4 厳正な裏のルール
厳正な裏のルールを破ったレスラーがいた。血の気が多くて、一度火が付いたら何をしでかすかわからない、頭角をあらわす以前の若手レスラー橋本真也選手である。橋本が前座で頑張っていたころ、何人かの若手と一緒にメインイベントのリング下に控えていた。
アントニオ猪木とアブドラー・ザ・ブッチャーのシングルマッチである。試合はいつものようにブッチャーがラフファイトで暴れまわり、凶器を持ち出して執拗な反則行為を続けた。そして、両選手がもつれあい、場外に落ちて乱闘になったときに事件は起きた。
橋本選手が猪木選手に加勢して、ブッチャーに強烈な蹴りを見舞ったのである。橋本選手に何の悪気もない。あまりにもブッチャーが悪いことをするので、正義感と猪木選手を応援したい気持ちから、とっさにやってしまったのだろう。
しかし、これはプロレスの世界では絶対にやってはいけないことだった。セコンドの選手が試合中の選手に手を出したことではない。これも反則行為なのだが、そんな行為はプロレスでは珍しいことではない。
絶対にやってはいけないことは「若手がメインイベントに出ているトップレスラーを襲う」ことである。当時トップレスラーだった藤波辰巳選手が猪木選手のセコンドにつき、たまりかねてブッチャーを襲ったのなら話は別である。
セコンドが誰であれ、試合中のレスラーに手を出したらレェフリーは注意する。あまりにもひどい場合は、加勢してもらったレスラーを反則負けにすることもある。その反則と橋本選手の反則は全く意味が違った。
まだファンに顔も名前も知られていないような若手がこれをやったら、プロレスは成り立たないのだ。セコンドが手を出してはいけないがプロレスの「表のルール」。このときに橋本選手は「表もルール」よりも厳正な「裏のルール」を破ってしまったのだ。
若手がトップヒール(悪役のエース)を臆することなく蹴っとばしたら、ファンは「なんだ、ブッチャーはその程度か」と思ってしまう。それはブッチャーの商品価値を落とすだけでなく、猪木選手にとってもマイナスになる。
プロレスの試合は、第一試合からメインイベントまで一つの連続したドラマである。メインでフィナーレを飾るためには、前座は前座の、中堅には中堅クラスの役割がある。当時は、猪木選手が不動のトップだった時代である。
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以前は今より試合から試合への連続性が重視されていた。例えば、猪木選手が使う派手な大技はやろうと思えばできたとしても、前座のレスラーは絶対に使わなかった。前座が同じことをやっていたら、メインの猪木選手がかすんでしまうからだ。
これは、プロレスを成立させている不文律、暗黙のルールである。時代が移って最近はファイトスタイルが自由になってきたが、根底にある不文律は変わらない。橋本選手がブッチャーを蹴飛ばした後、理由の説明もなく橋本選手は試合から外された。
同期の武藤啓司や蝶野正洋が毎日試合に出ているのに、なぜ自分だけが出られないのだろうと、ずうっと橋本選手は不思議に思っていたようだ。そのうち、橋本選手は大先輩の星野勘太郎選手に相談した。事情が分かっている星野選手は橋本選手を説教した。
星野選手に連れられアントニオ猪木とアブドラー・ザ・ブッチャーのシングルマッチの高橋レフェリーに「橋本に言って聞かせたから、カードを組んでやってよ」と謝りに来た。だが、橋本選手は謝っても自分が悪いことをしたとは思っていなかったようだった。
それから長い年月が過ぎ、橋本選手が押しも押されもしないトップレスラーになってから、改めて高橋レフェリーに「あのときはすいませんでした」と謝りに来た。お客さんに夢を売るプロフェッショナルとして、やってはいけないことがはっきり見えてきたのだ。
もしも、橋本選手が当時に猪木選手の立場で、セコンドの若手が昔の自分と同じようなことをしたら、おそらく彼は後で若手に制裁を加えるだろう。いや橋本選手のことだからその場でぶん殴ってしまうかもしれない。
レフェリーは「表のルール」に基づいて試合を裁きながら、こうした「裏のルール」にも気を配っている。両方のルールは文字通り表裏一体の関係にある。この表と裏がからみあってこそ、プロレスはプロレスになるのである。
ルールブックがなくてもプロレスの試合が成立するのは、リングに上がる者だけが知る厳密な裏のルールが生きているからだ。裏のルールとはプロレスと喧嘩を分ける境界線にある掟であり、ファンに夢のある戦いを提供するための不文律である。
掟を踏み外して相手を攻撃した時、プロレスは喧嘩に代わる。掟を守れないやつがリングに上がると、レスラーたちの生命に危険をもたらす。だからこそ、裏のルールは絶対なのであり、それを守れない者は追放される。
その秩序をリング上で見守り、管理するのがレェフリーだが、さらにその背後でにらみを利かせているのがマッチメーカーという存在だ。リング上の世界に関して絶対的な権限を持ち、いつ殺人マシンに変貌しても不思議でないプロレスラーを監督している。
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