はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第23章 日本の脱獄王

日本の大盗賊と問われ、熊坂長範(くまさかちょうはん)、石川五右衛門(いしかわごえもん)、日本駄右衛門(にほんだえもん)、鼠小僧治郎吉(ねずみこぞうじろきち)、五寸釘寅吉(ごすんくぎとらきち)という名を挙げることができれば合格である。

しかし、歌舞伎の出し物になっている「白波五人男」も白波=盗賊であり、こちらの盗賊のほうが知れ渡っているかもしれない。歌舞伎の出し物には作者がいて、白波五人男の4人は実在の盗賊だったが、弁天小僧菊之助のみは架空の人物である。

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1 白波五人男

河竹黙阿弥は1816年の江戸日本橋の生まれ。360本の作品を書き、明治の劇作家である坪内逍遥をして『江戸の芝居の大問屋だ』といわせている。白浪五人男が織りなす悪の華は、色彩美・音楽美にあふれた歌舞伎屈指の名場面として登場する。

白波五人男は、日本駄衛門(にっぽんだえもん)、弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)、忠信利平(ただのぶりへい)、赤星十三郎(あかぼしじゅうざぶろう)、南郷力丸(なんごうりきまる)で、泥棒の五人衆という意味である

白浪五人男が稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろい)の場で、ひとりひとり登場して花道にずらりとそろい、気持の良い渡りせりふを述べるのが河竹黙阿弥の名作『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)』である。

私はこの歳まで歌舞伎を見たことはないが、子どもの頃に佐伯孝夫作詞吉田正作曲で昭和30年に三浦洸一が発表した弁天小僧菊之助という歌で名を知った。いまも、時々カラオケで歌う懐かしい歌詞をご紹介しよう。

牡丹の様なお嬢さん シッポ出すぜと浜松屋 二の腕かけた彫り物の 桜に絡む緋縮緬
 しらざァいって聞かせやしょう オット俺らァ弁天小僧菊之助

以前を言ゃあ江の島で 年期づめのお稚児さん くすねる銭もだんだんに
 とうとう島をおわれ鳥 噂に高い白波の オット俺らァ五人男のきれはしさ

着なれた花の振袖で 髪も島田に由比ヶ浜 だまして取った百両も
 男とばれちゃ仕方がねえ つき出しなせえどこはなと
 オットどっこいサラシは一本切ってきた

素肌にもえる長襦袢 鎬の羽織を南郷に 着せかけられて帰りしな
 にっこり被る豆しぼり 鎌倉無宿島育ち オットどっこい女にしたい菊之助

歌舞伎屈指の名場面、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)の鎌倉稲瀬川の台詞に登場する泥棒の五人衆の台詞はご紹介しよう。

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 2-1 日本駄衛門

徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢などで押し込み強盗を重ねた強盗団の一味の首領で、後に自首して獄門となった。

問われて名乗るもおこがましいが 産まれは遠州浜松在、十四のときから親に放れ 身の生業も白浪の 沖を越えたる夜働き 盗みはすれど非道はせず 人に情けを掛川から 金谷をかけて宿宿で 義賊と噂高札に 回る配布の盥越し 危ねえその身の境涯も 最早四十に人間の定めはわずか五十年 六十余州の隠れのねぇ 六十余州に隠れのねえ 賊徒の首領日本駄右衛門 。

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 2-2 弁天小僧菊之助

白浪五人男の一人である弁天小僧菊之助だけは架空の人物で、河竹黙阿弥が両国橋で目撃した女物の着物の美青年のことを二代目歌川豊国に話し、豊国が浮世絵にしたのをみて歌舞伎に取り入れた。

さてその次は江ノ島の 岩本院の稚児上がり 平生着慣れし振袖から 髷も島田に由比ヶ浜 打ち込む浪にしっぽりと 女に化けた美人局 油断のならぬ小娘も 小袋坂に身の破れ 悪い浮名も龍の口 土の牢へも二度三度 だんだん越える鳥居数 八幡さまの氏子にて 鎌倉無宿と肩書きも 島に育ってその名さえ 弁天小僧菊之輔。

