はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第3章 古代史を尋ねて

魏志倭人伝に「卑弥呼と言う名の女王」とは書かれていません。魏を訪れた倭人に「お前の国で一番偉い人は何というのだ」と聞かれたら、「私たちはヒミコサマとお呼びしています」と答えたのでしょう。

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1 世界を眺めると

 1-1 諸国の歴史

イギリスの歴史は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの連合王国時代となり複雑です。アイルランドを植民地化して北米東海岸に13植民地を形成し、英仏戦争でカナダを植民地としました。

ジャマイカ、シンガポール、マレーシヤ、中国、ビルマ、ケニア、タンザニア、ナイジェリア、ガーナを植民地化し、ニュージーランド、サモア、トンガ、フィジー、ソロモン諸島もイギリス領としました。イギリスの元植民地は70ヶ国以上もありました。

アメリカの歴史は1620年イギリス国教会の弾圧を受けた清教徒102人が、メイフラワー号でイギリスから新天地アメリカへ移民しました。寒さと病気のため半数以上の人が死亡し、インディアンの助けにより生き残った人々は理想社会の建設に向ってひたすら働きました。

増え続ける移民は土地を奪い入植者達の邪魔者となったインディアンの虐殺は1890年まで続きました。アメリカの歴史は1776年の独立記念日から始まり、アメリカインディアンの歴史は文字がないため無視されたままです。

ロシアのキエフ公国がモンゴルに支配され、その後モスクワ公国として独立し、凍らない海を求めて南下しました。ヨーロッパや中央アジア、日本と戦争し、第一次大戦中にも革命が起きロマノフ皇帝が亡命し、ソヴィエト政権が誕生し社会主義国となりました。

社会主義が拡大してアメリカとの代理戦争が始まりましたが資金難で崩壊すると、社会主義を捨てたロシア連邦が成立しました。アフガニスタン、グルジア、ウクライナ侵攻など戦争には積極的な国民性です。

中国では漢民族の王朝が誕生しても内部腐敗で衰退し、異民族である契丹・モンゴル・満州・女真族などが支配しました。中国に成立した政権は、前の政権の業績を否定するため1966年の文化大革命により旧文化・旧思想は完全に破棄されてしまいました。

漢字は中国から日本へ渡来しましたが、日清戦争後に中国人留学生が教科書を祖国に持ち帰り、現代中国語で使われている漢字の7~8割は日本起源の文字が多いそうです。

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 1-1 中華民族のご都合主義

2000年にカンボジアを訪れた江沢民は、ポルポト政権時代の住民大虐殺に関与した中国の「過去」を問われ「謝罪と反省」を求められた。ところが彼は「過去ではなく、未来のみを語ろう。過去にこだわり過ぎては前進できない」と反対に説教を始めた。

日本に対しては「過去を鏡にしないと、未来を語っても意味がない」と言っているにもかかわらずである。江沢民のような病的・自己中心的で独善的なご都合主義は、彼にかぎらず中国人ならだれもが持つ民族性である。

「時と所が変れば事物も変わる。だから言行が変っても矛盾でも、自家撞着(じかどうちゃく=同じ人の言動や文章が前とあととで矛盾すること)でもない」という考えが通用するのが中国である。

2010年にスタンフォード大学が行った調査報告について、ピーター・ドウス名誉教授がSapioに「日米中韓台の比較研究で分かった一番公正な歴史教科書は日本」と題した論文を寄稿しています。中国と韓国と日本の教科書についての調査結果を抜粋しました。

歴史学の観点から見て最も問題が多いのは中国の教科書だ。中国の教科書は全くのプロパガンダになっている。共産党のイデオロギーに満ちており、非常に政治化されている。太平洋戦争に関してほとんど記述がなく、広島・長崎の原爆投下もほとんど言及していない。

中国の教科書は2004年に改定されているが、改定後は中国人の愛国心を謳い日本との戦いを強調している。内戦の話は後退し抗日戦線での勇ましい描写が増えた。南京事件などをより詳細に記述するなど、日本軍による残虐行為もより強調されている。つまり中国人のナショナリズムを煽っている。

韓国の教科書は、特にナショナル・アイデンティティーの意識の形成に強く焦点を当てている。自分たち韓国人に起こったことを詳細かつ念入りに記述している。韓国の教科書は中国で起きた戦争に関する記述が希薄だ。

