語っている。「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」

ユン・チアンとジョン・ハリデイ共著の「マオ 誰も知らなかった毛沢東」の第19章には次のように書かれている。

毛沢東は抗日戦争を、中国人民が一致団結して日本と戦う戦争というふうにとらえていなかった。蒋介石と同じ側に立つつもりはなかったのである。後年、毛沢東は側近たちとの会話で「蒋介石と、日本と、われわれ…三国志だな」と語っている。つまり、この戦争を三つ巴の争いとみていたのである。

毛沢東にとって、抗日戦争は日本の力を利用して蒋介石を滅ぼすチャンスだった。後年毛沢東は、日本が「大いに手を貸してくれたこと」に対して一度ならず感謝の言葉を口にしている

戦後訪中した日本の政治家たちが過去の侵略について陳謝すると、毛沢東は「いや日本軍閥にむしろ感謝したいくらいですよ」彼らが中国を広く占領してくれなかったら「われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう」と述べたと言う。これこそ毛沢東の本心だ。

毛沢東は蒋介石と交渉して、共産党軍を正面戦に投入せず国民政府軍の側面部隊として遊撃戦に使うことを了承させた。毛沢東は自軍を侵略者相手の先頭に使いたくなかったのである。毛沢東は共産軍の指揮官に対して日本軍が国民政府軍を打ち待たすのを待ち、日本軍が進撃していった後背地を領土として獲得せよと命じた。

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日本は中国の広い地域を征服しても、それを占領維持することはできなかった。占領地域の方が本国よりはるかに広大だったからだ。日本は鉄道や大都市を支配しているだけで、それ以外の小さな町や農村は早い者勝ちの取り放題だった。

毛沢東は同時に、敗走した国民と政府軍の兵隊を集めて共産党軍を拡大せよという命令も出した。侵攻していく日本軍の後方でおこぼれを拾って共産軍を拡大強化していく、というのが毛沢東の作戦だった。

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毛沢東の方針に対しては、日本との戦闘を望む共産党軍の指揮官たちから反発の声が上がった。9月25日、共産軍は始めて日本軍と交戦した。山西省北東部、万里の長城近くの平型関(ピンシンコワン)で林彪の部隊が日本の輸送部隊の後尾に待ち伏せ攻撃をしかけたのである

これは小規模な衝突にすぎず、非戦闘部隊を相手の戦いだったが、共産党軍が日本兵を殺害したのはこれが初めてだった。全軍が毛沢東の命令に従っていたならばこの戦いは起こらなかったはずだ。

毛沢東は、平型関の戦闘を聞いて猛烈に怒った。この戦争は「蒋介石を利する」だけで、共産党根拠地を築くと言う目標にとって何の足しにもならないと言うのが毛沢東の言い分だった。その一方で、毛沢東は平型関の戦いを最大限にふくらまし、共産党は国民党より抗日に熱心であると宣伝するのに利用した。

共産党が平型関の戦闘に繰り返して言及した理由は、ひとつには共産党にとってこの一戦がここ数年間で文字通り唯一の抗日実績だったからである。もっとも、戦果はせいぜい二百人程度の日本兵を殲滅しただけであった。

1941年2月にソ連に提出した報告書によって、このことは裏付けられている。林彪は「中国共産党は、今日に至るまでこの戦闘を宣伝目的で利用している。わが党のすべての文書の中で、重要な戦闘として引用されているのはこの一戦でだけである…」と書いている

1930年代から中華民国と南京国民政府と内戦を繰り広げていた中国共産党は、第二次世界大戦終結後の内戦で国民政府軍に勝利をおさめ1949年4月に南京国民政府の首都南京を制圧して、毛沢東が1949年10月に中華人民共和国の建国を宣言した。

中国共産党の毛沢東主席は、昭和39年に次のよう語っている。「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。」

中国共産党の鄧小平副主席は次のように述べている。「日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。」

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日本軍と支那軍の大規模な会戦などはひとつもなく、ゲリラ掃討作戦にすぎなかった。蒋介石のアメリカ軍事顧問であったウェデマイヤー将軍は回想録「第二次世界大戦に勝者なし」の中で次のように述べている。

中国民を苦しい目に遭わせたのは日本軍ではなく支那兵だ。支那兵は逃亡に際して略奪、放火、強姦のやり放題だった。それが唯一の、彼ら兵士のボーナス、サラリーだったからである。

鄧小平氏が言われるように日本は中国共産党軍と直接戦っていない。しかし、2018年末に中国の企業債務残高は約2100兆円に達して金融事情が崩壊寸前になると、習近平小総書記は対日戦勝記念日を設けて経済政策の失政から国民の目を逸らした

日清戦争は清国の支配から脱して韓国を独立国にするための戦争で日本は13,800人の戦死者を出した。また、日露戦争はロシアの支配から韓国を守るための戦争で、日本は115,600人の戦死者を出した。

韓国人は祖国の独立のためになにもせず、1人も死者を出していない。イザベラ・バードはイギリスの女流旅行作家で、世界の広範な地域を旅行したその旅行記はどれも高い評価を受けている。彼女は「朝鮮紀行」で次のように述べている。

わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。

日本は韓国への戦争責任などまったく負っていない。そもそも日本は韓国とは戦争をしていない。大東亜戦争では韓国人も共に戦い連合国から敵国とされていた。義兵や反日ゲリラたちは日本軍と戦ったとしても、日本にとってはゲリラ排除作戦でしかない。

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極東国際軍事裁判所の法廷へ提出された東条英機首相の宣誓供述調書は、弁護を担当された清瀬一郎博士とアメリカ人弁護士ブルーエットの両氏が九ヶ月にわたり内容の事実確認を行ったものであるが、大東亜戦争を考察する際に取り上げられたことはない。

宣誓供述調書で東条英機首相は次のように述べている。「私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認された国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。」「すなわち敗戦の責任は当時の総理大臣たりし私の責任であります。」

米国上院の軍事外交合同委員会でマッカーサーは、東条英機首相が述べたように大東亜戦争は、日本が自存自衛のためにやむを得ず行った戦争であることを認めて次のように述べている

「従って、彼等が戦争に突入した目的は、主として自衛のために余儀なくされたことである。 Their purpose,therefore,in going to war largely dictated by security.

東京裁判は日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰すから止めたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、それはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島・樺太を譲ることを条件として日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない。(アメリカ陸軍法務官プライス)

まともで教育のある人々がなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。こういうことを理解せずに、ただ避難する人々がいる。彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人々なのだ。当時の日本指導者たちをモンスターにしたり、日本の置かれた悲劇的な立場を考えもせずに人々を英雄視したりしても、何の解決にもならない。解決どころか、このような態度そのも問題なのだ。(米ディッキンソン大学ジョージ・フリ-ドマン教授)

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