はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第4章 植民地回避の歴史

ナザレのイエスの主張が利用されてキリスト教が創られ、カトリックがヨーロッパから全世界を徘徊して人々を殺戮した。日本にもカトリックの魔手が伸びてきたが、先人の知恵により植民地化を免れた。

1.カトリック禁止の理由

 1-1 ユダヤ教の歴史

ユダヤ教がいつ成立したかは分からないが、ユダヤ人たちは永遠に変わることがない不毛の地である砂漠で一神教を生み出し、モーゼがエジプトのシナイ山で神の言葉(十戒)を聞いて広めたことが起源とされている。

ユダヤ教は主にイスラエルやアメリカの一部、ヨーロッパの一部などで信仰され信者は千五百万人程度と言われる。世界のごく一部の地域でしか信仰されていないが、ユダヤ教ほどこの世の中に影響を与えた宗教はない。

前千年頃にヘブライ人(ユダヤ人と同義語)のサウルが民族を統一してヘブライ王国を作り、二代目の国王ダビデがペリシテ人を倒して二代目の国王となった。三代目のソロモン王のときに周辺諸民族を従えてパレスチナ全域を支配下に置き、前十世紀にはエルサレムにヤハウェ神殿が建築され「ソロモンの栄華」と称された。

しかし、ソロモン王の積極的な神殿などの建設は民衆への負担を増大させて次第に反発が強まり、王の死後に北部の部族が南部のユダ族の支配に反発して分離独立し、イスラエル王国が成立した。それにより南はユダ王国とよばれるようになった。

イスラエル王国は反ユダ王国嫌悪でまとまっているにすぎず、クーデターが頻発して王が相次いで家臣に殺害され、多民族の侵略を受けることで国が分裂して前五百年頃に崩壊した。ユダヤ人たちは征服者に反乱の防止、職人や労働力の確保を目的としてバビロニアへ強制移住(バビロン捕囚)させられ、灌漑用運河の建設などに従事した。

新バビロンは西暦前537年頃にペルシャに滅ぼされ、捕らわれていたユダヤ人たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することが許された。しかし、すべてのユダヤ人はエルサレムへ戻らず、世界の各地に散らばっていった

トップへ戻る

多くの国々には山や木々が存在するため多神教が生まれ、古代エジプトには様々な神々が存在し、インドのように今でも多くの神々が信仰の対象になっている国や地域は無数にある。中国も、最近ではキリスト教が台頭しているとはいえ、基本は多神教である。

多神教の民族同士が交流する場合は神様が複数いるのが当たり前で、他の宗教の神様に対しても敬意を払って礼拝するのが普通であることからトラブルは起こりにくかったが、新バビロンを旅立ったユダヤ人は異なった

ユダヤ教には「ユダヤ人こそ神に選ばれた民族であり、ユダヤ人のみが最終的に神に救われる」という「選民思想」がり、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教とは異なり他民族に布教する必要のないユダヤ人のための宗教であった。

世界の各地に散らばった一神教のユダヤ人は、相手の民族の神々を尊重する態度を取らなかった。当然、他の宗教の神の偶像を拝む行為も拒否した。こうしたことから、ユダヤ人は傲慢であると他の民族から忌み嫌われるようになった。

キリスト教は原点がユダヤ教で、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の基本概念は「この世を作った唯一神」の言葉が記された「聖典」を元に生きるというもので、基本的に3つの宗教の神様は「同じ神様」である。

トップへ戻る

 1-2 イエスの実像

イエスが処女マリアから産まれ、死後に復活したという新約聖書を読み、書かれたことを信じる人が現代日本にいるだろうか。今ではヨーロッパのキリスト教徒でもイエスの復活を疑うものが半数で、イエスを神と思わず模範的な人間と捉えるものがしだいに増えているという。

ガリラヤ地方に預言者ヨハネがあらわれ、荒野で終末の審判が近づいたと呼ばわり悔い改めて洗礼を受けよと人々に説き始めた。これはユダヤ教の神殿祭司が考え出した「罪の許し」を否定する行為なので、ガリラヤの領主ヘロデはヨハネを捕らえて処刑した。

そのヨハネから洗礼を受けたのが若いイエスだった。イエスは「神の国は近づいた、悔い改めよ」と伝道を開始し、ガリラヤ地方の貧民や病に苦しむ人々の中に入っていき、あちこちで病を治すなどの奇蹟を起こしたとされる。

新約聖書の四福音書に書かれているイエスの行動は、病人の中にいたり、収税人や売春婦や羊飼いなどに語りかけ、彼等と共に食事をし彼等と共に生活をしていた。彼等はその当時「罪人」とされ差別されていた人々だった

収税人は「ユダヤの神」を知らない異教徒で戒律も守らない「不浄の民」であり、ローマ帝国のために働く「犬・手先」とみなされ、彼等の給料はその取り立てた税金から払われたので「盗人」とされていた。

売春婦は当然「姦淫」の罪を犯している「罪人」とされ、羊飼いは勝手に人の敷地にはいりこんで草をくわせる「掟破り」であり、得体の知れない悪霊の住む山野で暮らす「悪霊」の仲間とされ、彼等はユダヤ教の戒律に違反しているとされていた。

トップへ戻る

その他に罪人とされた人々には、墓地や埋葬にかかわる者、肉屋や皮なめし職人、床屋や風呂屋など汚れにかかわる者、飾り職人や織物職人など女にかかわるものなどがあげられる。ユダヤでは女性は始めから不浄のものとされていた。

イエスは「自分がここにきたのは罪人のため」と言ったのは知られているが、イエスが罪人と言ったのは前述のような宗教的「罪人」で、強盗・殺人などの社会的罪人を指しているわけではない

これらの人達は好き好んでこのような「罪人」になったわけではなく、そうしなければ生きていけなかった。ユダヤ人の社会的差別は激しく、職業や生き方の選択の余地などはなく、差別されながら苦難にあうのはその罪のせいだとされていた。

生きるために必死な人々を罪人と差別したのは、恵まれた一部のユダヤ人上層階級の人達であるユダヤ教神官や学者達だった。彼等は搾取するだけ搾取し、ノウノウと暮らしながら自分達は正しい人間であり救いは自分達にあるとしていた。

恵まれた一部のユダヤ人は「戒律」を守ることができ、手の汚れる仕事をしなくて済んだ。教会にもたくさんの献金ができ、安息日も守れ、お祭りや行事を行うにも何の障害もなかった。

売春婦を買うのもこういった人達で、苦しんでいる人々を罪人呼ばわりして彼等に救いなどは得られないとさげすんでいた。イエスはユダヤ教を改革しようとしたのではなく、ユダヤ教を信じていると自称しているユダヤ人上層階級の人達を非難した

分かりやすい教えを難しくし、勝手にさまざまな教えや儀式を自分たちの都合の良いように変えてしまった。四福音書を読むと、その代表的な人たちがパリサイ人や律法学者であることが理解できる。

