はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第19章 女性の性革命

昭和35年6月25日、ソ連の輸入船が600トンのニシンを積んで稚内へ入港したこの日に出版された本が日本中の話題をさらった。謝国権産婦人科医の「性生活の知恵」である。ピノキオのような人形を使って性交の体位を表現した写真は人々に衝撃だった。

1 性生活の知恵

 1-1 発想の原点

著者の謝国権医師は、慈恵医大を卒業して「絵で見る痛くないお産」などの本を出していた。昭和20年後半から昭和30年代全般にかけて、中絶した女性たちの避妊指導をしているときに「私のセックススタイルは異常でないか」という相談を頻繁に受けていた。

当時は女性が仰向けに寝て男性が上、それしか正常位ではないと思われていた。女性が足をからめたらもう正常位ではなく、女性が上になると養子スタイルと言われた。女性は男性に奉仕するもので、声を上げたりイニイシアチブを取るものではないとされていた。

昭和33年の暮れ、謝医師はお産の本を一緒に作った池田書店の池田企画部長と酒を酌み交わしながら、「能動的にセックスを楽しむ女性は、自分は異常ではないかと悩んでいる」と話した。企画部長は「先生、それなら本を書いたらいかがですか」と勧めた。

当時は「チャタレィ夫人の恋人」の訳本をめぐり、訳者が起訴されたチャタレィ裁判で最高裁が訳本を猥褻文書と認定し、有罪が確定したばかりだった。謝医師は「セックスについて書けないことが人々の知りたいこと。書いたら手が後ろへ回る」と迷った。

人々が知りたいことである体位は露骨に表現できない。どうすべきかと悩んでいるときに、避妊具のペッサリー装着方法を教えるスライドで人形が使えわれていたことを思い出した。画家がデッサン用に使う人形とわかり、神田神保町の画材店で買い求めた。

女性の人形と男性の人形をからめたらまずいだろう。ある日、テレビの電源を切った直後に画面に残像が残っていた。人形を一体ずつ分けて載せても、見ている人の頭の中ではくっつくのではないか」。これで壁が突き破れた。性生活の知恵

謝国権産婦人科医は当時、日本赤十字社本部産院(現在の日本赤十字社医療センター産科)の医局長を務められ、内容的には刺激的ではあったが初版で終わっても読者の幸福に貢献したいとの思いで執筆され、発売禁止処分にならないように留意されたそうだ。

初版本の3千部は版を重ねて1年間で152万部のベストセラーに、昭和45年4月には第138刷200万部を突破した。「日本人の性意識を変えた本」と言われている。大映製作の映画は東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。

発売当初は「池田書店発行の320円の本をください」で通じ、その後、書店がタイトルが分からないようにカバーがかけて山積みにされた本を、女性客がおつりが出ないように硬貨を用意して次々と手にしていったそうだ。

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 1-2 ベールは剥ぎ取られた

人形の写真は謝と池田が二人で撮影した。ところが、人形だから人間のように自由に手足が曲がらない。座位などの複雑な体位はバネで止めたり、足を曲げてゴムで止め、印画紙に焼き付けてから修正液で消した。フラッシュが同調せずに失敗したこともあった。

謝医師は自分たちが撮影したのは下絵用で、本番はプロのカメラマンが撮ると思っていたが、初版本を見てそのまま使われていた写真に腰を抜かすほど驚いた。増刷された本から、ちゃんとプロのカメラマンが撮影した写真が使われていた。

それでも謝医師は及び腰で、池田に「本当に大丈夫だろうね」と何度も尋ねていた。池田は「こんないいアイデアなのにやめられたら困る。迷う前に早く出してしまおう」と考えたそうだ。性生活の知恵はミリオンセラーになり、やがて外国でも発行された。

編集部に読者カードが山と積まれ、こんな声も届いた。「主人は後ろから望んだりするので、こういう変態の人とは別れた方がいいのかと思っていました。本を読んで普通なのだと分りました。自分の人生が間違った方向へ行かなくて済みました」

謝医師の女性だって男性と同じように、セックスをエンジョイして然るべきとの狙い通りだった。女性を読者として考えていたから、体位の写真も男性と女性が台頭に扱われていた。後ろめたいものという女性の性意識を打ち破った啓蒙的な役割りを果たした。

謝医師は昭和37年4月に日赤をやめて、世田谷区に「謝国権診療所」を開設した。一時期病に倒れたが、今も1日10人以上の患者を診察している。もう「私のセックスは異常ですかという」患者からの相談はないそうだ。

