1.カトリック禁止の理由
1-1 ユダヤ教の歴史
ユダヤ教がいつ成立したかは分からないが、ユダヤ人たちは永遠に変わることがない不毛の地である砂漠で一神教を生み出し、モーゼがエジプトのシナイ山で神の言葉(十戒)を聞いて広めたことが起源とされている。
ユダヤ教は主にイスラエルやアメリカの一部、ヨーロッパの一部などで信仰され信者は千五百万人程度と言われる。世界のごく一部の地域でしか信仰されていないが、ユダヤ教ほどこの世の中に影響を与えた宗教はない。
前千年頃にヘブライ人(ユダヤ人と同義語)のサウルが民族を統一してヘブライ王国を作り、二代目の国王ダビデがペリシテ人を倒して二代目の国王となった。三代目のソロモン王のときに周辺諸民族を従えてパレスチナ全域を支配下に置き、前十世紀にはエルサレムにヤハウェ神殿が建築され「ソロモンの栄華」と称された。
しかし、ソロモン王の積極的な神殿などの建設は民衆への負担を増大させて次第に反発が強まり、王の死後に北部の部族が南部のユダ族の支配に反発して分離独立し、イスラエル王国が成立した。それにより南はユダ王国とよばれるようになった。
イスラエル王国は反ユダ王国嫌悪でまとまっているにすぎず、クーデターが頻発して王が相次いで家臣に殺害され、多民族の侵略を受けることで国が分裂して前五百年頃に崩壊した。ユダヤ人たちは征服者に反乱の防止、職人や労働力の確保を目的としてバビロニアへ強制移住(バビロン捕囚)させられ、灌漑用運河の建設などに従事した。
新バビロンは西暦前537年頃にペルシャに滅ぼされ、捕らわれていたユダヤ人たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することが許された。しかし、すべてのユダヤ人はエルサレムへ戻らず、世界の各地に散らばっていった。
多くの国々には山や木々が存在するため多神教が生まれ、古代エジプトには様々な神々が存在し、インドのように今でも多くの神々が信仰の対象になっている国や地域は無数にある。中国も、最近ではキリスト教が台頭しているとはいえ、基本は多神教である。
多神教の民族同士が交流する場合は神様が複数いるのが当たり前で、他の宗教の神様に対しても敬意を払って礼拝するのが普通であることからトラブルは起こりにくかったが、新バビロンを旅立ったユダヤ人は異なった。
ユダヤ教には「ユダヤ人こそ神に選ばれた民族であり、ユダヤ人のみが最終的に神に救われる」という「選民思想」がり、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教とは異なり他民族に布教する必要のないユダヤ人のための宗教であった。
世界の各地に散らばった一神教のユダヤ人は、相手の民族の神々を尊重する態度を取らなかった。当然、他の宗教の神の偶像を拝む行為も拒否した。こうしたことから、ユダヤ人は傲慢であると他の民族から忌み嫌われるようになった。
キリスト教は原点がユダヤ教で、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の基本概念は「この世を作った唯一神」の言葉が記された「聖典」を元に生きるというもので、基本的に3つの宗教の神様は「同じ神様」である。
1-2 イエスの実像
イエスが処女マリアから産まれ、死後に復活したという新約聖書を読み、書かれたことを信じる人が現代日本にいるだろうか。今ではヨーロッパのキリスト教徒でもイエスの復活を疑うものが半数で、イエスを神と思わず模範的な人間と捉えるものがしだいに増えているという。
ガリラヤ地方に預言者ヨハネがあらわれ、荒野で終末の審判が近づいたと呼ばわり悔い改めて洗礼を受けよと人々に説き始めた。これはユダヤ教の神殿祭司が考え出した「罪の許し」を否定する行為なので、ガリラヤの領主ヘロデはヨハネを捕らえて処刑した。
そのヨハネから洗礼を受けたのが若いイエスだった。イエスは「神の国は近づいた、悔い改めよ」と伝道を開始し、ガリラヤ地方の貧民や病に苦しむ人々の中に入っていき、あちこちで病を治すなどの奇蹟を起こしたとされる。
新約聖書の四福音書に書かれているイエスの行動は、病人の中にいたり、収税人や売春婦や羊飼いなどに語りかけ、彼等と共に食事をし彼等と共に生活をしていた。彼等はその当時「罪人」とされ差別されていた人々だった。
収税人は「ユダヤの神」を知らない異教徒で戒律も守らない「不浄の民」であり、ローマ帝国のために働く「犬・手先」とみなされ、彼等の給料はその取り立てた税金から払われたので「盗人」とされていた。