トップへ戻る

 1-3 四福音書が伝えるイエス

新約聖書の四福音書でイエスのやろうとしたことを調べると、イエスは「神」とはあくまでも一線を画して「人の子」と自称している。イエスの言動を辿ると、ユダヤ教の現状を腐敗しきったものとして神の御心に叶う清らかな無垢の心を持たなければならない、そのためまず悔い改めて素直にわたしの言葉を聞きなさいと読み取れる。

安息日を聖なる日として守れと十戒にあるが、イエスが徹底的に無視し続けたのはイエスの旧ユダヤ教への挑戦であった。断食や洗礼などを行わず、食前に手を洗わず、罪人と平気で同席し、らい病患者にも平気で触る。ユダヤ教社会の規律を乱す者と指弾されてもやむを得ないことを敢えてやっていた。

イエスは、あなたがたは神のいましめをさしおいて人間の言伝えに固執しているとし、わたしが律法や預言者を廃するためにきたと思ってはならない。廃するためではなく成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのであると説いた

パリサイ人たちの「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」との問いに、イエスは「モーゼはあなたがたになんと命じたか」と問い返した。「モーゼは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」とパリサイ人たちが答えた。

イエスは「モーゼはあなたがたの心が頑ななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから『神は人を男と女とに造られた。それゆえに人はその父母を離れふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはやふたりではなく一体である。 だから、神が合わせられたものを人は離してはならない」と答えた。

トップへ戻る

イエスの言葉は「あなたがたは神のいましめをさしおいて、人間の言伝えに固執している。あなたがたはいちばん大切なことを忘れているんじゃないか。夫婦が添い遂げようとする、その心持こそ大切だし人間として自然だろう。モーセが言ったのはあくまでどうしようもなくなったときのことだ。肝心なことを見失うな」という意味になる

ローマ総督はイエスが民衆を扇動して暴動を起こし、それがローマに対する反乱に及ぶことを潜在的に恐れていた。ポンティオ=ピラトは裁判で証拠がないことから無罪を宣言したが、民衆の「イエスを殺せ!」の要求に応えてイエスを処刑せざるを得なかった。

イエスの生前にキリスト教が成立したのではない。イエスはあくまでユダヤ教の枠内でその改革を主張して容れられずに処刑されたのであり、その使徒たちの活動も始めはエルサレム周辺のユダヤ人社会に限られていた。この段階では「ユダヤ教イエス派」というのが実態に近い

一時期「ダビンチ・コード」でイエスの子孫の存在が話題となったが、新約聖書に組み入れられなかった外典、マリアの福音書、トマスによる福音書、フィリポによる福音書には、イエスがマグダラのマリアと結婚していることが書かれている。

イエスとマグダラのマリアの間に子どもがいたことは、ルクセンブルグ大公國では公然の秘密である。敬虔なカトリック国であるルクセンブルグ大公國は貴族の所領ほどの広さだが、百年間に三人の神聖ローマ皇帝を輩出しているヨーロッパ随一の名門である。

トップへ戻る

 1-4 キリスト教の伝播

ユダヤ教の信者になるには、ユダヤ民族の血を引くことが必須条件だった。具体的にはユダヤ民族の母から生まれることが必要だった。しかも、ユダヤ教徒は教義上イエスをメシアと認めず、中世から近代にかけて「イエスを殺した」として世界中のキリスト教徒から迫害を受けた。

キリスト教の開祖はイエスではなく、イエスの弟子たちがイエスを祀り上げた宗教がキリスト教である。ユダヤ教の一派がユダヤ人を切り捨てて異邦人(ユダヤ人以外)相手に伝道し始めてから、イエスの教えは「キリスト教」へと変容した

ペテロなどによるローマでの布教と、パウロがイエスの死を人間の原罪を贖うものと位置づけ、人種・民族を越えた救世主(メシア)であると説いたことで、ユダヤ人を切り捨てユダヤ教の一派から世界宗教への転換をはかりキリスト教としての道を歩み始めた。

旧約聖書の戒律を大幅に緩和し、一方で隣人愛を説くのが新約聖書の特徴である。「イエス・キリストを信じることこそ救いの約束なのだから戒律は一旦白紙で考えよう」という極端な操作が行われたと言える。

これは、宗教指導者が宗教を再構築することを容易にするルール変更であり、政治的指導者が利用するために都合の良い改変だった。パウロはユダヤ教の律法をほとんど無視して、イエスを信じれば誰でもキリスト教徒になれるように変えてしまった

ローマ皇帝「ネロ」の時代にローマで大火事が発生し、多神教を認めないキリスト教徒の仕業であるとしてネロはキリスト教を迫害し、使徒ペテロやパウロが殉教(信仰している宗教のために命を落とすこと)した。

トップへ戻る

ネロによる迫害以降ローマ帝国はキリスト教を異端の宗教として弾圧するようになり、キリスト教徒たちは地下に「カタコンベ」と呼ばれる隠れた教会を作り、ひっそりと礼拝を行うようになり迫害されながらも教徒の数を徐々に増やしていった。

ローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教への迫害は効果を持たずキリスト教の影響力は大きいとし、313年のミラノ勅令によりキリスト教を公認した。公認されると、迫害されていた時代から続いていた「何が正統派か」という議論が白熱化していった。

数が増えれば組織の規模が大きくなって序列が生まれ、ローマやイェルサレムにある大教会が各地の教会を統率・指導したり、教会内でも司教がトップでその下に司祭がいるといった、ヒエラルキー(ピラミッド型に序列化された階層制の組織)構造が誕生した。より広範囲に布教するにはキリスト教独自の聖典が必要とされ、2世紀初頭にイエスの言葉や使徒たちの書簡、イエスに関する逸話などをまとめた新約聖書が編纂された

神学上の信仰と語法に関する議論が白熱化し、アレクサンドリア総主教キュリロスは、ナザレの街を歩いていたイエスはまさしく神であり、人の姿をとって現われたイエスもまさしく神であるとして、聖母マリアはすべてにおいて神聖であると主張した。

コンスタンテイノポリス大主教ネストリオスは、イエスには人間性と神性という完全に独立した自立存在が併存していたとし、聖母マリアは人の母でも神の母でもなくキリストの母であると主張した。

431年に東ローマ皇帝のテオドシウス2世の呼びかけで、トルコ共和国セルチュク郊外のエフェソス公会議が開催された。キュリロスとその支持者はネストリオスとその支持者が到着する前にエフェソス公会議を開会させ、賄賂攻勢などでネストリオスが異端であるとして職務を剥奪して国外へ追放した

トップへ戻る

2.日本の事情

 2-1 文化の交流

57年に倭奴国王が後漢初代皇帝の光武帝に使を派遣し、239年にヒミコも中国の魏に使者を派遣していた。423年~478年の間に讃、珍、済、興、武の五王の朝貢が史書に記され、この当時大陸の情報や文化が日本へ流入していた。

