1 性生活の知恵
1-1 発想の原点
著者の謝国権医師は、慈恵医大を卒業して「絵で見る痛くないお産」などの本を出していた。昭和20年後半から昭和30年代全般にかけて、中絶した女性たちの避妊指導をしているときに「私のセックススタイルは異常でないか」という相談を頻繁に受けていた。
当時は女性が仰向けに寝て男性が上、それしか正常位ではないと思われていた。女性が足をからめたらもう正常位ではなく、女性が上になると養子スタイルと言われた。女性は男性に奉仕するもので、声を上げたりイニイシアチブを取るものではないとされていた。
昭和33年の暮れ、謝医師はお産の本を一緒に作った池田書店の池田企画部長と酒を酌み交わしながら、「能動的にセックスを楽しむ女性は、自分は異常ではないかと悩んでいる」と話した。企画部長は「先生、それなら本を書いたらいかがですか」と勧めた。
当時は「チャタレィ夫人の恋人」の訳本をめぐり、訳者が起訴されたチャタレィ裁判で最高裁が訳本を猥褻文書と認定し、有罪が確定したばかりだった。謝医師は「セックスについて書けないことが人々の知りたいこと。書いたら手が後ろへ回る」と迷った。
人々が知りたいことである体位は露骨に表現できない。どうすべきかと悩んでいるときに、避妊具のペッサリー装着方法を教えるスライドで人形が使えわれていたことを思い出した。画家がデッサン用に使う人形とわかり、神田神保町の画材店で買い求めた。
女性の人形と男性の人形をからめたらまずいだろう。ある日、テレビの電源を切った直後に画面に残像が残っていた。人形を一体ずつ分けて載せても、見ている人の頭の中ではくっつくのではないか」。これで壁が突き破れた。
謝国権産婦人科医は当時、日本赤十字社本部産院(現在の日本赤十字社医療センター産科)の医局長を務められ、内容的には刺激的ではあったが初版で終わっても読者の幸福に貢献したいとの思いで執筆され、発売禁止処分にならないように留意されたそうだ。
初版本の3千部は版を重ねて1年間で152万部のベストセラーに、昭和45年4月には第138刷200万部を突破した。「日本人の性意識を変えた本」と言われている。大映製作の映画は東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。
発売当初は「池田書店発行の320円の本をください」で通じ、その後、書店がタイトルが分からないようにカバーがかけて山積みにされた本を、女性客がおつりが出ないように硬貨を用意して次々と手にしていったそうだ。
1-2 ベールは剥ぎ取られた
人形の写真は謝と池田が二人で撮影した。ところが、人形だから人間のように自由に手足が曲がらない。座位などの複雑な体位はバネで止めたり、足を曲げてゴムで止め、印画紙に焼き付けてから修正液で消した。フラッシュが同調せずに失敗したこともあった。
謝医師は自分たちが撮影したのは下絵用で、本番はプロのカメラマンが撮ると思っていたが、初版本を見てそのまま使われていた写真に腰を抜かすほど驚いた。増刷された本から、ちゃんとプロのカメラマンが撮影した写真が使われていた。
それでも謝医師は及び腰で、池田に「本当に大丈夫だろうね」と何度も尋ねていた。池田は「こんないいアイデアなのにやめられたら困る。迷う前に早く出してしまおう」と考えたそうだ。性生活の知恵はミリオンセラーになり、やがて外国でも発行された。
編集部に読者カードが山と積まれ、こんな声も届いた。「主人は後ろから望んだりするので、こういう変態の人とは別れた方がいいのかと思っていました。本を読んで普通なのだと分りました。自分の人生が間違った方向へ行かなくて済みました」
謝医師の女性だって男性と同じように、セックスをエンジョイして然るべきとの狙い通りだった。女性を読者として考えていたから、体位の写真も男性と女性が台頭に扱われていた。後ろめたいものという女性の性意識を打ち破った啓蒙的な役割りを果たした。
謝医師は昭和37年4月に日赤をやめて、世田谷区に「謝国権診療所」を開設した。一時期病に倒れたが、今も1日10人以上の患者を診察している。もう「私のセックスは異常ですかという」患者からの相談はないそうだ。
昭和43年4月、「長谷川肇モーニングショー」の放送が行われたNET()のスタジオは、これまでにない緊張に包まれていた。結婚カウンセラーの奈良林祥(75歳)の「セックス・コーナー」が始まったのである。
テレビに「性」を正面から持ち込んだのは初めてで、しかも主婦向けという朝のワイドショーである。当時のディレクター白戸正直は、まったく真面目な性教育番組という。彼は、受験戦争や事件を取材していて感じたことがあった。
犯罪や教育のゆがみの背景にはセックスが影響しているのではと思った。母親たちに子どもの性を、特に男の子の性について勉強させる必要性があると感じていたときだった。講師を探しに番組プロデューサーと奈良林の講演を聞いた。
