1 驚いた韓国の教科書
1982年大韓民国文教部発行の「高等学校国史」(上下二巻、『全訳世界の歴史教科書シリーズ31韓国』東北大学井上秀雄教授・桃山学院大学鄭早苗講師・訳、帝国書院)をテキストに、中部大学女子短期大学小中陽太郎教授の視点。
1-1 国と部族が入り混じる
韓国も最初に先史時代があり、これを「部族連盟体社会」と読んでいます。次に、高句麗(コグリヨ)・百済(ペクチエ)・新羅(シルラ)の三国時代が来ます。やがて新羅が覇をとなえ、並行して渤海があらわれました。
渤海は滅亡した高句麗族が吉林省にやってきて、高句麗族と靺鞨族(マツカツゾク)を合わせて国を建て、国名を震(チン)としたがのちに渤海(パルヘ)とした。したがって中国東北部にできた高句麗族の支配する靺鞨族の国ということになる。
日本史では、外国とはあくまでも文化と物の交流の場で、政治や軍事面で大勢の人が行ったり来たりした例は日本の軍隊を除いてほとんどありません。大陸は、国と部族が入り混じっているので複雑です。
1-2 神話が生きている
総論の次に現れるのが「檀君神話」である。韓国も北朝鮮も「檀君神話」を歴史の冒頭に持ってきている。神は天の子であるから、朝鮮の人たちの祖先は天から降りてきたことになる。天は住みにくかったのだろう。韓国の建国神話は熊(くま)だった。
彼等は自らを天の子と信じていた。そして、神の子桓雄(カンユウ)と熊の化身である女人との間に生まれた檀君王倹(タングンウァンコム)が、紀元前2333年に古朝鮮を建国したという檀君神話が誕生した。
わが民族は、人種的には黄色人種で言語学的にはアルタイル語系に属している。古くから、我が民族は一つの民族を形成し、農耕を基礎にして独自の文化を築いてきた。
日本の教科書では「日本人の人種的系譜については、身体的にも文化的にも、北方系と南方系の要素が認められる。日本語も、語法はアジア大陸のアルタイ語系に属すといわれるが、音韻や語彙には南方的要素も多く見られる」という表現になる。
日本人は大陸系もいれば南方の島からもきているという雑種になる。
1-3 春と秋の祭りがある
毎年種を蒔き終えた5月の節句と、穀物を収穫する10月に季節祭を催し神を祀った。
日本にも農耕民族としての風習として春祭りと秋祭りが存在する。
1-4 法隆寺の壁画は韓国人の作
高句麗もまた日本文化に多く寄与した。高句麗の僧侶慧慈(フェジャ)は日本の聖徳太子の師であったし、曇微(タムジン)は儒教の五経と絵画を教え、紙と墨の製造法も伝えた。日本が誇る法隆寺の金堂壁画も曇微の作と伝えられている。
日本の教科書では「8世紀初めにつくられたと考えられるが、インドのアジャンタの壁画とよく似ているので、その影響を受けた」とされている。
1-5 文化伝来図の相違
韓国史には、三国文化の日本伝播の地図がカラーで出ている。王厨新羅から敦賀への線があり、この流れは奈良・岡山に達している。一方、百済・伽耶からは博多・岡山へ続いている。
日本の文化伝来図は、遠く渤海から塔の長安に至るまで気宇壮大なものだが、国内の流れは小さくてよくわからない。日本の関心はどんなに遠くから来たかということらしい。
v1-6 白村江の戦いはない
韓国の教科書では、高句麗・百済の滅亡後、唐が新羅まで支配しようとしたため、新羅・唐戦争が起こるが新羅は唐の勢力を完全に追い出して三国を統一した。しかしこのとき、遼河流域と長白(チャンバク)山脈以北を失い、それ以降わが民族の領域は韓半島に局限された。
日本の教科書には「このころ朝鮮半島では新羅が統一にのりだし、66年に唐と協力してまず百済を滅ぼした。百済ではその後豪族が兵を集めて唐や新羅の軍に抵抗し、日本に救援を求めた。斉明天皇はこれに応じたが、朝鮮半島に渡った日本軍は、663年白村江の戦いで唐軍に破れて朝鮮から退いた。新羅は高句麗を滅ぼし676年には唐の勢力を追い出して朝鮮半島の統一を完成した」とある。
1-7 元冠は単なる台風のせい
高麗と講和した元は、次に日本を征討しようとして高麗軍を挑発した。そして忽敦(コットン)と高麗の金方慶(キンポウケイ)が指揮する高麗・元連合軍は九州の博多に向かったが、台風のために征討が実現せず、再び第二次の遠征を企てた。しかし、これも台風によって失敗に帰した。
日本の教科書では「しかし、執権北条時宗はこれをしりぞけたので、元は高麗の軍勢をもあわせた約三万の兵で、1174年まず対馬・壱岐をおかしたあと、大挙して九州北部の博多湾に上陸した。
かねてより警戒していた幕府は九州地方に所領を持つ御家人を動員してこれを迎え討った。元軍の集団戦法やすぐれた兵器に対し、一騎討を戦法とする日本軍は苦戦に陥った。しかし、元軍も損害が多く、たまたま起こった大風雨にあってしりぞいた。