聖徳太子は大陸の文化の移入などに努め、607年に小野妹子を煬帝のもとへ遣隋使として送り「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出所の天子、日没するところの天子に書を送るつつが無きや)」を含む国書を持たせた。煬帝は無礼として冊封を解除した。

南淵請安(みなみぶちのしょうあん)は、帰国後には学者として中大兄皇子、中臣鎌足の師となり、律令にもとづく唐の中央集権国家体制や儒教などを教え、大化の改新の新思想に大きな影響を与えたとされる。

道昭(どうしょう)は三蔵法師玄奘に師事し同室で暮らしながら相教学を学ぶ。660年頃多くの経典を得て帰国し、奈良の飛鳥寺(元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学(日本の法相宗・南都六宗の一)の開祖となった。

道慈(どうじ)は702年に山上憶良などと共に唐へ渡り西明寺で三論を学び、吉備真備(きびのまきび)は唐に渡り儒教、天文学、兵法、音楽などを学び、752年に鑑真を伴って帰国した。

最澄(さいちょう)は804年に国選の遣唐使の一員(環学生)として入唐し、仏教や密教などを学び1年後に帰朝して比叡山延暦寺で布教に努めた。大乗戒壇院設立を計画中に南都諸大寺の反対に会い挫折、不遇の中で死去した。

ネストリオス派によってキリスト教が東方に伝道された時代は、仏教が盛んに伝道された時代とも重なっている。般若三蔵は782年にインドから長安に戻り、携えてきたソグド語の「大乗理趣六波羅蜜多経」を中国語に翻訳できずにいたのを、助けたのが既に聖書の中国語訳に取り組んでいたネストリオス派のアダム主教(景淨)だった。

トップへ戻る

空海(くうかい)は804年の遣唐使団に自費で参加し、長安入りした空海が、サンスクリット語を般若三蔵から学んだ。空海が住居にした西明寺の近くにはネストリオス派の教会があり、空海もアッシリア東方教会の聖職たちと交流を持ったことは想像に難くない。中国ではネストリオス派が伝えたキリスト教を景教という

3年あまりの留学でインド哲学やサンスクリット語をはじめ密教や真言宗を学び、青竜寺の大阿闍梨恵果から密教の奥義をすべて授けられて帰国。高野山金剛峰寺、京都東寺を開き、真言密教の道場として当時最先端の学問でもあった密教を広めた。

景教博士と称された佐伯好郎によると、渡来系氏族である秦氏によって日本にも景教が伝わったとされる。中国ではダビデを漢訳して大闢と書くが、秦氏は西日本の日本海各地に大避神社と号する神社を建立し、また京都市の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した大酒神社も、昔は大辟、さらにさかのぼると大闢と号していたという。

また、同神社が管理している木嶋坐天照御魂神社にある「三柱鳥居」という珍しい鳥居は三位一体を表し、また「いさらい井戸」はイスラエルの転訛ではないか、などと推察している。ネストリオス派以外のキリスト教徒は自己中心で、中国にネストリオス派の教会があったことも日本へ景教が伝わったことも認めようとしない

織田信長は南蛮に高い関心を寄せ、ヴァリニャーノやルイス・フロイスらスペインやポルトガルの宣教師や商人たちと積極的に会見し、国際情勢や最新の知識・技術・文化を積極的に取り入れようとした。ヴァリニャーノの使用人の黒人を譲り受け、ヤスケと名づけて重用した。イエズス会の献上した地球儀・時計・地図なども理解したと言われる。

トップへ戻る

 2-2 カトリックの禁止理由

豊臣秀吉は、ポルトガル・オランダとの朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・商業統制を行い、宣教師たちの日本国内での布教を黙認していた。1580年に大村純忠が貿易での利益を求めて長崎の統治権をイエズス会に託したのを、スペインとポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向け、天正15(1587)年に長崎を直轄領としてバテレン(カトリック)追放令を出した

徳川家康は、1600年日本に漂着したオランダ船リーフデ号の乗員ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを外交顧問に招き、ヨーロッパの珍しい品々や最新の技術・文化を取り入れた。また、長崎・平戸に商館を設けてオランダやイギリスの東インド会社との貿易を積極的に進めた。

当初はロドリゴ・デ・ビベロやビスカイノらイスパニア(スペイン)人も厚遇したが、1612年に切支丹(カトリック)の布教を主な目的としたスペインとの関係を絶って、秀忠・家光の時代にはオランダ以外との交易を禁止した

カトリックもプロテスタントも「主」を万能の有一神としている。「カトリックの主」はいついかなる時でも奇跡を起こせるから万能なのである。「プロテスタントの主」は天地開闢のときに終末までの事象を豫(あらかじ)め定めていたとし、最後の審判の時に天国に行く者と地獄に行く者も豫め定められているとした。

幕府が切支丹(カトリック)の布教を嫌ったのは、奇跡を起こせる万能神による日本支配を目指しているので敵として排除する必要があった。プロテスタントのオランダ人は、有色人種は天国に行くように定められていないから、布教などと言う無駄なことしなかった

トップへ戻る

名君と呼ばれた江戸幕府八代将軍徳川吉宗は、西洋の知識を得ることによって国力を強化しようと「キリスト教関連以外の洋書の輸入を許可」した。オランダから渡来した西洋の学問は蘭学(らんがく)と呼ばれた。

1771(明和8)年3月に蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した。オランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を所持していた玄白と良沢は、実際の解剖と見比べてオランダの解剖学書の正確さに驚嘆し、玄白これを翻訳しようと良沢に提案した。

蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、池田淳庵を加えて翌日から良沢邸に集まり翻訳を開始した。辞書がない時代に、1つ1つの単語を前後関係から推測しながら訳すという途方もない努力が続けられた。

解体新書は「ターヘル・アナトミア」の翻訳だけではなく、「トンミュス解体書やアンブル外科書解体篇」など九冊の解剖書が参考にされ、表紙は「ワルエルダ解剖書」と類似している。

1824年に来日したシーボルトは、オランダ人のふりをしたドイツ人で、画期的な外科技術やそれ以外にも西洋の最新技術をもたらした。不屈の漂流民大黒屋光太夫はロシアから帰国して世界情勢を伝え、間宮海峡を発見した大冒険家の間宮林蔵と蝦夷地の商人高田屋嘉兵衛もロシア人との交流から世界情勢を日本へもたらした。

トップへ戻る

1841(天保12)年1月に乗り込んだ萬次郎の漁船は、突然の強風に船ごと流され伊豆諸島にある無人島の鳥島に漂着した。143日後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された萬次郎はアメリカへ渡り、ジョン萬次郎と名乗ってオックスフォード学校やバートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んだ