韓国は日本の中国に対する行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。私が驚愕した一つの例は、主要な韓国の教科書には広島長崎の原爆投下の記述がないことだ。それほどまでに彼らは自己中心的にしか歴史を見ていない。

今回比較した中では日本の教科書が最も愛国的記述がなく、戦争の賛美などは全くしていない。日本の中国進出についてのくだりは全く事実をそのまま伝えており、当時の軍と政府のリーダーたちの責任だとしている。非常に平板なスタイルでの事実の羅列であり、感情的なものがない。

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比較文化学者である中国生まれの韓国人である金文学は、日中韓新東洋三国事情で次のように述べている。

1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮半島は独立を迎えた。ところが、その独立の到来の方法が問題であった。有名な韓国の民族知識人ハム・ソクホンの言を借りれば、「それは盗みのように現れた不意の開放であった」。

しかも「この開放は天から落下したものであり、韓国人が日本と戦って自力で勝ち取ったものではない」と看破する。(中略)理念の高い国では、ナショナル・アイデンティティを立て直す際に、いつも外に敵を作ってそれを攻撃することで再構築を狙うのである。中国も韓国も北朝鮮も、またアメリカも皆そうである

うその産地といえば東洋ではやはり中国がダントツだろう。私が東洋三国を回りながら、個人的に感じたところでは、日本人がもっとも正直で一般的にうそが苦手である。中国人のうそは一つの名物であり、韓国人はうそよりほらの方に才能がある。

中国のうその中でも、うその報告が最も有名である。中国の統計の数値は世界でもっとも信頼性に欠けると言われる。極端な話では、人民日報は西暦の日数のみが真実で、ほかはみなうそというジョークさえある。

ところで韓国人は日本人に対して「在日韓国人を差別している」と批判し、そしてそれが「反日」や「克日」の大きな原因にもなっているが、客観的に見たところ、韓国人が持っている差別意識はもっとひどいものがあると指摘したい。

自分の同胞さえ寛大に受け入れることができない民族に「統一」をうんぬんする資格があるのかと言いたいほどである。一方的に日本を攻める前に、自分自身をよく反省してもらいたい。

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2 分ってきた古代の日本

 2-1 日本民族の形成

日本人には猛威を振るう自然に即して、考え方や行動に差別やこだわりのない融通無碍な無原則が身に付きました。日本列島には、メラネシア原住民やインドシナ族、インドネシア族、満州や朝鮮方面からツングース系統の種族が流入して同化しました。

約3万年以上前に、私たちの先祖である日本民族が形成されたと推定されています。日本人のDNAには中国大陸や東アジアの人々とは異なる特徴があり、チベットやインド洋の孤島にだけに見られる珍しいタイプが三割ほど存在します。

北の端から南の端まで日本人の顔は似通り、同一言語を使用することで意思を通じ合い、文化は連綿として継承されていきました。灼熱の太陽のもと砂嵐の舞う土地では永遠・無限・絶対という発想が生まれます。

種子島の横峯遺跡では約3万年以上前の地層から、日本国内最古の調理場跡が発見されました。長崎県佐世保市瀬戸越にある泉福寺洞窟遺跡から、約1万2千~1万3千年前といわれる世界最古級の土器である豆粒文土器(とうりゅうもんどき)が発見されました。

青森県三内丸山遺跡は約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、縄文時代中期後半には最大500人という人口となり、1500年間という長きにわたり生活の拠点になっていました。

人間が居住しているとトイレが必要ですが、排泄物はやがて分解されトイレの証拠はなくなってしまいます。しかし、奈良教育大学の金原正明教授は三内丸山遺跡の一角で、1千~1万個という高い密度の寄生虫卵を発見しました。

寄生虫卵も鞭虫(べんちゅう)がほとんどで、当時の人々は植物性食料を多く摂っていたと推定されます。高密度の寄生虫卵が見つかったことで、三内丸山に住んでいた縄文人は腹痛などの鞭虫症に悩まされていたと想像されます。

