1 チキンラーメンの誕生
昭和20年の秋、疎開先から焼け野原の中にビルの残骸が残る大阪へ戻った日清製粉の安藤百福は、瓦礫が残る空き地に無数の屋台が並び食を求めて群がる人々の行列を見た。この光景を見たのが即席めん開発のきっかけだった。
昭和30(1955)年の春に、明星食品がお湯を注ぐと食べられる50度前後の低温の油で揚げた「鶏糸麺(大和通商製造)」と、高温のラードで揚げた「長寿麺(東名商行製造)」を販売したが、完成度は今一で量産はむずかしかった。
この当時、アメリカから援助物資の小麦粉が大量に輸入され、官公庁はパン食を勧めていた。安藤は屋台に並ぶ人の群れを見て、うどんやそばのような麺料理が日本人の食生活に合うと考え、構想十年を経て未知の分野であるラーメン作りに挑戦した。
理想は「お湯をかけるだけで2~3分で食べられる麺料理」であった。大阪府池田市の自宅の裏に小さな小屋を建て、古道具屋から製麺機を購入して据え付け、小麦粉などの原料は自転車で買い出しに出かけた。
小麦粉に水を加えてこねて生地をねり、つなぎに卵や片栗粉、ヤマイモなどを加えながら家族総出で連日連夜試した。めんは最初からトリガラスープで味付けすることに決めていた。あとは保存のために麺を乾燥させる技術だけである。
この技術は天婦羅を見て思いついた。水で溶いた小麦粉を熱い油の中へ入れると、微細な穴が全面にうがたれる。油で揚げ、油熱乾燥させためんに湯を注ぐと、小麦粉に開いた穴に湯がゆきわたり短時間でゆで上がり状態に戻った。チキンラーメンの誕生である。
翌33年6月、東京有楽町の阪急百貨店でお湯をかけて2分間で食べられる「魔法の食品」とうたったチキンラーメンの試食即売会が行われた。うどん1玉が6円、食パン1斤30円、国鉄の初乗りは10円、入浴料が16円の時代に1袋35円である。用意した500食はその日のうちに売り切れた。
販売見本を見た問屋さんは「こんなけったいなもん、どないもなりますかいな」という反応だった。それが数日後には流通業者の心配をよそに売れ行きは爆発的となった。大阪市中央卸売市場で正規の販売食品になったのは、試食会からわずか2か月後である。
日産300食だったが、翌34年4月には6千食に達した。発売当初のチキンラーメンは鶏を丸ごと調理して味付けしていたため、栄養満点というイメージがプラスして受験生や残業のサラリーマンに受け入れられ、41年には年間1億1千700万食にも達した。