1-3 お茶の間への浸透
奈良林の講演で「エリート男性がいいところのお嬢さんと結婚して性生活がうまくいかない、とか、母親が子どものオナニーを見てあわてている、といった相談がよく来るんですよ」。講演を聞き終わった白戸は、すぐさま奈良林に出演を依頼した。
東京都衛生局で「正しい避妊法」などの指導をしていた奈良林は、日本で初の結婚カウンセラーになった。奈良林は「セックスは女が主役で、男は脇役。一人でも多くの人が間違いに気づいていてくれれば」と思って引き受けたそうだ。
主婦たちをスタジオに集め、奈良林が講義をするスタイルをとった第一回は、マスターベーションである。聞く奥さんたちは緊張し、司会者たちは顔が引きつっていた。ともあれ、セックス・コーナーは一躍人気コーナーになった。
もう一人、メディアを通じて性意識の啓蒙にあたった人はドクトル・チエコである。本名木下和子は医師として活躍していたが、夫のキノ・トオルから雑誌の企画相談を受けた際に、「医学相談をやったら、セックスも入れるの」と気楽に答えた。
相談を誰が受けるですったもんだの末に、ドクトル・チエコの「お脈拝見」というコーナーが誕生した。一般的な医学の話に、セックス相談を交えた。これが好評で、27年から若者向け雑誌「平凡」で若者の性について小説風にまとめたコーナーを始める。
チェコは子どもの頃に受けた「処女でなければならない」という教えや、「女に性欲はない」といわれてきたこと強いに疑問を持った。「女性の抑圧された性を何とかしたい」との願いで性を書き続けると、連載中に多くの相談が寄せられた。
「彼に捨てられました。もう体験してしまったのですが、これから信頼できる人に出会ったら結婚できますか」。こんな悩みが主流だった。「妊娠してしまった。私産めません。どこに行ったらいいですか」。十分な知識がないための相談ばかりだった。
チエコの名前が高まるにつれて、いわれのない中傷を受けることもあった。ある座談会で著名人から、「あなたがいると空気が汚れる。下の方ばかりだもんな」とひどいことを言われたこともあった。
だが、奈良林やチエコ等らの精力的な活動により、性の知識は確実にお茶の間に広がっていった。昨今は夜中に男性から「ぼくのは固くなりません」と電話があり、相談者が女性から男性へ……時代を象徴する光景だろう。
1-4 性開放に戸惑う男性
女性自立をテーマの「モア」という月刊誌にアンケートの呼びかけがあった。「あなたがオーガズムを得やすいのはどの方法ですか」「あなたのマスターべションの方法を具体的に説明して下さい」「あなたはオーガズムのふりをすることがありますか」などだ。
モアのスタッフである小形桜子は「性の自立失くして女の自立はない」との強い信念で女性の性を積極的に取り上げてきた。男性週刊誌に踊るセックス記事は常に男性本位で、「女性が読むとエッと思うこと」ばかりだった。
企画会議で「性を取り上げる」ことを提案した小形にはある確信があった。性についての座談会に出席した一般女性が、実名顔写真入りで自分のマスターベーションなどを平気でしゃべった。「こちらが変に自己自制しているだけなんだ」と感じたのである。
性についてのアンケートは千位の回答があればと考えたが、14歳から60歳まで何と5422人の回答が寄せられた。自分の本音を発言したいという女性の気持が高まり、モアの読者以外からも回答があったことは、コピー用紙や便箋の回答からも分かった。
回答の内容も予想を超えていた。オーガズムとはどんな感じですかの問に、「下肢が弦を張り詰めたようにつっぱり、その弦に剃って電流がくるぶしへ抜けるような感じで、最終的には足の裏がしびれるというか…」と詳細にわたっている。
「体の中の何かあついものが運動会のスタートラインみたいに一列に並んでいるような感じ。脚にも手にも胸にも、何かピーンとあついものが並ぶ。しだいにスタートとして、あついものが広がる」。微妙な感覚を表現する見事な筆致にスタッフは驚いた。
マスターベーションの経験者は88%、性交でオーガズムを必ず得られる女性は10%に対しマスターベーションで必ず得られる割合は40%という。あなたはオーガズムの振りをすることはに、性交経験のある女性のうち68%が「する」と答えたことだった。
モアが出てから男性誌のセックス記事の内容が変わった。「男性が分っていると思っていた女性の快感箇所は見当はずれらしい」「長く入れていればいいってものではないらしい」「お互い話し合って楽しむというカップルも増えていった」そうだ。
モアノアンケートが実施された昭和55年は、自由に働き、生きる女性をを呼んだ「翔んでる女「キャリアウーマン」という言葉が流行した年だった。今は「保守化して結婚願望が強い」と小形は言う。