昭和43年4月、「長谷川肇モーニングショー」の放送が行われたNET()のスタジオは、これまでにない緊張に包まれていた。結婚カウンセラーの奈良林祥(75歳)の「セックス・コーナー」が始まったのである。

テレビに「性」を正面から持ち込んだのは初めてで、しかも主婦向けという朝のワイドショーである。当時のディレクター白戸正直は、まったく真面目な性教育番組という。彼は、受験戦争や事件を取材していて感じたことがあった。

犯罪や教育のゆがみの背景にはセックスが影響しているのではと思った。母親たちに子どもの性を、特に男の子の性について勉強させる必要性があると感じていたときだった。講師を探しに番組プロデューサーと奈良林の講演を聞いた。

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 1-3 お茶の間への浸透

奈良林の講演で「エリート男性がいいところのお嬢さんと結婚して性生活がうまくいかない、とか、母親が子どものオナニーを見てあわてている、といった相談がよく来るんですよ」。講演を聞き終わった白戸は、すぐさま奈良林に出演を依頼した。

東京都衛生局で「正しい避妊法」などの指導をしていた奈良林は、日本で初の結婚カウンセラーになった。奈良林は「セックスは女が主役で、男は脇役。一人でも多くの人が間違いに気づいていてくれれば」と思って引き受けたそうだ。

主婦たちをスタジオに集め、奈良林が講義をするスタイルをとった第一回は、マスターベーションである。聞く奥さんたちは緊張し、司会者たちは顔が引きつっていた。ともあれ、セックス・コーナーは一躍人気コーナーになった。

もう一人、メディアを通じて性意識の啓蒙にあたった人はドクトル・チエコである。本名木下和子は医師として活躍していたが、夫のキノ・トオルから雑誌の企画相談を受けた際に、「医学相談をやったら、セックスも入れるの」と気楽に答えた。

相談を誰が受けるですったもんだの末に、ドクトル・チエコの「お脈拝見」というコーナーが誕生した。一般的な医学の話に、セックス相談を交えた。これが好評で、27年から若者向け雑誌「平凡」で若者の性について小説風にまとめたコーナーを始める。

チェコは子どもの頃に受けた「処女でなければならない」という教えや、「女に性欲はない」といわれてきたこと強いに疑問を持った。「女性の抑圧された性を何とかしたい」との願いで性を書き続けると、連載中に多くの相談が寄せられた。

「彼に捨てられました。もう体験してしまったのですが、これから信頼できる人に出会ったら結婚できますか」。こんな悩みが主流だった。「妊娠してしまった。私産めません。どこに行ったらいいですか」。十分な知識がないための相談ばかりだった。

チエコの名前が高まるにつれて、いわれのない中傷を受けることもあった。ある座談会で著名人から、「あなたがいると空気が汚れる。下の方ばかりだもんな」とひどいことを言われたこともあった。

だが、奈良林やチエコ等らの精力的な活動により、性の知識は確実にお茶の間に広がっていった。昨今は夜中に男性から「ぼくのは固くなりません」と電話があり、相談者が女性から男性へ……時代を象徴する光景だろう。

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 1-4 性開放に戸惑う男性

女性自立をテーマの「モア」という月刊誌にアンケートの呼びかけがあった。「あなたがオーガズムを得やすいのはどの方法ですか」「あなたのマスターべションの方法を具体的に説明して下さい」「あなたはオーガズムのふりをすることがありますか」などだ。

モアのスタッフである小形桜子は「性の自立失くして女の自立はない」との強い信念で女性の性を積極的に取り上げてきた。男性週刊誌に踊るセックス記事は常に男性本位で、「女性が読むとエッと思うこと」ばかりだった。

企画会議で「性を取り上げる」ことを提案した小形にはある確信があった。性についての座談会に出席した一般女性が、実名顔写真入りで自分のマスターベーションなどを平気でしゃべった。「こちらが変に自己自制しているだけなんだ」と感じたのである。

性についてのアンケートは千位の回答があればと考えたが、14歳から60歳まで何と5422人の回答が寄せられた。自分の本音を発言したいという女性の気持が高まり、モアの読者以外からも回答があったことは、コピー用紙や便箋の回答からも分かった。

回答の内容も予想を超えていた。オーガズムとはどんな感じですかの問に、「下肢が弦を張り詰めたようにつっぱり、その弦に剃って電流がくるぶしへ抜けるような感じで、最終的には足の裏がしびれるというか…」と詳細にわたっている。