弁天小僧菊之助には名台詞がもうひとつある。青砥稿花紅彩画(白浪五人男)の浜松屋店先での台詞である。

知らざぁ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が 歌に残した盗人の 種は尽きねぇ七里が浜 その白浪の夜ばたらき 以前を言やぁ江の島で 年季勤めの児が淵 百味講で散らす蒔銭を あてに小皿の一文子 百や二百と賽銭のくす銭せぇ だんだんに 悪事はのぼる上の宮 岩本院で講中の 枕捜しもたび重なり お手長講の札付に とうとう島を追い出され それから若衆の美人局 ここやかしこの寺島で 小耳に聞いた祖父さんの 似ぬ声色でゆすりたかり 名せぇ由縁の弁天小僧菊之助たぁ俺がことだ

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 2-3 忠信利平

忠信利平は西に東に神出鬼没の盗賊、剣の達人でその腕は強く凄みのある人物である。寡黙ながら、正義感が強く優しい人物だったようである。

続いて次に控えしは 月の武蔵野江戸育ち 幼児の折から手癖が悪く 抜け参りからぐれ出して 旅をかせぎに西国を 回って首尾も吉野山 まぶな仕事も大峯に 足を留めたる奈良の京 碁打ちと言って寺寺や 豪家へ入り込み盗んだる 金が御嶽の罪科は 蹴抜の塔の二重三重 重なる悪事に高飛びなし 後を隠せし判官の 御名前騙りの忠信利平。

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 2-4 赤星十三朗

実在した前髪立ちの美少年辻斬強盗である白井権八(しらい ごんぱち)がモデル。白井権八は江戸時代初期の元鳥取藩の武士で、父を侮辱した家中の者を斬って江戸に逃れ大名屋敷に奉公した。吉原三浦屋の遊女小紫と馴染みとなったが、三両一人扶持という安月給のため金策に辻斬りを重ねて鈴ヶ森で磔刑に処された。

またその次に列なるは 以前は武家の中小姓 故主のために切取りも 鈍き刃の腰越や 砥上ヶ原に身の錆を 砥ぎなおしても抜け兼ねる 盗み心の深翠り、柳の都谷七郷 花水橋の切取りから 今牛若と名も高く 忍ぶ姿も人の目に 月影ヶ谷神輿ヶ嶽 今日ぞ命の明け方に 消ゆる間近き星月夜 その名も赤星十三郎。

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 2-5 南郷力丸

南湖の舟持ちの倅で、手に負えないほどの悪党だったという。日本左衛門の手下で、実在の盗賊の南宮行力丸(なんぐう こうりきまる)。

さてどんじりに控えしは 潮風荒き小ゆるぎの 磯慣れ松の曲がりなり 人となったる浜育ち 仁義の道も白川の 夜船へ乗り込む船盗人 波にきらめく稲妻の 白刃で脅す人殺し 背負って立たれぬ罪科は その身に重き虎ヶ石 悪事千里というからは どうで終いは木の空と 覚悟は予て鴫立沢 然し哀れは身に知らぬ 念仏嫌いな 南郷力丸。

南郷力丸の自己紹介は、漁師出身なので舟づくしの科白もある。

その相ずりの尻押しは 富士見の間から彼方に見る 大磯小磯小田原かけ 生まれが漁師に波の上 沖にかかった元船へその舟玉の毒賽を ぽんと打ち込む捨て碇 船丁半の側中を ひっさらって来るかすり取り 板子一枚その下は 地獄と名に呼ぶ暗闇も 明るくなって度胸がすわり 艪を押しがりやぶったくり 舟足重き刑状に 昨日は東今日は西 居所定めぬ南郷力丸 面を見知って貰いやしょう。

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3 日本の大盗賊

日本の大盗賊と問われ、熊坂長範(くまさかちょうはん)、石川五右衛門(いしかわごえもん)、日本駄右衛門(にほんだえもん)、鼠小僧治郎吉(ねずみこぞうじろきち)、五寸釘寅吉(ごすんくぎとらきち)という名を挙げることができれば合格である

  3-1 熊坂趙範

熊坂長範(くまさか ちょうはん)は平安時代の伝説上の盗賊で、室町時代後期に成立したとされる幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場するが、存在を証明できる証拠は発見されていない。