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 2-2 日本列島が育てた日本人

世界の大地震の20%は日本で発生し、世界の活火山の10%は日本にあります。一世紀の間に1度は押し寄せる大津波により1万人以上の犠牲者を、5~10回起きる大地震のたびに千人以上の死者が出ています。

被害額も巨額で2016年に発生した熊本地震の被害額は4.6兆円で、自然災害による世界の経済的損失の半分を占めました。2011年の東日本大震災による被害総額は、16兆9千億円で自然災害による世界の損失額の2年分を超えています。

日本は列島を囲む海が異民族の侵略や蹂躙を防ぎました。ヨーロッパや中国では異民族から身を守るために都市を囲む城壁を必要としましたが、異民族がいない日本では天守閣を囲う城砦(じょうさい)しかありません。支配された経験が一度しかない民族は日本人だけなのです。

日本人の平均寿命は世界一です。その理由として考えられるのは、日本人の清潔好きと日本の医療の進歩、健康保険制度の充実などが挙げられます。忘れてならないのは、大正12年の関東大震災の時に帝都復興院総裁となった後藤新平が、軍事機密の液体塩素で水道水を殺菌させたことにより乳幼児の死亡率を押さえて生存率を伸ばしたことです。

日本人の口癖は、愛おしいと感じる「小さな」ものに対して「かわいい」と言います。更に、日本人の性癖は何でも「縮め」て「かわいく」してしまうことです。大自然を縮小した日本庭園、大きな木の成長を止めた盆栽などがそうです。

テーブルの上の料理を縮め込んだ幕の内弁当、団扇(うちわ)を折りたためる扇子に、ステッキのように長い傘を折り畳む傘に、ステレオを持ち歩けるウオークマンに縮小してきました。

日本人は「謙譲の美徳」を尊び、謙遜を礼儀として相手を尊重します。諸外国大使館の記録によると南京市の人口は20万人で、住民が日本兵と笑顔で交流する写真が数多く残されています。下の写真は南京市で撮影された住民との交流写真の一部です。


 独裁政権は人民を支配するために教科書で南京市民30万人を虐殺と教え、日本のマスコミも真実を無視して嘘を容認しています。親兄弟や友人たちを虐殺された人や子どもたちが、加害者である日本兵と笑顔で交流するでしょうか。

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 2-3 訂正された歴史

過去に何があったか真実を探るのが日本人の歴史の考え方です。中国や韓国の歴史のとらえ方は支配者の都合で改ざんします。事実を記録するのではなく、その時々の支配者の都合のいいように書き換えられます。日本ではマスコミが真実をゆがめます。

昭和生まれの人々も、平成生まれの若者も小中学校と高校で日本史を学びました。歴史は過去のことですから同じ内容を学んでいるはずですが、昭和の教科書と平成の教科書では内容が一変しているのです。克明に資料を調べるたびに真実が見えてきたのです。

昭和生まれは「世界最大の古墳は仁徳天皇陵」と習いましたが、平成になると仁徳天皇陵とすることに異論が多くなり「全長が468mある代表的な前方後円墳で、世界最大級の墓です」と改められました。

また「大和朝廷」と習いましたが、必ずしも天皇が政務を執っていたわけではないので「三世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に強力な勢力(大和政権)が生まれ」と「大和政権や大和王権」という言葉に置き変わりました。

風林火山を旗印に疾風迅雷と言われた武田騎馬隊は消えました。当時の馬は小型なうえひ弱で北海道和種馬(どさんこ)と木曽馬(きそうま)は125~135cm、野間馬(のまうま)は100~120cmしか体長がなかったのです。

更に「幕府は鎖国を理由に通商の要請を断り」と学びましたが、幕府は長崎の他にも対馬・薩摩・松前の各藩を海外交渉の窓口としていたことから、江戸時代に200年以上も続いたとされる鎖国は間違いとされて教科書から消えました。

権力にしがみ付く人々が歪曲した歴史を教え、洗脳されて操り人形と化した人々は不幸です。日本の歴史を悪と決めつける、マスコミや知識人と称される方々の自虐史観にも辟易しますが、資料に基づいて偏らない正論が述べられているものもありました。

戦争をするのは悪いことでも、戦争をしなければならないまでに追い込まれた日本は被害者でした。他国を侵略したとか植民地にしたとか、事実を捻じ曲げてあたかもそれが正しいような錯覚を与える言葉より、先人が残した資料を冷静に読みましょう。