1851(寛永4)年に薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に上陸した萬次郎は薩摩藩や長崎奉行所の尋問を受け、土佐藩での尋問の際に蘭学の素養がある絵師の河田小龍がジョン萬次郎の話を「漂巽紀略全4冊」にまとめた。土佐藩主山内容堂に献上され、その写本は多くの大名にも供され坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目を通していたようである。

ジョン萬次郎は高知藩校「教授館」の教授に就任し、後藤象二郎や岩崎弥太郎等を直接指導している。1860(万延元)年に日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した岩倉使節団の一人として、勝海舟や福沢諭吉らと共に咸臨丸で渡米した。

政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された岩倉使節団は、米国太平洋郵船会社の蒸気船でサンフランシスコとワシントンを訪問し、アメリカには八ヶ月間の長期滞在だった。その後大西洋を渡りヨーロッパ各国を歴訪した。イングランドとスコットランドなどで世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した

ヨーロッパでの訪問国は、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストラリア、スイスの12ヶ国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)を視察した。

北ドイツ連邦プロイセン王国と第二帝政フランスの普仏戦争後を視察し、西洋思想に触れてヨーロッパの非人道的な歴史を学び、ヨーロッパ諸国の植民地を視察することで白人が国際社会の権力政治を生き抜くために、どれほど歴史を武器とし支配の道具としているかを理解したのである

トップへ戻る

 2-3 後進のヨーロッパ文明

日本で東洋史と言われるのは漢文資料の中国史で、朝鮮、満州、モンゴ、イスラム世界などのことはほとんど分からない。西洋史と言われるのはイギリス史、フランス史、ドイツ史を並列したもので、ロシアやアメリカの歴史はほとんどわからない

メソポタミアのシュメール人によって世界で最初の文明が誕生した。紀元前3500年頃に都市国家が成立し、神殿を中心に神権政治が行われた。シュメール人はくさび形文字を発明し、粘土板に刻まれた「ギルガメシュ叙事詩」は旧約聖書の下敷きになっている

紀元前2700年頃に統一王朝が成立し、ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にした。ナイル川の増水の周期を調べてシリウス暦を創り、この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり、世界的に使われている暦の基となった。

紀元前2500年頃にインドの西側を流れる大河インダス川の中流から下流でインダス文明が成立した。計画的に建設された都市には上下水道が完備し、住宅にダスターシュートがあった。インダス文明に神殿はなく、都市の真ん中に大きな沐浴場があり、身を清めて神々に祈りを捧げていたようだ。

黄河中流域に紀元前5000年頃誕生したのが黄河文明で、特徴は土器で彩陶と呼ばれる土器が出土する。中国古代の都市を邑(ゆう)と言い、人々が住んでいた集落を城壁が取り囲み、その中に人々が暮らしていた。長江流域に稲作の跡などが発見されてから、黄河・長江流域の文明と表現されるようになった。

中国の伝説の古代の聖王に堯(ぎょう)と舜(しゅん)がいたとされる。堯は自分の王位を舜に譲り、舜はその位をやはり治水で頑張った禹に譲ったという話になっている。禹は自分の子どもに王位を譲り、最初の夏(か)が成立する。

日本の歴史学会は夏王朝の実在を認めていないが、中国では実在したとされている。事実はともかく、自分の国の歴史はできるだけ古い時代に遡らせたいという気持ちが日本以外のどの国にもある

トップへ戻る

ヨーロッパの文明は、紀元前2000年頃に地中海のクレタ島などに壮大な宮殿を持つクレタ文明が成立した。紀元前1400年頃に南下してきたギリシア人に征服され、高度な青銅器文明であるミケーネ文明が誕生した。ホメロスの叙事詩「イリアス」に物語られているトロイア戦争のあったのもこの時代である。

紀元前1200年頃に始まるミケーネ文明の崩壊から、ポリス社会成立までの400年間は残された史料が少なく実態がよくわからない。紀元前800年頃にギリシア人が生みだした独自の国家形態であるポリスが成立し、ギリシアの歴史や文化はすべてポリスの上に成り立っている。

紀元前492~479年に起きたペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアがギリシアに侵攻しそれをアテネなどのポリスが迎え撃つ戦争だった。断続的に何回かの戦闘があり、最初の大きな戦いが紀元前490年のマラトンの戦いと呼ばれる。

アテネの北東約30キロにある海岸のマラトンに3万人のペルシア軍が上陸し、アテネ軍とギリシア連合軍1万と対峙した。ペルシアの戦法は弓兵と弓で、敵に打ち込んで混乱させてから白兵戦に持ち込む。戦闘開始とともにアテネ連合軍の重装歩兵達は、弓の射程の中を全力で走り抜けて突撃した。

重装歩兵の突撃に慣れないペルシア軍は海上に逃れ、アテネ軍の死者は192名に対しペルシア軍の死者は6400名。全アテネ軍はマラトンに出陣したのでアテネ市は無防備となり、ペルシア軍が半島を回り込んで上陸進攻してきたらアテネは落とされる。

アテネの将軍ミルティアデスの指示で、重装歩兵1万は装備をつけたまま山越えをしてアテネまでの30キロを駆け続けた。ペルシアの軍船が半島を回り込んできたとき、アテネ軍が戻って布陣していたので撤退したのがマラトンの戦いで、ペルシア軍に勝利したと一人の兵士が戦場からアテネの町まで走って息絶えたというのは作り話。

トップへ戻る

3.断続している歴史

 3-1 栄枯盛衰の繰り返し

20歳でマケドニア王に就任したアレクサンドロス三世(後に大王)は、北方のドナウ川方面を平定し、離反したテーベを討ち、ギリシア諸国との同盟関係を固めてから東方遠征に着手した。

小アジア・エジプト・メソポタミアを制圧し、起源前330年にはペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアからオリエント世界を含む世界帝国であるアレクサンドロスの帝国を出現させた。

アレクサンドロス大王は、紀元前323年にバビロンで熱病にかかり32歳余で死亡した。彼が作り上げた大帝国はマケドニア人の後継者によって分割支配されることとなったが、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、ヘレニズムという新たな文明の出現をもたらした。

ギリシャに代わりカルタゴやエジプトを滅ぼしたローマは、シリアを征服して中東地域を属州とした。紀元二世紀にはアッシリアやメソポタミアを制して最大規模となり、皇帝となったネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの96年から180年までの約百年間は、相次いだ皇帝位をめぐる血腥い事件もなく、政局は安定していたので五賢帝時代という。

ローマ帝国は上下水道が完備した文明国だったが、313年にキリスト教を公認してから「すべての知識は聖書にある」とするキリスト教の影響力が強くなり、技術者の社会的地位が低下して科学技術を失い、帝国は極めて不潔な環境となった

330年コンスタンチィヌス帝がコンスタンチンノーブルへ遷都を決断して395年に帝国は東西に分裂し、東ローマ帝国(ビザンチン帝国、ギリシャ帝国)は千年続いたが、313年に西ローマ帝国は東方騎馬民族の蹂躙で滅亡した。