「体の中の何かあついものが運動会のスタートラインみたいに一列に並んでいるような感じ。脚にも手にも胸にも、何かピーンとあついものが並ぶ。しだいにスタートとして、あついものが広がる」。微妙な感覚を表現する見事な筆致にスタッフは驚いた。

マスターベーションの経験者は88%、性交でオーガズムを必ず得られる女性は10%に対しマスターベーションで必ず得られる割合は40%という。あなたはオーガズムの振りをすることはに、性交経験のある女性のうち68%が「する」と答えたことだった。

モアが出てから男性誌のセックス記事の内容が変わった。「男性が分っていると思っていた女性の快感箇所は見当はずれらしい」「長く入れていればいいってものではないらしい」「お互い話し合って楽しむというカップルも増えていった」そうだ。

モアノアンケートが実施された昭和55年は、自由に働き、生きる女性をを呼んだ「翔んでる女「キャリアウーマン」という言葉が流行した年だった。今は「保守化して結婚願望が強い」と小形は言う。

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2 アンネナプキン

昭和36年10月26日、ある全国紙の夕刊に出た広告「40年間お待たせしました」は読者を驚かせた。アメリカで販売されて「コーテックス」から40年も遅れていたとはいえ、日本初の生理用品「アンネ」のデビューは鮮烈だった。

アンネが発売されるまでの女性の生理は、「隠されるべきもの」「不浄なもの」されていた。だから、アメリカで「商品」として紙製の生理用品が開発されても、日本では40年間も見向きもされなかった。

生理の時は自分でひっそりとカット綿と呼ばれる脱脂綿をあてていた。カット綿は薬局の奥の棚にひっそりと置かれ、店員に「あれをください」というと出してくる。カット綿の使い方をドクロル・チエコが説明してくれた性生活の知恵

「朝、カット綿を切って作るんです。幅は15センチで長さは30センチ位。2枚のカット綿の間に鼻紙をもんで柔らかくしたものをはさんで、2センチ位の厚さにしたものを作りました。着物の袖にいくつか入れて出かけたものです」。

カット綿を当てた上に一部がゴムになった生理体をはく。ゴムはむれて不快だった。うまく寝付いたかと思うと、蒸し暑さのために目が覚める。とうとう一晩中、生理帯の重圧に悩まされたそうである。

高度成長期を迎え、女性の多くが外で働く時代になると不便極まりなかった。水洗トイレの普及に伴い、トイレが詰まる原因にもなっていた。水に流せて、コンパクトでずれないアンネナプキンの登場は、悩める女性たちに爆発的な人気で迎えられた。

12個入り100円。多い日を考えて、サイズも大小2種類が箱に入っていた。同時にヘアネットの素材で作られたパンネットという生理用ショーツも発売された。店頭にないから送ってくれと送金してくる女性もいて、毎日商品の配送に負われたそうだ。

もれ、ずれの実態調査は、当時働いていた女性従業員が協力した。ナプキンを付けた女性従業員に工場の屋上で体操をしてもらい、終わったらナプキンの様子を観察する。裏に染み出たシミの大きさに合わせて、材質や厚さを調整していった。

40年にアンネナプキンのコマーシャルに登場した中村メイコは、「母になってからも『メイコちゃん』というイメージがつきまとっていたが、ナプキンのコマーシャルのお話をいただいて『本当の大人の女になれるなあ』という気持ちになったと振り返っている。

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51年に歌手の研ナオコが出演するテレビコマーシャルが評判となった。ユニ・チャームのナプキンを手に「まだお厚いのがお好き?」という。キャッチコピーは、マリリン・モンロー主演の映画「お熱いのがお好き」のパロディである。

コメデーィタッチであっけらかんとした研ナオコ戦後史開封のセリフは、まだ陰湿だった生理のイメージを完全に吹き飛ばした。昭和56年には遂男性がナプキンのコマーシャルに登場した。サザンオールスターズの桑田佳祐である。男性タレントが生理をテレビで口にする。

CMを見ていた女性にとって画期的な出来事だった。「ああ偉大なる女性に感謝」というコピーは、女性の生理に対する男性の見方を表していてたいへん新鮮に映った。何人かの候補男性に依頼したが生理用品ではと断ったタレントが多かったそうだ。

昭和60年に大玉製紙は「エリス」という新製品の生理ナプキンの一大キャンペーンを張った。イメージタレントに人気グループ「安全地帯」のボーカル玉置浩二を起用し、作詞家の松井五郎に「エリス」という言葉を入れた歌を依頼した。