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3 古代の国々を尋ねて

倭人の発音を伝え聞いた陳寿は、魏志倭人伝に「邪馬台国」や「卑弥呼」と漢字で表記しました。私たちは「やまたいこく」や「ひみこ」と学びましたが、当時の倭人の言葉は正確に伝わっていたのでしょうか。また、魏志倭人伝は正確な歴史書なのでしょうか。

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 3-1 明確になった国々

魏志倭人伝に記されている国のうち、現在までに所在地がほぼ確定しているのは「対馬国(長崎県対馬市)、一支国(長崎県志岐市)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県糸島市)、奴国(福岡県福岡市)」の五か国です。

大陸との玄関口となった対馬は、多くの入江がある天然の港として最適な島でした。対馬の峰町付近で弥生時代の対馬国の集落跡が発見され、140本以上の広形銅矛が出土しています。

また、壱岐に広がる深江田原(ふかえたばる)平野で大規模な環濠集落跡の原の辻遺跡が発見され、壮麗な一支(いき)国の王都が築かれていたことが分かりました。日本最古の水耕稲作跡が残る末慮国は佐賀県唐津市あたりにあり、桜馬場遺跡から王募と思われる甕棺墓が発見され副葬品も多数に上ります。

菜畑遺跡から、炭化米や収穫用の石包丁、鍬や鎌などが出土しました。福岡市糸島市の三雲遺跡や井原遺跡、平原遺跡や端山(はやま)古墳から、日本最大の大型内行花文鏡を含む40面もの銅鏡が割られた状態で発見されました。

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 3-2 特別扱いされた倭人

女性首長が治める「倭国」の外交拠点だった「伊都国」と考えられています。福岡県春日市の須玖岡本(すぐおかもと)遺跡から多数の遺跡と共に、約30面もの銅鏡・銅剣・銅矛・玉類が発見されました。

奴国の人口は2万余戸とされる大国です。20キロメートル離れた志賀島で、西暦57年に中国の漢の皇帝より贈られた「漢委奴国王」と刻まれた金印が発見されました。中国では王朝の正史は、四方の異民族についての記録を残すのが習わしです。

儒教思想で中華は「東夷(東の礼儀知らず)・西戎(西の野蛮人)・北狄(北の犬の種族)・南蛮(南の蛇の種族)」に囲まれ、徳を慕って朝貢するとされるため正史は四夷伝を備えますが、陳寿の三国志には南蛮伝と西戎伝がありません。

魏志倭人伝の「東夷伝」には、夫余(ふよ)と沃沮(よくそ)が約7百字、韓が約14百字に対して、倭人が2千字で紹介されています。漢や魏を悩ませた北方民族の鮮卑(せんぴ)でも12百字程なので、倭人を特別扱いしたことが分かります。

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 3-2 邪馬台国を見ていない陳寿

魏志倭人伝の著者「陳寿」は蜀漢に仕えていました。蜀漢が滅亡すると孫呉を討伐した人々に抜擢されて西晋に出仕した陳寿は、助けてくれた人々への恩に報いるため孫呉討伐を正当化する立場を採りました。また、西晋は曹魏からの禅譲ではなく、司馬炎が実力で乗っ取ったようです。

西晋を建国した司馬炎の祖父司馬懿は曹爽と政敵でした。曹爽の父の曹真は、大月氏国(インドのクシャナー朝)より曹魏へ朝貢させる大功績を残しました。しかし、権力者は政敵の功績を隠蔽するため、陳寿の三国志に曹真の記録がありません。

大月氏国の王は曹魏から「親魏大月氏王」の称号をもらいました。西晋は「親魏倭王」という称号を与え、バランスをとるため邪馬台国を重く見ました。大月氏国よりも大国として、はるか遠くから朝貢にくるのは西晋の徳が高いからという演出を加えたのです。

魏志倭人伝にある「邪馬台国」と「卑弥呼」の正確な発音は、「やまたいこく」や「ひみこ」でしょうか。魏志倭人伝の書かれた三世紀に「邪馬台」国は「やまと又はやまど」国と発音され、2017年の教科書には「やまと」とふりがながついています。