トップへ戻る

このような教科書で取り上げられるペルシャ戦争やアレクサンドロス(英語読みではアレキサンダー)大王とローマの五賢帝だけを見れば、古代からヨーロッパが世界の先進地域であったろうと錯覚する。このような古代ヨーロッパ史は例外中の例外である。

西ローマ帝国滅亡からルネッサンスまでのおよそ1000年の間、キリスト教支配のもとで西ヨーロッパ圏では古代ローマやギリシア文化の破壊が行われ、人文科学や芸術、政治においてもカトリック的世界観の支配が続いた

ルネッサンスの前までの中世を指して暗黒時代と呼ばれ、多様性を失うことにより世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。ルネッサンスはカトリックに破壊された中世から、黄金の古代への回帰(再生・復活)を意味する

618年に隋の李淵(りえん)将軍は、隋を倒して唐を建国し約300年に渡り中国を支配した。イスラム教の開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちがイスラム帝国を構築した。

初代カリフのアブー=バクルのときアラビア半島のアラブ人を統一し、第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブのときにはシリア地方、エジプト、イラク、イランにまで兵を進め、アラブ人が多民族を支配する帝国を築き上げた。

白人は「我々こそが常に歴史の中心にあった」という強烈な自我を押し付けるが、メソポタミア(イラク)地域に覇を唱えたことがあるイラク、イラン、シリア、サウジアラビアなどの国々が欧米諸国と接するとき、現在の力関係とは別に長らく自分たちの方が文明国であったという歴史意識に基づき優越感を抱く。国際社会は歴史に基づく強烈な自我によって動いているのである。

日本の歴史は一度も途切れることも退化したこともなく、常に歴史が進歩する日本人にはヨーロッパ人の世界観は信じがたい。日本は歴史を改竄する必要性はないが、改竄したと言われて間違いを正さなければ事実と認めたことになるのが国際社会である

トップへ戻る

 3-2 カトリック教徒の収奪

一方的に侵略された東方世界の記録により、十一世紀に西ヨーロッパは十字軍で歴史上に再登場する。カトリックのローマ教皇が聖地エルサレムの奪還を掲げて十字軍をトルコへ派遣したのはキリスト教的に聖戦でも、イスラム教徒からすれば侵略にすぎない。

ローマ帝国で国教とされたキリスト教は、帝国の東西分裂により東ローマ皇帝を頂点とする組織の四大幹部により信仰と世俗の双方で頂点に建っていた。四つの組織は同格だったが、ローマ教皇インノケンチウス三世はキリストやペテロ以来ローマが常にキリスト教世界の頂点に君臨していたという歴史的歪曲を行った

ビザンチンの皇族や南仏のカタリ派カトリック教会が抵抗すると、インノケンチウス三世と教皇庁は十字軍を派遣した。キリスト教徒同士で殺し合うのは、「異端の罪は異教の罪よりは重い」というカトリックの理屈である

十字軍の殺戮は凄惨を極め、カトリック住民の巻き添えをいとわない無差別大虐殺により南仏のカタリ派は壊滅した。教皇権を絶頂に高めたインノケンチウス三世は「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語した

1228年の十字軍が交渉により聖地エルサレムの返還を実現すると、ローマ教皇は喜ばず「なぜ異教徒を殺してこないのか」と激怒した。皇帝を破門して十字軍を差し向け、以後20年にも及ぶ飽くなき殺し合いを続けた。

地中海を制圧したイスラム教徒は沿岸のサハラ以北のアフリカを領有し、スペインとポルトガルにあたる地域も占領した。教皇庁は七百年間何度負けても、失地回復を掲げて何度もイベリア半島へ十字軍を派遣した。

イベリア半島へ派遣された教皇庁の十字軍はただただ凶暴で最も凄惨を極め、ひたすら裏切り者を拷問によって殺し続けた。よく知られる魔女狩りは異端尋問の一種で、「疑わしきは拷問により苦しめて殺す」「主の名により疑われたこと事態が有罪である」「改心させて殺すことが天国へ送る善行」「拷問により苦しめているとき歓喜しない者もまた有罪」など教会の言葉が支配した。

トップへ戻る

異端らしいという証拠を握るのはいともやすい。魔女の家族はほとんどの場合、魔女めいたことをしているからだという。拷問される者の血は流してはいけないとされ、容疑者の関節を脱臼させてから骨を折り、身体をたいまつで焼け焦がし、ついには生きたまま火あぶりにすることが認められた。

美人の村娘を司祭が手籠めにし、事件の発覚を恐れて魔女狩り裁判で火あぶりにするなど日常茶飯事だった。人々が無知蒙昧だったのをよいことに、やりたい放題をやっていたのが当時のカトリック教会だった

南ドイツのヴュルツブルグのフィリップ・アドルフ・フォン・エーレンブルグ僧正は、その治世の8年間に800人を火刑にした。ロートリンゲン公爵領では16年間に800人の魔女が火あぶりにされた。前者は教会、後者は敬虔なカトリック教の君主が火刑の主宰者であった

カトリック側もプロテスタント側も、魔女の火あぶりの責任は互いに相手側にあると非難している。しかし、カトリック側が先鞭をつけ、プロテスタント側も熱心に魔女の火刑を実施したことは明らかである

放蕩の極みで財政難に陥った教皇庁は、贖宥(しょくゆう)状という「天国に行けるお札」を売り出した。教会が贖宥状を販売する際は贖宥状説教師を派遣し、町や村の広場で十字架と教皇旗を掲げその功徳を説いて売り歩いた。

腐敗を極めた教皇庁にマルテン・ルターが対抗した。ルターは、天地開闢以来すべては全能の主によってあらかじめ決められている。人間に自由意志などなく天国に行く者も地獄へ行く者も、天地開闢の時に定められているのだから、教皇に贖宥状を発行する権利はないと主張した

トップへ戻る

教皇庁に反感を持つザクセン公の後援で抵抗運動が広がり、ヨーロッパをカトリックと二分するプロテスタント(抵抗する者)が形成され、東方正教と合わせてキリスト教三大宗派の地位が出来上がった。

ヨーロッパは教皇庁の支配から宗教戦争の時代に突入し、教皇・教会、皇帝、国王、貴族、そして信仰階級の地主や商人(ブルジョア)が勢力を競いはじめた。活版印刷が発明されて教会の司祭以外も聖書を読むことができるようになると、司祭は勝手な教えを説くことができなくなった。

教皇庁はカトリックの教義を整備する必要性に迫られ、布教にも力点を置くようになった。イグナチウス・ロヨラを首領とする七人の大幹部がイエズス会を結成して、全世界にローマ教皇庁の権威を広めようと宣教の旅に出た