幸若舞の『烏帽子折』で、熊坂長範が身の上話を語っている。生まれは信濃国水内郡熊坂で、もとは正直者であったが7歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来日本国中で盗みを働き一度も不覚をとらなかったという。

鞍馬寺を出奔し金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求めて自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平・朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。

このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。

待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた。

源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられたが脚色が多いので真実は誰にも分からない

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 3-2 石川五右衛門

安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて京都を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。

イエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは石川五右衛門とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった。」

また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ10人、又1人は釜にて煎らる。同類19人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。

時代はやや下り1642年(寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜(林羅山編)』には「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命により(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。

以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。

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 3-3 日本駄右衛門

尾張藩の七里役の子として生まれる。本名は濱島庄兵衛と言い、175センチほどの長身の精悍な美丈夫で、鼻筋が通って色白で、顔に5センチほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている。

若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴え出て、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される。

盗賊団の幹部数名が捕縛されたが日本左衛門は逃亡した。伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞いて遠国への逃亡を図ったが、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念した

延享4年(1747年)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方(あるいは大坂にて大坂町奉行牧野信貞)へ自首し、江戸に送られて北町奉行能勢頼一の命により小伝馬町の牢に繋がれた。

刑罰は市中引き回しのうえ獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29。

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 3-4 鼠小僧治郎吉

鼠小僧と言われた次郎吉は、歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原で生まれれ、10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がりその後は鳶人足となったが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当される。

賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになった。一時は上方へ姿を消し、江戸に密かに舞い戻ってからは父親の住んでいる長屋に身を寄せた。しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業に舞い戻る。

天保3年5月5日(1832年6月3日)日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(当時の藩主は松平忠恵)で捕縛された。北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、10年間に荒らした屋敷95箇所839回、盗んだ金三千両余りと治郎吉は供述したが、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である

治郎吉が大名屋敷を専門に狙った理由は、敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別され、金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという理由が挙げられている。

町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重に出来きず、面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。

治郎吉は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、江戸時代における反権力の具現者のように扱われた。治郎吉が捕縛された後に行われた家宅捜索で盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。

当時の重罪には連座制が適用されていたが、次郎吉は勘当されているために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していたため、動作敏捷な五尺に満たぬ小男は天涯孤独の身として刑を受けた。

8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下された。引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧次郎吉を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せた。

市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みすぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅までひいたという。処刑は小塚原刑場にて行われた。

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 3-5 五寸釘寅吉

五寸釘寅吉は西川寅吉といい、文久元年(1868)に三重県多気郡御糸村の農家の次男坊として生まれた。松阪市から20キロほど離れ、古くは伊勢神宮に通じる街道筋であり、全国からの人の往来が激しく中々繁盛している地域だった。

寅吉は幼いころから身体は小さかったが頑健で腕力が強く、8歳ぐらいになると誰と喧嘩をしても負けることはなく、13歳頃になると子どもでは相手にならず、村の青年たちの間に入れてもらい一端の実力者になっていた。

この寅吉を我が子のように可愛がってくれた叔父がいた。叔父は博打が好きで、賭場に出入りしているうちに泥沼に入り込み、身動きが取れなくなってきた。挙句の果てに、田地田畑はおろか家まで掛け金のカタに取られてしまった。

苦し紛れに打ったイカサマがバレ、逆さづりにされて殴る蹴るというものすごいリンチを受け、這うようにして家へ戻った叔父はその日のうちに息を引き取った。自分を親よりも可愛がってくれた叔父の悲惨な死を見た寅吉は、仇討ちをしようと固く心に誓った

仇を討つといっても相手は無法地帯の渡世人で、斬った張ったは日常茶飯事の博徒一家である。誰が考えても、14歳の寅吉には到底太刀打ちできる相手ではないが、気性の激しい寅吉はただちに直接行動に出た。

博徒一家が寝静まった夜半に、寅吉は日本刀の抜き身をっ提げて忍び込み、酒に酔って前後不覚に寝ている親分の布団の上から足をめがけてブスーッと突き立てた。ギャーッと絶叫して身を起こした親分の無傷の足に、更に一太刀加えたので逃げることはできない。