魏志倭人伝に、帯方(たいほう)郡から邪馬台国への行程が書かれていますが、そのまま行程を辿ると九州のはるか南方の海上になってしまいます。陳寿は邪馬台国を訪れたことがなく、東南の遠くに位置付けたい意図で道筋を歪曲したため、邪馬台国の所在が分からなくなったのです。

また、倭国の風習として首長クラスは4~5人一般男性でも2~3人の妻を持っているとし、「婦人たちは淫せず、嫉妬もしない」としています。当時中国に広がっていた男尊女卑の傾向が強い儒教思想で、女性が不倫も嫉妬もしないというのは倭国を一種の理想郷とみなしていた意図が感じられます。

邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送った理由は、司馬懿が朝鮮半島の公孫(こうそん)氏を滅ぼしたことによります。卑弥呼は生き残りをかけて魏に使者を派遣し、このとき卑弥呼が朝貢したのは奴隷10人と綿布でした。魏の明帝はこれを高く評価し「親魏倭王」の称号と金印、豪華絢爛な御下賦品を贈るという破格な扱いをしました。

魏志倭人伝には「卑弥呼以死」とあるのみで、具体的に死因などを説明していません。京都学園大学人間文化学部元教授の岡本健一氏は、中国の史書に見られる700件以上の「以死」の用例を調べ、自然死ではなく「刑死・戦死・自殺など」であったことを明らかにしました。

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 3-3 陳寿の表記は誤り

ヒミコは狗奴国との戦争で、魏に援軍を要請した時期に死亡したという説があります。ヒミコは戦火に巻き込まれて死亡したとの推定ですが、普段でさえ多くの次女と兵士に守られ「見る有る者少なし」とされていたヒミコが、戦地に赴いて死亡することは考えられません。

もし、卑弥呼ヒミコが宮殿で死亡したとすれば、邪馬台国は首都にまで攻め込まれていたことになり、魏志倭人伝がふれていないのは不可解と言わざるを得ません。また、ヒミコが巫女としての慎みが甘かったので、国内混乱の責任を問われて殺害されたという説もあります。

「以死」の解釈には、「そして(卑弥呼は)死んだ」という読み方の他に、「すでに(卑弥呼が)死んでいた)」という読み方もあります。ヒミコは魏に援軍を依頼していましたが、その使者を待ち侘びながら死去した可能性もあり得ます。

ヒミコの死後は男王が立ちましたが国中が乱れ、ヒミコと血のつながった13歳の台与を次代の王に立てました。複数の史書の記録から邪馬台国をまとめ上げ、再び魏や晋王朝へ朝貢した記録があり、邪馬台国は狗奴国との戦争に敗れたとは思えません。

日本人は、相手の名前を直接呼ぶのは失礼と考えています。親しい友人同士でも姓で呼び「名前」で呼ぶことはほとんどありません。天皇は同一時代に一人しか存在しないので「陛下」とか「大君」と言えばだれにでも伝わります。

魏志倭人伝に「卑弥呼と言う名の女王」とは書かれていません。魏を訪れた倭人に「お前の国で一番偉い人は何というのだ」と聞かれたら、「私たちはヒミコサマとお呼びしています」と答えたのでしょう。

意味が通じる漢字を当てはめれば「日御子」か「日巫女」となります。当時の倭人が陳寿の書いた文章を見ていれば、国で一番偉い人に「卑(いやしい)」という漢字を使ったことを大問題にするでしょう。卑弥呼という当て字を名前と言うのは錯覚にすぎません。

西暦247年3月4日に福岡県福岡市で皆既日食を見ることができました。17時50分から欠け始めた太陽を見た人々は恐れおののいてヒミコの元へ駆け付け、ヒミコは一心不乱に祈祷を始めたでしょう。日没の18時25分にほぼ皆既日食状態を迎えました。

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 3-4 皆既日食が幕を引く

日没時刻に皆既日食が重なると、真っ黒になった太陽本体の周囲にコロナが浮き出て見え、その状態のまま水平線に没してゆきます。夕焼けに重なると太陽が燃え尽きて沈んでいくように見えたはずです。

再び太陽が上ることはないと恐怖におののく人々に、ヒミコはわが身を人身御供に供ることを宣して自刃したと考えるのが最善の推理でしょう。多くの次女と兵士に守られヒミコが殺されることはあり得ないでしょう。