フランシスコ・ザビエルは全世界にローマ教皇庁の権威を広めようとしたイエズス会の7人の大幹部の一人ある。「まず貿易商人が、次に宣教師が、最後に軍隊がやってくる。貿易で関係を持ち、その土地の住民を改宗させて手なずけておけば、領主に逆らうので簡単に軍事占領できる」を実現しようとしたが失敗した

大航海時代に突入すると、ポルトガル人とスペイン人はインドを目指して海洋へ飛び出した。胡椒を求めて貿易航路を確保する過程で、ポルトガルはアフリカをスペインはアメリカ大陸を征服していく。その略奪はすざましく、緑の大地であったアフリカは瞬く間に砂漠と化した。

16世紀にスペイン人やポルトガル人は弱い部族が住む土地を問答無用で席捲し、先祖伝来何百年住んでいようが、海の向こうからやってきた白人が「ここは無主の血である」と宣言したとき、それを追い払う力がなければ、奪われ、殺され、犯され、そして奴隷にされた。

トップへ戻る

4.日本の対策

 4-1 ヨーロッパに学んだ日本人

スペインはメキシコのアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼして莫大な富を収奪した。征服した部族の王妃や姫を野蛮な兵士の慰み者とし、人妻を自分のそばに侍らせ夫を奴隷としてこき使った。白人は富を収奪するだけでなく、文化と自尊心や誇りを破壊していった。

17世紀にはオランダやイングランドが同じことを繰り返し、インドネシアは新興オランダ帝国に侵食され、英蘭戦争でイングランドはオランダの勢力を奪い取った。1763年の世界地図を見ると、アフリカと南北アメリカ大陸の要衝はイギリスやフランス、あるいは旧大国のスペインやポルトガルのものとなり、アジアにも侵略の手が伸びていた。

この時期のユーラシア大陸には、オスマン、ペルシャ、ムガール、清と四つの大帝国が存在した。1769年に老中となった田沼意次は、欧州諸国の脅威を認識して貿易統制の転換を模索したが幕府官僚の抵抗で果たせなかった。八代将軍徳川吉宗の英断で洋書の輸入が緩和されると民間の学習熱は高まり、飛躍的に海外への関心と研究が高まった

ヨーロッパ人は、中国の工業製品や茶や日本の金銀を仕入れたが、ヨーロッパに持ち帰るにはインド洋に出なければならない。インド洋に出るルートはマラッカ海峡とスンダ海峡のどちらかしかない。マレー半島やスマトラ島、ジャワ島を支配下に置くことができれば貿易を独占できるから、競い合ってこの地域をヨーロッパ人たちは侵略していった。

インドの沿岸は東アジアとの貿易の際に補給地として重要だった。16世紀にはポルトガルが、その後はイギリスがインド亜大陸の沿岸を押さえた。一方、オランダ人はポルトガルとの競合を避けるため、16世紀末にはマダガスカルからスンダ海峡まで直航する航路を開いた。

日本とタイに共通しているのは「交易の要衝になりえない立地」である。タイはインドシナ半島の内陸に位置して海岸線は短い。日本は極東すぎてインド洋を介した貿易の拠点として魅力がなかった

中国やインドネシアのように高価な貿易品を算出するわけでもなく、ヨーロッパ人から見れば侵略するメリットが薄かった。しかも日本人は未開人ではなく、官学でも民間の私塾でも知識欲が旺盛な層が厚かったので、アフリカやアメリカ大陸の国々のような運命を辿らなかった。

トップへ戻る

1862年8月21日に島津久光の大名行列が帰途で生麦村に差し掛かった。川崎大師へ観光に行くチャールズ・レノックス・リチャードソンらのイギリス商人とその縁者四人組が馬に乗ったまま行き過ぎようとした。

行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し身振り手振りで下馬し道を譲るように説明した。イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思い込み、4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。

久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声にさすがにどうもまずいとは気づいたらしい。下馬する発想はなく「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとしてあたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった。

薩摩藩士たちの切捨御免でリチャードソンは死亡、他2名が重傷で一人だけいた女性は横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。翌年本国からイギリス公使へ「幕府に謝罪と賠償金、薩摩には犯人の引渡しと賠償金」を請求せよとの指令が届く。横浜へ送りつけられたフランス・オランダ・アメリカの艦隊を恐れて幕府は賠償金を支払った。

薩摩にも艦隊が送られ、薩摩の船がイギリス艦隊に捕まるという事故が発生すると薩摩は艦隊を砲撃した。この、薩英戦争で鹿児島市街が焼き払われ、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど多大な犠牲を払うこととなった

再度横浜で話し合い、薩摩が賠償金を払うことで生麦事件の解決としました。実行犯の薩摩藩士たちは「どこに逃げたかわからない。見つけたら処刑する」という条件で処罰を免れた。薩英戦争で双方が相手を見直し、急速に親しくなった

トップへ戻る

 4-2 国際法の責任を果たした幕府

1863年と1864年の馬関戦争(ばかんせんそう)は、長州藩が米英仏蘭の四カ国連合艦隊の攻撃を受け、藩領の一部が植民地にされるかもしれないというときに、長州藩を列強の侵略から救ったのが、高杉晋作、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)の3人組だった。

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3(1863)年をもっての攘夷実行を約束し、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった

高杉晋作は馬関戦争の前に上海に渡り西洋諸国の力を目の当たりにした。井上も伊藤もヨーロッパで西洋文明を見て、彼らを相手に戦うことが無謀だということを悟った。長州藩が列強諸国と戦っても勝ち目がないことを伝えるため井上聞多と伊藤俊輔は帰国した。

井上聞多らの説得に応じなかった長州藩は四ヶ国艦隊と開戦して完敗した。長州藩の代表としてイギリスのクーパーと交渉したのが高杉晋作である。高杉晋作は交渉に出向いた時に謝罪状を持参していない。クーパーは謝罪がなければ交渉できないと言ったが、長州藩は戦いに負けたわけではなく外国艦船が下関海峡を通過しても差し支えないと言いに来ただけだと反論した。

貴艦隊の陸戦兵力はわずか2千や3千にすぎぬではないか、わが長州藩は20万や30万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだがわれわれは講和を選択した、と朗々とひびく語調でいった。

クーパーは3百万ドルの賠償金と彦島の租借も要求した。外国船を下関から砲撃したのは幕府の命に従ったまでだ。賠償金を請求するなら幕府にしてもらいたいと高杉晋作は言い返した。彦島の租借ははっきりと断り、日本の起こりを神話から説き始めてクーパーを煙に巻いてしまいました。

トップへ戻る

伊藤博文がこの時の高杉晋作のことを次のように語っている。「あのときもし高杉がうやむやにしてしまわなかったなら、この彦島は香港になり、下関は九龍島になっていたであろう。おもえば高杉というのは奇妙な男であった」と。

薩長の行動で日本が植民地化の危機が高まったのは紛れもない事実である。だが、幕府が勝手なことをした彼らの尻拭いをして賠償金を払っている。つまり、幕府は国際法上の統一政権であるという論理を貫徹したのだ