寅吉は隣室に飛び込み、親分の絶叫で夢破られた4人の子分が茫然と立っている足に斬り付け、瞬く間に全員を倒してしまった。足を傷つけられると追いかけてくることはできない。寅吉は考え抜いて喧嘩慣れしている博徒たちの足を狙ったのだ

のたうちまわる博徒を尻目に、寅吉は逃げるさいに家へ火をつけた。江戸時代の末期に放火は死刑に該当する大罪だった。捕まった寅吉は年少ということで死罪は免れたが、無期懲役となって三重の牢獄へ収監された

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4 昭和の脱獄王

三重の牢獄で西川寅吉は叔父の敵を討っただけでなぜ罰を受けるか納得できなかった。ある日のこと牢役人が「寅吉、お前が討ったあの親分は足の傷がもとでビッコになり、あの事件ですっかり人気が無くなり、長い草履をはいてしまったそうだ」と教えてくれた。

寅吉は無念がり、どうしても再度仇を討ちたいと思った。看守が居眠りをしている隙にカギを奪い肥溜め桶の中に身を潜めた。翌朝、肥溜めの糞尿を運び出す桶を引き取りにきた農民によって監獄の外へ運び出された。これが1回目の脱獄である

三重監獄を脱獄後は空き巣に入り、得た金で博打をしてるときに一斉手入れを食らい、逮捕されて三重監獄へ逆戻りした。秋田集治監へ移された明治18年、囚人達は寅吉がまだ仇を討っていないことを知り、喧嘩により看守を混乱させて2回目の脱獄をさせた

2日後に追跡してきた警官に捕まり、寅吉は秋田の集治監に移送された。無期懲役に脱獄が2つ重なると、どんなに真面目に勤めても一生獄舎から解き放されることはない。これを知った寅吉は秋田の集治監も5ヶ月で脱獄する。合計3回目の脱獄である

脱獄した寅吉は故郷三重を目指して南下していた。静岡の賭場であまりにも多くの場銭をかき集めたことから争いになり、数人に傷を負わせてその場を逃走したが非常線が張り巡らされ、寅吉は逃げる途中で路上の板付き五寸釘を踏み抜いてしまった

普通の人ならこの時点で動きが取れなくなってしまうが、足の甲に釘が刺さったまま三里(12キロ)も逃亡し力尽きて捕まった。以来、この超人ぶりから五寸釘寅吉という異名がつけられた。

寅吉は静岡で捕まり東京小菅監獄に収監された。明治14年に北海道の樺戸に集治監を創設することになった。春浅い4月、小菅監獄の終身囚人40名を先発隊として、海賀看守長が護送指揮官となって横浜を出発した。寅吉もこの一行に含まれていた。

海は大しけ(大荒れ)となり、難破しながら予定の倍以上の日数をかけてようやく小樽港にたどり着いた。長い命がけの船旅で疲労困憊した囚人たちを休ませようとしたが、ボロボロの獄衣を着て、顔中ひげで埋まった物凄い形相の囚人を泊めてくれる宿は一軒もなかった。

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警察もお寺も設備がないと断られ、この季節に野宿をすると凍死者も出しかねない。長い困難のあと一夜の休養も取らずに樺戸まで歩かせることは不可能である。海賀看守長は設備がないと断った警察署長と寺の住職に対して憤りを感じていた。

囚人を泊めるのは公用であり、人道上からいっても拒否などできないはずである。怒りに燃えている海賀看守長の頭にフッと妙案が浮かんだ。「そうだ、囚徒引率費はこれまで出費していないので余っている。警察もお寺もダメなら遊郭に泊めてやろう。」

蓬のような髪にひげで顔が埋まる形相の一行を見た町の人は驚き、更に驚いたのは妓楼だった。海賀看守長は落ち着いて楼主に「心配するな玉代は払う。妓楼としてではなく本陣代わりに宿泊するのだ。乱暴なことは絶対にさせん。上への御奉公だと思ってくれ。

少々安いかもしれないがこれが官費の宿泊料金なので宜しく頼む。この者達は全員長期刑で、今宵がこの世での最後の楽しみになるかもしれん。どうかその辺も考えてくれないか」。頭を下げて頼むと、さすがに最果ての新開地で遊郭を営む楼主だけのことはある。