松井はズバリ商品名を織り込んだCAソング「青い瞳のエリス」という曲を作った。さらに、玉置の出演映画「ブルシアンブルーの肖像」に製作協力し、ソーイングセットやミニペンのおまけをつけるという、考えうるあらゆる手段で宣伝した。

戦後、薬局で「あれください」といってこっそり買った生理用品は、現在スーパーのかごにポートほり込まれる商品になっている。生理ナプキンがすっかり普通の商品になり、し烈な広告合戦や販売競争の結果、今や年間800億円を売り上げる。

生理ナプキンは他のセックス用品にも影響を及ぼした。かっては日陰者に甘んじていたコンドームは、テレビのMや新聞の見出しで解禁となった。最近では、色とりどりのコンドームを並べた専門店も登場している。

生理用品の研究で知られる千葉県立衛生短期大学の小野清美助教授は「ただこれだけは忘れないでもらいたい。ナプキンは女性の悲しみと喜びを引きずった。そのような文化のある品物なのです」とおっしゃる。

一時はシェア60%を誇ったアンネだったが、次第に十条キンパリー、チャームといった後発メーカーにシェを奪われ、昭和46年に本州製紙、ライオン歯磨き、東レに経営権が移った。 しかし、ライオンの販売網での売れ行きは振るわずアンネの文字は消えた。

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3 スウェーデンの性革命

スウェーデンの「セックスフリー」は、全世界に衝撃を与えた。1960年代後半から1970年代前半にかけて世界中で吹き荒れた「性革命」の嵐のなかで、とりわけ最先端を走っていたのがスウェーデンの若者だった。

それまではスウェーデンでもセックスは隠すべきもので、結婚するまでしてはいけないことだと抑圧されていた。それに反発するように女性解放運動が起こり、ピルが導入されて女性が妊娠を気にせずにセックスを楽しめるようになった。

女性は慎ましくあるべきだと言われてきたのが一転、女性は自らの性欲に忠実であることが社会的に容認された。女性のほうから自発的に男性をセックスに誘い快楽を求める。スウェーデンは「愛と悦楽の国」として世界に認められた。

あれから半世紀近くが過ぎ、スウェーデンの「性革命」の旗手たちも年を取った。だがその情熱は失われてはいない。今もなお、彼らの性の世界には革新が続いている。ED治療薬が、スウェーデンの中高年カップルに再び革命を引き起こした。

イエテボリ大学に所属するニルス・ベックマン氏が発表した論文によれば、ED治療薬のお陰で、70代の男女は「現役」で性生活を楽しんでいるという。お互いの愛撫だけに留まっていたセックスが挿入を伴うようになったのだ。

性生活を楽しんでいるのは70代以外にも、90代男性の26.7%、女性の4.7%が性的な興奮や情熱といった感情を維持している。いくつになってもセックスをするために必要なものは何か。スウェーデン人は「相手への敬意」だと口をそろえる。

スウェーデン人で36歳のジャーナリストは、「私の両親も66歳だけど、週に何回もセックスしているわよ。白髪になってもセックスするの。日本の女性は結婚すると家政婦のようになり、子供ができたらセックスレスになってしまうのが理解できない。

夫婦であってもお互いのプライベートな時間は尊重し、その上で二人の時間はきちんと取る。そうすれば良好な夫婦関係は長く続くし、相手への敬意と愛情があれば、セックスをする気持ちにもなるのよ」。

もちろん、加齢とともに体力も勃起能力も減退していく。それでもセックスが可能なのは、彼らのセックスが時間をかけて絶頂へと上り詰める「ロングロングSEX」だからだ。

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スウェーデンでは、親子の間でセックスについて話すことも多い。「7歳から性教育が始まり、子供たちは赤ん坊がどこから出てくるかも知っている。セックスは『愛する人と行う大切な行為』『楽しいもの』と教えられる」。

こうした教育の結果、スウェーデンではセックスを「汚い」「いやらしい」とする感覚が少なく、「ポジティブなもの」と考える人が多いという。みんなセックスを恥ずかしい行為とは思っていない。

女友達のあいだでも、普通に「オナニーの時、どんなバイブを使うのが気持ちいい」といった会話をする。パートナーにもハッキリ「舐めてほしい」「クリトリスをさわってほしい」と言える。