売春婦は当然「姦淫」の罪を犯している「罪人」とされ、羊飼いは勝手に人の敷地にはいりこんで草をくわせる「掟破り」であり、得体の知れない悪霊の住む山野で暮らす「悪霊」の仲間とされ、彼等はユダヤ教の戒律に違反しているとされていた。
その他に罪人とされた人々には、墓地や埋葬にかかわる者、肉屋や皮なめし職人、床屋や風呂屋など汚れにかかわる者、飾り職人や織物職人など女にかかわるものなどがあげられる。ユダヤでは女性は始めから不浄のものとされていた。
イエスは「自分がここにきたのは罪人のため」と言ったのは知られているが、イエスが罪人と言ったのは前述のような宗教的「罪人」で、強盗・殺人などの社会的罪人を指しているわけではない。
これらの人達は好き好んでこのような「罪人」になったわけではなく、そうしなければ生きていけなかった。ユダヤ人の社会的差別は激しく、職業や生き方の選択の余地などはなく、差別されながら苦難にあうのはその罪のせいだとされていた。
生きるために必死な人々を罪人と差別したのは、恵まれた一部のユダヤ人上層階級の人達であるユダヤ教神官や学者達だった。彼等は搾取するだけ搾取し、ノウノウと暮らしながら自分達は正しい人間であり救いは自分達にあるとしていた。
恵まれた一部のユダヤ人は「戒律」を守ることができ、手の汚れる仕事をしなくて済んだ。教会にもたくさんの献金ができ、安息日も守れ、お祭りや行事を行うにも何の障害もなかった。
売春婦を買うのもこういった人達で、苦しんでいる人々を罪人呼ばわりして彼等に救いなどは得られないとさげすんでいた。イエスはユダヤ教を改革しようとしたのではなく、ユダヤ教を信じていると自称しているユダヤ人上層階級の人達を非難した。
分かりやすい教えを難しくし、勝手にさまざまな教えや儀式を自分たちの都合の良いように変えてしまった。四福音書を読むと、その代表的な人たちがパリサイ人や律法学者であることが理解できる。
1-3 四福音書が伝えるイエス
新約聖書の四福音書でイエスのやろうとしたことを調べると、イエスは「神」とはあくまでも一線を画して「人の子」と自称している。イエスの言動を辿ると、ユダヤ教の現状を腐敗しきったものとして神の御心に叶う清らかな無垢の心を持たなければならない、そのためまず悔い改めて素直にわたしの言葉を聞きなさいと読み取れる。
安息日を聖なる日として守れと十戒にあるが、イエスが徹底的に無視し続けたのはイエスの旧ユダヤ教への挑戦であった。断食や洗礼などを行わず、食前に手を洗わず、罪人と平気で同席し、らい病患者にも平気で触る。ユダヤ教社会の規律を乱す者と指弾されてもやむを得ないことを敢えてやっていた。
イエスは、あなたがたは神のいましめをさしおいて人間の言伝えに固執しているとし、わたしが律法や預言者を廃するためにきたと思ってはならない。廃するためではなく成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのであると説いた。
パリサイ人たちの「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」との問いに、イエスは「モーゼはあなたがたになんと命じたか」と問い返した。「モーゼは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」とパリサイ人たちが答えた。
イエスは「モーゼはあなたがたの心が頑ななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから『神は人を男と女とに造られた。それゆえに人はその父母を離れふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはやふたりではなく一体である。 だから、神が合わせられたものを人は離してはならない」と答えた。
イエスの言葉は「あなたがたは神のいましめをさしおいて、人間の言伝えに固執している。あなたがたはいちばん大切なことを忘れているんじゃないか。夫婦が添い遂げようとする、その心持こそ大切だし人間として自然だろう。モーセが言ったのはあくまでどうしようもなくなったときのことだ。肝心なことを見失うな」という意味になる。
ローマ総督はイエスが民衆を扇動して暴動を起こし、それがローマに対する反乱に及ぶことを潜在的に恐れていた。ポンティオ=ピラトは裁判で証拠がないことから無罪を宣言したが、民衆の「イエスを殺せ!」の要求に応えてイエスを処刑せざるを得なかった。