横浜市にお住いのメールフレンドのご紹介で、東大卒の元エンジュニア今岡純雄さんの労作「私訳魏志倭人伝」を拝読しましたが、陳寿が司馬炎の祖父の政敵の功績などを記録しなかったことへの言及はありません。

早稲田大学の渡邊義浩教授の説と同様に、邪馬台国の位置を魏志倭人伝に求めても無理です。松本清張氏が「古代文化」で述べられているように「邪馬台国は九州の北部のどこかに存在していただけでよいと考えている」と私も思います。

魏志倭人伝に「魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡100枚を授けた」とあり、「三角縁神獣鏡」を指すと言われてきました。しかし、三角縁神獣鏡は中国で1面も発見されず、一人の工人により日本で製作されたものと考えられます。

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4 蒙古軍撃退の謎

1274年に世界最強とされたモンゴル軍3万の兵が博多湾に攻め寄せ、1282年には14万もの大群で再び押し寄せましたが、二度とも暴風雨で壊滅しました。蒙古軍は神風と呼ばれた暴風雨が撃退したのでしょうか。

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 4-1 蒙古の騎馬軍団

13世紀のユーラシア大陸の大部分を征服し、世界最強で無敵とされた蒙古軍は騎馬軍団でした。騎馬軍団が猛烈な勢いで攻め込めば逃げるところなどありません。蒙古の騎馬軍団に侵略される側の恐怖は察するに余りあり、すべてが焼き払われて虐殺と強奪が行われました。

蒙古人や中国人は馬や牛を去勢して動力としていました。生まれたままの牛馬は攻撃的な性質を備えているため、温和な性質に変えるため手術により雄は睾丸を雌は卵巣を摘出しました。牛馬は去勢されると性質が穏やかとなり管理が容易になるそうです。

蒙古の騎馬軍団は1人の騎手が7~8頭の馬を連れています。1日に70~80キロを移動するため、移動や戦闘で乗りつぶすと予備の馬が必要になります。軽快に戦場を疾走して雨あられと矢を射かけ、あっという間に去るという戦法を採っていたのが蒙古騎馬軍団の特色でした。

馬の食料は草原に自生しているので運搬する必要はなく、兵は武器と羊の肉を乾燥させて脂肪分を抜いた携帯食を身に着けていました。これが蒙古軍の長期遠征を可能にしたと言われています。

馮天瑜の「絵画中華文明史」には、横一列に11頭の牛が前後2列に並んでジンギスカンの指令所であるパオを引き、周囲には騎馬軍団が槍を持ち整然と進軍しているようすが描かれています。漢民族が万里の長城を建造した理由はこの騎馬民族への恐怖でした。

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 4-2 朝鮮半島の支配

中国を制覇した蒙古軍は高麗へ侵攻し、抵抗したり反乱を起こした場合は大虐殺を行いました。高麗王は蒙古帝国の支配下に入り、蒙古軍は朝鮮半島に征東行省を置いて政治と軍事を統括しました。前漢や後漢に征服された後に、朝鮮半島を統一した高麗を植民地として支配することで朝鮮半島を掌中にしました。

高麗王は名ばかりで決定権はなく、三代の高麗王が退位させられ、王族の名や服装、髪型などもすべて蒙古風に改められました。経済的には多くの貢物を強要され、受けた打撃を回復させることはできず国庫は常に空でした。しかも両家出身で美人の貢女を強要され続けました。

フビライ・ハンは高麗に日本との交渉役を命じ、九州の太宰府に届けられた高麗王の書簡に「蒙古帝国は朝貢を期待せず、返事をすれば厚く礼する」とありました。フビライ・ハンの国書には「天皇を皇帝の下に置き、返事がなければ兵を用いる」とありました。

フビライ・ハンは高麗を窓口にして日本に三度も臣下を求める使者を送りましたが、天皇を皇帝の下において返書を要求したことなどにより、鎌倉幕府の執権であった北条時宗はこれを拒否して使者を追い返しました。