その後、幕府は再度の襲来に備えて、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を整備するとともに、博多湾ぞいに石造りの防塁を構築させた。南宋を滅ぼした元はふたたび我が国の征服をめざし、1281年朝鮮半島からの東路軍約4万と、中国本土からの江南軍約10万の二手に分かれ大軍をもって九州北部に迫った。しかし、博多湾岸への上陸を阻まれている間に暴風雨が起こって大損害を受け、再び敗退した。この二回にわたる元軍の襲来を元冠(蒙古襲来)という。
1-8 秀吉の朝鮮出兵は倭乱
1592年4月に約20万の倭軍が釜山(プサン)に上陸して壬辰倭乱(イムジンウェラン)が始まった。不意の大軍を迎えた釜山の兵士や人々は、僉使鄭撥(センイチョンパル)の指揮下で壮烈に戦ったが、ついに城が陥落してしまった。
このとき、全羅道の沿岸警備の責任を担っていたのが李舜臣(イスンシン)であった。彼はその一年前に全羅左水使に赴任して以来、倭軍の侵入に備えて亀甲船(コブクソン)をつくり、また戦艦と武器を警備して水軍を訓練させ、軍糧も貯蔵していた。
陸地の百姓たちと緊密な連絡を取りながら、敵の艦隊を閑山島(ハンサイド)前面の海に誘い込み敵を大破したが、これが閑山大捷(ハンサンテチョプ)である。
陸地と解錠の両面で再び惨敗した倭軍は戦意を喪失し敗走し始めた。朝鮮水軍は逃げる倭軍数百隻を露梁(ノリャン)海上でとらえ、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈にも戦死した。これで7年にもおよぶ戦乱に終止符が打たれたのである。
倭乱で我々が勝利した最大の理由は、わが民族のもつ潜在的力量が優越していたためである。すなわち、官軍次元における国防能力はわが方が日本に遅れを取っていたが、全国民的次元での国防能力はわが方が日本よりすぐれていたのである。
戦争の勝敗を民族の優位性に結び付けるショービジネスは理解できるが、1598年8月に秀吉が病死したため、国内の政治情勢の悪化などに伴い対外戦争を続ける余裕がなくなったこともあり日本軍が撤退したことは無視している。
1-9 朝鮮総督府は日本の大会社
憲兵警察統治は、世界に類例のない植民地統治政策であった。駐韓日本憲兵司令官が中央の刑務総監であり、各道の憲兵隊長がその道の刑務部長であり、憲兵警察を全国の要所に配置して、武力でわが民族を抑圧した。
総督府が不法に強奪した土地は全農地の40%に達した。総督府はこの土地を東洋拓殖会社などに譲渡し、それを韓国に移住していた日本人に安い価格で払い下げた。
あらゆる産業は総督府によって庇護された日本人の会社が経営していたが、結局、朝鮮総連府自体が大きな事業体そのものであった。
ソウルのパコダ公園では、事前の計画どおり、ソウル市内の各級学校の男女学生と愛国市民が雲集し、そのなかで民族代表者によって独立宣言が朗読されると、彼らは市街地にくりだして万歳示威を展開した。
この事態に慌てた日本は、憲兵警官をはじめ、陸軍・海軍まで緊急に出動させ、平和的に示威し、正当な要求を掲げていた民衆を無差別に襲撃して殺傷したり、凶器で生命を奪ったり、人家や学校などの公共施設を放火・破壊するなど無慈悲な弾圧を続けた。
日本緒官憲の手で多数の人々が殺傷され、投獄された者も5万余名にのぼり、家屋や学校・協会なども焼き払われた。
やがて光復軍(クァンポクグン)は生まれ、日本軍を相手に転戦する過程も日本では知られていない。代官独立軍による鳳梧洞戦闘と北路軍政署軍との青山里大捷などが書かれているが、日本の資料には見当たらない。
私が調べた文献とはずいぶん違っている点が多い。第3章失われた韓国史「朝鮮への鎮魂」に詳しく掲載した。このページへ戻るときは、ブラウザの戻るをクリックしてください。
1-10 日本の行為は民族抹殺政策
日本は漢民族を日本に同化させようとして、内鮮一体・日鮮同祖論・皇国臣民化などの虚妄なスローガンを出しながら、韓国語社会と韓国史教育を禁じた。また一方で皇国臣民の誓詞・球場遥拝・正午黙祷など彼等の迷信的行為まで強要し、これらを拒否すれば迫害された。
この民族抹殺政策に抵抗する学校は閉鎖され、また神社参拝を拒否したキリスト教信者の中には殉教者も出た。そのうち、創氏改名といってわれわれの姓名まで日本式氏名に変更するように強要された。
これも事実をゆがめている。第3章失われた韓国史の「貢女廃止への道程」に詳しく掲載した。このページへ戻るときは、ブラウザの戻るをクリックしてください。