イエスの生前にキリスト教が成立したのではない。イエスはあくまでユダヤ教の枠内でその改革を主張して容れられずに処刑されたのであり、その使徒たちの活動も始めはエルサレム周辺のユダヤ人社会に限られていた。この段階では「ユダヤ教イエス派」というのが実態に近い。
一時期「ダビンチ・コード」でイエスの子孫の存在が話題となったが、新約聖書に組み入れられなかった外典、マリアの福音書、トマスによる福音書、フィリポによる福音書には、イエスがマグダラのマリアと結婚していることが書かれている。
イエスとマグダラのマリアの間に子どもがいたことは、ルクセンブルグ大公國では公然の秘密である。敬虔なカトリック国であるルクセンブルグ大公國は貴族の所領ほどの広さだが、百年間に三人の神聖ローマ皇帝を輩出しているヨーロッパ随一の名門である。
1-4 キリスト教の伝播
ユダヤ教の信者になるには、ユダヤ民族の血を引くことが必須条件だった。具体的にはユダヤ民族の母から生まれることが必要だった。しかも、ユダヤ教徒は教義上イエスをメシアと認めず、中世から近代にかけて「イエスを殺した」として世界中のキリスト教徒から迫害を受けた。
キリスト教の開祖はイエスではなく、イエスの弟子たちがイエスを祀り上げた宗教がキリスト教である。ユダヤ教の一派がユダヤ人を切り捨てて異邦人(ユダヤ人以外)相手に伝道し始めてから、イエスの教えは「キリスト教」へと変容した。
ペテロなどによるローマでの布教と、パウロがイエスの死を人間の原罪を贖うものと位置づけ、人種・民族を越えた救世主(メシア)であると説いたことで、ユダヤ人を切り捨てユダヤ教の一派から世界宗教への転換をはかりキリスト教としての道を歩み始めた。
旧約聖書の戒律を大幅に緩和し、一方で隣人愛を説くのが新約聖書の特徴である。「イエス・キリストを信じることこそ救いの約束なのだから戒律は一旦白紙で考えよう」という極端な操作が行われたと言える。
これは、宗教指導者が宗教を再構築することを容易にするルール変更であり、政治的指導者が利用するために都合の良い改変だった。パウロはユダヤ教の律法をほとんど無視して、イエスを信じれば誰でもキリスト教徒になれるように変えてしまった。
ローマ皇帝「ネロ」の時代にローマで大火事が発生し、多神教を認めないキリスト教徒の仕業であるとしてネロはキリスト教を迫害し、使徒ペテロやパウロが殉教(信仰している宗教のために命を落とすこと)した。
ネロによる迫害以降ローマ帝国はキリスト教を異端の宗教として弾圧するようになり、キリスト教徒たちは地下に「カタコンベ」と呼ばれる隠れた教会を作り、ひっそりと礼拝を行うようになり迫害されながらも教徒の数を徐々に増やしていった。
ローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教への迫害は効果を持たずキリスト教の影響力は大きいとし、313年のミラノ勅令によりキリスト教を公認した。公認されると、迫害されていた時代から続いていた「何が正統派か」という議論が白熱化していった。
数が増えれば組織の規模が大きくなって序列が生まれ、ローマやイェルサレムにある大教会が各地の教会を統率・指導したり、教会内でも司教がトップでその下に司祭がいるといった、ヒエラルキー(ピラミッド型に序列化された階層制の組織)構造が誕生した。より広範囲に布教するにはキリスト教独自の聖典が必要とされ、2世紀初頭にイエスの言葉や使徒たちの書簡、イエスに関する逸話などをまとめた新約聖書が編纂された。
神学上の信仰と語法に関する議論が白熱化し、アレクサンドリア総主教キュリロスは、ナザレの街を歩いていたイエスはまさしく神であり、人の姿をとって現われたイエスもまさしく神であるとして、聖母マリアはすべてにおいて神聖であると主張した。
コンスタンテイノポリス大主教ネストリオスは、イエスには人間性と神性という完全に独立した自立存在が併存していたとし、聖母マリアは人の母でも神の母でもなくキリストの母であると主張した。
431年に東ローマ皇帝のテオドシウス2世の呼びかけで、トルコ共和国セルチュク郊外のエフェソス公会議が開催された。キュリロスとその支持者はネストリオスとその支持者が到着する前にエフェソス公会議を開会させ、賄賂攻勢などでネストリオスが異端であるとして職務を剥奪して国外へ追放した。