「よろしゅうございます。いったん引き受けた以上は女郎衆に因果を含めて、大切なお客として十分に接待するようにいたします。どうか心置きなくゆっくりとくつろいでください」と快く引き受けてくれた。海賀看守長は五寸釘の寅吉を部屋に呼び寄せた

「お前を男と見込んで頼みたいことがある。今夜は特別な計らいでこのような待遇をしてもらうことになったが、無理を承知してくれた楼主の行為に報いるためにも、娼妓達にけっして乱暴な振る舞いのないようお前を見込んで任せるから、十分気を付けてくれ。」

と海賀看守長は頭を下げた。その姿を見た寅吉は大変感激して「北海道は四月と言っても本州から見れば未だに冬です。こんな寒いところに野宿する覚悟でいましたが、旦那のお陰で夢のような待遇をしていただくのです。決してお言葉に背くことは致しません。

寅吉は悪党はありますが仁義は肝に銘じて心得ています。ご安心ください、不心得者は絶対に出しません」と引き受け、その夜は何一つもめ事も起こさず、海賀看守長との約束を果たしたと言う

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寅吉はこのころに前科八犯という犯歴を持ち、全国的に名が通りどこの集治監に入っても隠然たる勢力を持つ男になっていた。北海道に渡ってから樺戸集治監を三度も脱獄しているのは、寅吉を畏敬する子分的な囚人の陰の協力と援助が大きな力になっていた

明治20年の夏、寅吉と十五人の囚人が集治監の塀の中で構内作業をしていた。高さ3メートルある塀の中での作業なので、監視していた二人の看守も気を緩めて囚人から目を放して立ち話をしていた。

この時、背の低い寅吉の周りを囚人たちがぐるりと取り囲んだ。素早く木綿の赤い獄衣を脱いで地面に置くと、囚人たちは一斉にに小便をかけ始めた。たちまち獄衣はぐっしょりと濡れてしまった。

囚人仲間の一人が獄衣の端が塀の外に垂れるように思いっきり叩きつけた。寅吉はその獄衣張り付いた獄衣の吸着力を利用して、それを伝い身軽に塀を駆け上り一瞬の間に塀を乗り越えてしまった。4回目の脱獄である

これを見た看守が「脱獄だ!五寸釘が逃げたぞ!」と叫びながら正門に向かって追いかけたが、寅吉は監獄の横を流れる石狩川に架けられた荷物運搬用のケーブルにとびつき、アッという間に対岸へわたり雑木林の中に吸い込まれていった。

寅吉の脚力は道のない山野を1日に30里(120キロ)疾風のように駆け抜けたと言われる。今日は小樽、明日は札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌、増毛の鰊御殿の土蔵を破り、博打に盗んだ金を湯水のごとく使い、余った金を貧しい開拓農家や出稼人の家に投げ込んでいった。

庶民から「寅吉は義賊だ」と持て囃され、盗賊でありながら脚光を浴びていった。賭場荒らしや資産家を狙って盗みを続け、北海道内の都市を次々と稼ぎ回った。釧路の賭場に姿を現したのを警察がかぎつけ、娑婆の空気を半年吸っただけで逮捕され再び樺戸集治監に護送されてしまった。

こうなるといかに五寸釘の異名を取った寅吉でも、樺戸集治監は権威にかけて甘やかしておけない。当時囚人は普通構外作業をする場合、重さ4キロの鉄の玉を鎖でつないで一個取り付けるが、寅吉には二個付けられ足首を連結されてしまった。

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この年の冬はものすごい吹雪が荒れ狂い、一週間も止むことがなく積雪3メートルを超すと言う記録的な大豪雪となった。ようやく吹雪が治まると囚徒達は獄舎の屋根の雪下ろしに駆り出された。この雪下しが囚徒たちにとって冬の作業で一番つらい仕事だった。

表面は不服そうに渋々作業に出ると、屋根の作業は滑り落ちると危険が伴うため鎖も鉄球も外された。通常脱獄常習犯は参加させないが、余りの豪雪に人手が足りなくなり寅吉をはじめとする重罪犯も使役に引っ張り出された。