江戸時代後期にはロシアの脅威が迫り、アヘン戦争で大英帝国の魔手を実感したとき、日本は並大抵の自己改革では生き残れないことを悟った。寛永6(1853)年にぺリーの黒船が日本の開国を迫ったとき、国家の生存が「鉄と金と紙」によって決するならば、軍事力と経済力では劣っていることは明らかだった

だが、外交力と文化力と判断力である「紙」で日本は負けなかった。幕末の動乱と明治維新への道は一直線ではなかったが、日本人は日本民族として国家としての大きな誤りは犯さなかった。この理由は3つ挙げられる

1つ目は最初の開国相手をアメリカとしたことだ。当時のアメリカは新興国であっても大国でも海洋国でもない。ようやくメキシコとの戦争でカリフォルニアを獲得し、アメリカ大陸の横断を終えたばかりの陸軍国である。弱小国の力しかない日本には頼りになると正常な判断をしたことだ。

2つ目は不平等条約を受け入れたことである。弱小民族をせん滅するのはヨーロパ人の本能である。日本は彼らの力関係を冷静に見極め、不平等条約で「半文明国」の地位を受け入れた。この苦渋の選択がなければ植民地にされていても不思議ではなかった。

3つ目は不平等条約を受け入れて時間を稼ぎつつ、西欧と同じような国民国家を建設すべく改革である明治維新を行った。内政面である明治新政府の樹立と対外的な国境画定交渉にこそ、日本が帝国主義の時代に生き残れることができた。

トップへ戻る

 4-3 主権国家の役割

英露が東アジアに到来する前は、日本と清国の国境は曖昧で琉球は日清両属体制にあった。通常は島津家の支配に服していたが、清国の使節が来航するときに島津の役人は姿を消した。これは貿易の利益を求める日本と、冊封国への面子を主張する清国との双方の利益にかなっていた。

統治の所在が不明な土地は「無主の地」として「占守」してよいのが西洋人の説く国際法である。日本は台湾を清国領と認めつつも琉球に対しては排他的な支配権を主張した。この主張により、琉球人が台湾で殺害された際に力で報復している

清国は言を左右にして謝罪も賠償もしようとしないが日本は容赦しなかった。全権の大久保利光は北京へ乗り込み、「台湾を清国領と認めるならが謝罪と賠償をすべし、責任がないとするならば自力で復仇する」と押し切った

大久保は、かって副島種臣外務卿が清国から取っていた「台湾は化外である」との言質を最大限利用した。華夷秩序で「化外」とは「文化の外」、すなわち「中華文明の恩恵が及ばない土地」の意味である。華夷秩序は中華皇帝からみた世界観にすぎず、ローマの万民法ほどの責任観念すら存在しない。

また、駐露特命全権大使に任命された榎本武揚はロシアを相手に奮闘した。樺太は日ロ雑居地であったが、ロシアは流刑地に利用して次々と囚人を送り着込んできた。当然軋轢が起こり多くの日本人が被害にあった。

ロシアは言を左右にして解決を引き延ばそうとしたが、榎本は謝罪、賠償、実行犯引き渡し、再発防止を求め続け、交渉による樺太問題の解決を要求した。アイヌ人女性の強姦殺人事件ではロシアが事故で処分したと弁解しても、処罰したという罪人の氏名がないと許さなかった

日本を代表する国際法の大家でもあった榎本は、西洋社会が文明と誇るこの論理を駆使して、ロシアを相手に一歩も引かなかった。総力を挙げて個人の権利を守るのが主権国家である

トップへ戻る

5.独立できた日本

 5-1 不平等条約の解消

1860年前後の李氏朝鮮王朝は経済的に破産し、軍事力もほとんどなく、政権は分裂内紛に明け暮れて崩壊寸前だった。中国の制度をまねて中国以上に儒教的な専制君主政治を何百年も強化し続けた結果、世界に類を見ない硬直した官僚国家体制となっていた

清朝も朝鮮王朝と同じ中央集権的官僚制度で、中国の各王朝は盛期が過ぎると必ず貧しい官僚の汚職が横行し、兵士が匪賊となって反乱を起こし民が飢えて自然の法則のように転覆した。歴代の王朝は流民の反乱によって崩壊し、異民族の侵入によって政権は交代していた。

朝鮮半島をロシアの手から守らなければ国家の存続はありえないと考えた日本は自衛のために軍事力の増強を図り、朝鮮半島から清朝勢力を一掃して朝鮮を独立国にするための戦争を決意した。1894(明治27)に朝鮮南部で東学の乱(甲午農民戦争と呼ばれる農民暴動)が起こり、李朝は鎮圧できず清朝に出兵を要請した。日本は南京条約に基づいて軍を朝鮮へ出兵し朝鮮半島で日清戦争が始まった。

欧米列強は日本の敗北を予想していた。ロシアは日清両国に撤退を勧告するだけでそれ以上の行動に出ない。イギリスは当初清朝寄りだったが事態静観を守った。列強の相互牽制の隙をついて攻勢に出ることで、日本は不平等条約に手足を縛られた反植民地国家状態からの脱出を試みた

日清戦争は列強の見守る中で大国清朝に挑戦する日本の孤独な賭けであり、どの国にも左右されない独自の行動だった。欧米諸国は日本の勝利を喝采し、日本との不平等条約を解消して独立国と認めた。日本は完全な独立へ向けた賭けに勝った。

トップへ戻る

 5-2 国際政治のエゴ

大阪府立天王寺高等学校の南英世先生は、2016年度政治・経済の授業で次のように説明されています。

国際政治とは「国益」をめぐる国家間の生存競争である。「生存競争」と書いたのは、国内政治において政治家が致命的なミスを犯したとしても国そのものが滅びるわけではないが、国際政治において政治家が致命的な判断ミスをしたら、文字通り国家そのものの滅亡を招きかねないからである。

「もし、我々が国内政治をやりそこなうと、我々は飢えてしまう。もし、我々が外交政策をやりそこなうと、我々は殺されてしまう」と、J、F、ケネディは述べているが、国際政治とはまさに、国と国との生存競争である。

国家がその存亡をかけて守ろうとする国益の主要なものとしては領土・資源・経済的利益・宗教・民族・イデオロギーなどがある。古来、人類はこれらの利害が対立した場合、「暴力」をもって解決することを基本としてきた。その原則は、20世紀になった今日も基本的には変わらない

もちろん、このような「国益」を重視する考え方に批判がないわけではない。その一つが「国益」ではなく、「人類益」を追求すべきだという考え方である。前者を現実主義とするならば、後者は理想主義といえるかもしれない。

しかし、「人類益」を追求すべきだとする考え方は、政治学者による強い支持があるとはいえ、今のところ現実の国際政治の主流とはなっていない。「自分の国さえよければいい」というエゴイスティックな考え方が、当然の権利として許されることも、国際政治のもうひとつの特徴といっていいかもしれない