1274年に高麗を出発した蒙古軍2万人と高麗軍6千人の連合軍は、大型船3百隻、小型高速船3百隻、輸送船3百隻に分乗して対馬と壱岐に侵攻しました。2万6千人の兵が9百隻に分乗すると1隻当たり29名弱となりますが、騎馬軍団は1人の騎手に7~8頭の馬が必要だったのです。

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 4-3 蒙古軍来る

日本人は牛や馬に名前を与えて家族同様に扱ってきました。大陸から去勢の技術が渡来しても、家族を去勢することなどできるはずがありません。人込みのなかで去勢しない牛が車をひくのは危険なため、平安時代の絵巻に牛車を曳く牛が暴走しないよう取り囲んでいる様子が描かれています。

しかし、去勢されていない粗暴な馬を武士たちは合戦の時に乗りこなしていました。源平合戦で義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で騎馬隊を組織し、替えの馬を乗り換えながら背後に回り込んで平家軍を破りました。但し、映画に出てくるようなサラブレッドではなく、体長120cmしかない木曽馬や野間馬でした。

1274年10月5日、蒙古と高麗の連合軍は対馬に上陸を開始しました。対馬の民家をことごとく焼き払い、略奪の限りを尽くして壱岐へ向かいました。壱岐では民間人を虐殺して女性は手に穴をあけて紐を通し、数珠つなぎにして船の側面にぶらさげて見せしめと矢よけにしました。

高麗軍は傍観していただけではなく、高麗の資料に「日本で生け捕りにした子どもの男女200人を国王に献上した」と記録されています。10月20日の未明、対馬から壱岐を経た蒙古と高麗の連合軍が博多湾に上陸すると、牛馬と騎馬軍団が縦横無尽に走り回れる大地はありません。


 草原と土漠が延々と続くモンゴルとは異なり、起伏の激しい丘と山に草木が茂っていました。日本側は毒矢と火薬などの攻撃でかなりの苦戦を強いられましたが、丘や木陰からの御家人の攻撃に加え動力を使えない蒙古軍は途方にくれました。


 蒙古軍の矢が尽きて副将のリュウフクコウが負傷し、総大将のヒンドゥが撤退を決意しました。蒙古は乾燥地帯のため蚊がいませんが、やぶ蚊を避けるために船から下りなかったことも災いしました。

高麗で急造された粗悪なつくりの軍船は壊れ始め、3割に当たる13,500人が溺死しました。指揮官たちの船は無事に朝鮮半島へ戻れましたが、博多の岸に泳ぎ着いた蒙古人は切り殺され、高麗人は助けられました。

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 4-4 史上まれな大軍勢

高麗史日本伝によると、第一次侵攻に失敗した後に高麗の忠列王は「日本はただ野蛮な国でありながら、交通の難しいのを良いことに元朝に来貢せず、あえて皇帝の軍隊に抵抗しています。私が思いますに元朝の徳に報いることはありません。

この際、船を作り食料を貯め、罪を強調して討伐しようと思います」とフビライを扇動したそうです。フビライは無条件降伏した大量の南宋兵を日本へ向かわせることにしました。

蒙古と高麗の連合軍は二手に分かれ、東路軍は4万人が9千隻の船団で、江南軍は10万人が3千5百隻の船団を組み、両軍を合わせて総勢14万人、1万2千5百隻という世界史上まれにみる大軍勢を整えました。

津島と壱岐では家族を惨殺された海賊の松浦党が中心となり、夜襲と奇襲を繰り返して戦力を消耗させました。また、蒙古軍に反旗を翻した高麗軍の一部が、蒙古軍の船を襲ったり焼き払ったこともあったようです。

夏の真っ盛りですから軍船内は蒸し風呂のようになり、食料は腐敗して伝染病が発生し、死者は3千人にも上りました。1274年の第一次侵攻を食い止めた鎌倉幕府は本格的な異国警固に乗り出し、博多湾に海側を切り立たせて陸側に傾斜を付けた防塁を築造させました。

防塁は2・6メートルの高さで幅3.1メートル、福岡市西区今津から福岡市東区香椎まで約20キロメートという長さでした防塁は一部しか完成していませんが、御家人の活躍で戦いは一進一退を繰り返しました。

遊牧民族の蒙古軍は海戦の戦い方を知らずに船と船を鎖でつなぎ、やぶ蚊を避けて夜は船に戻りました。1281年7月1日、博多湾を台風が襲いました。「元史」には「10のうち生きて帰ったものは2、3しかいない」との記述がみられます。