数百人の落とす雪は濛々と雪煙を上げ、次第に下に溜まって獄舎の外壁の間を埋め、塀との高さが同じになった。この機会を待っていた寅吉の体は、突然仲間が一斉に投げる雪煙の中を、引き知った弓の弦を放れた矢のように塀を越えて飛んだ。

落下点には打ち合わせ通り仲間が雪中逃走用のカンジキと食料、逃げる姿が雪に紛れるようにカモフラジュー用の白い布などが置いてあった。寅吉は布を頭からスッポリ被り、忍者のようになって逃亡した。5回目の脱獄である

当局の厳しい捜査により脱走後3ヶ月目に函館で寅吉は逮捕され、再び樺戸集治監へ戻された。その後の寅吉はまるで忘れてしまったように鳴りを潜め、反則を犯さないようにひたすら身を屈めて作業に励む姿勢を崩さなかった。

樺戸集治監は権威にかけても再度の脱獄は許すまじと、厳重な監視体制を取り、寅吉の選任当番を4人も張り付けると言う万全の手配りをした。寅吉はひたすら看守を刺激しないよう行動を慎んでいたが、囚人仲間達は寅吉に援助協力していた。

獄内にいる合鍵作りの名人が、雑役をしている仲間に頼み飯の中に二本の合鍵を入れてよこした。厳しい看守の目を盗み、十分な手間と暇をかけて丹念に作り出した逸品ともいえる作品だった。

質の良い粘りのある粘土でカギの型をとり、丈夫な和紙で観世縒を作り、飯粒を丹念に練り上げた強力な漆喰で練り固める。その上から菜種油を塗っては太陽光熱で何度も乾かし固めるという、実に手の込んだまさに芸術品ともいえる合鍵であった。

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こんなものでと思ったが、その夜試しに巡回看守の隙を伺って格子から手を思い切り伸ばし、居房のカギの穴に差し込んで静かにねじってみると見事に鍵は外れた。翌朝又カギが1本差し入れられた。これは前のものよりやや太め目で、獄の裏口の合鍵であった。

こうして同じ集治監を三度も脱獄すると言う前人未到の記録を残して、寅吉は忽然と姿を消した。樺戸集治監創設以来、誰もがなし得なかった記録的な脱獄した寅吉を、警察は小樽、函館から本州へ逃避するものと考えて厳重な張り込みを続けた。

寅吉はその裏をかいて留萌港から北陸通いの北前船に乗り込み、富山に上陸して大阪の人込みの中に紛れ込んでいた。その後は全国手配を逃れるため、神戸から広島を経て九州まで逃げたが、熊本で捕まり今度は空知集治監へ収容された。

空知集治監で良い看守に当たったこともあり、樺戸集治監を3度も脱獄した寅吉は空知集治監は脱獄していない。40歳を超えてから標茶集治監に収容され、その後は網走監獄に移された。

強盗、傷害、賭博、放火という犯歴の上、前人未到の脱獄6回という恐るべき犯科により、無期刑3つ、有期懲役刑15年、懲役7年、重禁固3年11ヶ月、一生をかけても消化しきれないほどの重く深い罪が重なった。

明治30年に寅吉は網走刑務所に収監され、その寅吉のもとへ意外な面会者が現れた。尋ねてきたのは20年ぶりという妻のゆきと養子の松吉だった。松吉は寅吉に「いつまでこんなことを続けるんだ!」と厳しく叱責した

やがて模範囚となって大正13年9月2日、73歳を迎えた五寸釘寅吉は高齢のため刑の執行を停止されて釈放された。出所してからの西川はさまざまな興行師に利用され、その波乱万丈に満ちた生涯を語り歩いて人気を博した。

昭和の初期、故郷へ戻ったときに妻のゆきはすでに亡く、三重県多気郡の息子松吉に引き取られて昭和16年(1941年)波乱万丈の生涯を終えた寅吉は87歳で逝去した

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参考文献:樺戸監獄(熊谷正吉、北海道新聞社)、月形町歴史物語(月形町)、五寸釘寅吉の生涯(山谷一郎、財団法人網走監獄保存財団)