スウェーデンの冬は暗く、寒く、長い。朝10時に明るくなり始め、午後4時には暗くなる。雪も積もり、外に出るのは一苦労だ。そんな「インドア」の土地柄だから、セックスについても長い時間をかけ、ゆっくりじっくりと味わう傾向があるという。

40代の在日スウェーデン人女性はいう。「私は、愛撫から絶頂までに1時間はかけます。ムーディーな音楽をかけ、ワインを飲んで、アロマを焚く。手をつないだりキスをしたりしながら気持ちを盛り上げ、こうして初めて充実したセックスに至るんです。

彼が『いきそうだ』と言うと、私はペニスを抜いてしまいます。少し休憩してから彼は再び動き始めますが、射精しそうになるとまたやめる。これを3回繰り返しました。2回目の休憩ではコーヒーを飲み、興奮しているのにゆったりした不思議な感覚でした」。

40代の在日スウェーデン人男性は、「挿入を始めてから1時間、我慢できなくなって4回目でようやく射精させてもらえました。焦らされていた分、絶頂の快感は凄まじかった。彼女は『長い時間楽しめるでしょ』と言っていました」。

日本の女性は同性の友人にも自分の性欲はあまり語らないが、スウェーデンではどんな「セックス・トイ」を使えばより深いオーガズムが得られるか日常的に情報交換する。女性も性欲を満たしたいという欲求が社会に受け入れられている結果である。

スウェーデンでは男女が親密になると、交際をしていなくてもセックスをすることがしばしばある。そうやって選んだ相手だから愛情をもって接することができ、浮気も少なくなるのかもしれない。こうした意味でスウェーデンは「愛と悦楽の国」なのだ。

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4 陰茎勃起障害対策

EDは英語の「Erectile Dysfunction」の略で陰茎の勃起機能の低下を意味し、満足のいく性行為に十分な勃起を達成できない、もしくは維持できないことと定義されている。従来の日本では加齢とともに性欲が薄れるから仕方がないと考えられていた。

性欲や興奮はあってもなかなか勃起しない、最初は勃起するけれど持続ができない、挿入できても途中で萎えてしまうなど、勃起障害の症状は人によってさまざまである。これらの結果、性的能力に自信がもてず、性生活に億劫になってしまう人も多く見られる。

陰茎勃起障害は、20~30代の若年層でも7人に1人(14.1%)の割合で中等度以上の深刻な悩みを抱えている。40代で6人に1人(17.6%)、50代で3人に1人(33.8%)と高齢化するに従い増加している。

そして、勃起障害を自覚しているのは、60代で2.5人に1人(41.6%)と増え、70代では1.7人に1人(60.33%)と増加する。その反面、男性では70代までの90%が性欲を維持し続け、90代まで性交を行って方もいるそうだ。

通常、性的な刺激を受けると脳による興奮が神経を通して陰茎に伝わる。すると陰茎海綿体の動脈が拡張し、十分な血液が流れ込むことで大きく膨らむのがいわゆる勃起という現象である。人間の性中枢調整は大脳皮質の担当なので、頭を鍛えることが大切である。

死ぬまでSEXを楽しみたい人のために、1998年頃アメリカからバイアグラが輸入された。国内で承認されているED治療薬はバイアグラ、レビトラ、シアリスの3種類である。3種のED治療薬を試して自身に合ったものを選ぶのが最善である。

ED治療薬は血中濃度が最大になるまで時間が必要である。バイアグラとレビトラは性交の約1時間前、シアリスは性交の2時間前が最も効果を発揮しやすいようだ。レビトラは比較的早く効果が発現し、性行為10分前の服用で2割の人に有効だった。

効果持続時間については、バイアグラとレビトラは約4時間、シアリスは36時間である。したがって、通常の投与時間は、バイアグラとレビトラは性行為の1~3時間前、シアリスは性行為の1時間~1日半前との服用がな最適と言われている。

性行為はパートナーの気持ちにも配慮するため、ED治療薬を飲んで性行為が行われない場合もしばしばある。性行為が行われなくても血管機能の改善や修復するためアンチエイジング効果が期待され、内服して性行為がなくても無駄ではないと考えられている。

江戸時代に百人一首の「あまつ風 雲のかよい路 吹きとじよ 乙女のすがた しばしとどめん」と歌った僧正遍照をスケベ親父と若者たちが笑っていたが、僧正になったのは晩年で30歳の時の作である。90歳になっても心がときめかなくなったら生物ではない。

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参考資料:戦後詩開封1(産経新聞社)、東邦大学衣料センター大森病院HP、浜松町第一クリニックHPなど。