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 4-5 鎌倉幕府の衰勢

大暴風雨に襲われた14万人の大船団のほとんどが海の藻屑と消えました。溺死を免れた兵は容赦なく切られ、前回の壱岐と対馬の残虐行為の報いで高麗人も切り捨てられました。この大敗北に続いて、ベトナムやインドへの侵攻に失敗して求心力を失ったフビライは1294年に没しました。

昭和の教科書では次のように説明されています。「元は、1274年(文永の役)と、1281年(弘安の役)との2度にわたり大軍を送って北九州へ攻めてきた。(略)さいわい2度とも暴風が襲い、元軍は全滅に近い打撃を受けて退いた。これを元寇と言う。

平成の教科書では次のように説明されています。「フビライは日本を従えようと(略)高麗の軍勢をも合わせて攻め入ってきました。1274(文永11)年には、対馬・壱岐を経て北九州の博多湾に上陸し、集団戦法と優れた火器により日本軍を悩ましたすえ引き上げました(文永の役)。

1281(弘安4)年には、再び攻めてきましたが、(略)元の大群は上陸できないまま、暴風にあって大損害を受け、退きました(弘安の役)。モンゴルと高麗の連合軍が大敗した後、鎌倉幕府の執権北条時宗は戦で命を落とした武士を弔うため、鎌倉市に無学祖元を開祖として円覚寺を建立しました。

そして、この戦いの殉職者を敵味方の分け隔てなく平等に弔いました。蒙古軍との戦いは防衛戦争のため、戦いに勝って自分たちの領土を守りましたが敵の領土が手に入ったわけではありません。

当時の御家人たちは戦いの費用はすべて自腹が基本でした。幕府は自腹を切って戦った御家人たちに、働きに応じた恩賞を出せなかったのです。御家人たちは経済的に困窮し、鎌倉幕府との信頼関係を失っていきました。

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 4-4 推理の根拠資料

「八幡愚童訓」によると、蒙古軍は太鼓をたたいて銅鑼を打ち、花火や鉄砲を鳴らして鬨の声を上げていたそうです。しかし、鉄砲は種子島に伝わったものと異なり、お椀の形をした鉄製の容器を二つ合わせてボール状にし、中に火薬を詰め導火線に火をつけて投石器で日本の陣へ投げ込みました。

草原と土漠が延々と続く大陸で効果があっても、草木が茂る地域ではあまり効果はなかったでしょう。博多に上陸した騎馬軍は戦場を疾走して雨あられと矢を射かけ、あっという間に去るという戦法を採ることは不可能でした。

雑木林の間に開けた地は田畑であり、第一回の侵攻時に稲の刈り取りは終わっていても、あぜ道や用水路が障害となり疾走することは不可能です。弓を射ても、雑木林や雑草が障害となりそれほどの効果はなかったでしょう。

「元史」には、第一回侵攻の際に暴風雨に遭遇の記載がなく、撤退の理由を官軍が整わず矢が尽きてしまったことによるとしています。しかし、「高麗史」や「東国通艦」などの朝鮮側の資料に、「夜大風雨があい、選管は弾劾にふれて大沓はした」と記録され、水に落ちて死んだ将の名前が挙げられていますが、風雨はあったとしても撤退の理由ではなかったようです。

二回目の侵攻は6月末のため、水田に水が満たされていました。平らな土地でも水はけの悪い土地は放置されていました。起伏の激しい丘や山の雑木林は行く手を阻みます。モンゴル軍が上陸しても動きは制限され、思うような戦術は組めなかったでしょう。あなたの参考になりそうな資料をご紹介します。

参考資料:学校では教えてくれない日本史の授業・悪人英雄論(井沢元彦、PHP研究所)、日本史の謎は「地形」で解ける(竹村公太郎、PHP研究所)、歴史の意外な結末(日本博学倶楽部、PHP研究所)、日本史「その後」の謎(雑学総研、株式会社KADOKAWA)、こんなに変わった歴史教科書(山本博文ほか、新潮社)、小中学校の「日本史」を20場面で完全理解(向山洋一編、PHP研究所)。

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