トップへ戻る

6.両班から脱せぬ国

 6-1 朝鮮の独立

「眠れる獅子」と呼ばれてその底力を恐れられていた清朝が、世界の予想に反して新興国の日本に破れ、古代から続いていた中華秩序が崩壊した。1895(明治28)年に日清両国は「日清講和条約」を結び戦争が終結した。

◎ 日清講和条約(下関条約、馬関条約)

第一条 淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

日清講和条約の第一条は「朝鮮の独立確認」と「朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等を永遠に廃止する」ことだった。条約は1895(明治28)年4月17日に調印され、5月13日に交布された。

日清戦争の終結まで李氏朝鮮は清国の属国であり続けた。毎年上納される物品の量はその後減らされたが、三田渡の盟約の大枠は1895年に「日清講和条約」が結ばれるまで貢女も含めて約250年間続けられた

1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて独立国となることができた。国号が清国と対等な国の大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃してはじめて皇帝を称した

日清講和条約で締結された遼東半島の日本への割譲は、独仏露のいわゆる「三国干渉」によって清国へ返還せざるを得なくなった。福沢諭吉の名言「ならぬ堪忍、するが堪忍」や、三宅雪嶺の「臥薪嘗胆」が全国民の合言葉となり、10年後の日露戦争で宿敵ロシア打倒へとつながった。

トップへ戻る

 6-2 日韓併合の論理

19世紀末から20世紀の初頭にかけ、中国の分割はアフリカのように進んでいった。満州にロシア、山東省にドイツ、華北・揚子江流域・香港にイギリス、雲南省にフランスにと区分けされた。外国勢力の進出は中国人の反発をかき立てて1900(明治33)年義和団事件が起き、清朝はこの機に乗じて欧米列国に宣戦を布告してドイツと日本の公使館員を惨殺した。

この事件を期にロシアは満州と内モンゴルを保護領化して清国に派兵した軍を撤兵させず、朝鮮国境に砲台を建設してシベリア鉄道で軍の輸送を開始し、朝鮮半島は重大な脅威にさらされた

日清戦争の勝利と朝鮮半島問題の処理を見て、イギリスは極東での最も良きパートナーとして日本を選んだ。日露戦争に勝利した日本に、イギリスはあらゆる大国とのバランス・オブ・パワーを保ち続ける義務が発生したことを教え、1905年の日英同盟更新時に日本の朝鮮支配を承認してインド防衛の同盟義務を負わせた

日露戦争後はロシアに対日協調の機運が盛り上がり、1907年に日露協商が成立して日本の朝鮮半島支配と南満州の勢力範囲、ロシアの外モンゴル支配と北満州の勢力範囲が合意され、南下するロシアの脅威は一段落した。

1910(明治43)年8月22日、韓国併合条約が調印されて同月29日に発効、大日本帝国は大韓帝国を併合してその領土であった朝鮮半島を領有した。韓国併合は植民地化ではなかったので世界列強はアジアの平和に最善策として支持した

トップへ戻る

併合はイギリスの同盟国として合法的に国際関係の原則に基づいて行われたもので、アメリカの東洋史と・地政学の研究者ヘレン・ミュアーズ氏は「アメリカの鏡・日本(伊藤延司訳)」で次のように述べている。

併合と云うのは国際法上の強制ではない。日本は韓国の「独立」という実にもっともな動機から、中国、そしてロシアと戦った。第二次世界大戦後の日本は、自分たちは何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが、日本はとにかく当時の国際慣行を律儀に守り、それにうながされて行動したのだ

大多数の韓国国民は他国から干渉されないで生きることを望んでいただろう。しかし、そんなことは誰の頭にも思い浮かばなかった。韓国は戦略的に重要だが軍事的に脆弱だから、力のある国が管理する。それが大国の論理だった

朝鮮の民衆は日本の統治時代になって、日本警察による両班の取り締まりを大いに感謝したと伝えられる。しかし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて両班に宿怨を晴らす恐ろしい姿を展開しいかに横暴だったか一冊の本ができるほどと伝えられる

1945(昭和20)年8月15日、大日本帝国は大東亜戦争での敗戦に伴い、同年9月2日にポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印により、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。

トップへ戻る

 6-3 病める韓国

大日本帝国による韓国併合終了後の韓国が採用した大統領制は、日本のような議院内閣制の総理大臣に比べて強大な権限が与えられている。大統領に強い権力があるので、独裁を防止するため1期5年の任期を終えると再任はできない。

韓国社会は家族や親族の結びつきが強く、身内びいきが当たり前な国民性がある。家族の結びつきの強さが仇となり、家族を不当に優遇したり不正な蓄財が行われたり、収賄が行われやすくなるという弊害がある

強大な権力を持った大統領とその親族には、周囲から不正な献金なども持ちかけられやすく、大統領とその親族は任期中にできるだけ利権を活用したいという心理が働くことから不正につながりやすい

韓国社会ではいくつかの財閥が非常に強い力を持っている。大統領側も限られた任期中にできるだけいい思いをしたいという親族が一人でもいれば、仮に大統領自身がそれを拒んでも、親族の誰かがそれらの誘惑を拒めずに不正に手を染めることとなってしまう。

これらの不正から国民の目をそらすために大統領側は歴史を歪曲し、権力に追随するマスコミは視聴率や売り上げを目論んで誇大に扱う。この結果、国民は歪曲された歴史を盲目的に受け入れ、事実を探求する冷静さを失ってしまう

更に、敵対していた勢力が政権を奪取した際には、新たな政権が敵対勢力に打撃を与えて息の根を止め、自分たちの良いイメージを殊更に強く印象付ける。そのために前大統領の不正が徹底的に暴かれる

朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授の著書「和解のために」は、教科書、慰安婦、靖国、独島(竹島)の4つの問題を扱った本で、「まっとうな批判は、相手への深い理解を必要とするが、私たちの批判の多くはそうした理解が欠けている」いう彼女の見方だった

韓国内部の硬直した先入観を鋭く突いてあらわにしたため、不快に思った読者から「親日」という批判を呼び起こした。世の中には自分と異なる考えも存在することを理解し、その考え方を理解しようと努力する柔軟な姿勢が欠けているのも韓国人の特徴である

マスコミとインターネット、ソーシャルメディアを活用して、親日のレッテルを貼ればいくらでも他人の考えと行動を萎縮させられる。相手の立場で考えることもせず、柔軟な思考と自由な主張が萎縮する環境はまるで両班(やんばん)の支配が続いているようだ

トップへ戻る

参考資料:日本人だけが知らない本当の世界史(倉山満、PHP文庫)、教科書にかけない世界史(金森誠也、PHP文庫)、教科書には載せられない黒歴史(歴史ミステリー研究会、採図社)